第46話 託された背中、無線の咆哮
第4部 第46話:託された背中、無線の咆哮
豪雨の安芸灘の海面は、文字通り地獄の様相を呈していた。
緊急着水に失敗した大型旅客機の巨体は高波に主翼をもぎ取られ、大きく破断した胴体後部が、大量の白い気泡とケロシン(ジェット燃料)の白濁した油膜を吐き出しながら急速に沈下を始めていた。漂流するシートクッションや千切れた手荷物の間から、脱出した乗客たちの無数の悲鳴と救命胴衣のホイッスルの音が、雨煙の轟音に掻き消されている。
大型巡視船『ながら』、中型巡視船『くろせ』、そして呉・広島から急行した巡視艇群の舷側から、次々と複合型救難艇が海面へ降ろされ、全速力で散開していく。
荒波を切り裂く『ながら』の第一救難艇の上。
大輔はウェットスーツの上からBCDのバックルを強く締め直し、沈みゆく巨大な機体後部の断面を凝視していた。その隣では、歴戦のジャーマン・シェパード――佐々木班長が、漆黒のフィンを装着しながら鋭い眼光を海面へ据えている。
そしてボートの後部では、三百二十名という未曾有の乗客数に対応するため、母船のトリアージ班から急遽「船上揚収・保温補助員」として駆り出された主計科の新人・山崎が、救急バッグと毛布を抱えたまま膝をガタガタと震わせ、恐怖で完全に言葉を失っていた。
「あ……あぁ……これが……現場……?」
映画でもなければ、ニュース画面の向こうの出来事でもない。鋭敏な犬の嗅覚を麻痺させる強烈なジェット燃料の揮発臭と、破断した機体から漂う生温かい血の匂い。普段は軽薄な言葉で先輩たちの過去を消費していた若造のメッキは、圧倒的な「死の質量」を前にしてひとたまりもなく剥がれ落ちていた。
「山崎ッ!」
大輔は振り返り、恐怖で凍りつく後輩の肩を、グローブをはめた両手で強く掴んで激しく揺さぶった。
「大きく息を吸え!」
「ひっ……は、はいッ……!」
「海から目を逸らすな! お前は艇長が捌く俺たちの命綱の予備リールを両手でしっかり押さえておけ! そして、俺たちが機内から引き揚げてくる生存者を毛布で包んで、絶対に気道を確保するんだ! お前がこのボートの最後の砦だぞ、やれるな!」
曖昧な精神論ではなく、具体的で明確な「身体の役割」を与えられたことで、山崎の虚ろだった瞳にようやくわずかな理性の光が戻った。
「や、やります……! 俺が、ここで絶対に受け止めます!」
山崎が震える手で命綱のコイルを握りしめる。
大輔自身、心臓は肋骨を突き破りそうなほど早鐘を打っていた。航空機の破断断面は無数のジュラルミンがカミソリのように捲れ上がり、沈没船以上にダイバーのホースを切り裂く危険に満ちている。だが、恐怖に呑まれる暇などない。呉で『銀のイルカ』を胸に刻んだあの日から、自分はもう誰かの背中に隠れる見習いではないのだ。
まさにその時だった。
救難艇の操舵席にある超短波(VHF)無線機から、母船『ながら』の中継回線を通じて激しいノイズが鳴り響き、緊迫した通信士の声が飛び込んできた。
『第一救難艇へ! 六管運用司令センターから緊急の解析データが入る! ――えっ、神田さん!? マイクを――』
『通信士、貸せ。俺が直接叩き込む』
スピーカーの向こうで、若い通信士を静かな威圧感で制する、聞き覚えのある声が響いた。
直後、フゴッという独特の荒い鼻息とともに、腹の底を揺さぶるようなドスの利いた嗄れ声が豪雨の海面を切り裂いた。
『――「ながら」潜水班、間! 聞こえているかッ!』
大輔の垂れ耳が、弾かれたように跳ね上がった。
三月に船を降り、広島の第六管区運用司令センターへ配置転換となった元バディ――パグの神田だった。その背後からは、同じく司令センターで車椅子に乗る沼田が『神田、隔壁の図面は出したぞ!』と叫ぶ声も重なって聞こえてくる。
「神田先輩……!? 聞こえています、こちら間です!」
大輔が思わず無線機のハンドマイクを掴むと、スピーカーから神田の機関銃のような的確な指示が叩きつけられた。
『よく聞け、大輔! いま沼田が航空会社から取り寄せた機体の構造図と、客室後部からの最後の通報を照合した! 破断した胴体後部の最奥は、お椀型の「後部圧力隔壁」が気密を保って釣鐘のようになっており、天井にまだ巨大なエアポケットが残っている! そこに逃げ遅れた乗客が複数生きて閉じ込められているはずだ!』
無線の向こうで、神田が司令卓のコンソールを太い拳でドンと叩く重い音が響いた。
『だが、本船から送られてくる映像と、沼田が弾き出した同型機の浮力限界データから計算すると、隔壁の亀裂からの空気漏れで浮力が尽きるまで「残り七分」もない! 七分でその巨体は水深四十メートルの海底へ真っ逆さまに落ちる! ……いいか間、飛行機の残骸に呑まれて足がすくんでんじゃねえぞ、若僧!』
かつて退船の日に唇の動きだけで呼ばれた名前が、今度は猛烈な咆哮となって鼓膜を打った。
『お前がこの呉で、瀬戸内の激流で、俺から何を叩き込まれたか思い出せ! どんな絶望の底だろうと、泥水を啜って命を引きずり出すのが「ながら」の潜水士だろうが! 佐々木班長と一緒に、一人残らずその手で水面へ連れ帰ってこいッ!!』
大輔の背筋の芯を、落雷のような猛烈な熱が貫いた。
陸に上がってもなお、片目の光を失ってもなお、あの男はかつてのバディ・沼田と肩を並べ、マイクの向こうから自分たちの背中を見張り、最前線で共に戦っている。
大輔の瞳から、張り詰めていた恐怖と迷いが一瞬にして消え去り、獰猛な『猟犬』の光が宿った。
「――了解ッ! 七分で全員抜いてきます! 『ながら』潜水班、これより機体内部へ突入します!」
ハンドマイクを戻した大輔へ、隣に立つ佐々木班長が不敵にシェパードの犬歯を剥き出しにして頷いた。
「聞いた通りだ、間。神田と沼田が陸から一本の道を作ってくれた。……残り七分、俺の後ろに一秒たりとも遅れるな!」
「はいッ!」
二頭の潜水士は同時に、レギュレーターと一体化したマズルマスクのバックルを顎下で固く締め上げ、山崎たちが必死に握りしめる命綱を腰に繋いで、ジェット燃料の油膜と豪雨が渦巻く暗黒の安芸灘へとバックロールで身を躍らせた。




