第39話 砕け散るキール、吊り上げの風圧
第3部 第39話:砕け散るキール、吊り上げの風圧
反転した二十六フィート・プレジャーボートのキャビン内部。
水深一・五メートルの閉鎖空間に滞留する濃厚なガソリン蒸気が、マズル用全面マスクのわずかな隙間から粘膜を刺すように漂っていた。
パニックを起こしていた二名の釣り人のライフジャケットを切り裂き、助教に託した榊原は、キャビンの最奥――逆さまになった天井(船底裏)に強い浮力で張り付いたまま、額から血を流して白目を剥いている最後の重傷者へと手を伸ばした。
男のライフジャケットは、折れ曲がった操舵席のフレームにベルトが噛み込み、バックルが外せない状態になっていた。
『助教、先の二名を入口でホールドしろ! こいつは俺が抜く!』
榊原は水中通話機越しに叫びながら、右胸のシースからダイビングナイフを抜き放った。
男のライフジャケットの分厚いナイロンベルトを、迷わず一閃して切り裂く。強力な浮力の枷を断ち切られた男の身体が、濁水の中へとふわりと沈み落ちてきた。
すかさず榊原は、自身の黄色いオクトパス(予備呼吸器)のパージボタンを一瞬押して内部の水を抜くと、意識のない男の鼻先へしっかりと押し当てて気道を保護し、これ以上ガソリン蒸気や海水を吸い込ませないようマズルごとロックした。
『全員、水底から出るぞッ!』
榊原が重傷者の襟首を抱え、助教が二名の釣り人の腕を強引に引き連れて、水没したドアの開口部へと一気に潜り抜けた。
渦巻く濁流を蹴破り、狭隘なFRPの鉄檻から、外の青白い光の海へ――。
その時、水上の二隻の救難艇では、破滅へのカウントダウンがゼロに迫っていた。
「絵の島北東の暗礁帯まで、距離五十メートル! 流速四・八ノットに上昇!」
GPSプロッターを睨む宮武の悲鳴のような絶叫が、逆潮の轟音を切り裂く。
「間! あと三十秒で転覆艇ごと岩と牡蠣筏に叩きつけられるぞ! 離脱しないとボートごと巻き込まれる!」
「まだだッ!!」
第一救難艇の舳先で白波を浴びながら、大輔と俊平は、水中の榊原たちに繋がる命綱を血が滲むほど握り締め、荒れ狂う水面を血走った眼で見据え続けた。
船外機のスロットルを握る操船助教も、ギリギリまで転覆艇の真上をキープしようと波と格闘している。だが今この直上を離れれば、水中にいる教官たちも三名の要救助者も、四・八ノットの激流に呑まれて暗礁の餌食になる。
(手を離すな……絶対に、命から手を離すな!)
神田の嗄れ声が、大輔の脳髄で爆発した。
ザバァァァンッ!!
転覆艇の舷側すぐ横から、激しい気泡と飛沫とともに、榊原、潜入助教、そして三名の要救助者――五つの頭部が同時に水面を突き破った。
「上がったッ!!」
俊平の叫びと同時に、操船助教が舵を限界まで切り、逆潮の渦に逆らって救難艇の横腹をピタリと寄せた。すぐ隣には、第二救難艇も滑り込んでくる。
「鳥山、松沼! 要救助者を引き揚げろッ!」
「任せなさいッ!」
第二救難艇から身を乗り出した鳥山の規格外の巨躯が、水面へ伸びた。丸太のように太い両腕が、榊原から渡された意識不明の重傷者の身体を水面から鷲掴みにする。隣で松沼の強靭な背筋が軋みを上げ、水を吸って鉛と化した男の肉体を、一気にボートの床へと引きずり上げた。
同時に第一救難艇の舳先では、大輔と俊平が二名の釣り人を力任せに艇内へと引っ張り込む。
「暗礁まで残り十メートル! もう時間がない!」
宮武が絶叫した。榊原と潜入助教が重いシリンダーを背負ったままボートへ這い上がる時間は、もはや一秒も残されていなかった。
「俺たちに構うな! このまま出せッ!!」
海面の榊原と潜入助教が、第一救難艇の外側のライフライン(掴み綱)に片腕を引っ掛けてロックするやいなや、水面から怒号を飛ばした。
「全員、しっかり掴まれッ!!」
操船助教が船外機のスロットルレバーを、ストッパーが砕ける勢いで奥まで一気に叩き込んだ。
高出力の船外機が咆哮を上げて激流を噛み砕き、舷側に二名のダイバーをぶら下げたまま、二隻の救難艇が白波を跳ね飛ばして急加速する。
その、わずか五秒後だった。
ズガァァァァンッ!!
