第35話 千切れた命綱、水底の独善
第3部 第35話:千切れた命綱、水底の独善
訓練三日目。
前日に行われた水中での器材全脱装・相互交換では、大輔と俊平がトップでクリアした一方、超大型犬の鳥山と小型犬の須藤のペアは、極端な体格差によるハーネスのサイズ調整に水底で悪戦苦闘し、制限時間残り二秒という最下位で辛うじて失格を免れていた。
そして迎えた三日目の午前。水深五メートルの屋外深水槽は、スタート壁から十五メートル離れた最深部の底に沈められたダミー人形によって、まるで水死体安置所のような冷気を湛えていた。
成人の体重と、水を吸った衣類の抵抗を模した、陸上重量七十キロの鉛入りダミーだ。
「第三教程、水底模擬救助訓練」
プールサイドに立つ榊原主任教官が、冷え切った視線で十組のバディを見据えた。
「制限時間は二分。バディ相互点検の後、水底へ潜行して十五メートル先の要救助者を確保し、水面へ揚収せよ。……言っておくが、これは人形を拾い上げるだけの運動会ではない。バディの呼吸音、残圧、アイコンタクト。そのどれか一つでも欠落した瞬間、貴様らは海難救助者ではなく、二重遭難を引き起こす加害者となる」
ホイッスルが鋭く鳴り響いた。
「第一班、間・神崎ペア、行けッ!」
大輔と俊平は、レギュレーターを咥えた瞬間に視線を合わせた。
互いの残圧計を指差呼称し、BCDのインフレーターホースを頭上に掲げて排気ボタンを押し、肺から息を吐き出して浮力を完全に殺す。
ザパァッ、と二人は同時に水面下へと滑り込んだ。
水深五メートルの青暗い底へ向けて、無駄のないフィンキックを刻んで斜めに潜行していく。神田から骨の髄まで叩き込まれた、水の抵抗を極限まで殺したストリームライン。大輔の右斜め後方、手が届く一メートルの距離を保ちながら、俊平が完全に同じピッチで追従してくる。
十五メートル先の冷たいタイルに横たわる、重厚なダミー人形。
大輔が先着して人形の背後へ回り込み、両腕を脇の下へ滑り込ませて顎を引き上げ、気道を確保した。その真横で、俊平が即座にダミーのもう片方の脇と大輔のハーネスを左手でしっかりとホールドし、右手で互いのインフレーターを小刻みに操作して、重いダミーを抱えた状態での適正な浮力を瞬時に作り出す。
水底を二人の脚で同時に力強く蹴り上げた。浮上に伴って水圧が下がり、BCD内の空気が膨張して急浮上(吹き上げ)になるのを防ぐため、俊平がダンプバルブ(排気弁)を微操作して浮力を完璧にコントロールする。
かつて舞鶴のプールで息が合わずに水底で睨み合っていた二匹のビーグルは、一年間の現場の泥水を啜ったことで、今や言葉すら不要な一個の精密機械へと変貌していた。
ブハァッ!
タイムは一分十秒。完璧なコントロールのまま、大輔と俊平はスタート地点のプールサイドへ浮上し、待機していた助教へダミーをスムーズに引き渡した。
だが――その直後に潜行した第二班で、決定的な破綻が起きた。
須藤と、鳥山の凸凹ペアだった。
入水して斜めに潜行し始めた直後、水深二メートル付近で、後ろを泳ぐ須藤の動きがピタリと止まった。
短頭種の絶壁顔に、ストラップを限界まで締め上げて無理やり押し付けていた筒状の官給品マスク。水圧のわずかな変化によってシリコンスカートの顎下に致命的な隙間が生まれ、そこから冷たい塩素水が一気にマスク内へと雪崩れ込んだのだ。
(ぐ、ぶっ……!?)
視界を完全に奪われ、マズルが低いためマスククリア(鼻からの排水)も上手くできず、須藤が激しく咽せ返って水深二メートルで立ち往生する。
だが、その前方を泳ぐ鳥山は、一度も後ろを振り返らなかった。
女性でありながら唯一の超大型犬種。「図体ばかりで動きが鈍い」という偏見を第七管区の現場で浴び続け、さらに昨日の器材交換で最下位になった焦りから、彼女の意識は「自分のパワーで一秒でも早くダミーを上げなければ」という強迫観念に完全に支配されていたのだ。
(待て……鳥山さん、待ってくれ……!)
