第34話 命を締める爪、鉄のバディ
第3部 第34話:命を締める爪、鉄のバディ
訓練二日目、午前六時。
白い朝靄が立ち込める潜水研修所の器材庫前。昨日の五千メートル遠泳を生き残った二十名の若き警備官たちは、春の冷気で白く濁る呼気を吐き出しながら整列していた。
カツン、と榊原主任教官の革靴の底がコンクリートを鳴らす。
「これより、昨日の仮ペアを解体し、本課程における正式なバディ編成を発表する」
手帳を開いた榊原一等沿岸警備正の冷え切った声が、静まり返る列に落ちた。
「潜水士に単独行動は存在しない。水底で相棒がパニックを起こせば貴様も死ぬ。貴様がエアを切らせば相棒が溺れる。一蓮托生、地獄の底まで鉄の鎖で繋がれた運命共同体だ。……そして本番の海では、常に自分と都合よく同じ体格の相手と組めるとは限らん。よく聞け」
容赦のない読み上げが始まった。
「――間大輔、神崎俊平」
大輔と俊平は、正面を見据えたまま微動だにしなかった。だが、互いの呼気がわずかに同調した。舞鶴のプールで泥水を啜り、別々の管区の荒波を経て、この呉で再び交わった二本の命綱だ。
「――松沼大志、進藤和美」
「……ッ」
昨日まで須藤と組んでいた第九管区のコーギー・進藤が小さく息を呑み、新しくバディに指名された第八管区の頑強なボクサー犬・松沼が、視線だけで隣の小柄な進藤を見下ろした。進藤はマズルを真一文字に結び、自身の胴長短足への侮りを受け流すように顎を引いた。
「――須藤健太、鳥山かずさ」
その瞬間、列の空気が微かに揺れた。
第十一管区のフレンチブルドッグ・須藤と、第七管区のセントバーナード・鳥山。生き残った中で最小クラスの短頭種と、最大の体躯と質量を誇る超大型犬の女性警備官。昨日の遠泳で互いの弱点を補い合った小型ペアを引き裂き、あえて極端すぎる体格差をぶつける悪魔的なペアリングだった。
「――宮武修二、三輪明久。――佐藤亮太、小林涼……」
すべての名を読み終えて手帳を閉じた榊原が、二十名を冷酷に睥睨する。
「編成に不満のある者は今すぐ申し出ろ。貴様の荷物を正門の外へ放り出してやる。……なお、本研修期間中、個人の体格に合わせた特注カスタム器材の持ち込みは一切禁ずる。全員、ここにある標準官品のみを使用しろ。では第一教程を開始する。器材結合およびバディ相互装着点検、制限時間は三分!」
器材庫の重いシャッターが、轟音とともに跳ね上げられた。
「――開始ッ!」
助教の怒号と同時に、二十名が一斉に庫内へと雪崩れ込んだ。
十四リットルの高圧スチールシリンダー、レギュレーター、浮力調整具(BCD)、ウエイトベルト、官給品のマズル一体型マスク、フィン。床に整然と並ぶ鈍い鋼鉄と黒いゴムの山。
「俊平、右から回せ!」
「オーケー、元弁開放、残圧確認! 二百気圧よし、Oリング亀裂なし!」
大輔と俊平の動きには、一秒の淀みもなかった。
床に置いたシリンダーにBCDを固定し、ファーストステージを噛み合わせて元弁を全開にする。俊平が即座にゲージを叩いて指差呼称し、インフレーターホースをカチリと接続、排気弁の作動を引いて確かめる。そのまま互いの背中に回り、重いシリンダーを背負わせ合いながらバンドのバックルを全体重で締め上げた。
だが、その流れるような手際の裏で、大輔は呼吸確認のためにマズルへマスクを押し当てた瞬間、無意識の焦りからビーグルの強い顎で給気バルブの根元をギリッと噛みしめすぎてしまい、慌てて奥歯の力を抜いた。外見は完璧に見えても、内面は張り詰めたガラスのような緊張状態だった。
一方、急造の他ペアからは、悲鳴に近い怒号が飛び交っていた。
「須藤! 標準品のマスクが顔に合ってないぞ! 先端が余って、顎の下がガバガバじゃないか!」
セントバーナードの鳥山が、丸太のように太い腕で須藤の頭部を固定し、焦りを滲ませていた。マズルが突出している一般的な犬種向けに作られた筒状の官給品マスクは、絶壁顔のフレンチブルドッグの須藤が被ると、鼻先に巨大なデッドスペースが生まれ、顎のシールラインに致命的な隙間ができてしまうのだ。このまま潜れば、その隙間から海水が口元へガバガバと侵入して溺れてしまう。
「だ、大丈夫です鳥山さん! ストラップを限界まで締め上げて、無理やり密着させます……!」
