第48話 極限のバディブリージング、冷酷なる隔壁
第4部 第48話:極限のバディブリージング、冷酷なるコクピット
SOSの打音が響いた機体後部の最奥――崩落したギャレー(厨房)へと続く狭隘通路は、舞い上がった断熱材とケロシンで完全な濁水と化していた。
水深二十二メートル、水圧は三・二気圧を超える。
大輔のメインシリンダーの残圧計はすでに三十気圧を割り込み、警告のレッドゾーンに突入していたが、胸元には先ほど明から託された予備のステージボトルが連結されている。大輔は神田直伝の極小呼吸法で心拍数を極限まで抑え込み、後ろを追従する明の気配を背中で感じながら、倒れた大型カートの隙間へと小柄な身体をねじ込んだ。
ザバァッ!
お椀型の後部圧力隔壁と天井パネルの間に残された、高さわずか数十センチの圧縮された空気溜まり(エアポケット)へ、大輔は水面を割って顔を出した。
面体のバルブを開いて口元を露出し、冷たい暗闇へ向かって声を張り上げる。
「ジャパウ沿岸警備庁です! いま助けに来ました、誰かいませんか!」
「こ、ここです……!」
水中ライトの光が、暗がりの隅を照らし出した。
冷たい濁水に胸まで浸かり、配管にしがみつきながらガタガタと震えていたのは、救命胴衣を着た客室乗務員の女性シェパードと、その腕の中に固く抱きしめられた、まだ幼いコーギーの男の子だった。乗務員が自分の体温で子どもを守りながら、金属製のポットで壁を叩き続けていたのだ。二人の歯茎は血の気を失って真っ白に凍りつき、充満するジェット燃料の蒸気で苦しそうに目を細めている。
「た、助けてください……! 私より先に、この子だけでも……!」
「二人とも助けます! 絶対に誰も置いていきません!」
大輔は水を蹴って近づくと、乗務員の腕から幼いコーギーの身体をしっかりと受け取り、自らの胸元へと力強く抱き寄せた。
濡れて冷え切った小さな身体から、トクン、トクンと必死に命を刻む心臓の鼓動が、ウェットスーツ越しに大輔の胸板へとダイレクトに伝わってくる。
――あの日、温水プールの底から抱き上げた、あのトイプードルの教え子の重み。
一年半の間、大輔の魂の底で凍りついていた罪悪感の氷が、いま自分の両腕の中で確かに息をしている小さな命の熱によって、音を立てて溶け去っていくのを感じた。
(……もう二度と、この手は離さない!)
直後、すぐ後ろの水面へ、明がバシャッと顔を出した。
「大輔、見つけたか!」
「ああ! 明、この子と乗務員さんを頼む!」
大輔は胸元に連結していた予備のステージボトルを外し、携行していた緊急救助用のマズルカップにホースを接続した。パージボタンを軽く押して内部の水を抜くと、幼いコーギーと乗務員のマズルへそれぞれカップをすっぽりと被せ、外れないようにストラップを後頭部へ回す。
「いいか、このカップからきれいな空気が出る。海面に出るまで、絶対に息を止めずに『あーっ』て細かい泡を吐き続けながら、このお兄ちゃんにしがみついててくれ!」
たっぷりと空気の入ったステージボトルごと明のハーネスに預け、二人の命を託す。
『大輔、この二人は俺が責任を持って海面の救難艇へ送り届ける! お前は佐々木班長と一度外へ出ろ!』
『了解! 頼んだぞ、明!』
明の頑強な両腕に子どもと乗務員を託し、脱出口へと送り出す。大輔自身のメインシリンダーの残圧は、もはや底を突きかけていた。
だが――大輔が機体後部の破断口から外海へ抜け出た瞬間、安堵する暇すら与えぬ最悪の光景が視界に飛び込んできた。
機体後部が引っかかっている岩棚のすぐ斜め下、水深二十八メートルの海底崖の縁に、破断して別々に沈んでいた『機首セクション(コクピット部分)』が辛うじて引っかかっていたのだ。
そして、ひび割れたそのコクピットの風防ガラスのすぐ内側に、座席に固定されたまま頭から血を流してぐったりとしている機長と副操縦士の二つの影が、水中ライトの光の中に浮かび上がった。
『間、見ろ! 下の機首部にパイロットが二名残っている! まだコクピット内にわずかな空気が残っているぞ!』
入口で待機していた佐々木班長が、水中通話機越しに叫んだ。
『だが、あの機首はいまにも水深五十メートルの谷底へ滑り落ちそうだ! 間、お前のエアはもうないな! 俺のシリンダーにはまだ百気圧残っている、俺のオクトパスでお前にエアを分けながら二人で一気に抜くぞ! 行けるか!』
『行けます! 行きましょう、班長ッ!』
大輔と佐々木はすぐさま水流を蹴り、水深二十八メートルの崖っぷちで不気味に揺れる機首の破断面へと突入した。
大輔は空になったメインレギュレーターから、佐々木班長のオクトパスへと口元を切り替え、一本のシリンダーの空気を共有しながら歪んだコクピットの装甲ドアへと取りつく。
佐々木が大型のチタン製バールをドアの隙間にねじ込み、大輔と二人がかりで全体重をかけてこじ開けた。
バキィッ!!
ロックが弾け飛んだ瞬間、コクピット内部に閉じ込められていた圧縮空気が巨大な気泡の塊となって通路側へゴボォッ! と爆発的に噴き出し、入れ替わりに周囲の海水が操縦室内へと一気に雪崩れ込んだ。
前方の風防ガラスの亀裂からも海底の泥水が噴き出し、浸水はすでに計器盤を完全に呑み込んで、天井に残された二十センチほどの空気溜まりが一瞬にして消滅する。
五点式シートベルト(ハーネス)に固定された機長と副操縦士の大型犬二名は、着水時の衝撃で意識を失ったまま、完全に泥水の中へ水没した。
『水没するぞ! 引き摺り出す!』
佐々木班長が怒号を上げ、ダイビングナイフを一閃させて機長の分厚いナイロンハーネスを根元から切り裂いた。
大輔も即座に副操縦士の座席へ滑り込み、歪んだセンターバックルのロック金具を力づくで解放して、予備のレスキューフードをその頭部へすっぽりと被せた。
意識のない二頭の大型犬の肉体は、制服に海水を吸って鉛のように重い。
大輔と佐々木は奥歯が砕けるほどマズルを噛み締め、満身の脚力で床を蹴って二人を座席から引き剥がし、狭いコクピットドアの開口部から外の海中へと引っ張り出した。
『パイロット二名、確保ッ!』
大輔が水中通話機で叫んだ、まさにその刹那だった。
ズズズズ……ズガガガガッ!!
海底の岩盤そのものを揺るがす不気味な地鳴りと、ジュラルミンが引き裂かれる轟音が、水中の大輔たちの全身を激しく震わせた。
二人を引きずり出したばかりの機首の残骸、そして上方にあった胴体後部が、ついに岩棚の摩擦限界を超え、水深五十メートルの暗黒の海溝へ向けて一斉に崩落を開始したのだ。




