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海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第4部

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第49話 火種を継ぐ者

第4部 第49話:火種を継ぐ者

 ズバァァァッ!!

 豪雨の安芸灘の海面を割り、大輔と佐々木班長が、意識不明の機長と副操縦士を抱えて浮上した。

 そこへ、先に幼いコーギーの子どもと客室乗務員を救難艇へ引き渡した直後、遅れる二人を案じて再び海中へ潜り下りてきた『くろせ』の明が合流し、副操縦士の身体を下から力強く押し上げる。

「上がったぞ! 引き揚げろ、山崎ッ!」

 艇長の怒号とともに第一救難艇が横付けされ、ボート上で命綱の予備リールを握りしめていた山崎たちが身を乗り出し、重いパイロット二名の身体を艇内へと引きずり上げた。

 その直後――ドゴォォォン……と、海面の下で低く鈍い衝撃音が響き、不気味な気泡の塊が湧き上がった。

 完全に浮力を失った旅客機の機首と胴体後部の残骸が、海底の岩棚から剥がれ落ち、水深五十メートルを超える暗黒の海溝(ドロップオフ)の底へと完全に消え去った音だった。

 文字通り、わずか数十秒の差。

 間一髪のところで、機内に取り残されていた生存者全員の命が、光の差す海面へと引き摺り上げられたのだ。

 上空には、雲の切れ間を縫って広島航空基地の中型救難ヘリが猛烈なダウンウォッシュを巻き起こしながら進入し、母船『ながら』および『くろせ』と連携して重傷者のピストン吊り上げを開始していた。

 揺れる救難艇の縁に片腕をかけ、空になったシリンダーを背負ったまま肩で荒い息をする大輔の耳に、操舵席の超短波(VHF)無線機から、ノイズ混じりの低い声が届いた。

『――「ながら」潜水班、間』

 第六管区運用司令センターの神田だった。

 余計な言葉は一切なかった。マイクの向こうから飛んできたのは、フゴッという短い鼻息と、腹の底を震わせるようなたった一言。

『……よくやった、大輔』

 プツン、と回線が切れた。

 多くを語らない、かつての師からの最大の労い。大輔は雨と潮水に濡れたマズルをグローブで拭い、鉛色の荒波を見つめながら、震える右拳を固く握りしめた。

     *

 未曾有の旅客機着水事故から、一か月半近くが過ぎた。八月下旬。

 鉄の甲板が焼け焦げるような真夏の強い日差しが呉港を照りつけ、油蝉の鳴き声が背後の灰ヶ峰にこだましている。

 大型巡視船『ながら』の後部作業甲板。

 午前中の過酷な耐流潜水訓練を終えた大輔は、日陰に腰を下ろし、岸壁を見下ろしながら冷えたスポーツドリンクを喉に流し込んでいた。

 傍らには、手際よく真水での塩抜きを終えた十四リットルのスチールシリンダーと、寸分の狂いもなく整備されたレギュレーターが整然と並んでいる。佐々木班長に背中を預けられ、第一当直潜水士として幾つもの現場を踏み越えた夏。大輔の動作の一つ一つには、かつての神田から受け継いだ無駄のない落ち着きと、本物の『海猿』としての確かな風格が滲み出していた。

 そこへ――。

「お疲れ様っす! 間先輩、冷たい特製の麦茶持ってきましたよ!」

 ドタドタと騒がしい足音とともに、氷のたっぷり入った大型のアルマイトやかんを手にした主計科の山崎達也(ゴールデン・レトリーバー)が、ラッタルを駆け上がってきた。

 相変わらずの人懐っこい笑顔と、陽光を弾く金色の毛並み。

 だが、あの七月の大惨事の日――救難艇の上で恐怖に牙を鳴らしながら命綱を握り、大輔たちが海底から引き揚げてきた血まみれのパイロットや凍える子どもの身体を必死に毛布で包み、母船の医務室まで声を枯らして走り回った経験は、この若き主計士の心にも決して消えない深い爪痕を残していた。

