第44話 軽佻な潮風
第4部 第44話:軽佻な潮風
七月上旬。梅雨明けの猛烈な日差しが、呉港の岸壁を照りつけていた。
大型巡視船「ながら」の潜水班控室で、大輔は真新しい自分のウェットスーツの採寸データを整理していた。
地獄の研修を首席で修了して胸に『銀のイルカ』を刻み、この船の「第一当直潜水士」として正式に配置されてから数日。後部甲板の方から、ガタゴトと資材を運ぶ慌ただしい足音と、ひときわよく通る軽快な話し声が聞こえてきた。
ガチャリ、と重い防水扉が無遠慮に押し開けられる。
「うわー、ここが潜水班の控室っすか! ウェットスーツとゴムの匂いがすげえ! 現場のプロって感じで、マジでテンション上がりますね!」
眩しいほどの笑顔で、ずかずかと足を踏み込んできたのは、今年の春に主計科に配属されたばかりの若犬だった。
犬種はゴールデン・レトリーバー。艶やかに手入れされた金色の長毛と、長身痩躯の端正な顔立ち。ジャパウ沿岸警備学校を卒業して配属から三か月が経ち、船の生活にもすっかり慣れて調子づいている若造――三等沿岸警備士の山崎達也だった。
両手には、調理室から持ってきた湯気を立てる大型ステンレスポットと、マグカップが握られている。
「あの、間先輩っすよね! これ、タンポポ根の代用コーヒーに、ヤギミルクと糖蜜をたっぷり入れた特製の甘い奴っす! 主計科の新人の達也です、これからの長い航海、フネの飯炊きと補給は全部俺に任せてください!」
ゴールデン特有の、パーソナルスペースを全く気にしない無自覚な距離の近さ。大型犬が尻尾を千切れんばかりに振って踏み込んでくるような、悪気のない圧力だった。
大輔は整備中だったレギュレーターから手を離し、冷ややかな目で新人の足元を見据えた。
大輔は配属二年目で、呉の地獄を潜り抜けてきた本物の潜水士であり、階級も二等沿岸警備士へと昇任している。一方の山崎は、入庁したばかりの最下層・三等沿岸警備士だ。厳格な階級・規律の組織において、控室への無断侵入はもとより、先任者に対するその馴れ馴れしい口の利き方は本来あり得ないものだった。
「……山崎。ノックの励行、そして入室時の階級・氏名の申告は、学校で教わらなかったのか」
「え? あ、すいません! でもフネの中って、ずっと同じ釜の飯を食う仲間じゃないですか。ガチガチの上下関係より、フラットに仲良くやった方がチームワークも出るかなーって! 間先輩、年齢も近くて話しやすそうだし!」
屈託のない笑顔で、悪びれる様子すら微塵もない。
その人当たりの良さと天性の陽気さは、閉塞感の漂いがちな長期間の航海において、確かに一服の清涼剤になり得る才能ではあった。
だが――大輔の胸の奥には、拭い去れない冷たい違和感が澱のように沈んでいた。
その違和感の正体が明確になったのは、数日後の昼食時だった。
食堂のテーブルで、名物の金曜カレーを頬張りながら、達也がスプーンを片手に身を乗り出してきたときのことだ。
「そういえば間先輩、冬のあきつ丸のシージャック事件、マジでヤバかったらしいっすね! 先輩の直属の先輩のパグの人、首を撃たれたんでしょ? 映画のワンシーンみたいで超スリリングじゃないですか。主計の現場任務って証拠保全のビデオ記録(採証)もあるらしいんで、俺もいつか甲板から機関砲をバンバン撃つとこカメラで撮りたかったなー!」
カチャリ、と大輔のスプーンが皿の縁で硬い音を立てて止まった。
達也の顔には、悪意など一片もない。ただ純粋に、刺激的な冒険譚を面白がる子どものような好奇心の光が宿っているだけだった。
だからこそ――大輔の背筋に、底知れぬ怒りと寒気が走った。
神田が首元を貫かれ、泡立つ血の海に倒れ伏したときの、生温かい鉄と硝煙の臭い。
網膜症で視界を奪われながら、命懸けで自分にすべてを叩き込んで去っていったバディの背中。
海賊たちを前に「俺の手は人殺しを助けるためには動かない」と叫び、己の未熟さと正義の残酷さに引き裂かれた、あの夜の絶望の記憶。
ファインダー越しに覗き込むものが、血と泥に塗れた本物の断末魔であることも知らず、この男の口にかかれば、すべてが軽薄な「スリリングな武勇伝」にすり替えられてしまう。
「……山崎」
大輔はスプーンを置き、低く静かな声で、後輩の目を真っ直ぐに射抜いた。
怒鳴ったわけではない。だが、水深三十メートルの闇を潜り抜け、人間の死と生を見つめてきた者だけが持つ、重く冷たい水圧のような殺気。それが、陽気なゴールデン・レトリーバーの笑みを本能的に凍りつかせた。
「海は、映画じゃない。人が無惨に死ぬ場所だ。二度と、その軽薄な口で語るな」
「え……? あ、あはは、間先輩、マジメっすね……! いや、リスペクトっすよ、もちろん!」
達也の金色の耳が微かに引き攣り、一瞬だけ目を泳がせたが、すぐに気まずさを誤魔化すように肩をすくめ、何事もなかったかのように隣の甲板員へ別の話題を振って笑い声を上げた。
反省も、本物の恐怖に対する畏怖もない。
ただ波の表面を滑るアメンボのように、深く潜ることなく、あらゆる重力を軽やかに受け流していく浅薄さ。
(こいつは、まだ本当の海を知らない)
大輔は冷めかけたカレーを見つめながら、拳を固く握りしめた。
だが、同時に苦い自己嫌悪が胸を刺す。一年前、舞鶴の学校を出て初めて「ながら」にやってきた自分も、形は違えど、目の前の海を前にして同じように浅はかな甘えを抱えていたのではなかったか。
神田という巨大な防波堤は、もういない。これからは自分が、この軽薄な新人に背中を見せ、理不尽な現場の重圧と「命の重み」を背負い抜かなければならないのだ。
初夏の強い日差しが照らす大型巡視船「ながら」の船内で、大輔の耳に届く新人の軽快な笑い声は、近づきつつある不穏な時化の予兆のように、不気味に響き続けていた。




