第32話 三十頭の鉄鎖、呉の門
第3部 第32話:三十頭の鉄鎖、呉の門
四月上旬。灰ヶ峰の山肌を薄桃色に染めていた山桜が散り、呉の海から吹き上げる潮風が、肌を冷たく撫でていた。
ジャパウ沿岸警備大学校、潜水技術研修所。
長さ五十メートルを誇る巨大な屋外訓練用プールの前に、全国十一の管区から選び抜かれた三十名の若き保安官たちが、紺色の作業服に身を包み、直立不動で整列していた。
全員の胸に、まだ銀のイルカはない。
だが、その眼光は一年前に舞鶴の門をくぐった学生たちのそれとは根本から異なっていた。現場の巡視船で荒波を被り、サビ打ちとロープワークで掌の肉球を硬くひび割れさせ、各管区の推薦をもぎ取ってきた狂人たちの顔つきだった。
「……三十名か」
最前列の端。大輔は呼吸を整えながら、横一列に並ぶ異様な威容を視界の端で捉えていた。
第一管区・小樽から送り込まれた大型水猟犬、ラブラドール・レトリーバーの佐藤亮太。北の流氷を睨んできた分厚い胸板が、作業服を内側から押し広げている。同じく第三管区のラブラドール・三輪明久。
第二管区・塩釜のボーダーコリー・宮武修二は、研ぎ澄まされた刃のような神経質な双眸で水面を凝視している。
列の中央には、第七管区・門司から唯一の超大型犬種として選抜された女性保安官、セントバーナードの鳥山かずさ。その巨躯の質量と水の抵抗は計り知れないが、並の雄犬を遥かに凌駕する骨格が圧倒的な威圧感を放っていた。
第八管区・舞鶴の頑健なブルドッグ・松沼大志。
第九管区・新潟のコーギー・進藤和美。小柄で極端な胴長短足という、浮力の維持において致命的なハンデを背負いながら、その瞳には凍りつく日本海で培われた凄まじい闘志が宿っていた。
そして――第十一管区・那覇から送り込まれた、フレンチブルドッグの須藤健太。
(……短頭種)
大輔の喉が、微かに鳴った。
神田と同じ、潰れたマズル。狭い気道という、水圧と高濃度酸素の天敵。かつては生理学的に不可能とされた短頭種の潜水士だが、第六管区の神田という異端が教本を覆したことで、自ら気道を切り開く手術に耐えてでもその背中を追おうとする狂人たちが、確実に育ち始めていたのだ。須藤の太く短い首回りは、南西諸島のサンゴ礁と黒潮に抗い続けた証のように、異常なまでの筋肉の鎧で固められている。
「……久しぶりだな、大輔」
すぐ隣から、低く抑えられた、だが芯の通った声が落ちてきた。
第三管区・横浜からやってきた、神崎俊平。
同じトライカラーのビーグル。東京湾の過密航路でヘドロと重油の飛沫を浴びてきた相棒の頬には、舞鶴時代にはなかった浅い裂傷の痕が刻まれていた。
潜水研修のバディは、水中の引き揚げや空気消費量のバランスを取る安全管理上、極めて身長・体重の近い者同士で強制的に組まされる。この巨漢揃いの三十名の中で、唯一の小型ハウンドである大輔のバディは、必然的に同犬種・同体格の俊平しかあり得なかった。
「ああ。……無事だったか、俊平」
「そっちこそな。『ながら』でテロリスト相手にドンパチやったって噂、横浜まで届いてるぞ。……神田さんのことも聞いた」
「…………」
「甘ったれた顔してたら海へ蹴り落とすつもりだったが……どうやら、その必要はなさそうだな」
互いに視線は水面から逸らさない。だが、交わす呼気の鋭さだけで、互いがこの一年、現場でどれほどの泥水を啜ってきたかが痛いほど伝わってきた。
カツン、カツン、と乾いた足音がプールサイドに響いた。
歩み出てきたのは、白髪の混じった精悍なドーベルマン――主任教官の榊原一等沿岸警備正だった。
その胸元には、歴戦の潜水士であることを示す金モールの指導員章が、鈍く光っている。
「休め」
短く乾いた号令。三十名の靴底が寸分の狂いもなく揃って開く。
榊原は手帳を開くこともなく、冷え切った硝子のような双眸で、三十名の顔を一人ずつ射抜いていった。
「貴様らは各管区で『優秀だ』とおだてられ、ここに送り込まれてきたことだろう。だが、最初に現実を教えておく」
榊原の低く響く声が、プールサイドの冷気を震わせた。
「この二か月に及ぶ研修で、貴様らのうち最低でも三分の一は脱落する。……鼓膜の破綻、減圧症の兆候、低酸素によるブラックアウト、そして己の恐怖に呑まれた自主退校。潜水士とは、根性で務まる職種ではない。物理法則に屈した肉体から、容赦なくゴミのように脱落していく」
教官の視線が、小柄な進藤の短い四肢を、そして須藤の潰れた鼻面を一瞬だけ捉えた。容赦のない、生物学的な冷徹さだった。
「タイムオーバーは即時失格。そして、バディへの安全確認を一度でも怠った者は、その日のうちに元のフネへ送り返す。……ここは貴様らを潜水士に育てる場所ではない。海で死ぬ素質のある奴を、徹底的に間引くための場所だ」
榊原は懐からストップウォッチを引き抜き、冷酷に告げた。
「――指定されたバディと組め。作業服のまま直ちに飛び込み、バディと完全に横並びの並泳を維持した状態で五千メートルを泳ぎ切れ。一メートル以上距離が開いた組は、両名ともその時点で即時失格とする。制限時間は二時間だ。脱落者は、この門を二度とくぐるな」
三十頭の若き犬たちの背筋に、戦慄が走った。
水を吸って鉛のように重くなる作業服での五千メートル。ただスタミナがあれば勝てるわけではない。自身の極限状態の中で、バディの呼気とペースを完全に把握し、連帯して地獄を泳ぎ抜く。本物の潜水士の鉄則が、いきなり叩きつけられたのだ。
大輔は俊平と視線を交わすことなく、ただ前を見据え、奥歯を噛み締めた。
(見ててください、神田先輩)
胸の奥で、あのパグの無骨な背中が蘇る。
三十名の狂人たちが、凍てつく水面へと一斉に身を躍らせた。




