第43話 銀の双眸、海へ還る猟犬
第3部 第43話:銀の双眸、海へ還る猟犬
六月下旬。梅雨の晴れ間、灰ヶ峰から吹き降ろす初夏の風が、呉港の青い海面を眩しく波立たせていた。
ジャパウ沿岸警備大学校、潜水技術研修所の大講堂。
磨き上げられた床の上に、純白の夏用礼服――第二種制服に身を包んだ若き警備官たちが、直立不動で並んでいた。
三十名で始まった、地獄の二か月間。
五千メートルの着衣並泳、暗黒の狭隘区画、奈佐美瀬戸の実海難、そして水底の最終試験。海の物理法則と極限の恐怖によって容赦なく削ぎ落とされ、いまこの修了式の場に立っているのは――わずか八名(四組)だった。
第六管区の大輔と、第三管区の俊平。第九管区の進藤と、第八管区の松沼。第二管区の宮武と、第三管区の三輪。第一管区の佐藤と、第四管区の小林。
生き残った八頭の顔つきから、入校時の青さや慢心は完全に消え失せていた。潮風に灼かれ、四肢には消えない無数の傷跡が刻まれている。その瞳の奥には、水底の暗黒を覗き込み、バディと共に這い上がってきた者だけが宿す、静謐で鋭利な光が宿っていた。
壇上に立った主任教官・榊原一等沿岸警備正が、助教の捧げ持つ黒塗りのビロード箱から、鈍い銀色に輝く金属塊を指先でつまみ上げた。
荒波の間を跳ねる二頭のイルカを象った、潜水士徽章――『銀のイルカ』。
カツン、カツンと、榊原の革靴が列の先頭、今期の『首席修了者』として立つ大輔の前へと歩み寄る。
「――間大輔」
「はいッ!」
大輔の背筋を、突き抜けるような緊張が走った。
榊原の大きな手が伸び、大輔の白い第二種制服の左胸、ポケットの上にあらかじめ開けられたアイレット(菊穴)へと徽章のピンを差し込み、裏の留め金を固定した。
カチン、と小さな金属音が響く。
ただそれだけの動作だった。だが、白い生地をわずかに引き下げる、ずっしりとした冷たい銀の質量が、大輔の心臓に直接のしかかってきた。
温水プールの底で教え子の命を取り落としたあの日から、這いつくばるようにして泥水を啜り続けてきた。舞鶴での日々も、神田の血を浴びた冬の海も、そのすべての苦悶と誓いが、この小さな銀の塊に凝縮されていた。
榊原の剃刀のような眼光が、至近距離で大輔を真っ直ぐに射抜いた。
「間。……己の小ささを知り、それでも決してバディの命綱から手を離さなかった執念、確かに見届けたぞ」
教官の低く太い声が、大輔の鼓膜を震わせた。
「初日に言った通り、現場の海は貴様らに五パーセントの生と、九十五パーセントの冷たい死しか突きつけん。これから先、貴様らは何十もの動かぬ骸を暗黒の底から引き揚げ、己の無力さにマズルを歪めることになるだろう。……だがな」
榊原の白手袋の掌が、大輔の左胸に輝く『銀のイルカ』の上から、ドンと強く胸板を叩いた。
「どれほど絶望の底に沈もうと、その胸のイルカに恥じる真似だけはするな。……生きて還れ。バディと共に、必ず生きて陸へ上がれ。それが俺からの最後の命令だ」
「……了解ッ!!」
大輔の視界が、熱く滲んだ。
続いて隣の俊平の胸にも、松沼の胸にも、短い脚を誇り高く踏ん張った進藤の胸にも、白き制服に映える『銀のイルカ』が次々と刻まれていく。
「――潜水技術課程・第三十二期、全課程の修業を了す! 解散!」
講堂の外に出ると、梅雨明けを思わせる眩い初夏の日差しが照りつけていた。
大型のダッフルバッグを肩に担ぎ、正門へと向かう八名の前に、並木道の陰から二つの影が歩み出てきた。
目の周りにまだマスクスクイーズの赤黒い出血痕を残しながらも、作業服の背筋を真っ直ぐに伸ばしたフレンチブルドッグの須藤。そして、その傍らで赤く腫らした目を擦りながら立つ、超大型犬の鳥山だった。
「……須藤、鳥山!」
大輔たちが駆け寄ると、須藤はシワの寄った平たい顔を崩し、白い犬歯を見せてニッと笑った。
「ご卒業おめでとうございます、皆さん! ……ちくしょう、白い制服にすっげえ似合ってますよ、そのイルカ」
気道閉塞と挿管の炎症がまだ残っているのか、須藤の声はガラガラに嗄れていた。
「須藤……喉の具合は、もう大丈夫なのか」
大輔の問いに、須藤は自分の太い首をポンと叩いてみせた。
