第47話 気泡の迷宮、奥底のSOS
第4部 第47話:気泡の迷宮、奥底のSOS
ケロシンの油膜が浮く海面へ頭から突っ込んだ瞬間、白濁した燃料と舞い上がった無数の浮遊物が大輔の視界を遮った。
安芸灘の海中。
破断した大型旅客機の胴体後部は、ついに海面からの浮力を失って沈下し、水深十メートルから二十メートルへと落ち込む海底の険しい岩棚(海嶺の縁)に、四十度近い急角度で斜めに引っかかるようにして止まっていた。
そのすぐ先は、水深五十メートルを超える暗い海底の谷へと切れ落ちている。機体が海水を飲み込んで自重を増し、この岩棚から滑り落ちれば、もう誰の手にも届かない。神田が無線で叫んだ『残り七分』のカウントダウンは、機体がこの崖っぷちから深淵へと滑落するまでの猶予時間だったのだ。
大輔は神田直伝の極小呼吸法で心拍数を低く抑え、真横を泳ぐ佐々木班長の排気泡の音を捉えながら、機体の破断口へと急速潜行した。
その時、濁水の中から強力な水中ライトの光軸が交差し、機体の非常口付近を照らし出した。
『大輔、佐々木班長! こっちだ、非常ドアはこじ開けたぞ!』
全面マスクの水中通話機から飛び込んできたのは、聞き覚えのある弾むような声――同じ呉保安部の中型巡視船『くろせ』から先行突入していた、明だった。
昨年末に海上防衛隊を退職した明は、水中処分員(EOD)としての実績と潜水資格の特例認証によって今春から沿岸警備庁へ即戦力採用され、晴れて『銀のイルカ』を着けた同僚としてこの海に潜っていたのだ。防衛隊時代の特殊なリブリーザーではなく、沿警官給品のシリンダーを背負った明は、屈強な『くろせ』の先輩潜水士とともに歪んだ非常ドアの隙間に大型のチタン製バールを噛ませ、すでに脱出口を確保していた。
『機体前方の浅い区画は水没が早い! 天井のエアポケットに逃げ込んだ乗客が数名いる、俺たちのレスキュー機材を使って一気に海面へ引き摺り出すぞ!』
『了解!』
明の合図に、大輔と佐々木が機内へと滑り込んだ。
水深十メートル前後の機内は、上下左右の感覚が狂う悪夢の密室だった。
四十度に傾斜した機体では、本来の通路はもはや歩く場所ではなく、急な滑り台と化している。折れ曲がった座席のフレームを梯子代わりに掴みながら移動しなければならず、水中を漂う手荷物や、視界を塞ぐように垂れ下がる無数の配線がダイバーに絡みつく。すでに水没した下方の座席には、脱出が間に合わなかった犠牲者の動かぬ影もあった。
大輔は胸の痛みを奥歯で噛み殺し、まだ空気が残っている上方の天井裏へと水を蹴った。パニックになりながら手すりにしがみつき、わずかな空気溜まりに顔を出して喘いでいる生存者たちのマズルに、大輔たちは水が入り込まないよう緊急救助用のマズルカップを素早く被せて空気を送り込み、非常口から水深十メートルの海面へと必死のピストン輸送で次々と押し上げていく。
海面では、少し雨足が弱まった隙を突いて飛来した広島航空基地の救難ヘリと、山崎たちが待ち構える『ながら』『くろせ』の救難艇群が、浮上してくる生存者を次々と引き揚げていた。
『――よし、手前の客室区画、生存者の搬出は完了した!』
最後の生存者を海面の救難艇へ送り出した明が、再び非常口まで潜り下り、大輔の肩を掴んだ。
『あとは一番深く沈んでいる最後尾のギャレー(厨房)と、後部圧力隔壁の周りだけだ! 機体が岩棚から滑落する前に、最終確認をして上がるぞ!』
斜めに傾いた機体の最後尾は、海底の崖に突き出すようにして水深二十五メートル付近まで深く落ち込んでいる。
大輔たちがその暗い狭隘通路へ向かおうとした、まさにその刹那だった。
ギチギチ……ミシッ……と水圧に軋むジュラルミンの金属音の隙間を縫って、微かな、しかし異質な振動が大輔と明の頭蓋骨を同時に震わせた。
水中では、音は空気中の四・五倍の速さで伝わり、鼓膜ではなく頭蓋骨を直接揺らす。ネオプレンフードの下にある二頭のビーグルの鋭敏な耳が、分厚い金属の隔壁を内側から叩く規則的な打音を、寸分の狂いもなく捉えていた。
――コン、コン、コン。カーン、カーン、カーン。コン、コン、コン。
短く三つ。長く三つ。短く三つ。
誰かが、金属製のポットか何かで、機体最後尾の壁を内側から必死に叩いている。
国際救難信号――『SOS』だ。
『……聞こえたか、大輔!』
『ああ! 一番奥、水深二十五メートルの圧力隔壁の手前、崩落したギャレーの裏側だ!』
二頭のハウンドが同時に奥の暗闇を指差した。
神田が言っていた通りだ。お椀型の後部圧力隔壁と、倒壊したギャレーの大型冷蔵庫やカートが噛み合ってできた最深部の隙間に、三・五気圧の水圧で極限まで圧縮されたわずかなエアポケットが残っており、そこにまだ生きた人間が閉じ込められている。
だが、機体後部は今にも海底の崖を滑り落ちようとしており、大輔がピストン輸送で酷使したメインシリンダーの残圧計の針は、すでに退避限界である五十気圧に迫りつつあった。水面の三・五倍の速さで空気が消費される水深二十五メートルの環境下において、残圧五十で閉鎖空間の最奥へ突っ込むのは自殺行為に等しい。
『間、お前のメインシリンダーはもう限界だ! これを使え!』
佐々木班長と明が同時に動いた。明が自身のハーネスの脇に吊るしていた緊急補給・要救助者用の小型予備シリンダー(ステージボトル)のカラビナを外し、大輔の胸元のDリングへとガチリと連結したのだ。
『こいつはまだ百八十気圧入ってる! 佐々木班長は入口で命綱の中継を! 狭くて崩れかけたギャレーの隙間は、図体の小さい俺と大輔のビーグル二匹で一気に潜り抜けます!』
『……よし、行け! だが機体が滑落するまで、残された持ち時間は「二分」だ! 二分で引きずり出して戻れ、一秒でも過ぎたら俺が命綱を引いてお前たちを強制回収するぞ!』
『『了解ッ!!』』
自らの命を削ってでも、暗闇で助けを呼ぶあの音から絶対に手を離さない。
大輔の瞳に宿る光は、一ミリも揺らがなかった。かつて底の抜けたプールで命を取り落とし、瀬戸内の荒波で神田の魂を受け継いだ若き猟犬は、もう一匹の同胞とともに、水深二十五メートルの暗黒の浸水迷宮へと迷わず力強くフィンを蹴り込んだ。




