第31話 別離の敬礼、新たな波紋
第2部 第31話:別離の敬礼、新たな波紋
三月。呉の港を吹き抜ける潮風に、微かな春の温もりが混じり始めていた。
大型巡視船「ながら」の潜水班控室。
大輔は、主を失うことになったロッカーの前に立ち、荷物をまとめる神田の背中を、静かに見つめていた。
神田は、船を降りる。
海賊との銃撃戦で負った首の貫通銃創は、三か月に及ぶ入院と厳しいリハビリを経ても、右半身に微かな痺れという後遺症を残した。さらに、限界を迎えていた網膜症の悪化。
潜水士としての身体基準を満たせなくなった神田に対し、第六管区本部が下した決定は、「陸上勤務・運用司令センターへの配置転換」だった。沼田が戻るまで現場にしがみつくと誓ったパグの、狂気じみた執念も、肉体の崩壊という現実の前には抗えなかったのだ。
「……神田先輩」
退院して初めて船を訪れ、段ボール箱にダイビングナイフを放り込んだ神田の背中へ、大輔は絞り出すように声をかけた。
あのシージャック事件から、三か月。大輔の中には、ずっと吐き出せずにいた重い澱があった。
「俺は……あの時、海賊を見捨てようとしました。人殺しなんてそのまま死ねばいいと、本気で思いました。俺は……潜水士失格です」
神田の分厚い手が、ピタリと止まった。
ゆっくりと振り返ったその右目は、中心に暗点を抱え、焦点が合わない。だが、残された左の瞳が、大輔の弱さを真っ直ぐに射抜いていた。
「……勘違いするな、大輔」
神田は低く、だが確かな熱を帯びた声で言った。
「テロリストを許せと言ってるわけじゃねえ。俺の首を撃ち抜きやがったあのクズどもを憎む気持ちは、俺だって同じだ」
「それなら……!」
「だがな、海で死なせちまえば、あいつらはただの『不幸な海難事故の犠牲者』になって、法から逃げおおせる。……泥水の中から生きたまま引きずり上げて、陸の法廷で自分たちが殺した命の重さと向き合わせる。それが、俺たち潜水士に許された、最大の復讐なんだよ」
神田の言葉が、大輔の胸の奥で凍りついていた罪悪感を、熱く溶かしていく。
「……お前が憎しみに飲まれそうになったら、俺が何度でもぶん殴って目を覚まさせてやるつもりだった。だが、俺はもうお前と一緒に潜れない」
神田はロッカーの扉を閉め、大輔の作業服の、まだ何もない左胸を太い指で強く突いた。
「来月からいよいよ呉の研修だな。これからは、お前が自分で自分を律しろ。……さっさとその胸に、銀のイルカを獲ってこい。いいな、大輔」
「……はいッ!」
大輔の目から、三か月間堪え続けていた熱いものが、不様に溢れ落ちた。
甲板に出ると、春の陽光が白い船体を眩しく照らし出していた。
舷門からタラップを下り、岸壁に降り立った神田は、濃紺の第一種制服に身を包んでいた。傍らには、父の背中をずっと待ち続けていた一人娘のアミが、小さな手で父親の分厚い掌をしっかりと握りしめている。
大輔はタラップの最上段に立ち、制帽をかぶり直して、直立不動で背筋を伸ばした。
神田がゆっくりと振り返る。
重すぎる現場の鎖からようやく解き放たれたような、静かで穏やかな父親の顔だった。
大輔は、右手を高く掲げ、指先を制帽の縁にピタリと揃えた。
渾身の敬礼。
自分に「生き残るためのすべて」を叩き込み、泥水の中から引きずり上げてくれた、最高のバディへの感謝と誓いを込めた。
神田は潰れたマズルからふっと息を漏らし、不器用に、しかし力強く敬礼を返した。
『大輔。……絶対に、命から手を離すなよ』
声は聞こえなかったが、その唇の動きが、はっきりと大輔の胸に刻み込まれた。
神田は背を向け、娘と手を繋ぎながら、呉の庁舎のゲートへとゆっくり歩き去っていく。その無骨で広大な背中が見えなくなるまで、大輔は決して右手を下ろさなかった。
*
四月――新年度。
灰ヶ峰の山肌が薄紅色に染まり、呉の街が新たな息吹に包まれる季節。
大型巡視船「ながら」の甲板は、出港準備の号令と重油の匂いが入り交じり、特有の喧騒に包まれていた。定期異動の時期を迎え、古参の乗組員が去り、各部署に真新しい制服を着た新人たちが補充されている。
大輔は私服の入ったダッフルバッグを肩に担ぎ、後甲板の舷門の前に立っていた。
配属されたばかりの一年前は、あのタラップを見上げるだけで足がすくんでいた。激流に飲まれ、炎に焼かれ、銃弾が飛び交う修羅場で、己の無力さを噛み締めた。甲板掃除と見張りに明け暮れた、泥臭い航海科としての下積みの一年。
だが今、大輔の四肢には、瀬戸内の荒波を潜り抜けてきた本物の筋肉と、消えない傷跡が刻まれている。
「……とうとう下船だな、間」
見送りに来た佐々木班長が、大輔の隣に並んだ。
「はい。一年間、本当にお世話になりました」
「これから向かう呉の潜水技術研修は、ここでのシゴキがままごとに思えるほどの本当の地獄だぞ。全国の管区から、お前のような推薦状を持ったバケモノばかりが集まってくる」
佐々木はニヤリとシェパードの犬歯を見せ、大輔の肩を強く叩いた。
「次に俺の船に乗るときは、必ずその胸に銀のバッジをつけてこい」
「……了解しましたッ!」
大輔は深く息を吸い込み、瀬戸内の潮風を肺の隅々まで満たした。
神田という巨大な防波堤はもういない。これからは自分が、誰かの命綱となり、誰かの背中を守り抜かなければならない。
東京湾の最前線で揉まれているはずの俊平。北の海で腕を磨く高山。そしていつか必ず、あの「特殊救難隊」の高みへと辿り着くために。
ビーグルの若き潜水士候補生は、新たなる航海への決意を胸に、鉄のタラップを力強く下り、地獄の研修が待つ呉の街へと真っ直ぐに歩き出した。
(第2部、完)




