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海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第3部

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第42話 塞がれた気門、暗黒の抱擁

第3部 第42話:塞がれた気門、暗黒の抱擁

 大輔と俊平が第一区画から生還した直後、水底の完全遮光サーキットからは、並行して突入していた他のバディたちも次々と水面を割って浮上してきた。

 第二区画から上がってきたのは、進藤(コーギー)と松沼(ボクサー)のペアだった。

 進藤は極端に短い脚の推進力不足を補うため、松沼のシリンダー基部に片手を添えて二頭が一本の魚のように連動する直列泳法を展開したのだ。松沼の剛腕が絡みつくロープの罠をこじ開け、進藤の鋭敏なトリム(姿勢)調整が水底の泥を巻き上げることなく最短ルートを拓く。タイムは十二分三十秒、見事なクリアだった。

 続く第三区画の宮武(ボーダーコリー)と三輪(ラブラドール)は、事前の打ち合わせ通りに鉄枠の溶接の継ぎ目を指先で正確にカウントする空間把握で迷宮を突破し、第四区画の佐藤(ラブラドール)と小林(シェパード)も、エアカットのトラップを交互呼吸で乗り切って制限時間内にダミーを水面へ引き揚げた。

 四組八名がプールサイドへ這い上がり、荒い息を吐きながら水面を見つめる。

 だが――最後の第五区画に沈んだ須藤(フレンチブルドッグ)と鳥山(セントバーナード)のペアだけが、十三分を過ぎても浮上してこなかった。

 その頃、水深五メートルの第五区画の底では、最悪の事態が起きていた。

 第一層を無事に抜け、第三層の最奥で七十キロのダミー人形を確保した二人が、脱出のために第二層の狭いパイプクローラーを逆走していた時だった。

 先行して手探りで進んでいた須藤の頭部が、暗闇の中で突き出ていた鉄パイプの継手にコツンと接触した。

 わずかな衝撃だった。だが、鼻先が突出している一般的な犬種向けに作られた筒状の『完全遮光官給マスク』を、絶壁の顔面に無理やりストラップで締め上げていた須藤にとって、その数ミリのズレは致命傷となった。

 鼻先に余っていた巨大なデッドスペースの空気が押し出され、同時に浮いた顎下のシリコンスカートの隙間から、一・五気圧の水圧に押された冷たいプール水が、潰れた鼻腔の奥へと一気に雪崩れ込んだのだ。

(――ッ!?)

 鼻粘膜と上咽頭を焼く激しい刺激。

 不意を突かれてむせ返った須藤が、ゴボッと口から肺の空気を吐き出し、反射的にレギュレーターから一気に空気を吸い込もうと強く息を引いた瞬間――短頭種の構造的な悪夢が牙を剥いた。

 急激な吸気の陰圧によって、手術で切り詰めていたはずの喉の奥の軟口蓋と腫れた粘膜が気管の入り口へズルリと吸い込まれ、さらに鼻から入った冷水の刺激で声帯が固く閉じる『喉頭痙攣』を併発したのだ。

 吐くことはできても、吸おうとするたびに軟口蓋が逆止弁のように気門に張り付き、肺へ空気が一ミリも入ってこない。

 水深五メートルの完全な暗黒の中で、肺胞が真空の檻と化す。

 ゴボッ、フゴッ、ギィッ……!

 須藤の喉の奥から、引きつるような窒息音とともにわずかな残気の泡が漏れ出た。

 視界ゼロの恐怖と、どれだけ口を開けても空気が入ってこない絶対の窒息感。須藤の理性が吹き飛び、両腕が狂乱したように水を掻き毟り、口元のレギュレーターを自ら掻き落とそうと暴れ始めた。

 すぐ後方でダミーを抱えていた鳥山が、バディラインの異常な痙攣を察知して即座に距離を詰めた。

(須藤……!?)

 暗闇の中で手探りで触れた相棒の小さな身体は、エビのように弓なりに反り返り、激しい筋硬直を起こしていた。

 鳥山は須藤の首元を引き寄せ、エアカットだと判断して自分の予備呼吸器を口へ押し込もうとした。だが、須藤の顎は痙攣でガチガチに食いしばられ、喉元を掻きむしって暴れるばかりで、空気をまったく吸い込めていない。

(エア切れじゃない……! 鼻に水が入って、気道が完全に閉塞してる! このままじゃ水底で窒息死する!)

