第51話 託された願書、北と南の狼煙
第4部 第51話:託された願書、北と南の狼煙
大輔が呉で志願書に名を刻んでいた、同じ日の夕刻。
第三管区、横浜沿岸警備部。
首都圏の過密な国際航路と浦賀水道を睨む救難強化型巡視船『とねかぜ』の潜水班控室は、東京湾特有の重油と潮の混じった重い空気に包まれていた。
潜水班長を務める初老のラブラドール・レトリーバー、鈴木一等沿岸警備士が、スチール机の上に一枚の公文書を滑らせた。
表紙に並ぶのは、濃紺の沿岸警備庁コンパスマークと、『第三管区沿岸警備本部 羽田特殊救難基地――隊員選考試験実施要項および受験志願書』の重厚な活字。
「どうだ、神崎。本庁から今年の特殊救難隊の選考推薦枠が下りてきた。本来なら潜水士歴二年以上が条件だが、お前の東京湾での実績と呉の研修での評価を見て、船長が特別枠をもぎ取ってくださった。……受ける気はあるか?」
パイプ椅子に腰掛けていた俊平は、切れ長の双眸をわずかに伏せ、その白い紙面を見つめた。
脳裏をよぎったのは、二か月前、初夏の呉の正門前で敬礼を交わして別れた、相棒の顔だった。
第六管区・呉の『ながら』で、瀬戸内の激流とシージャック、そして先月の大型旅客機着水事故の修羅場を潜り抜けたと聞く、もう一頭のビーグル。
(……大輔。お前も今頃、間違いなくこの書類を前にしているはずだな)
迷う余地など、最初から一ミリも存在しなかった。
舞鶴の冷たいプールで出会い、呉の暗黒の水底で一つの呼吸を分かち合い、「羽田の先」で再び肩を並べるためにこの海を渡ってきたのだ。
俊平は背筋を正し、一点の曇りもない声音で言い切った。
「はい。志願します」
鈴木班長は、船内禁煙のため火はつけずに口元で咥えていた愛用の洋梨材のパイプをゆっくりと外し、深く刻まれた眉間のシワを一層険しくした。長年使い込まれた火皿から漂う微かな甘いバージニア葉の残り香の中、鈴木は手にした金属製のタンパーの尻で机をコツンと鳴らした。その双眸が、射るような光を帯びて俊平を捉える。
「特殊救難隊の選考は、呉の潜水研修とは次元が違うぞ、神崎。全国の一管から十一管まで、各管区でエースと恐れられる本物の化け物ばかりが集結する。水に入れば並の潜水士三人分の推力を生み出すニューファンドランドの巨漢や、全国の航空基地でヘリから荒海へ飛び降りてきた機動救難士の精鋭、さらには今年、海上防衛隊の水中処分隊(EOD)から特別採用で移籍してきた規格外の猛者まで名乗りを上げているそうだ。あまりの暴れっぷりに、本庁が強引に引き抜いたって噂だぜ」
俊平の垂れ耳が、ピクリと跳ねた。防衛隊のEODから来た猛者――間違いなく、明だ。
「……数枠しかない合格枠を巡って、文字通り骨を削り合うサバイバルになる。ビーグルの細身の骨格じゃ、連日の高圧負荷と暴力的なスクリーニングに耐えるだけで全身の筋肉が悲鳴を上げるぞ」
鈴木はパイプのボウルを握り直し、低く凄んだ。
「だが、この志願書にサインして出ていく以上、そいつらに一歩たりとも遅れを取るな。第三管区・横浜の看板を背負って泥水を啜り、最後の一枠にでも牙を立てて食らいついてこい。何としてでもな」
「――了解ッ!」
直立不動で最敬礼を返す俊平の深い栗色の瞳に、静かで、狂おしいほどの青い炎が灯っていた。
*
その狼煙は、横浜や呉だけで上がっていたわけではなかった。
遥か北の海――第一管区・小樽の岸壁に停泊する巡視船の甲板では、呉の研修を共に生き抜いたラブラドールの佐藤亮太が、すでに秋の冷気を帯びた北風の中で特救隊の選考通知を強く握りしめ、南の空を睨みつけていた。第二管区・塩釜の宮武もまた、静かに爪を研いでいる。
一方、南の海――第十一管区・那覇の青いサンゴ礁の海では、フレンチブルドッグの須藤健太が、鍛え直した太い首で水深二十メートルの潮流に食らいつき、来月から始まる秋の潜水技術研修でのリベンジに向けて血の滲むような特訓を重ねていた。第七管区・門司の鳥山と交わした、「今度は二人でイルカを獲る」という約束を果たすために。
そして、呉港の『ながら』のすぐ隣の桟橋。
中型巡視船『くろせ』の甲板では、三匹目のビーグルである明が、署名を終えたばかりの特救隊志願書をヒラヒラと揺らしながら、夕陽に染まる『ながら』の船影を見て不敵に犬歯を光らせていた。
「へへっ……大輔に俊平。せっかく沿警に来たんだ、お前ら二人だけにいい格好はさせねえよ。羽田のプールで、もう一回勝負だ」
北の海から、南の海から、そして瀬戸内と東京湾から。
それぞれの誇りと執念を背負った若き海猿たちが、ジャパウ海難救助の最高峰――羽田特殊救難基地の重い鉄扉を叩く刻が、すぐそこまで迫っていた。




