第37話 奈佐美の逆潮、初陣の号鐘
第3部 第37話 奈佐美の逆潮、初陣の号鐘
五月上旬。
呉港の岸壁を離れた大型練習船「こじま」の後甲板には、むせ返るような重油と磯の匂いが充満していた。
一ヶ月の基礎訓練で極限まで無駄な肉を削ぎ落とされた二十名の訓練生たちが、黒いウェットスーツ姿で整列している。
今日から始まる「後期教育」――実海域実習。
プールの塩素の匂いとは違う、底知れぬ引き波と視界ゼロの恐怖が支配する「本物の海」が、彼らを丸呑みにしようと待ち構えていた。
『――総員、配置につけ! 運用司令センターより緊急入電!』
スピーカーの電子ブザーが、訓練生たちの緊張を物理的に引き裂いた。
『奈佐美瀬戸、絵の島東方沖。十七フィート級プレジャーボート転覆。乗船者五名中、二名の所在が不明。生存限界まで猶予なし!』
大輔のビーグルの耳が、ピクリと動いた。
二名、行方不明。
転覆船の内部に閉じ込められているか、すでに海流に引きずり込まれたか。いずれにせよ、あと数分で確実に「死体」になる。
「浮かれている場合か、貴様ら!」
ドーベルマンの主任教官、榊原の怒声が甲板を打った。
「現場は潮流のある狭水道だ。転覆船の周囲には切断されたロープや釣り糸が絡みつき、近づく者を引きずり込む『死の網』と化している。船内捜索は俺たち教官陣が担当する!」
榊原は、殺気立った訓練生たちを冷徹に睨み据えた。
「間、神崎! 貴様らは第一救難艇で『水面監視』だ。勝手な判断で海に入るな。足手まといは不要だ!」
「……了解ッ!」
大輔と俊平は、顔色一つ変えずに敬礼した。
数分後。
白波の立つ奈佐美瀬戸の海面に、救難艇が降ろされた。
眼先には、白い腹を上に向けたプレジャーボートが、荒れ狂う波に揉まれながら沈みかけている。榊原ら大型犬の教官陣が、重装備で次々と海中へエントリーしていく。
「……おい、大輔」
救難艇の船首で監視員を気取っていた俊平が、傍らの大輔にだけ聞こえる低い声で囁いた。
「潮流の向きと、あそこ(船尾側)の浮遊物の動き……」
「ああ、ズレてる」
大輔は、双眼鏡を下ろし、獰猛な牙を剥いて笑った。
神田から骨の髄まで叩き込まれた、海流を読む力。
転覆船の周囲に発生している反転流(潮の淀み)は、教官たちが向かった船首側ではなく、巨大なスクリューと絡み合った漁網がひしめく『船尾側の真下』に集中している。要救助者は、間違いなくあそこに引きずり込まれている。
「……デカブツ(教官)じゃ、あの漁網の隙間は抜けられねえな」
「命令違反だぞ、大輔。退学になるかもな」
「上等だ。俺たちの席(特救隊)は、死体を引き揚げて貰えるもんじゃねえ」
大輔は、足元のフィンを素早く装着した。
神田先輩。あんたの教え「命から手を離さない」ってのは、安全な船の上で指をくわえて待ってることじゃねえよな。
「……行くぞ、俊平」
ザバァッ!!
教官の命令を完全に無視し、二匹の小柄なビーグルは、死の網が張り巡らされた濁流の海中へと、一切の躊躇なく同時にダイブした。