「嘘つくな、水深三十メートルの水圧で少しでもズレたら一発で溺水だ! 顔のシワを上に引っ張ってシールを密着させろ!」
巨躯の鳥山が、自身の特大BCDのバックルを締めるのも後回しにして、小柄な須藤の平たい顔面に大きな指先を這わせ、シリコンスカートをミリ単位で密着させようと悪戦苦闘する。
その隣では、コーギーの進藤が十四リットルの細長いスチールシリンダーを背負ったものの、胴長短足の骨格にシリンダーの底が干渉して重心を崩し、ボクサー犬の松沼がそのハーネスの襟首を片手で乱暴に掴み上げていた。
「ぐらつくな進藤! シリンダーの位置が低すぎて腰に当たってるぞ、バンドを一番上まで詰め直せ! その短い脚で本当に十キロの鉛を巻けるのか!?」
「巻けます! 余計なお世話です松沼さん、水中に入れば私のトリム(姿勢)調整は完璧ですから!」
飛び交う罵声、ゴムの擦れる音、パージボタンを押す高圧空気の激しい噴射音。
助教たちがストップウォッチを片手に、獲物の隙を狙う鷹のように学生たちの周囲を旋回する。
「残り三十秒! オクトパス(予備空気源)の動作確認をしてない奴がいるぞ! バディを殺す気か貴様らッ!」
「俊平、背中よし! シリンダーバンド完全ロック!」
「大輔、ウエイトのクイックリリース右側よし! レギュレーター呼吸抵抗なし!」
大輔と俊平は、残り十秒を残して互いの胸のハーネスをバチンと強く叩き合い、完璧な直立不動をとった。
『ながら』で神田に毎日叩き込まれた「命を預かる点検」の精度が、大輔の指先に確かな技術として宿っていた。
「――そこまで! 手を離せ!」
ホイッスルが耳をつんざいた。
制限時間内にすべての装着と相互点検を終え、直立できたのは大輔・俊平ペアを含めてわずか三組だけだった。須藤と鳥山は、鳥山自身のチェストストラップを噛み合わせた瞬間にタイムアップを迎え、松沼と進藤はウエイトベルトの締め込みが間に合わず、バックルをぶら下げたまま悔しそうに立ち尽くしていた。
榊原が、冷え切った歩調で列の間を歩いていく。
「無様な様だな。貴様らが今弄んでいたのはプラスチックのオモチャではない。暗黒の水底で貴様らの命を繋ぐ『外付けの内臓』だ」
榊原の足が、須藤と鳥山の前でピタリと止まった。
「須藤。合わないマスクで海水を呑み、鳥山の命綱を見失えば、二人まとめて海の底だ。そして鳥山、バディの世話に気を取られて自分の装備を疎かにすれば、その巨大な体躯で真っ先にエアを食い潰し、須藤を道連れにして沈むことになるぞ」
二人の顔が、屈辱で真っ赤に染まった。
「間、神崎」
榊原の硝子のような視線が、完璧にセットを終えた二頭のビーグルを射抜いた。
「貴様らの陸での手際、悪くはない。だが、現場の海は乾いたコンクリートの上ではない。……総員、その装備のまま直ちに深水槽へ移動しろ。第二教程、水深五メートルでの『器材全脱装およびバディ間での水中相互交換』。制限時間は五分だ」
列の中に、凍りつくような戦慄が走った。
「ルールを説明する。水深五メートルの底で、自分の命綱であるマスク、フィン、ウエイト、そして空気呼吸器のすべてを一度完全に脱ぎ捨てろ。そこから先は、片方の呼吸器だけを使い、バディと『交互に息を分け合いながら』作業を行え」
助教たちが、冷酷な笑みを浮かべてプールサイドに立つ。
「極限の酸欠状態の中、交代で呼吸を繋ぎながら、バディが脱いだ器材を水底で自分の体格に合わせて全調整し、再び完全装着して浮上しろ。息が苦しいからと相棒から呼吸器を奪い合うような奴は、その場で即刻退校だ」
同体格の大輔と俊平ですら、一歩間違えれば水を飲んでパニックに陥る高難度の課目。
ましてや超大型犬の鳥山と小型犬の須藤にとっては、息の続くわずかな時間で特大と極小のハーネスを限界まで締め直し、あるいは緩め直さなければならないという、物理的な地獄の宣告だった。
背負った十四リットルのスチールシリンダーが、ずしりと大輔の腰骨を圧迫する。
大輔は隣の俊平と、無言で鋭く視線を交わした。
かつて舞鶴のプールで命を取り落としかけたビーグルと、東京湾の泥を潜り抜けてきた相棒。二人の鉄の鎖が、いま再び、水深五メートルの底へと試されようとしていた。




