第33話 五パーセントの生存域
第3部 第33話:五パーセントの生存域
二時間。
水深五メートルの巨大深水槽の外周を、三十名が渦を作るようにひたすら周回し続ける五千メートル着衣並泳は、開始から三十分を過ぎた時点で、もはや訓練ではなく死と隣り合わせの消耗戦の様相を呈していた。
バディとの距離が「一メートル」でも開けば両者即時失格という非情な鉄鎖のルール。水をたっぷりと吸い込んだ厚手の作業服と編み上げ靴は、四肢にまとわりつく鉛の重りと化す。塩素を含んだ硬い布地が泳ぐたびに皮膚を削り、股や脇の下、首元の擦過傷が焼けるような痛みを放っていた。
一人、また一人と、四肢の痙攣と低体温に呑まれ、バディとの並泳を維持できなくなった候補生たちが隊列から遅れ始める。その瞬間、プールサイドを巡回する助教たちによって容赦なく救命竿を差し出され、水から引き揚げられていった。連帯責任で即座に失格を告げられ、悔しさでタイルの上にうずくまる相棒を一瞥することすら、泳ぎ続ける者たちには許されない。
開始から一時間五十七分。
大輔は、神田との八か月の特訓で身体の芯まで叩き込まれた「水流の抵抗を極限まで殺すフォーム」と「低心拍の呼吸法」を維持し、隣を泳ぐ俊平と一センチの狂いもない横並びのまま、規定タイムの三分前に五十メートルプールの壁へとタッチした。周囲の焦りに巻き込まれることなく、あえて計算し尽くされた巡航速度に徹し、体力を温存したまま五千メートルを泳ぎ切ったのだ。
二人がプールサイドへ這い上がり、大型犬の佐藤や鳥山たちも次々とゴールする中、時計の針が無慈悲に制限時間へと迫っていく。
「――残り三十秒! 遅れた組はそこまでだ、足をつけ!」
助教の怒号が響き渡った、その時だった。
水面の最後尾で、狂気じみた激しい水音が炸裂した。
「……ッハァ! ア、ガァッ……!」
極端に短い後肢をスクリューのような凄まじい高ピッチで回転させ、プールの壁に爪を立てたのは、第九管区・新潟の進藤だった。そしてその真横、わずか五十センチの距離には、狭い気道が限界を迎えて歯茎から完全に血の気を失い、突出した両眼を真っ赤に血走らせた第十一管区・那覇の須藤が、進藤とほぼ同時に壁へしがみついていた。
水泳において最も不利な骨格を持つ二匹の異端児。だが彼らは、バディとして互いの距離を一メートル以内に死守し、沈みかける相棒を水流で押し上げ合いながら、制限時間残りわずか五秒という極限の淵で、血反吐を吐くような執念だけで滑り込んだのだ。
「――二時間経過! そこまで、終了ッ!」
鋭いホイッスルが鳴り響く。
全国から集まった三十名の精鋭のうち、完泳してプールサイドへ這い上がることができたのは、わずか二十名(十組)。
初日の、最初の種目だけで、全体の三分の一にあたる十名が容赦なく間引かれていた。
這い上がった二十名は荒い息を噛み殺し、水を滴らせる作業服のまま直立不動の姿勢を取った。作業服の襟元や脇の下からは、布地に擦り切れた皮膚の血が赤黒く滲んでいる。四月の冷たい潮風が吹き抜け、全身から立ち上る湯気とともに体温が急速に奪われていく。歯の根が合わず、ガチガチと鳴りそうになる顎を、全員が必死に食いしばっていた。
カツン、カツンと、濡れたコンクリートを踏む乾いた革靴の足音が近づいてくる。
主任教官の榊原一等沿岸警備正がストップウォッチを胸ポケットにしまい、凍てつく硝子のような視線を二十名の生存者へと向けた。
「よく残ったな、貴様ら」
感情の欠片もない、剃刀のような声だった。
「脱落した五組十名には、バディの限界を見極められなかった不適格者として、今日中に元のフネへ帰ってもらう。……さて、生き残った貴様ら二十名に、これからの二ヶ月を共にするにあたって、最初に一つだけ『海の現実』を教えておく」
榊原は一歩前へ進み出ると、自らの胸元に輝く金モールの指導員章を、白手袋の指先で静かに撫でた。
「俺もかつて現場の最前線で十数年間、潜水士として泥水を啜ってきた。無数の転覆船や沈没船の底へ潜り、何百回と命綱を引いてきた。……だがな」
榊原の冷え切った双眸が、最前列に立つ大輔と俊平を真っ直ぐに射抜いた。
「俺が暗闇の水底から引き揚げてきた人間のうち、生きて呼吸をして陸へ戻れたのは――百名中、わずか『五名』だ」
二十名の候補生たちの喉が、同時に凍りついた。
生存率、五パーセント。
それは、夢や希望を抱いてここへ来た若者たちの幻想を粉々に打ち砕く、あまりにも冷徹な現実の統計だった。
「残りの九十五名は、全員が冷たく固まったご遺体だ。……いいか、海は貴様らが現場に到着するのを待ってはくれん。転覆した船内で奇跡のエアポケットを探し当てる前に、人は十数分で低体温症に陥り、パニックで濁水を飲んで息絶える。それが海難の現実だ」
榊原の低い声が、静まり返ったプールサイドに重く沈み込んでいく。
「貴様らがこれからその肩に背負うのは、テレビや映画のような『命を救う英雄』の看板ではない。暗黒のヘドロの底で冷たくなり、水を吸って重くなった九十五名の無念の骸を、一体ずつ手探りで探し出し、自分の胸に抱きしめて陸で待つ家族の元へ連れ帰るための、泥臭く過酷な役目だ。……自分が潜って引き揚げるのは、ほとんどがご遺体であると最初から覚悟せよ」
大輔の胸の奥を、鋭利な氷の刃が貫いた。
脳裏に蘇ったのは、かつて温水プールの底から抱き上げた、あのトイプードルの教え子の冷たい身体の感触だった。
そして、数か月前の冬――安芸灘で沈むフェリーの機関室に遺されていた機関員の姿と、備讃瀬戸の炎上するタンカーで、神田を撃たれた憎しみのあまり自分が見殺しにしようとした狙撃手の顔。
五パーセントの生者を救うために、血反吐を吐いてコンマ一秒を削り出す。だが同時に、間に合わなかった九十五パーセントの死者からも、そしてどれほど憎むべき悪党の命からも、決して目を逸らさず、その手を離さずに陸へと引きずり上げる。
退船する日、神田が『俺たちの仕事は、泥水の中から引きずり上げて陸の法廷へ渡すことだ。絶対に命から手を離すな』と遺した言葉の本当の重みが、榊原の非情な告白と重なり合い、大輔の骨の髄まで深く突き刺さっていた。
生者であれ、死者であれ、暗い海に奪われたままには絶対にしない。それこそが、胸に『銀のイルカ』を刻む者の業なのだ。
「五パーセントの奇跡を掴むために地獄の訓練に耐え、九十五パーセントの死の重みを背負う覚悟がない腰抜けは、明日の朝までに荷物をまとめてこの呉から立ち去れ。――本日の課業はこれまで。解散!」
そう言い残すと、榊原は一度も振り返ることなく、硬い足音を響かせてプールサイドを去っていった。
残された二十名の若き犬たちの頭上を、呉湾からの冷たい夕風が吹き抜ける。
誰も口を開かない。ただ、極限の疲労と寒さで震える四肢の奥底で、これから挑む「本物の潜水士」への険しい道のりを噛み締めながら、黒く暮れゆく水面を無言で見つめ続けていた。




