第52話 交錯の潮路、東へ
第4部 第52話:交錯の潮路、東へ
九月。盛夏の熱気が残りつつも、秋の気配が混じり始めた呉港に、再び人事の風が吹き抜けた。
第六管区沿岸警備本部の運用司令センター。当直の引き継ぎ書類を片付けていた神田の元に届けられたのは、一枚の分厚い人事発令書だった。
『第三管区沿岸警備本部 警備救難部 運用司令センター――首席管制官への転属を命ず』
現場の第一線を退いたとはいえ、神田が幾多の海難やシージャック事案、そして先の旅客機墜落事故で見せた的確な現場指揮能力と危機管理の知見は、本庁上層部からも極めて高く評価されていた。首都・東京湾を預かり、日本で最も過密で重大事案の頻発する第三管区へ、現場の泥水を知り尽くしたベテラン統括管制官として乞われての栄転だった。
官舎に戻り、その辞令を食卓に置いた神田の前へ、一人娘のアミが目を輝かせて駆け寄ってきた。
「パパ、これほんとう!? 横浜にお引っ越しするの? わーい、嬉しい!」
アミはパグ特有の愛らしい顔をほころばせ、パタパタと小さな足を跳ねさせてはしゃいだ。
「パパ、お休みの日は港の見える球場に行こうね! 青いユニフォーム着て、冷たいみかん氷食べるんだから!」
「おいおい、球場だのみかん氷だの……冷たいものばかり食うな、お前すぐお腹壊すだろ。代わりに温かいスープにしとけ」
神田は潰れたマズルからふうと息を漏らし、苦笑いを浮かべながら、分厚い掌でアミの頬を包み込んで優しく自身の鼻先を擦り寄せた。
かつては夜の海へ出動するたび、生きて戻れるかも分からず、暗い部屋で背中を見送らせていた娘だ。現場を降り、こうして休日の約束を交わせる日常の温もりが、暗点を抱えた右目の奥で、じんわりと沁み渡っていく。
横浜――大輔のバディである俊平がいる地であり、そして何より、あの羽田特殊救難基地を抱える首都圏の海域だった。
*
そして、遥か北の大地――北海道・小樽。
石狩湾から吹き付ける冷たい海風が、第一管区沿岸警備本部の岸壁を激しく洗っていた。
白波が砕ける桟橋に、精悍なラブラドール・レトリーバーが、凛とした佇まいで直立していた。大輔や俊平とともに、舞鶴の沿岸警備学校の過酷な教場を耐え抜いた同期、高山だった。
高山は第一管区に配属されて以来、冬の流氷や荒れ狂う日本海の密漁船監視、冬期の急患搬送といった極限の現場の最前線に立ってきた。水猟犬特有の、氷水すら弾く密生したダブルコート(二重被毛)の耐寒性。
北の海で「氷の狼」と恐れられたその強靭な身体能力と、若犬離れした果断な操船センスは、管区の航海科内でも一目置かれる存在となっていた。
その高山の執務机にも、今朝、赤い契印の押された人事発令書が届けられていた。
『第三管区・横浜沿岸警備本部 救難強化型巡視船「ぶこう」航海科――主任操舵手への転属を命ず』
北の海の守り手から、日本の大動脈・東京湾を警備する重要船艇の、実際に舵輪を握る若手操舵手のエースとしての大抜擢。
高山は制帽の鍔に手を当て、鉛色の石狩湾の荒涼とした水平線を見据えた。
その切れ長の青い双眸の奥に、懐かしい同期たちの顔が浮かぶ。
「……第三管区か」
横浜の『とねかぜ』で揉まれている俊平、そして呉で潜水士となり、羽田の門を叩こうとしている大輔。
かつて舞鶴の海で互いの誇りをぶつけ合い、それぞれの現場へ散っていった若き猟犬たちの運命が、まるで強力な潮流が一点に引き寄せられるかのように、東の海――東京湾へと集結しようとしていた。




