第54話 白波の障壁、戦闘側泳ぎ
第4部 第54話:白波の障壁、五キロの重圧
大型訓練プールの重厚な鉄扉が開かれた瞬間、受験者たちの鼓膜を、激しい水鳴りが打ち据えた。
ザパァァァンッ! ドォォッ!
水深五メートル、長さ五十メートルの特大造波プール。巨大な油圧式ピストンが規則的な唸りを上げ、水面には荒天の時化を再現した白波が、狂ったように逆巻いていた。気泡を含んだ白い飛沫が霧となって立ち込め、底の見えない不気味な青黒い顎を開いている。
プールサイドに立ったロットワイラーの選考主任教官が、ストップウォッチを片手に、感情を交えず言い放った。
「第一種目、五キロのウェイトベルトを着装した状態での五百メートル水泳。泳法は顔上げ平泳ぎ(ヘッドアップ・ブレストストローク)のみとする。アゴが水面に浸かる、あるいはクロールへの切り替えは、即座に失格だ」
ヘッドアップ平泳ぎ――常に前方の要救助者から視線を外さず、水面上に顔を上げたまま進む特殊救難の基本泳法。
だが、この逆巻く白波の中では、波頭を越えるたびに激しい飛沫がマズルと気管を襲う。何より恐ろしいのは、大量の気泡を抱き込んだ白波は水の比重が著しく下がり、浮力を暴力的に奪い去ることだ。ただでさえ沈みやすい環境で、腰に巻いた五キロの鉛が、容赦なく身体を水底へ引きずり込もうとする。掻いても掻いても体が沈み、推進力が逃げていく。
「一人ずつ順次スタート! 目標タイム十分以内! 脱落者は合図とともに即刻プールから上がれ! ――第一泳者、位置につけ!」
ピーッ! と甲高い笛の音が響いた。
最初に飛び込んだのは、第九管区から来た体重八十キロ近い巨漢のニューファンドランドだった。水かきを持つ強靭な四肢が生み出す圧倒的な推進力で、巨大な波頭を真っ向からねじ伏せにかかる。
だが、往復を重ねるごとに、その質量が牙を剥いた。巨躯を稼働させる莫大な酸素要求量に対し、波間での息継ぎと鉛の重さで酸素供給が追いつかない。比重の軽い白波にスタミナを削り取られ、酸欠で筋肉が硬直していく。五往復目を越えたあたりでストロークが乱れ、アゴが水面に沈み、タイムは容赦なく十分の壁を越えていった。
「失格! 上がれ! 次!」
次々と飛び込む、特殊警備隊上がりのシェパードやドーベルマンたち。
屈強な猛者たちでさえ、激しい上下動を繰り返す人工の荒海と鉛の重圧に翻弄され、制限時間ギリギリで這い上がるのがやっとだった。プールサイドに倒れ込み、激しく胃液を吐き出す者すら出始める。
「――第六コース、桧垣明!」
「しゃあッ!」
弾かれたように飛び込んだのは、海上防衛隊EODから引き抜かれたビーグル・明だった。爆風と激流に揉まれてきた元処分員の肉体は、五キロのウェイトをものともしない。荒波の抵抗を鋭いストロークで切り裂き、まるで弾丸のように水面を進む。九分八秒の好タイムでゴール板を叩き、白い犬歯を見せて笑った。
「――第七コース、神崎俊平!」
教官の乾いたコールに、俊平が前へ進み出た。
無駄な脂肪を削ぎ落としたしなやかな肉体。俊平は水面を睨み、波の周期を一瞬で見極めると、滑らかに水の中へ身を滑り込ませた。
ドォッ! と押し寄せる白波。
俊平は波に逆らわなかった。波の腹を潜るようにしつつ、浮き上がる力を利用して体を斜めに滑り込ませる。東京湾の過密航路で無数の大型船の引き波を潜り抜けてきた経験が、正確無比なキックとなって推進力へと昇華されていた。
八分五十五秒――競争基準を大きく上回るタイムを叩き出し、俊平は静かにプールサイドへ上がった。
「次、第八コース、間大輔!」
「はい!」
大輔はスタート台の縁に爪を立てた。
見下ろす水面は、激しく白泡を立てて逆巻いている。
だが、大輔の心は、驚くほど静まり返っていた。
(……来島海峡の湧潮に比べれば、規則正しい波だ)
神田に叩き込まれた地獄の日々。激流の中で、呼吸のタイミングをミリ秒単位で体に刻み込んできた。
白波の気泡で浮力が落ち、鉛が沈もうとするなら、肺底にわずかな空気を残す極小呼吸で、上半身の浮力を極限まで一定に保てばいい。
ピィィッ!
笛の音と同時に、大輔は低く水面を滑った。
ザパァァァンッ!
正面から叩きつける白波の壁。
大輔は波頭に衝突する直前、波の裏側へマズルを滑り込ませた。水しぶきは一切立たず、アゴのラインは常に水面スレスレをキープしている。神田直伝の、水流と同調するストローク。四肢の力みを極限まで殺し、水面のうねりを捉えて、背筋のバネで前進する。
「……おい、見ろ」
プールサイドで計時していた教官たちがざわめき始めた。
「あのビーグル、波に弾かれていないぞ。五キロの鉛を巻いているのに、重心が全くブレていない」
「ストロークのピッチが一切乱れない……呼吸のロスがゼロだ」
往復を重ねても、大輔のスピードは落ちるどころか、波のリズムを完全に支配して加速していった。
ラスト五十メートル。頭上から覆いかぶさる大波を前に、大輔は肺腑の奥から鋭く息を吐き出すと、力強い平泳ぎのキック一閃、白波の壁を真っ二つに切り裂いてゴール板を叩いた。
バシャアァッ!
「タイム、八分四十八秒!!」
ストップウォッチを握る教官の声が、訓練プールに木霊した。
基準タイムを大きく置き去りにする、ダントツのトップタイム。常識外れの記録に、周囲の大型犬たちが一様に息を呑む。
プールサイドに上がった大輔の息は、わずかに乱れている程度だった。
水滴を払いながら顔を上げると、先に上がっていた明と俊平が、鋭い視線を真っ向からぶつけてきた。口元には、かすかな闘争の笑み。
巨躯の猛者たちがひしめく中で、三頭の猟犬が刻んだ圧倒的な記録。
だが、過酷を極める羽田特救隊の選考は、まだそのプロローグに過ぎなかった。