耳を聾するような凄まじい破砕音が、背後の海に木霊した。
無人となった二十六フィートのプレジャーボートが、四・八ノットの潮流に叩きつけられるようにして絵の島の切り立った暗礁へと激突したのだ。分厚いFRPの白い船体が真っ二つにへし折れ、砕け散ったキール(竜骨)とキャビンの破片が、噴水のような白波とともに宙へ吹き飛んでいく。
文字通りの間一髪だった。
あと五秒判断が遅れていれば、あの砕け散った船体と一緒に、全員が暗礁と牡蠣筏のワイヤーに巻き込まれていた。
安全海域まで抜けて減速し、榊原と助教を艇内へ引き揚げた瞬間、ボートの床に膝をついた訓練生たちの背筋に、冷たい脂汗が滝のように流れた。自然の海が振るった容赦のない暴力の爪痕を前に、誰も言葉を発することができない。
ボートへ上がった榊原は、荒い息を吐きながら全面マスクを外すと、暗礁に散らばる船の残骸を一瞥した。
「……よく最後まで直上をキープし、命綱を引いたな。間、神崎」
短く告げられた鬼教官の言葉に、大輔は安堵で震える右拳を強く握りしめた。
十分後。
救難艇を収容した大型練習船の後部甲板。
ババババババッ!!
上空を圧する猛烈なメインローターの爆音が、海風を切り裂いていた。
折しも広島湾上空を哨戒飛行中だった、第六管区・広島航空基地所属の中型救難ヘリコプター(アグスタ139)が現場へ急行し、練習船の後部甲板すれすれで寸分の狂いもないホバリングを維持している。白と青の機体にオレンジの帯を引いた機体から吹き下ろす猛烈なダウンウォッシュが海面を白く抉り、甲板上の訓練生たちの作業服を激しく波打たせる。
訓練生たちは吹き荒れる飛沫に目を細め、甲板の端に退避してその暴風に耐えながら、ホイストワイヤーで音もなく甲板へ降り立ったオレンジ色のつなぎ姿――空飛ぶ海猿『機動救難士』の鮮やかな動きを見つめていた。
「要救助者五名すべて回収! うち一名は頭部強打により意識レベル、ジャパン・コーマ・スケール(JCS)三桁の二百! 頸椎保護済み、低体温症の兆候あり!」
助教の簡潔なトリアージ報告を受け、機動救難士は一切の無駄がない動きで、バックボードに固定された重傷者を水平吊り上げ用の『バスケット・ストレッチャー』へと迅速に収容・固定していく。
カチン、とホイストのカラビナが噛み合い、ハンドサインとともにウインチが巻き上げられた。
ダウンウォッシュの嵐の中、ガイドロープで回転を抑えられながら、水平を保ったまま宙へと引き揚げられていく命。
ヘリのキャビンへと吸い込まれていくストレッチャーを見上げながら、大輔の胸には、救助成功の誇らしさではなく、底知れぬ悔しさと無力感が深く刻み込まれていた。
もし今日、この場に榊原教官と助教がいなかったらどうなっていたか。
ガソリン蒸気が充満し、浮力トラップで天井に張り付けられたあの逆さまの暗闇へ潜り、ナイフでベルトを切って三十秒で三人を抜く――その神業を、自分たち訓練生だけで完遂できただろうか。答えは否だ。自分たちだけなら間違いなく時間を浪費し、全員があの暗礁で肉塊になっていた。
現場で命を預かる本物のプロフェッショナルと、まだバッジを持たない自分たちとの間にある、絶望的なまでの実力差。
やがて救難ヘリは機首を翻し、救命救急センターのある広島市内へ向けて爆音とともに飛び去っていった。
静寂を取り戻した後部甲板で、練習船のディーゼル主機が重く唸りを上げ、呉への帰投針路を取る。
初陣の実戦を生き延びた二十名の若き犬たちは、飛沫に濡れた甲板に直立したまま、遠ざかる奈佐美瀬戸の鉛色の白波を、ただ無言で見つめ続けていた。




