第53話 選ばれし野獣、極限の選考基準
第4部 第53話:選ばれし野獣、極限の選考基準
横浜港、新港埠頭の一角に聳え立つ、重厚な鉄筋コンクリートの要塞――『第三管区・横浜沿岸防災基地』。
普段は特殊海難や危険物火災の防除訓練が行われるその巨大施設に、全国十一の管区から選び抜かれた四十余名の潜水士たちが集結していた。
体育館の張り詰めた空気は、重油と塩素、そして猛者たちの放つ剥き出しの闘争本能で、息が詰まるほど濃密に濁っていた。
見渡す限り、威圧感の塊だった。
オホーツクの極寒と流氷を割ってきた、第一管区の巨躯を誇るニューファンドランド。
過激派テロや銃器密輸対策の最前線で鍛え上げられた、特殊警備隊(SST)上がりのジャーマン・シェパード。
漆黒の鋼のような筋肉を纏ったドーベルマン。
いずれも各管区の巡視船で「鬼」と呼ばれ、数々の修羅場を潜り抜けてきた精鋭潜水士ばかりだ。中型猟犬であるビーグルの大輔や俊平の体躯は、猛者たちが作る巨大な肉の壁の中に、容易く呑み込まれそうだった。
「……すげえ威圧感だな」
大輔の隣で、俊平が低く呟いた。
舞鶴の学校、呉の研修を経て、東京湾の巡視船「とねかぜ」で荒波に揉まれてきた鉄のバディ。その双眸には、恐怖ではなく、獲物を前にした猟犬の鋭利な光が宿っていた。
「ああ。だが、体格差で道を譲る気はないぞ、俊平」
「当たり前だ。瀬戸内の泥水を啜ってきたお前に、横浜の海で負けるわけにはいかないからな」
互いに視線は前を見据えたまま、拳をトンと軽く突き合わせる。
「おいおい、元・海防のEODをハブってんじゃねえぞ」
背後から、底抜けに明るい声が割り込んできた。第六管区『くろせ』からやってきた、三頭目のビーグル――明だった。
「大輔、俊平。安芸灘の沈没船でも言ったが、お前ら二人だけにいい格好はさせねえ。チビにはチビの戦い方ってもんを、あのデカい犬どもに教えてやろうぜ」
明が不敵に犬歯を光らせて二人の間に並び立つ。異なる修羅場を潜り抜けてきた三頭のハウンドが、巨大な肉の壁の中で確かな陣形を組んだ。
その時――黒いタクティカルウェアに身を包んだ羽田特殊救難基地の教官陣が、一糸乱れぬ足取りで現れた。
中央に進み出た選考主任教官――顔面に無数の裂傷痕を持つ老練なロットワイラー、一等沿岸警備正が、剃刀のような眼光で受験者たちを一喝した。
「――静粛にッ!」
一瞬で、体育館の空気が氷点下まで凍りつく。
教官は手元のバインダーを叩き、感情を削ぎ落とした硬質な声で、最初の選考内容を宣告した。
「これより、特殊救難隊員・第一次体力選考を開始する。基準を満たせない者は、その日のうちに元のフネへ送還だ。心して聞け」
告げられた試験内容は、各管区の精鋭たちからすら息を呑む音が漏れる、徹底的な身体の極限テストだった。
・水泳:五キロのウエイトベルトを着装した状態での『顔上げ(ヘッドアップ)平泳ぎ』五百メートル。目標タイム十分以内。常に前方の要救助者から視線を外さず、波を裂く救助泳法。
・腕立て伏せ:制限時間二分間。合格基準五十回以上(競争基準八十回以上)。マズルが床に触れるまで下げる完全フォームのみカウント。
・上体起こし:制限時間二分間。合格基準五十回以上(競争基準八十回以上)。
・懸垂:制限時間なし。反動を使わない完全静止懸垂で、競争基準十四回以上。
・三キロメートル走:救助用重装ベスト着用。制限時間十二分以内(競争基準十分三十秒以内)。
「競争基準とは、受かるための最低条件ではない。ここにいる猛者どもの中で、『上位数名』に生き残るための数字だ。小手先の技術も、過去の武勇伝も、ここでは一切通用せん。……己の骨と筋肉で証明してみせろ」
教官の合図とともに、体育館の大型シャッターが轟音を立てて跳ね上がり、奥の五十メートル訓練プールとグラウンドが露わになった。
巨大な体躯を誇るニューファンドランドが太い首を鳴らし、シェパードたちが鋭い牙を剥く。
大輔は俊平、そして明と視線を交わした。
言葉は要らなかった。
体格差を理由に脱落するつもりなど、毛頭ない。瀬戸内の激流で神田に叩き込まれた異常なまでの無酸素耐性と、それを支える猟犬特有の無尽蔵の心肺機能。
三頭の若きビーグルが、全国の怪物たちを相手に、最初の限界突破へ向けて力強く地を踏みしめた。