「軟口蓋の腫れも引いて、医官からは日常生活も訓練も問題ねえって言われました。……今回は俺の未熟さで鳥山さんの足まで引っ張っちまいましたが、俺は絶対に諦めません。次の秋の課程で再挑戦します。今度はあのパグの神田さんみたいに、この喉と耳管の筋肉を限界まで鍛え直して、絶対にそのバッジを獲ってみせますから!」
「私もよ」
隣に立つセントバーナードの鳥山が、丸太のような両腕で須藤の身体をガッチリと抱き寄せ、自らの巨大なマズルを須藤の頭にグリグリと力強く押し付けた。その双眸には、かつての焦りも卑屈さも欠片も残っていなかった。
「私も秋にもう一度ここへ戻ってくる。今度は最初から、須藤の耳抜きのペースに完璧に合わせて、二人で水底からダミーを上げてみせるわ。……だから、少しだけ先に現場の海で待ってなさいよ、間、神崎!」
「ああ。お前たちがイルカを着けて海に出てくるのを、最前線で待ってるぞ!」
大輔と俊平が拳を突き出し、須藤と鳥山の太い拳がそこに強く重なった。
十人全員でこの門を出ることはできなかった。だが、この呉のプールで結ばれた鉄の鎖は、たとえ一度切符を逃そうとも、全国の海へ散らばろうとも、決して千切れることはない。
正門の前で、八名の若き潜水士たちは円陣を組むように足を止めた。
流氷の待つ第一管区・小樽へ戻る佐藤。新潟の荒波へ向かう進藤。そして、首都・東京湾の第三管区・横浜へと帰る俊平。
「……また別々の海だな、大輔」
白い制帽の庇の下で、俊平が静かに言った。
「ああ。だが、もう寂しくなんかないさ。お前も同じ『銀のイルカ』を胸に着けて、同じ日本の海に潜ってるんだからな」
「当然だ。次に会う時は、羽田の『特殊救難隊』の選抜試験だぞ。……瀬戸内の潮流に呑まれて、僕の後ろから遅れるなよ、首席殿」
「そっちこそ、東京湾のヘドロで鼻を詰まらせるなよ、バディ」
二頭のビーグルは不敵に笑い合い、ビシッと音を立てて最敬礼を交わすと、一度も振り返ることなくそれぞれの海へと背を向けた。
*
その日の夕刻。
大輔は、見慣れた呉港の岸壁に立っていた。
目の前には、茜色の夕日に染まる救難強化型巡視船『ながら』の白亜の船体が聳えている。船首に刻まれた青いコンパスマークが、初夏の生暖かい潮風に揺れていた。
大輔はズボンのポケットに手を入れた。指先が、冷たい金属の感触を捉える。あの日、船を降りる神田から託された、傷だらけのダイビング用カラビナだ。大輔は海難現場で命綱を繋ぐその無骨な鉄の輪を、一度だけ強く握りしめてから、タラップを一気に駆け上がった。
船尾の庁旗に一礼して後部甲板に立つと、そこには夏用の半袖作業服に身を包んだ佐々木班長が、腕を組んで仁王立ちで待ち構えていた。
「……戻ったか、間」
「はいッ!」
大輔はダッフルバッグを甲板に下ろし、直立不動の姿勢を取ると、右手を高く掲げて白い制帽の縁にピタリと揃えた。
現場での下積みを経て、この春に二等沿岸警備士へと昇任した純白の第二種制服。その左胸に刻まれた真新しい『銀のイルカ』が、瀬戸内の夕陽を浴びて眩いばかりにきらめく。
「二等沿岸警備士・間大輔! 第三十二期潜水技術課程を首席にて修了し、本日付で『ながら』第一潜水班員として本船へ帰着いたしました!」
佐々木班長は険しい顔のまま、大輔の胸元に輝く徽章と、精悍に引き締まったビーグルの面構えをじっと見つめた。
そして――ふっとマズルを緩め、太い腕を伸ばして大輔の肩をガシリと力強く抱き寄せた。
「よく約束通り、首席で獲ってきたな。……さっき六管本部の運用司令センターから定時通信が入った時、マイクの向こうで神田の野郎が『フゴッ』て鼻を鳴らして笑ってやがったぞ」
「班長……!」
「だが、感傷に浸ってる暇は一秒もないぞ、間。神田が抜けた穴はデカい。明日の出港から、貴様はもう補助員の見習いじゃない。本船の命運を背負う『第一当直潜水士』だ。いきなり来島海峡の夜間の潮に放り込むから、覚悟しておけ」
「――了解ッ!!」
大輔は腹の底から返事を響かせ、茜色に染まる故郷・呉の海を見下ろした。
神田という巨大な防波堤は、もうこの船にはいない。これからは自分自身が、誰かの命綱となり、誰かの『帰るべき場所』を守り抜く防波堤にならなければならない。
底の抜けたプールで震えていた無資格の落ちこぼれから、暗い海を背負う本物の潜水士へ。
若きハウンドの胸に宿った二頭の銀のイルカが、新たなる荒波の予感を前に、夕闇の迫る瀬戸内の海で力強く輝き続けていた。
(第3部・完)




