第45話 白亜の老兵、安芸灘の海鳴り
第4部 第45話:白亜の老兵、安芸灘の海鳴り
大輔が『銀のイルカ』を胸に本船へ復帰してから二週間が過ぎた、七月上旬。
蒸し暑い梅雨雲が灰ヶ峰を覆う中、大型巡視船『ながら』の船内を、ひとつの非情な通達が駆け巡った。
『巡視船「ながら」――今年度末をもって除籍・解役決定』
就役から三十年を超え、幾度もの延命改修を重ねてきた白亜の船体は、すでに金属疲労の限界を迎えていた。機関室の配管には赤錆が浮き、荒天航行のたびに船底の肋骨が老いた骨のように軋み音を上げていた。
大輔が一年前、航海科員として初めて着任したあの日、巨大な鉄の城と見上げたこの母船は、今や最後の航海へ向かうカウントダウンを静かに刻み始めていた。
「廃船かあ……。まあ、これだけあちこちボロけりゃ仕方ないっすよね! 来年度に配備される最新鋭の巡視船、クーラーもガンガン効くし、調理室のオーブンも最新式になるらしいじゃないですか。早く新しいフネに代わってほしいっすよ!」
昼休みの潜水班控室の入り口に、冷たい麦茶のヤカンを持って顔を出した主計科の新人・山崎が、いつもの軽快な調子で笑っていた。
その言葉に、奥でウェットスーツのファスナーにロウを塗っていた佐々木班長がピクリと片耳を動かしたが、何も言わず、ただ無骨な掌でペンキの剥げかけたロッカーの鉄扉を静かに撫でた。この老朽船の鉄板一枚一枚に、神田をはじめとする歴代の海猿たちのどれだけの血と汗と涙が染み込んでいるか――まだ本当の海を知らない軽薄な新米に語る言葉は、現場のベテランにはなかった。
だが、白亜の老兵に残された時間は、穏やかな黄昏などでは決してなかった。
その日の午後二時過ぎ。
発達した梅雨末期の線状降水帯が広島湾から安芸灘一帯を覆い、滝のような集中豪雨が呉港の海面を叩きつけていた、まさにその刹那だった。
船内スピーカーが、鼓膜を裂かんばかりの非常呼集ブザーを連打した。
ジリリリリリリッ! ジリリリリリリッ!
『――総員、緊急出港配置につけ! 第六管区運用司令センターより緊急入電!』
通信士の悲鳴にも似た緊迫した怒号が、スピーカーのノイズを吹き飛ばした。
『羽田発・広島行きの大型旅客機が、悪天候による着陸やり直し中に被雷および猛烈なダウンバーストに遭遇、エンジン推力を喪失! パイロットは空港への到達を断念し、いましがた安芸灘・上黒島南東二海里の海面へ緊急着水を試みた模様! 繰り返す、大型旅客機が海面へ緊急着水し、機体が大破! 乗客乗員、三百二十名!』
「三百……二十名だと!?」
大輔は整備中だったレギュレーターを掴んだまま、弾かれたように立ち上がった。
これまでの船舶海難とは桁が違う。沿岸警備庁の歴史上でも最悪規模となる、大型航空機の海上墜落(着水大破)事案だった。
小島船長の鋭く研ぎ澄まされた号令が、全艦放送のマイクから響き渡る。
『本船「ながら」は直ちに緊急出港し、現場海域へ最大戦速で急行する! 現在、現場海域は積乱雲と猛烈な豪雨・雷のため、航空基地の救難ヘリは一切飛べない! 空からの救助が絶望的な今、頼れるのは海を行く我々巡視船艇だけだ! 広島、呉、今治の全船艇が緊急動員された、一秒でも早く現場へ到達し、海面から一人でも多くの生存者を掻き集めろ!』
「う、嘘だろ……飛行機が海に落ちた……? さ、さんびゃくにじゅうにん……?」
先ほどまで最新鋭船の話をヘラヘラと笑って語っていた山崎は、全身の金色の毛並みを総毛立たせ、豊かな垂れ耳を頭にペタリと張り付かせていた。ヤカンを持つ両手がカタカタと激しく震え、ピンク色の歯茎から完全に血の気が失せている。
映画やニュースの中の出来事だった「死」が、突然、三百二十人分の生々しい質量を持って目の前に降りかかってきたのだ。
「山崎、入り口で突っ立ってんじゃねえッ!!」
大輔はロッカーから自身のウェットスーツを引っ掴み、凍りつく山崎の肩を強く突き飛ばすようにして怒鳴りつけた。
「緊急着水で高波に叩きつけられたなら、機体は裂け、漏れ出した大量のジェット燃料で海面は有毒な油膜だらけになってる! 今すぐ主計長に伝えろ、医務室のベッドと食堂のスペースを全開放してトリアージ(負傷者選別)区画を作れ! 毛布、担架、油を洗い流すための温水……それと調理室から『中性洗剤』をありったけ後部甲板へかき集めろ! お前ら主計科の手際が一秒でも遅れたら、俺たちが海から引き揚げた人間がこの甲板の上で低体温とショックで死ぬぞ!」
「は、はいっ……! 洗剤と温水、はいッ!!」
山崎は弾かれたように悲鳴に近い返事を上げ、股の間に尻尾を巻き込んだまま、転げるように自身の持ち場である調理室へと走っていった。
ズズズズンッ……!!
船底の機関室で、老朽化した大型ディーゼル主機が限界を超える回転数まで一気に吹き上げられ、船体全体を激しく震わせる咆哮を上げた。
舫い綱が解かれ、解役を目前にした老兵『ながら』が、豪雨に煙る呉港の岸壁を蹴るようにして飛び出していく。
だが、三千トン級の巨躯を誇る『ながら』は、あの狭隘な音戸の瀬戸を通り抜けることはできない。現場である上黒島沖へ到達するには、倉橋島の南をぐるりと大回りする迂回ルートをとるしかなかった。
大輔と佐々木班長たち潜水班が揺れる控室で装備を固め、救難艇の降下準備を整える間にも、『ながら』は老いた肋骨をギシギシと鳴らしながら、全速力で安芸灘の荒波を突き進む。その一時間半の航行という容赦のないタイムロスが、乗客たちの命の砂時計を削り落としていく。
そして出港から一時間半後――。
叩きつけるような鉛色の豪雨のカーテンを抜けた『ながら』の船首前方に、ついに悪夢のような光景が広がった。
荒れ狂う灰色の海面には、鼻を刺す強烈なジェット燃料(灯油系)の悪臭とともに白濁した油膜が幾重にも帯となって広がり、大きく三つに破断して半ば水没した旅客機の白い胴体と、千切れた主翼の残骸が波間に漂っていた。そしてその周囲には、膨張した黄色い脱出用シューターと、無数の乗客たちの救命胴衣のホイッスルと点滅灯が、助けを求めて明滅している。
「……総員、救難艇降下準備! 機体本体が完全に沈む前に、周囲の生存者と機内の逃げ遅れを全員引きずり出すぞ!」
三百二十の命が引き裂かれた地獄の海へ、引退間際の老巡視船と若きハウンドが、その魂を削るようにして突入を開始した。




