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海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第4部

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第55話 軋む前肢、二分間の鉄規

第4部 第55話:軋む上腕、二分間の鉄規

 白波のプールを這い上がった受験者たちに、休む間など一秒も与えられなかった。

 濡れそぼった体を拭う暇もなく、支給された作業服を羽織らされ、体育館の無機質なリノリウムの床へ集められる。熱を持った筋肉から湯気が立ち上り、会場には荒い息遣いと、重油混じりの汗の匂いが充満していた。

「第二種目、腕立て伏せ! 制限時間は二分間!」

 ロットワイラーの主任教官が、床を編上靴の踵で踏み鳴らした。

「合格基準は五十回。競争基準は八十回以上。マズルが床に置かれた厚さ五センチのウレタンスポンジに確実に触れ、肘が完全にロックするまで伸び切って初めて『一回』とみなす。腰の反り、尻の浮き、肘の曲げ残しは一切カウントせん。体幹を崩して床に膝をついた時点で失格とする」

 二分間で百二十秒。

 直前の五百メートル白波水泳で、受験者たちの上腕三頭筋と大胸筋は、すでに鉛のように重くなっていた。開始三十秒を過ぎれば乳酸が筋繊維を焼き尽くし、己の自重を支えることすら拷問と化す。

「――第一組、位置につけ!」

 床に伏せた十名の中に、横浜の巡視船「とねかぜ」から志願した俊平と、元海防EODの明の姿があった。

 体重八十キロを超えるオホーツクのニューファンドランドや、頑躯を誇る特殊警備隊(SST)上がりのシェパードたちに挟まれ、中型猟犬であるビーグルの体格は、ひときわ小さく見えた。

 だが、自重を支える運動において、大型犬の圧倒的な筋肉量は「莫大な自重負荷」という枷に変わる。体重は体格の三乗で増えるが、筋断面積は二乗でしか増えない。対して、二十キロ前後の引き締まった体躯と深い胸郭を持つビーグルの骨格は、持久運動において絶対的なアドバンテージを誇る。

「始めッ!!」

 ピーッと笛が鳴った瞬間、二頭のビーグルの体が、まったく異なるリズムで跳ねた。

 俊平は精密機械のような高速ピストン。シュッ、シュッ、と鋭い呼気とともに、マズルがスポンジを寸分の狂いもなく捉え、肘が伸びる。脊柱起立筋と腹直筋を一枚の鋼板のように固定し、腕の負担を全身へ逃がす完璧な重心制御だ。

 対する明は、EODの重爆処理スーツで鍛え上げられた野性的な爆発力で、リノリウムの床を叩き割らんばかりの勢いで身体を上下させていた。

「十、十一、十二……」

 床に這いつくばった補助教官のカウントが淀みなく響く。

 隣の巨躯の猛者たちが、重すぎる自重に腕を震わせ「ノーカウント!」「肘が曲がっている!」と怒号を浴びせられる中、小柄な二頭は悠々と回数を重ねていく。

 一分経過。脱落者がバタバタと床に崩れ落ちる中、俊平と明の腕にも激しい痙攣が走り始めた。

「ぐ……ッ!」

 歯を剥き出しにし、汗がリノリウムを濡らす。それでもピストンは止まらない。

 ピィィッ!

「そこまで! 桧垣明、八十七回! 神崎俊平、八十六回!」

 競争基準を大きく突破。床から跳ね起きた二頭が、肩で息を荒げながら、後方に控える大輔へ冷徹な、そして挑発的な視線を突き刺した。

(次は貴様だ、大輔。これを超えてみろ)

 言葉はなくとも、その眼光が燃えるような火花を散らしていた。

「第二組、位置につけ!」

 大輔は前へ進み出た。

 リノリウムの床に両掌を突いた瞬間、肉球にひんやりとした冷気が伝わる。

「始めッ!」

 ホイッスルとともに、大輔は床を押し込んだ。

 明の爆発力とも、俊平の精密さとも違う。大輔は、神田に叩き込まれた「極小呼吸法」を腕立て伏せに応用していた。身体を下ろす時に空気を吸い込み、押し上げるコンマ数秒の瞬間に、歯の隙間から『シィッ』と細く鋭く息を吐き切る。血中の酸素濃度を極限まで一定に保ち、筋肉を絶対に酸欠させないためのプロの持久呼吸だった。

 三十、四十、五十――。

 一分を待たずに合格基準を突破。だが、一分二十秒を過ぎた瞬間、大輔の胸筋と上腕三頭筋が火を噴いた。

 乳酸の灼熱が腕の神経を麻痺させ、床が異様な重力で身体を引きずり込もうとする。

(腕が……上がらない……)

 視界が白く霞みかけたその刹那、脳裏に去来したのは、呉の港を出港していった老兵「ながら」の白い船体だった。

 ――解役を前に、命を削って走る老巡視船。

 ――「生きて還れ」と胸のイルカを叩いた榊原教官の教え。

 ――そして、陸に上がりながらも、無線越しに「命から手を離すな」と吠えたパグの師匠の背中。

(こんなところで……膝をついてたまるかッ!!)

「七十五! 七十六!」

 教官の怒号のようなカウント。

 大輔は喉の奥から獣のような唸り声を絞り出し、痙攣する両腕で床を抉るように押し上げた。

 八十、八十五――俊平の記録を抜き、明の記録へ並ぶ。

 最後の一秒まで、魂を削ってマズルをスポンジへ叩きつける。

 ピィィッ!

「やめッ! 間大輔、八十八回!」

 ホイッスルが鳴り響いた瞬間、大輔は床へ突っ伏し、激しい息を吐き出した。

 両腕は完全に麻痺し、指先一本動かない。

 だが、床に倒れ伏す全国の巨躯の猛者たちを見下ろす教官たちの眼光には、八十回の大台を易々と突破して上位を独占した、三頭の若きビーグルに対する隠しようのない戦慄が宿っていた。

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