第36話 灰ヶ峰の煙、剥き出しの喉元
第3部 第36話:灰ヶ峰の煙、剥き出しの喉元
日曜日。呉の港町は、背後に聳える灰ヶ峰から吹き降ろす穏やかな春風に包まれていた。
入校から続いた第一週目の猛訓練を生き残り、候補生たちに初めて与えられた日曜日の外出許可。だが、連日の水圧と着衣並泳で乳酸が溜まり切った四肢は鉛のように重く、誰も観光気分など持ち合わせてはいなかった。
呉の中通――通称「れんが通り」から一本入った路地裏。換気扇から白い湯気と煙を吐き出す老舗大衆食堂の奥座敷に、第二管区の宮武の呼びかけで集まった主要なメンバーが車座になっていた。
テーブルに並ぶのは、呉名物の『とり皮みそ煮』の小鉢、丼に山盛りの白飯、そして犬の体にも優しい根菜とキャベツをベースに甘辛く炊き上げられた名物の『肉じゃが』の大皿だ。研修期間中は脱水と減圧症予防のため絶対禁酒の規律があり、赤提灯の下でありながら全員の前には水と黒豆茶のグラスが置かれている。
「……休日に集まってくれて感謝するよ」
宮武が神経質そうに白黒の毛並みを整え、黒豆茶のグラスを指先で回した。牧羊犬特有の怜悧な瞳が、座敷の空気を値踏みするように走る。
「教官の言う通り、この二か月間、俺たちは運命共同体だ。互いの素性も腹の内も知らずに水底で命を預け合えるほど、この研修は甘くないからね」
だが、その言葉に返されたのは、重苦しい沈黙だった。
座敷の端では、大皿の肉じゃがに一切箸をつけず、視線を畳に落としている鳥山がいた。その隣には、マスクスクイーズ(水圧によるうっ血)で白目を真っ赤に出血させ、右耳の奥に綿球を詰めた須藤が、居心地悪そうに肩をすぼめている。前日の「バディロストによる失格」の傷跡は、乾いた陸の上に戻ってもまったく消えてはいなかった。
「……おいおい、お通夜じゃねえんだぞ」
張り詰めた空気を破ったのは、第八管区・舞鶴の松沼だった。太い手で小鉢を掴み、犬の腎臓に配慮して塩分を極限まで削ぎ落とした特製味噌で煮込まれた鶏皮とこんにゃくを一気に口へ放り込む。限界まで酷使した肉体が要求するタンパク質とカロリーを、貪るように白飯で流し込んだ。
「鳥山。いつまでそうやってシケた面してんだ。三十人の中で一番図体がデカい女が、肝っ玉はチワワ以下かよ?」
「松沼さん、言い過ぎです」
すぐさま窘めたのは、そのバディである第九管区・新潟の進藤だった。小柄な胴体を背伸びさせるように座り直し、短い腕で凛と箸を構える。
「鳥山さんが焦ったのは、要救助者を早く上げたい一心だったからです。……でも、須藤さんを水中に置き去りにしたのは事実です。そこは言い訳できません」
「……分かってるわよ」
鳥山が、絞り出すような低い声で呟いた。その大きな垂れ耳が、悔しさと屈辱で小刻みに震えている。
「第七管区の現場にいた頃から、ずっとそうだった。『セントバーナードなんだから力があるだろう』『重い機材の運搬をやれ』って……。私はただの怪力マスコットじゃない。誰よりも早く水底へ飛び込んで、自分の手で命を救い出せる本物の潜水士になりたかった。……でも、そのちっぽけな見栄と焦りが、昨日のプールで須藤を殺しかけた。弁解の余地なんてないわ」
「鳥山さん……」
隣の須藤が潰れたマズルからふうと息を漏らし、番茶を一口すすった。
「俺の方こそ、足引っ張ってすんません。那覇の温かい海じゃ耳抜きなんて苦労しなかったのに、冷たい深水槽への急潜降で鼓膜が悲鳴を上げちまって……。やっぱり俺たち短頭種には、深い海の底は無理なんじゃないかって、昨日の夜からずっと考えてました」
「……犬種のせいにして逃げ道を作るなよ、須藤」
静かに口を開いたのは、それまで黙々と白飯を咀嚼していた俊平だった。
俊平は箸を置き、深い栗色の瞳で須藤の平たい顔を真っ直ぐに見据えた。
「僕らハウンド種も、水難救助じゃ散々『規格外だ』と笑われてきた。でもね、君と同じ短頭種でありながら、誰よりも深く潜り続けた本物の化け物が、ここ呉の巡視船にはいたんだ。……だろう、大輔?」
俊平に促され、座敷の視線が一斉に大輔へと集まった。
「間……その短頭種の潜水士って、噂になってた『ながら』の先輩か? 今も船に乗ってるのか?」