「おう、山崎。助かるよ、ありがとう」

 大輔が金属コップを受け取り、冷たい麦茶を喉を鳴らして飲み干す。

 山崎はやかんでお代わりを注ぎながら、甲板のラックに干された漆黒のウェットスーツと、半袖作業服の大輔の左胸に輝く『銀のイルカ』の徽章を、どこか羨望の混じった複雑な眼差しで交互に見つめていた。

「……やっぱり、間先輩たちはマジでかっこいいっすね。あの飛行機の現場、俺はボートの上で命綱の予備リールを握って、上がってきた人たちに毛布を巻くのがやっとで……。すぐ下の暗い海の底で先輩たちがどんな思いで命を引っ張り出してるかも分からず、ただ膝を震わせてるだけで、何にもできなくて……」

 かつて「シージャックなんて映画みたいでスリリングだ」と笑っていた男が、自分の無力さを噛み締めるように視線を落とした。

 その横顔を見て、大輔はふっとマズルを緩め、後輩の肩を拳でドンと強く叩いた。

「自分を卑下するなよ、山崎。あの現場でパニックになっても逃げずに、お前がその震える手で命綱の予備を支えて、引き揚げたあのコーギーの子どもを温かい毛布で受け止めてくれたから、命が繋がったんだ。海難現場は、潜る潜水士だけで回ってるわけじゃない」

「間先輩……」

「だが――もし俺たちの背中がかっこいいと思って、その手で直接命を掴みたいなら、お前も潜ればいい」

「えっ!?」

 山崎が目を丸くして飛び退いた。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 俺は主計科ですよ!? 船の飯炊きと補給係っすよ!」

「主計科から潜水士になった先輩なんて、沿岸警備庁にはいくらでもいるぞ。現に最高峰の『特殊救難隊』にだって、主計出身の隊長がいるくらいだ。それに、お前はゴールデン・レトリーバーだろ。もともと冷たい水に飛び込んで獲物を回収する水猟犬の血筋じゃないか、俺たちビーグルよりよっぽど潜水士の体格には恵まれてる」

 大輔はコップを置き、白い犬歯を見せてニヤリと笑った。

「この秋には、来年度の潜水技術研修に向けた管区の選抜適性検査がある。身体検査と泳力測定をパスして船長の推薦をもぎ取れば、あの『呉の潜水研修』へ行けるぞ。……毎日五千メートル泳がされ、十キロの鉛を巻いて水深五メートルに沈められ、視界ゼロの鉄檻の中でエアを止められるだけの、最高にスリリングで楽しい場所だ。どうだ、挑んでみるか?」

「それ、映画どころか完全に拷問じゃないですか!!」

 山崎が悲鳴を上げ、金色の垂れ耳をパタパタと激しく振って頭を抱えた。

 だが――目を白黒させて後ずさりしながらも、山崎の琥珀色の瞳の奥には、あの日の海で見た先輩たちの背中を追う、消えることのない小さな火種が確かに灯り始めていた。

 表層を滑るだけだった軽薄な若造が、現場の泥と命の重さを知り、いま自らの足で過酷な深淵へと踏み出そうとしている。

「……マジで、こんな俺でもなれますかね。間先輩たちみたいに、暗い海の底から誰かの命を引っ張り上げられる本物の潜水士に」

 ふいに冗談の消えた真剣な声で問いかける後輩の目を見据え、大輔はかつて自分を導いてくれた叔父・源蔵と、パグの師匠の顔を思い浮かべながら、力強く頷いた。

「なれるさ、達也。……どんなに苦しくても、自分の口で『もうやめた』ってさえ言わなければな」

 照りつける八月の太陽の下、解役を半年後に控えた老兵『ながら』の白い甲板に、次なる世代の挑戦者を見つめる先輩と後輩の快活な笑い声が爽やかに響き渡っていた。

 かつて水底から託された命綱は、こうして次の新しい波へと、確かに受け継がれていく。

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