第41話 盲目の鉄檻、分かち合う呼吸
第3部 第41話:盲目の鉄檻、分かち合う呼吸
カチリ、と黒く塗りつぶされた完全遮光マスクのバックルが、後頭部で固く締め上げられた。
その瞬間、初夏の光は消え失せ、視界が完全な漆黒へと飲み込まれた。
目を開けても、閉じても、広がるのは底知れぬ暗黒だけ。頼れるのは鼓膜を打つ自らの呼吸音と、左手で握りしめた一本の短い命綱の張力だけだった。
「――総員、各区画へ突入開始ッ!」
水面を突き破る号令とともに、大輔と俊平は水深五メートルのプール底へと身を沈めた。他の四組のバディもまた、それぞれの障害区画へと同時に潜行を開始する。
水底へ着底した大輔の指先が、冷たい鋼鉄の格子に触れた。水底に沈められた三層構造の狭隘障害枠――沈没船の破断区画を模した鉄の迷路だ。
先頭を進むのは俊平。大輔はその腰のハーネスを左手で軽くホールドし、右手の掌で周囲の鉄枠と頭上のクリアランスを確かめながら、ミリ単位の安全確認を繰り返して追従する。
第一層、無数に張り巡らされた廃棄ロープの罠。
俊平の肩とシリンダーにたるんだロープが絡みついた瞬間、大輔は停止のサインとしてバディラインを二回引いた。俊平がピタリと静止し、大輔が手探りで右胸のダイビングナイフを抜き、自分の指を添えて刃先をガードしながら繊維を一瞬で断ち切る。阿吽の呼吸。舞鶴時代から培ってきた連携が、暗黒の中で極限まで研ぎ澄まされていく。
狭い土管状の第二層を腹這いで抜け、最奥の第三層へ到達した。時間はすでに十一分を経過していた。
先行する俊平の指先が、水底に冷たく沈む七十キロの鉛入りダミー人形の頭部を捉える。
(発見した……! あとはこいつを抱えて脱出ハッチから出るだけだ)
大輔がそう確信した、まさにその刹那だった。
暗闇の水流が不自然に揺れ、前方の俊平の背中の方で、キュッ、と金属のバルブが締め上げられる硬い感触が伝わってきた。
直後、俊平の身体がビクンと激しく硬直した。
――強制エアカット(給気停止)のトラップだ。
第三層の暗がりに潜んでいた黒づくめの助教が、背後から俊平のシリンダー元弁を無慈悲に全閉にしたのだ。それだけではない。俊平が自分で背中に手を回してバルブを開け直そうとするのを阻むように、助教が俊平のタンクバンドを掴んで下へと強く揺さぶりをかけた。
水深五メートルの漆黒の中、息を吸おうとした俊平のレギュレーターがピタリと張り付き、空気が一滴も出てこなくなる。肺胞が内側から真空に潰されるような、絶対の窒息の恐怖と、上下感覚が狂う空間識失調の連鎖。
視界ゼロの暗闇で呼吸と自由を同時に奪われ、俊平の口元から「グ、ウッ……!」と苦悶の気泡が漏れ、身体が反射的に水面を求めて跳ね上がろうとした。
(させるかッ!!)
大輔はバディラインの異常な張力を感じたコンマ五秒後には、俊平の真横へと滑り込み、浮き上がりかけた俊平のハーネスを左腕で力づくで水底へ引き留めていた。
視界ゼロの暗黒。だが、大輔の脳裏には、かつて呉のプールで神田から叩き込まれた技術と怒号が、鮮明な光となって響き渡っていた。
パニックになりかけたバディを救う唯一の道は、一秒でも早く確実な『空気』と『接地感』を与えることだ。
大輔は激しく震える俊平の胸元を掴み、空気の出なくなったメインレギュレーターを俊平の口から外させると、自身の右胸に固定していた黄色いオクトパス(予備呼吸器)を手探りで引き抜き、俊平の口元へと正確に押し当てた。
同時に、パージボタンを親指で軽く一瞬だけ押し込み、内部の海水をプシュッと外へ排水させる。
俊平の牙がオクトパスをガッチリと噛み締め、送られてきた新鮮な空気を猛烈な勢いで肺へと吸い込んだ。
大輔は助教の手を振り払うように俊平の身体を強く抱き寄せ、互いの心臓の鼓動が伝わるほど胸と胸を密着させた。そして、左手の掌で俊平の背中を「トン、トン、トン」と一定のリズムでゆっくりと叩き続ける。
(落ち着け、俊平。俺がここにいる。俺のエアを吸え)
言葉は出ない。だが、ウェットスーツ越しに伝わるバディの確かな体温と、背中を打つ揺るぎないリズムが、窒息しかけた俊平の脳からパニックの霧を急速に払い除けていった。