 鳥山の脳裏に、入校三日目のプールで榊原教官から突きつけられた冷酷な言葉が雷のように蘇った。

 ――『貴様が今、底から引き揚げてきたのは、ただのウレタンの塊だ。そしてその代償として、バディの須藤を水底で見殺しにして殺害した』

 制限時間まで、あと二分あまり。

 今この足元にある七十キロのダミー人形を置き去りにすれば、その瞬間に試験は「失格」となり、二か月の血と汗のすべてが水泡に帰す。

 だが、暗闇の中の鳥山に、迷いは一秒たりともなかった。

 鳥山は抱えていたダミー人形から、迷わず手を離した。

 ゴトン、と鉛の人形が水底のタイルへ落ちる。

 同時に鳥山は、丸太のように太い両腕を回し、パニックで暴れ狂う須藤の小さな身体を背後から力づくで抱きすくめた。

(須藤、絶対に離さない……! 今度は絶対に、あんたを一人にしない!)

 気道が塞がったまま水面へ浮上すれば、肺の中で膨張した空気の逃げ場がなくなり、肺胞がズタズタに破裂して水面で血を噴いて即死する。

 鳥山は須藤を左腕で胸元に固くロックすると、右腕を須藤のみぞおちに回し、セントバーナードの規格外の怪力で、須藤の胸郭ごと背後から強烈に圧迫し続けた。

 気道が塞がっていても、外から強引に肺を押し潰して空気を絞り出し続ければ、肺の破裂(エアエンボリズム)だけは防げる。

 鳥山は須藤の胸を絞り上げながら水底のタイルを蹴り飛ばし、出口の開口部まで一気に水平に泳ぎ抜ける。頭上の鉄枠が消えた瞬間、鳥山は自身のBCDに空気を送り込み、須藤の肺から残気を吐き出させながら、水面へと一直線に緊急浮上した。

 ドバシャァァンッ!!

 屋外プールの水面を激しく割り、鳥山が須藤を抱きかかえたまま跳ね上がった。

「衛生員ッ!! 須藤が気道閉塞を起こしています、早く酸素と吸引を!!」

 遮光マスクを片手で剥ぎ取った鳥山の悲痛な絶叫が、プールサイドに木霊した。

 ただならぬ事態に、待機していた助教と医療班が即座に飛び込み、酸素欠乏で歯茎から完全に血の気を失い、舌をどす黒く変色させて意識を失いかけた須藤をプールサイドへと引きずり上げる。

「喉頭痙攣と軟口蓋の陥入だ! 下顎を挙上してエアウェイ(咽頭チューブ)を入れろ! 高濃度酸素バッグ回せ!」

 医療班の迅速な気道確保によって『ヒューッ、ガハッ!』と須藤の肺に酸素が流れ込み、荒い自発呼吸が再開する。

 その慌ただしい救命処置のすぐ横で、プールサイドへ這い上がった鳥山は、濡れたコンクリートに両手をつき、巨大な肩を激しく上下させていた。

 カツン、カツン。

 評価ボードを持った榊原主任教官が、無言で鳥山の前へと歩み寄ってきた。

「……水底での要救助者(ダミー)の遺棄。ならびに、規定を超えた緊急浮上」

 榊原の剃刀のような低い声が、静まり返ったプールサイドに落ちた。

「第七管区・鳥山かずさ、第十一管区・須藤健太。……両名、総合実技試験『失格』と判定する」

 残酷な、しかし規則通りで揺るぎない宣告だった。

 鳥山は顔を上げなかった。ただ、酸素マスクを着けられて医務室へと運ばれていく須藤のストレッチャーを見つめ、「よかった……」と掠れた声で呟き、大粒の涙をコンクリートの床へとぽろぽろと零した。

 だが、その震える大きな背中は、かつて三日目のプールで見せた惨めな敗北者の姿ではなかった。

 自分の合格や名誉をすべて投げ捨ててでも、相棒の命を最優先し、正しい救命手順で光の下へ連れ帰った、紛れもない「本物の救難者」の背中だった。

 その様子を静かに見下ろしていた榊原は、評価ボードを閉じたその胸の奥で、ほんのわずかに目を細めていた。試験の規程は規程として曲げられない。だが、気道閉塞というパニックの中で、相手の胸郭を絞り上げて肺破裂を防ぐという極限の冷静な判断を下した鳥山の価値を、百人中九十五人の死を見てきたこの鬼教官は誰よりも知っていた。

 プールサイドに並ぶ大輔と俊平、そして生き残った仲間たちは、奥歯を強く噛み締めながら、運ばれていく須藤と、涙を拭って立ち上がった鳥山の広大な背中へ、無言の敬意を込めて背筋を伸ばしていた。

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