第38話 反転の鉄底、閉鎖の息吹
第3部 第38話:反転の鉄底、閉鎖の息吹
白波の砕ける奈佐美瀬戸。
急激に狭まる水道を駆け抜ける下げ潮は四ノットを超え、海面には無数の湧昇流と渦が湧き上がっていた。
「転覆艇、視認! 前方百五十メートル、絵の島東方沖!」
第一救難艇の舳先で身を乗り出した俊平が、激しい飛沫を浴びながら叫んだ。
大輔の視界に、白い船腹を空へ晒して不気味に揺れる、二十六フィートのキャビン付きプレジャーボートの船底が飛び込んできた。大型船外機のスクリューが虚しく天を仰ぎ、周囲の海面には漏れ出した燃料とエンジンオイルの虹色の油膜が広がっている。
「いたぞ! 船底のキール(竜骨)にしがみついているのが二名! 通報より一人少ない!」
「助教、右舷側から寄せてください! 波の谷間で一気に抜きます!」
大輔のコールに合わせ、船尾の舵を握る助教がスロットルを巧みに合わせて逆潮をねじ伏せ、転覆艇の横腹へピタリと救難艇を滑り込ませた。
同時に、舳先の大輔と俊平が海面へ身を乗り出し、低体温症で指先の感覚を失いかけていた釣り人二名のライフジャケットの肩口をガッチリと掴み上げた。
「せーのッ!」
二頭のビーグルの背筋が軋む。海水をたっぷり吸って鉛のように重くなった二人の身体を、息の合った力で救難艇の床へと引きずり込んだ。
「第二艇、要救助者二名を引き渡す!」
すぐ後方から並走してきた第二救難艇へと二名を移乗させる。第二艇の上では、第八管区の松沼と第九管区の進藤が即座にアルミ保温シートを巻き付け、気道と脈拍を確認した。
だが、引き揚げられた釣り人の一人が、血の気を失った歯茎を剥き出しにしてガチガチと牙を鳴らしながら、血走った目で転覆艇の白い底を指差した。
「な、中に……あと三名いるんです……! 一人、船底から滑り落ちて、逆さまになったキャビンの中に吸い込まれて……!」
その言葉を聞いた瞬間、第一救難艇の空気が凍りついた。
「残る三名は、全員反転したキャビンの中か……!」
同乗していた第一管区の佐藤が、足元のフィンを掴んで海へ飛び込もうと腰を浮かせた瞬間、榊原主任教官の怒号がそれを薙ぎ払った。
「動くなッ!!」
榊原は水中通話機内蔵の筒状全面マスクを手に取りながら、剃刀のような眼光で訓練生たちを一喝した。
「訓練生は絶対に潜るな! 転覆艇の内部は、狭隘な上に油膜と浮遊するロープで満ちている! まだ研修途中の半人前が頭を突っ込めば、己のシリンダーを引っ掛けて確実に共倒れだ! 船内への潜入は、俺と潜水助教の二名のみで行う!」
榊原と助教は素早く全面マスクをマズルに装着して陽圧バルブを開くと、ボートのチューブからバックロールで冷たい海中へと身を躍らせた。
激流に流されながら漂流する転覆艇と並走する第一救難艇の上で、大輔と俊平は、船内へ潜った榊原と助教の身体に繋がる二本の白い命綱を強く握りしめ、張り具合を保ち続けた。
その時、ボート上のGPSプロッター(対地速度計)と海図を見比べていた第二管区の宮武が、耳を伏せ、マズルを強張らせて船上通話機のマイクを握りしめた。
「榊原教官、聞こえますか! 潮流の流速が四・五ノットに上がっています! このまま下げ潮に押されれば、あと四分で転覆艇ごと絵の島北東の暗礁帯と、その先の牡蠣筏のワイヤー群へ激突します! 船体が砕けます!」
自然の海が突きつける、無情な四分間のタイムリミット。
一方、海中から転覆艇の歪んだドア開口部へと潜り込んだ榊原と助教の視界を、薄暗い濁水が塞いでいた。
上下が完全に逆転したキャビン内部。
水深一・五メートルの閉鎖空間を通って内側の水面へ顔を出すと、逆さまになった床板(現在の天井)との間に、わずか三十センチほどの空気溜まり(エアポケット)が残されていた。だが、そこは漏れ出した激しいガソリン蒸気で満たされ、外気を吸うことすら危険な有毒の密室と化していた。
そして――暗がりの中、三名の要救助者が、反転したキャビンの天井に背中を押し付けられるようにして浮かんでいた。
(……やはり、浮力トラップか!)
榊原の息が詰まる。
三名とも、着用していたライフジャケットの強力な浮力によって天井のエアポケットへ押し上げられ、水深一・五メートル下にある狭いドアの開口部へ潜り下りることができず、完全に生きたまま閉じ込められていたのだ。
さらに最悪なことに、転覆時の衝撃で割れた窓枠に頭を打ちつけたのか、一番奥の男が額から激しく流血し、すでに意識を失って顔を半分水に浸けていた。滴る血が油膜の浮く水面をドス黒く濁らせていく。残る二名も、寒さとガスで意識が朦朧とし、ただ虚ろに手足を痙攣させている。
『――助教、奥の意識不明の重傷者から先に出すぞ! これ以上ガソリン蒸気を吸わせるな! オクトパスのパージボタンを押し込みながら鼻先に強く押し当てて空気を送り、マズル全体を掌で包み込んで密閉しろ! 気道に水を入れるな!』
榊原が全面マスクの通話機越しに命じ、自身は意識のない重傷者の胸元へナイフを滑り込ませた。
『このままでは浮力が強すぎて下のドアを通れん! 三名全員のライフジャケットのベルトを切り裂け! 浮力を殺して水底へ引きずり下ろすぞ!』
榊原は一太刀でライフジャケットを剥ぎ取ると、片腕で重傷者の身体をがっちりと抱え込み、残る手でマズルを強引に塞いで気道を保護した。隣では助教が、二人目の男のライフジャケットを切り裂いて抱え込む。
だが、二人のダイバーの両腕はそれで完全に塞がった。狭い開口部から一度に引きずり出せるのは二名が限界であり、どうしても「三人目の要救助者」がキャビン内に取り残される。
『俺たちがまずこの二名をボートへ押し上げる! 三人目は直後に戻る!』
榊原は自身のBCDの排気バルブを引き、内部に残っていたわずかな空気を完全に抜いた。
シュゴォォッ! と気泡が抜け、完全なマイナス浮力に転じた榊原と助教の身体が、二名の要救助者を抱えたまま、反転したキャビンの水底(開口部)へと沈み込んでいく。沈みゆく船内から命を引き剥がすための、極めて冷徹で精密な浮力コントロールだった。
外の海面では、暗礁と牡蠣筏への激突まで、残り三分を切っていた。
冷たい四・五ノットの逆潮、狭隘な閉鎖空間、そしてキャビンの奥にあと一人取り残される命。
大輔と俊平が命綱を握りしめるボートのすぐ下で、奈佐美瀬戸の荒波が、すべてを噛み砕こうと牙を剥いて轟音を轟かせていた。