咽せ返ってレギュレーターの隙間から苦しげな気泡を吐き出しながら、須藤が必死に手を伸ばす。
しかし鳥山は、その巨大な四肢で水を掻き分け、一人で十五メートル先の水底へ到達すると、七十キロのダミー人形を怪力で軽々と抱え上げた。そのまま後ろのバディを確認することもなく、BCDに空気を撃ち込んで水面へと急浮上を開始した。
十メートル以上後方の浅場で、マスクに浸水して苦悶する相棒の存在など、彼女の視界からは完全に消え去っていた。
ザバァァンッ!
鳥山が七十キロのダミーを片腕に抱え、誇らしげに水面へと顔を出した。
「要救助者、一名揚収完了ッ!」
タイムは一分十五秒。大輔たちに迫る好タイムだった。
だが、プールサイドに立つ助教たちは、誰一人として鳥山からダミーを受け取ろうとはしなかった。ただ冷ややかな目で、鳥山の背後――十メートル以上離れたプールの中央付近を見つめている。
鳥山が怪訝な顔をして振り返った、その数秒後だった。
バシャッ! と水しぶきを上げ、須藤が一人、離れた場所で無様に水面へと這い上がってきた。
「ゲホッ、ゴホッ、ガハッ……!」
マスクを額に跳ね上げ、吸い込んだ塩素水を激しく吐き出しながら、須藤は充血した顔面を片手で押さえ、苦悶に顔を歪めて水面でもがいている。
カツン、カツン。
榊原主任教官が、乾いた編み上げ靴の音を響かせ、プールサイドの縁に掴まる鳥山の目の前で足を止めた。
「……きょ、教官。一分十五秒で、揚収完了しました……」
一気に血の気が引いていく鳥山を見下ろし、榊原は懐のストップウォッチをパチンとリセットした。
「鳥山。貴様は今、水底から何を引き揚げた?」
「要救助者の、ダミー人形です……!」
「違うな」
榊原の剃刀のような低い声が、プールの水面を凍りつかせた。
「貴様が今、得意げに抱えているのは、ただのウレタンと鉛の塊だ。……そしてその塊を拾う代償として、貴様は水深二メートルで溺れかけていたバディの須藤を置き去りにし、水底で見殺しにして殺害した」
「……え……」
鳥山の大きな顔が、一瞬で蒼白に凍りついた。
「須藤がマスク浸水で停止した時、貴様はどこを見ていた? 昨日の遅れを取り戻そうと焦り、己の腕力を誇示する功名心に目を眩ませて、目の前の人形しか見ていなかったな。……もしこれが視界ゼロの夜の海なら、置いていかれた須藤はパニックを起こし、レギュレーターを吐き出して確実に溺死している」
榊原は評価ボードにペンを走らせることもなく、震える鳥山を一瞥して冷酷に吐き捨てた。
「バディロストによる重大過失。本教程、須藤・鳥山ペアは失格、最低評価とする。……鳥山、よく覚えておけ。貴様のようにバディの呼吸も待てず、一人で英雄気取りで突っ走る独善者が、現場の海で一番仲間を殺すんだ」
鳥山の巨大な体躯が、突きつけられた罪の重さと屈辱でガタガタと震え始めた。
離れた水面で咳き込みながら謝るように頭を下げる須藤と、ダミーを抱えたまま言葉を失って俯く鳥山。
先にプールサイドへ上がっていた大輔は、その光景を見つめながら、自分の背筋に氷のような冷たい汗が伝うのを感じていた。
他人事ではなかった。いま榊原教官が鳥山に叩きつけた言葉は、かつて舞鶴の実習船で、目の前の命を救うことだけに目が眩み、バディの命綱を握る俊平の手をズタズタに引き裂かせた大輔自身が、鬼頭教官の鉄拳とともに浴びせられた言葉と一字一句同じだったからだ。
バディを見失う「独善」がいかに恐ろしい罪であるか。
大輔は吹き抜ける春の潮風の中で、隣に立つ俊平の肩の気配を確かめながら、己の胸に刻まれた過去の傷跡を改めて深く噛み締めていた。




