第40話 十頭の残火、最終スクリーニング
第3部 第40話:十頭の残火、最終スクリーニング
六月上旬。初夏の眩い陽光が照りつける呉港の岸壁とは対照的に、潜水技術研修所の男子宿舎には、重く冷え切った沈黙が澱のように沈んでいた。
奈佐美瀬戸での実海難から三週間。
昼夜を分かたぬ激流耐流訓練、水深三十メートルでの海洋減圧実習、そして暗闇の沈船を模した迷宮区画での脱出訓練。
自然の海と教官たちが容赦なく振るった試練の前に、初日の遠泳を生き延びた二十名の精鋭たちも、一人、また一人と肉体と精神をへし折られていった。
その大半は、連日の水圧と疲労、そしていつパニックを起こすか分からない恐怖に心を食い破られた自主退校だった。だが中には、無理を押して水深二十メートルでの耳抜き不良で鼓膜を破った者、パニックによる息止め急浮上で肺過膨張症候群の寸前までいきドクターストップを受けた者、そして三十メートルの海洋実習で減圧停止プロファイルに失敗し、高気圧酸素治療室(再圧チャンバー)送りになった者もいた。
毎朝の点呼のたびに消えていく番号。
かつて男たちの熱気と鼾で満ちていた大部屋には、いまや主を失って白いシーツだけが剥ぎ取られた、空虚なスチールベッドがずらりと並んでいた。
「……ついに半分、か」
大輔は作業服の袖をまくり、己の両腕に刻まれた無数の青あざと牡蠣殻の擦り傷を見つめた。
宿舎を出てプール棟脇の器材整備室へ集まると、そこには二か月の地獄を生き残った『最後の十名(五組)』が顔を揃えていた。
長椅子の端では、俊平が肩を回しながら、今日使用するダイビングナイフの刃先を油布で静かに拭っている。
そして部屋の隅には、あの凸凹バディたちの姿もあった。
第十一管区の須藤が、充血した両眼を瞬かせながら、耳の付け根から顎関節にかけての筋肉を念入りにマッサージして耳管の通りを確かめていた。そのすぐ後ろには、女性専用宿舎から合流した超大型犬の鳥山が寄り添い、須藤の張った背中の僧帽筋を大きな掌で力強く揉みほぐしている。
短頭種の呼吸苦と耳抜きの遅れを、鳥山が自らの怪力と徹底したアイコンタクトでカバーし、逆に鳥山の巨体ゆえのエア消費の激しさを、須藤の冷静で細やかな残圧管理が救ってきた。昨日の夜間海洋訓練でも、二人は一度も一メートルの距離を離すことなく、制限時間ギリギリで突破してきたのだ。
その向こうでは、極端な短足ゆえの激しい筋肉痛に耐えながら、歯を食いしばって足首にテーピングを巻く第九管区の進藤と、無言でその足を支えてやる第八管区の松沼がいる。
そして、第二管区の宮武と第三管区の三輪、第一管区の佐藤と第四管区の小林。
生き残った十頭の瞳には、入校初日にあったエリート意識や功名心は欠片も残っていなかった。ただ、海という底知れぬ暴力に対する深い畏怖と、それでもバディと共に『銀のイルカ』を掴み取るという狂気じみた執念だけが、青黒く研ぎ澄まされていた。
午前八時。屋外深水プール。
カツン、カツンと、濡れたコンクリートを踏みしめる乾いた革靴の足音が響いた。
現れた主任教官・榊原一等沿岸警備正の眼光は、初日と同じく剃刀のように冷え切っていた。
「総員、不動の姿勢」
十名の靴底が、寸分の狂いもなく揃う。
榊原は十名の精悍に削ぎ落とされた顔を、端から一人ずつ見据えた。
「十名。……よくぞここまで肉体を保ち、己の恐怖をねじ伏せてきた。貴様らがこの二か月間で流した血と汗を、俺は否定しない」
教官の言葉に、候補生たちの胸が一瞬だけ高鳴りかけた。だが、続く言葉がそれを氷点下へと叩き落とした。
「だが、現場の海は貴様らの努力に一円の価値も認めん。結果を出せぬ者はただの死体だ。……本日をもって、すべての通常訓練を終了する。これより、本課程の最終関門――『総合実技認定試験』を開始する」
榊原が手元の評価ボードを掲げ、水深五メートルのプール底を指差した。
そこには、鉄パイプと金網、無数の廃棄漁網や太いロープが複雑に絡み合った、巨大な三層構造の『模擬沈船・狭隘障害区画』が沈められていた。
「種目は、完全閉鎖・複合実戦サーキットだ。バディで空気呼吸器を着装し、これより支給する『完全遮光マスク』――すなわち視界ゼロの漆黒の状態で、水底の三層障害区画へ突入する」
十名の喉が、同時にゴクリと鳴った。
視界を完全に奪われた水中では、自分が上を向いているのか下を向いているのかすら分からなくなる強烈な空間識失調に襲われる。しかも、水底の障害区画の中には、黒づくめの助教たちが「不測の事態(ハラスメント要員)」として待ち構えていた。暗闇の中で絡みつく網の罠に加え、背後から突然シリンダーの元弁を閉鎖される『強制エアカット(給気停止)』や、予備呼吸器の封鎖、バディを引き剥がす物理的妨害が容赦なく襲いかかるのだ。
「水中でいかなる機器トラブルや不測の事態に陥ろうとも、パニックを起こして息を止めたまま水面へ逃げるな。息を止めて急浮上すれば、水深五メートルの圧力差でも肺胞が破裂して死ぬぞ」
榊原は冷酷に言い放った。
「貴様らは視界ゼロの暗黒の中、掌の感覚とバディの気配だけを頼りにすべてのトラブルを処理し、最奥に沈む七十キロの要救助者を捜索・確保して、規定の浮上速度で水面へ脱出しなければならない。制限時間は十五分。一度でもパニックを起こして遮光マスクを剥ぎ取った者、バディを見失った者、浮上速度違反を犯した者は、その瞬間に即時失格とする。……ここで落ちれば、二か月のすべてを無駄骨として元のフネへ送り返す」
教官の硝子のような双眸が、最前列の大輔と俊平を貫いた。
「胸に輝く『銀のイルカ』は、ここまで生き残った者に配られる参加賞ではない。水底の完全な暗黒と窒息の恐怖の中で、己の命よりもバディと要救助者の命を優先できる本物の化け物にのみ許される刻印だ」
榊原は防水ストップウォッチを高く掲げた。
「――第一班、間大輔、神崎俊平。前へ」
「「はいッ!」」
大輔は隣の俊平と、短く鋭い視線を交わした。
かつて、暗いプールの底で教え子の命を取り落とし、震える脚を抱えていた臆病なビーグル。だが今は、隣に絶対に手を離さない鉄のバディがいる。
もはや言葉はいらない。舞鶴のプールで泥水を啜り、瀬戸内の荒波で神田の血を浴び、奈佐美瀬戸の逆潮を共にねじ伏せてきた。
胸の奥で、陸の司令センターから見守っているはずの、あのパグの無骨な背中が蘇る。
(見ていてください、神田先輩。……俺たちの鉄の鎖は、どんな暗闇の中でも絶対に千切れない!)
光を一ミリも通さない黒塗りの完全遮光マスクを手に、二頭の若きビーグルが、最終審判の待つ水底へと歩みを進めた。




