第50話 羽田への切符
第4部 第50話:羽田への切符
八月末、夕暮れの潜水班控室。
重油とネオプレンゴムの匂いが漂うスチール机の上に、佐々木班長が一枚の分厚い公文書の束をバサリと置いた。
表紙には、黒々と刻まれた重厚な明朝体。
『第三管区沿岸警備本部 羽田特殊救難基地――隊員選考試験実施要項および受験志願書』
「おい、間。お前、入校した頃から特救隊に行くってほざいてたよな」
ロッカーで器材の整理をしていた大輔の手が、ピタリと止まった。
ゆっくりと振り返り、直立不動の姿勢を取る。
「……はい」
「第六管区本部から、今秋の選考試験の推薦枠が下りてきた。どうだ、受ける気はあるか?」
佐々木はパイプ椅子に深く腰を下ろし、剃刀のように鋭利な眼光を大輔へ向けた。
羽田特殊救難隊――通称、トッキュー。
全国十一管区、数百名の潜水士の中から選び抜かれた、わずか三十数名足らずの精鋭のみで構成される「海難救助の最高峰」だ。悪天候下のヘリコプターからの洋上降下、有毒ガスや劇物を積んだ危険物船への強行突入、転覆・沈没船の最深部からの救出――通常の巡視船潜水班では対処不可能な極限事態にのみ投入される、ジャパウ国最後の砦である。
「ですが班長……特救隊の選考試験を受けるには、潜水士になってから最低二年の現場実務経験が必要だったはずです。俺はまだ、六月にイルカを獲ってから二か月しか……」
「普通ならな。だが、お前は『普通』じゃねえだろ」
佐々木は鼻を鳴らし、机の上の書類を指先でトントンと叩いた。
「見習い時代から来島海峡の沈没船とタンカーのシージャックを潜り抜け、呉の潜水研修は首席突破、おまけに先月の旅客機着水事故じゃ、水深二十八メートルの崩落寸前のコクピットから機長たちを引っ張り出した。……うちの『ながら』の小島船長と、六管本部にいる神田の野郎が、『あいつはすでに二年分以上の修羅場をくぐり抜けてる』と本庁の人事課に強引にねじ込んで、特例の推薦枠をもぎ取ってきやがったんだ」
大輔は息を呑み、机の上の白い志願書を見つめた。
小島船長と、神田先輩が――。
即答しようとして、大輔はふと黒いマズルを固く引き結び、胸の奥底で自問した。
舞鶴の学校でも、呉の潜水研修でも、俊平と誓い合った「羽田」の二文字。
だが、今の自分は本当にその最高峰へ挑む器にあるのか。
これまで幾度もの修羅場を生き延びてこられたのは、常に神田という巨大な防波堤が前に立ち、佐々木班長の的確な指揮があり、明の卓越した技術が隣にあったからだ。タンカーの船橋で憎しみに呑まれ、「俺にはできません」と叫んで命を見捨てかけた己の未熟さは、いまも心の奥底で黒い瘡蓋のように疼いている。
それに、もしこの秋の選考に合格して羽田の教育課程へ引き抜かれれば、今年度末の三月に解役される老兵『ながら』の最期を見届けることなく、途中で船を降りることになる。自分の背中を見て「潜水士になりたい」と目を輝かせ始めた後輩の山崎を、置いていくことにもなるのだ。
だが――脳裏に浮かんだのは、三月の陽光の中でタラップを降りていった神田の背中だった。
――『お前が自分で自分を律しろ』
――『大輔。……絶対に、命から手を離すなよ』
あの日、師匠から託された言葉の本当の先へ進むためには、慣れ親しんだ故郷・呉の母港で立ち止まっているわけにはいかなかった。
後輩の面倒を見ながら居心地のいい場所で安住するのではなく、誰かを置いていく痛みと孤独を背負ってでも、まだ見ぬさらに深く暗い海へ飛び込まなければならない。
バディの沼田との約束のために本庁への栄転を蹴り、大輔を庇って銃弾を浴び、現場の海を去るまで己のすべてを懸けて「潜水士の矜持」を守り抜いた神田。その師匠から受け継いだ命綱を、さらに深く暗い日本の『最高峰の海』へ繋ぎ、泥臭いハウンドの執念を証明するために。
「……はい。志願します」
顔を上げた大輔の濁りのない返答に、佐々木班長はマズルの端から一切の笑みを消し、低くドスの利いた声で凄んだ。
「いいか、間。特救隊の選考会は、全国から集まった各管区の化け物みたいなエースたちが、文字通り心身をへし折られて這いつくばる地獄だ。お前みたいな小柄なビーグルが行けば、これまで以上の偏見と物理的な壁が立ち塞がる。『今回はお試しで、ダメなら来年また受け直せばいい』なんて甘い考えが一ミリでもあるなら、今すぐ俺がこの目の前で志願書を破り捨てるぞ」
「覚悟の上です」
大輔は一歩前へ踏み出し、真っ直ぐに佐々木を見据えた。
「お試しなんかで行きません。俺は、今年必ず羽田に行きます。どんな地獄が待っていようと、この手と鼻で絶対に這い上がってみせます!」
その黒い双眸の奥に宿る、神田から受け継いだ静かな狂気にも似た光を見て、佐々木は微かに満足げな息を吐き、机上の受験志願書と黒のボールペンを大輔の方へと滑らせた。
「……なら、とっととサインしろ。本部の神田にも、推薦の副申書を一筆添えてもらうよう俺から連絡しておく」
「班長……! ありがとうございます!」
「礼は受かってから言え、バカ野郎。来年、お前が羽田の教育へ抜けて、山崎が呉の研修へ行くとなったら、うちの潜水班の当直ローテーションがどうなるか、今から頭が痛いんだよ」
佐々木は憎まれ口を叩きながら立ち上がると、胸ポケットから取り出した煙草を口に咥え(船内禁煙のため火はつけず)、防水扉の方へと歩み去った。
控室の机の前に残された大輔は、ボールペンを握り締め、白い受験志願書の署名欄を見つめた。
ふと、二年前の五月のあの日――遮光カーテンを閉ざした呉の六畳間で、叔父の源蔵から沿岸警備学校の願書を突きつけられた日のことが蘇る。
あの日、プールの底で幼い命を取り落とした恐怖と過呼吸で、大輔の腕はガタガタと震え、紙に落とした最初の一画は情けないほど無様に歪んでいた。募集要項の『特殊救難隊』という五文字を、ただ縋るように爪でなぞることしかできなかった。
だが、今は違う。
ロープと鉄に削られ、掌の肉球が分厚く硬化したその手には、微塵の震えもなかった。
大輔はペン先を紙に置き、力強く、一点の迷いもない真っ直ぐな筆跡で『間 大輔』と自らの名を刻み込んだ。
胸の奥で、静かな闘志が青い業火となって燃え上がる。
いま頃、第三管区・横浜の巡視船で東京湾の荒波に揉まれているはずの俊平の顔が脳裏に浮かんだ。あいつも間違いなく、同じ空の下でこの志願書にサインをしているはずだ。そして、隣の『くろせ』にいる明も、黙って見ているはずがない。
海難救助の最高峰・羽田へと続く重く分厚い鉄の扉が、いま大輔の目の前で、轟音を立てて開き始めていた。




