第30話 帰還の冷雨、分かたれた視線
第2部 第30話:帰還の冷雨、分かたれた視線
大型巡視船「ながら」の医務室。
無機質な蛍光灯の光の下、神田は重い瞼を開いた。
首から肩にかけて巻かれた分厚い包帯が、鈍い痛みを主張している。
「……気がつきましたか、神田さん」
衛生員が点滴を調整しながら言った。
「あきつ丸から海へダイブしたムラカミを、あなたがボートから阻止しようとした際……奴の放った銃弾が肩口を貫通しました。命に別状はありません」
神田は、無言で天井を見つめた。
あの時。ムラカミは爆炎を背にして狂ったように嗤い、海へ身を投げた。ボートから牽制射撃を行おうとした神田に対し、空中にいるムラカミが振り向きざまに撃ち下ろした一発。
完全に視力を失った右目の死角を、ピンポイントで撃ち抜かれた。
「……ムラカミは」
「行方不明です。ですが、あきつ丸の機関室に仕掛けられた爆薬は、間大輔隊員の奮闘により撤去され、船は無事に停止しました。……テロリスト三名も、間隊員が炎の中から引きずり出して生存しています」
神田の左目が、小さく見開かれた。
数十分後。
医務室の重い鉄扉が開き、全身を煤と油にまみれさせた大輔が入ってきた。
防火服の袖は焼け焦げ、掌には酷い火傷の応急処置が施されている。
「……神田先輩」
大輔は、寝台の横に立ち、深く敬礼した。
「命令通り、十万トンの操舵をやり切りました。……それと」
大輔は、一切の感情を交えない、氷のように冷たい声で続けた。
「機関室で、先輩の右目を奪った連中を見つけました。瓦礫の下で、焼き殺される寸前でした」
神田は、声を出さず、ただ大輔の目を見つめ返した。
大輔の瞳には、かつてのように「怖いです」「助けられませんでした」と泣き言を吐いていた素人の面影は、微塵もなかった。
「……殺してやりたいと、本気で思いました。そのまま背を向ければ、数分で灰になる連中でした」
大輔は、火傷だらけの掌をゆっくりと開いた。
「でも、俺はあいつらを強引に引きずり出しました。……先輩から奪い取った技術と、海の掟を……俺の個人的な憎しみなんかで、汚したくなかったからです」
大輔は、神田を見下ろした。
そこに同情や自己嫌悪はない。「俺は、あんたの業(教え)を完全に食い尽くし、修羅として完成した」という、誇りすら入り混じった狂気。
神田の背筋に、悪寒が走った。
(……俺は、コイツに何というものを教えちまったんだ)
神田は、海で命を救うことの尊さと同時に、「命を重さを天秤にかけないことの恐ろしさ」を知っている。だが、目の前のビーグルは、憎悪すらも任務というシステムの中で処理する『バケモノ』に変貌しようとしていた。
「……そうか」
神田は、かすれた声で短く応じた。
「……よくやったな、新米」
「ありがとうございます。……来春の呉・潜水技術研修。俺が首席で突破して、特救隊への切符を必ず掴み取ります。……先輩の分まで」
大輔は、深く頭を下げ、医務室を後にした。
鉄扉が閉まる。
神田は、右目の見えない暗闇と、左目に映る白い天井の狭間で、長く重い息を吐いた。
大輔は、確かに最強の潜水士になるだろう。
だが、その強さは、いずれ彼自身を人間ではない「別の何か」に変えてしまうのではないか。
冬の冷たい雨が、丸窓を打ちつけていた。
同じ海を見つめていたはずの師弟の視線は、今、決定的に分かたれようとしていた。