数秒後、俊平の左手があの手袋越しに大輔の腕を二回叩いた。――『落ち着いた、大丈夫だ』のサイン。
二頭で一つのシリンダーの空気を分け合う、極限のオクトパス・ブリージング。
ここから浮上まで、大輔の一本のシリンダーだけで二人分の呼吸と、七十キロのダミーを揚収するためのBCDの給気(三人分の浮力)を賄わなければならない。残圧はすでに心許なかった。
残された一つのファーストステージに過度な負荷をかけず、かつ残圧の消費を最小限に抑えるため、二人は胸を合わせたまま互いの胸郭の膨らみを感じ取り、大輔が吸って吐く間に俊平が吸うという、神田直伝の『極小・交互ストローク』へと呼吸を完全にシンクロさせた。
そのまま二人は手探りで水底の七十キロのダミー人形を挟み込んだ。
大輔が右腕でダミーの脇から顎をホールドして気道を確保し、俊平が右腕でダミーの反対側を抱え、左手で大輔のハーネスと命綱を固く握りしめる。
頭上は鉄格子の天井だ。ここではまだ浮上できない。二人は一体となったまま水底を蹴り、第三層の側面にある脱出用の開口部まで、障害物を掻き分けながら水平に泳ぎ抜けた。
頭上の鉄枠がなくなったことを右手の感覚で確かめた瞬間、大輔は左手を伸ばして自身のインフレーターを小刻みに操作し、三体分の重さを相殺する絶妙な浮力を生み出した。
制限時間十五分、残り一分――。
急浮上による肺破裂と減圧症を防ぐため、二人は肺から細く気泡を吐き続け、浮上速度を毎分十数メートル(秒速三十センチ以下)に厳密にコントロールしながら、水底の暗黒を蹴ってゆっくりと上昇していった。
ザバァァァンッ!!
水面を突き破り、二つの黒い頭部と一体のダミー人形が、六月の眩い陽光の中へと飛び出した。
「要救助者、確保……! 揚収、完了ッ!」
遮光マスクを額へ跳ね上げた大輔が、激しく肩を上下させながら絶叫した。
タイムは十四分四十五秒。制限時間十五分まで、わずか十五秒を残しての生還だった。
プールサイドに立つ榊原教官が、防水ストップウォッチをパチンと止めた。
待機していた助教たちがダミーを引き揚げ、大輔と俊平もまた、鉛のように重くなった身体を引き摺るようにしてプールサイドへと這い上がった。二頭ともタイルの上に片膝をつき、荒い息を吐き出している。周囲を見れば、他の区画に挑んでいた四組もすでに水から上がっていたが、その多くは肩を落とし、悔しそうにマズルを引き結んでいた。
カツン、カツンと、榊原の編み上げ靴が二頭の目の前で止まった。
「タイム、十四分四十五秒。……完遂した組の中では、最も遅いギリギリの通過タイムだ」
冷え切った声。大輔は息を呑み、水滴の滴る顔を上げた。
だが、見上げた榊原の剃刀のような双眸の奥には、これまで一度も見せなかった微かな、しかし確かな熱が宿っていた。
「他の組は、タイムオーバーを恐れて焦るあまり、水底での強制エアカットのトラップで呼吸を乱し、ダミーの気道確保を疎かにするか、浮上速度をオーバーして減点された。……だが、神崎がエアを断たれて妨害を受けた瞬間、間はコンマ五秒で自らのオクトパスを正確に分け与え、バディの動揺を体温とリズムで完全に鎮静化させた」
榊原は手元の評価ボードを閉じ、二人を見下ろした。
「視界ゼロの暗黒下で、一本のシリンダーで二人分の呼吸と三人分の浮力を賄いながら、七十キロの要救助者を一度も取り落とすことなく、浮上速度違反もゼロ。……時間はかかった。だが、残圧が尽きかける中でパニックにならず、生きて還るための安全管理を最後の最後まで最優先し、水底でバディと要救助者の命綱を完璧に守り抜いたのは、貴様ら二頭だけだ。……見事だったぞ、間、神崎」
鬼教官の大きな掌が伸び、大輔と俊平の濡れた肩を、一度だけ無骨にドンと叩いた。
その瞬間、大輔の喉の奥から、堪えきれない熱い塊がせり上がってきた。
隣では、自分のエアカットのピンチを救われた俊平が、悔しさと感謝の入り交じった顔でマズルを震わせながら、大輔の右手を強く握り返している。
瀬戸内の荒波で神田から叩き込まれた「生き残るためのすべて」と、舞鶴から積み上げてきたバディの絆が、いま、この呉の水底で完全に一つに結実した瞬間だった。




