第29話 引き裂かれた正義
第2部 第29話:引き裂かれた正義
船橋を取り囲む特殊警備隊の銃口が、一斉にムラカミの眉間を捉えていた。
部下たちはすでに床に組み伏せられ、結束バンドで拘束されている。完全な制圧。逃げ場などどこにもない。
だが――船橋の外の張り出し(ウイング)へ通じる防密扉の前に退いていたムラカミの裂けた口元が、奇妙に吊り上がっていた。肩を揺らし、喉の奥から押し殺した嗤いを漏らしている。
「何がおかしい! 武器を捨てろ!」
大輔は小銃を構えたまま、怒声とともに一歩踏み出した。神田を撃ち抜いたこの一味への激情が、喉元を焼き尽くしそうだった。
ムラカミは嘲笑を浮かべ、血走った眼光で大輔を見据えた。
「船を取り返した? 違うな。お前らが取り返したのは――ただの火葬場だ」
直後。
ズ……ン。
足底の分厚い鉄板を突き抜けて、腹の底を直接揺さぶるような、重く鈍い地響きが走った。
船橋の空気が、ふっと一瞬だけ静まり返る。
大輔の垂れ耳が、ピクリと跳ねた。
「……なんだ、今の音」
次の瞬間。
ドゴォォォォォンッ!!
船橋の直下、居住区画の中枢に仕掛けられていた爆薬が、一斉に炸裂した。
十万トンの船体そのものを沈めるには至らないが、上部構造物を吹き飛ばすには十分すぎる威力だった。凄まじい衝撃波が船橋の床を垂直に突き上げ、大輔や特殊警備隊員たちの身体が宙へ跳ね飛ばされる。
割れたフロントガラスの向こう、夜の備讃瀬戸が一瞬にして昼間のように白熱し、猛烈なオレンジ色の火柱が、船尾の夜空を焼き尽くした。
「総員、衝撃に備えろッ!!」
佐々木班長の叫びが、鉄骨の軋む轟音に掻き消される。
爆圧で支柱をへし折られた船橋の床面が、凄まじい金属音とともに右舷側へ大きく崩れ落ちた。操舵輪の基部が吹き飛び、計器盤から白煙と火花が噴き出す。足元が三十度近くも傾斜し、崩落の危険が迫る閉鎖空間。
濛々と立ち込める煙と火花の中、ウイングの扉付近に立っていたムラカミだけが、爆発の直前に強風の吹き荒れる屋外へと身を翻していた。
「逃がすなッ!」
特殊警備隊の隊員が傾斜する床を蹴って射線を合わせようとする。だが、ムラカミは一切の躊躇なく、漆黒の荒波が渦巻く二十メートル下の海面へ向かって、暗闇の中へとダイブしていた。
「くそっ……見失った! 海へ飛び込んだぞ!」
崩壊した船橋の床は、今にも抜け落ちそうに軋みを上げ、足元には粉々になった計器の破片と海図が、雪崩のように滑り落ちていく。
その混乱の中、傾斜の底で頭から血を流して呻いているのは――取り残された海賊たちだった。爆風で吹き飛ばされ、変形したコンソールと防密扉の間に下半身を挟まれ、身動きが取れなくなっている。下からは、火災の熱気と黒煙が容赦なく這い上がってきていた。
「う……あ……熱い、助けてくれ……!」
先ほどまで大輔たちに銃口を向けていた海賊が、情けない悲鳴を上げて、炎の迫る足元に爪を立てていた。
佐々木班長が歪んだ手すりを掴みながら、大輔を鋭く振り返った。
「大輔! 残存要救助者の確保だ! 油圧スプレッダーを持ってこい、引き摺り出すぞ!」
その言葉を聞いた瞬間、大輔の頭の中で、何かが激しくショートした。
眼前で血を流す海賊。
だが、大輔の鼻腔には、通路で首元を撃ち抜かれ、泡立つ血を吐きながら倒れた神田の生臭い血の匂いが、べっとりとこびりついて離れない。
「……救助……?」
大輔の唇が、怒りと絶望で激しく震えた。マズルに深い皺が寄り、獣の牙が剥き出しになる。頭では「救わなければならない」と分かっているのに、両脚が床に縫い付けられたように動かない。
「なんで……こいつらを、助けなきゃいけないんですか」
崩壊する船橋の轟音を切り裂くような、大輔の血を吐くような絶叫だった。
「あいつらは神田先輩を撃ったんですよ!? 人を殺して、船を爆破した連中だ! 自業自得だ! 俺の……俺の手は、人殺しを助けるためには動かないッ!!」
「大輔ッ!!」
佐々木が傾斜する床を力づくで這い上がり、大輔のプレートキャリアの胸ぐらを掴み上げた。
歴戦のシェパードの鋭い牙が剥き出しになり、唾を飛ばして怒号が叩きつけられる。
「お前だけが神田を想っているとでも思ってんのか!!」
「……ッ!」
大輔は息を呑んだ。胸倉を掴む佐々木の太い腕が、小刻みに、しかし激しく震えていた。長年潜水班を共にしてきた右腕を撃たれ、最も腸が煮えくり返っているのは、目の前の班長なのだ。
「俺だって……俺だって今すぐこいつの喉笛を噛み千切って、海へ蹴り落としてやりたい! だがな……俺たちは裁判官じゃない!! 誰が生きて、誰が死ぬべきか、命の選別をする権限など、俺たちには与えられていないんだッ!!」
佐々木の双眸から、血の涙のような悲痛な光が走った。私怨をプロの理性で押さえ込んでいる、凄絶な横顔だった。
「相手が極悪人だろうが、テロリストだろうが……海で死にかけている命があるなら、己の感情を殺し、泥水を啜ってでも引き摺り出す! それが、ジャパウ沿岸警備庁の潜水士の鉄の掟だッ!! 動け、間ァッ!!」
足元が崩れ落ちる極限の船橋。
大輔の目から、堰を切ったように熱い涙が溢れ出した。
獣の憎悪と、人を救うための理性が、大輔の魂を引き裂こうと激しく軋みを上げる。だが、大輔は雄叫びとともに己の呪縛を振り解き、油圧ツールを掴むため、炎の迫る傾斜の底へと駆け出した。