宮武の問いに、大輔は静かに首を横に振った。そして作業服の胸ポケットに手を入れ、布に包んでいた一つの金属塊を取り出し、ちゃぶ台の中央にカツンと置いた。
それは、数々の暗礁と激流に削られ、無数の細かい傷が刻まれた、重厚な真鍮製のダイビング用カラビナ(命綱を繋ぐための金属環)だった。退船する神田が、大輔の胸を突いた後に黙って押し付けていったものだ。
「神田先輩っていう、パグの潜水士だ」
大輔は、傷だらけのカラビナを見つめる仲間たちの顔を一人ずつ見回しながら言った。
「生まれつきの狭い気道を、自分の意志で喉にメスを入れる手術で広げ、顔に密着する特注マスクを作って、この呉の研修を歴代トップで突破した人だ。……普段は心拍数がまったく上がらない図太い先輩だったけど、来島海峡の六ノットの激流の中では、俺が水面で一人を支えるのがやっとの横で、両腕に一人ずつ要救助者を抱えて水底から浮上してきた」
須藤の血走った瞳が、息を呑んで大きく見開かれた。同じ短頭種のパグが、そんな領域に到達していたという事実が、彼の胸を激しく揺さぶっていた。
「でも……冬の重機密の現場で、先輩は俺たちを庇って大怪我を負い、長年酷使していた右目の網膜も限界を超えて、先月、船を降りて陸へ上がったよ」
大輔は湯呑みを両手で握りしめ、自らの喉元――一番隠しておきたい過去の恥部を晒すように、言葉を続けた。
「……実はその極限の現場で、俺は人を傷つけた悪党が鉄骨に挟まれているのを見て、見殺しにしようとしたんだ。『こんな奴、そのまま死ねばいい』って本気で思った。……でも神田先輩は、自分の家庭を壊してまでバディとの約束を守り、どんな悪党だろうと泥水の中から引きずり上げて『陸の法廷で裁きを受けさせる』ためだけに潜り続けた人だった。昨日の鳥山さんの焦りも、須藤の弱音も、俺には笑えない。俺自身が一番、独善的で未熟なクズだったからだ」
大輔の静かな告白に、狭い座敷の空気がピンと張り詰めた。
誰も茶化さない。犬にとって、自分の過去の過ちや恐怖を語ることは、急所である「喉元」を仲間の牙の前に無防備に晒すことと同じだった。大輔が自ら喉元を晒したことで、候補生たちが張っていた虚勢の鎧が、音を立てて剥がれ落ちていった。
「……へっ。パグの化け物が命綱を繋いできたカラビナか。ずいぶんと重い鉄の鎖を見せてくれるじゃねえか」
ボクサー犬の松沼が、ちゃぶ台の上のカラビナを見つめて自嘲するように笑い、グラスの水を一気に飲み干した。
「俺もな、舞鶴の暗い船底で腐ったロープに足を取られて、バディに泣きつきながら引き揚げられた過去がある。図体がデカいからって、海の中じゃ関係ねえんだよな」
「私もです」
コーギーの進藤が、短い背筋をピンと伸ばして頷いた。
「新潟の冬の荒波で、この短い脚じゃ波に攫われるだけだって散々笑われてきました。でも、今の話を聞いて決めました。私は絶対に自分の銀のイルカを獲って、新潟の海へ胸を張って戻ります」
「……私もよ」
ずっと俯いていたセントバーナードの鳥山が、顔を上げた。その双眸からは先ほどまでの迷いと卑屈さが消え、アルプスの吹雪を突き進む救助犬本来の、力強く野性味のある光が戻っていた。
鳥山は丸太のように太い右手を伸ばし、隣の須藤の目の前にドンと差し出した。
「須藤。昨日は本当にごめん。……明日の訓練からは、あんたの耳抜きのペースに私が全部合わせる。水深一メートルごとにあんたの目を見て潜るわ。その代わり、水底に着いたら私の背中から一ミリも離れるんじゃないよ!」
須藤は目を瞬かせ、それから潰れたマズルをフゴッと大きく鳴らして、その巨大な鳥山の手を自分の太く短い両手で力強く握り返した。
「……了解です、鳥山さん! 俺も絶対に、食らいついてみせます!」
大輔は微笑み、ちゃぶ台の上の神田のカラビナを再び大切に胸ポケットへと収めた。
食堂の窓の外を見れば、路地裏の換気扇から吐き出された白い湯気と煙が、春の陽光を浴びて霞む灰ヶ峰の稜線へと静かに溶けていくのが見えた。
泥臭い味噌と肉じゃがの匂いの中、互いの傷跡と剥き出しの喉元を晒し合った若き犬たちの間に、教官に強制されたのではない、本物の「鉄の鎖」が結ばれた昼下がりだった。




