第30話 帰還の冷雨、分かたれた視線
第2部 第30話:帰還の冷雨、分かたれた視線
大型巡視船「ながら」の狭い医務室。
天井の蛍光灯が刻む微かなブーンというノイズと、船体を通底する主機の重低音が、張り詰めた静寂を支配していた。
「……ウ、グッ……」
寝台の上で、低く濁った呻き声が漏れた。
神田がゆっくりと瞼を持ち上げる。
視界の中央は、網膜症のせいで依然として暗く歪んでいたが、鼻腔を突く消毒液の匂いと、揺れる点滴の輪郭が、ここが「ながら」の船内であることを告げていた。
「神田さん! 気がつきましたか!」
枕元に詰めていた衛生員が身を乗り出した。
神田は麻酔の残る重い頭をわずかに巡らせ、包帯で厳重に固定された自らの首元へ、鈍く痺れる太い腕を添えようとした。だが、指先は鉛のように重く、持ち上がらない。
「動かないでください。……致命傷には至っていません。貫通銃創ですが、鍛え上げた首の筋肉がクッションになって、主要な動脈と頸椎をギリギリのところで逸れていました。あと数ミリ深ければ即死でしたが……本当に、化け物じみた肉体ですよ」
衛生員は、強張った顔で額の汗を拭った。激流に抗うため、異常なまでに鍛え上げた僧帽筋の鎧が、文字通り神田の命を繋ぎ止めていたのだ。
「本来ならすぐにヘリで後送すべきですが、この強風と雨で離着艦が見送られました。内部の血腫が気道を圧迫しないよう監視を続けます。呉に着くまで、まだ油断はできません」
「大輔は……」
神田は喉の奥から、血の滲むような嗄れ声で絞り出した。
「船橋へ行った……若僧はどうなった」
その問いに衛生員が口を開きかけた瞬間、船内スピーカーから、船橋当直の硬い声が響き渡った。
『――「あきつ丸」、浅所に右舷傾斜のまま着底。原油の流出は、現在のところ限定的。救助作業終了。潜水班および機動警備隊を収容した複合型ゴムボート、本船右舷側へ接舷する』
外は、冷たい冬の雨が降り始めていた。
備讃瀬戸のどす黒い海面を割り、白波を蹴立てて戻ってきた一艇のゴムボート。
「ながら」の舷側クレーンから降ろされたワイヤーがボートを吊り上げ、濡れそぼった後甲板へ静かに下ろした。
ボートから降り立ったのは、佐々木班長率いる制圧部隊、そして――激しい火傷と打撲を負いながらも命を取り留めた、海賊の部下たちの姿だった。
爆発の業火と、傾く船橋の中から、佐々木たちが力づくで引きずり出し、救い上げた命。
そして最後の一人。
小銃と防弾装具を外し、上半身のドライスーツを腰まで脱ぎ下げた大輔が、重い足取りで甲板を踏みしめた。
その表情は蒼白に凍りつき、黒いマズルを固く引き結んでいる。
救助を完遂した英雄の顔ではなかった。大輔はあの崩壊する船橋で、佐々木班長の怒号に背中を押され、油圧ツールを使って海賊たちを瓦礫から引きずり出した。だが、作業をしている間中、大輔の頭の奥ではずっと『そのまま潰れて死んでしまえ』というドス黒い獣の殺意が渦巻き続けていた。
体はプロとして動いたが、心は完全に潜水士の鉄の掟から逃亡し、憎悪に支配されていた。その「救助者としての決定的な精神の敗北」が、胸の奥底で重い澱のように沈み、瞳から生気を奪い去っていた。
十分後。
医務室の重い鉄扉が、ゆっくりと押し開かれた。
泥とススを拭い、うなだれるように視線を落とした大輔が、そこに立っていた。
「神田……先輩……」
大輔の喉が小さく鳴った。
生きている。首元を撃ち抜かれ、目の前で血煙に倒れたはずのバディが、首を厚い包帯で覆われながらも、ベッドの上に身を起こし、荒い息を吐いていた。
駆け寄ろうとした大輔の足が、だが、床のリノリウムに縫い付けられたように止まった。
「……あきつ丸は、浅所に着底しました。ムラカミは……逃走。残された海賊は、佐々木班長たちと一緒に、俺が……救助しました」
大輔の言葉は、途切れ途切れだった。
海賊を憎むあまり、命を等しく救うという誓いを心の底から破り捨てた事実。それを報告する声が、無様に震える。
神田の暗点を抱えた右目と、まだ光を残す左目が、入り口で立ち尽くす大輔を、静かに、そして鋭く見据えていた。
大輔は、それ以上、一歩も前に進めなかった。
怒られる方がまだマシだった。「なぜ迷った」と罵倒されれば、言い返すことすらできたかもしれない。
だが、神田は一言も発しなかった。ただ、すべてを見透かすような底知れぬ無言の重圧だけが、ベッドの上から大輔を射抜いていた。
医務室の丸窓を、冷たい雨が容赦なく叩き続ける。
生還を果たしたはずの二人の間に、言葉にならない重く深い亀裂が、瀬戸内の荒波のように横たわっていた。




