第28話 硝煙の船橋、雪崩れ込む背中
第2部 第28話:硝煙の船橋、雪崩れ込む背中
血と汗の匂いを追い、大輔は船の最上階――船橋へと通じる重厚な鉄扉の前に到達した。
息を殺し、扉のノブへ手を掛けようとした、その瞬間だった。
大輔の黒い鼻が、ピクンと強く跳ねた。
扉の向こう側から、濃密な恐怖の汗の匂いと、拭きあげられたばかりのガンオイルの臭気が、淀んだ空気とともに漏れ出している。
(……待ち伏せだ!)
大輔が反射的に身を低く沈め、鉄扉の死角へ転がり込んだ直後だった。
ダダダダダンッ!
耳を聾する銃声とともに、自動小銃から吐き出された無数の弾丸が分厚い鉄扉を容易く貫通し、大輔の頭上があった空間を薙ぎ払い、背後の隔壁を蜂の巣にした。ビーグルの鋭敏な嗅覚と、とっさの低い姿勢がなければ、間違いなく頭を吹き飛ばされていた。
跳弾の破片と火花が散り、鉄の焦げる猛烈な臭気が鼻腔を刺す。
扉の外の通路では、後から駆けつけてきた機動警備隊の隊員たちや佐々木班長も、この強烈な制圧射撃に釘付けにされていた。船橋へ通じる短い通路に踏み込めたのは、先導していた大輔ただ一人だった。
「伏せろッ!」
大輔は弾幕をかいくぐり、船橋内にある左側の巨大な海図台の陰へ滑り込み、身を縮めた。
頭上を数十発の弾丸が容赦なく飛び交い、航海計器の液晶画面が甲高い破裂音を立てて粉々に砕け散る。
「ハハハッ! 潜水士風情が、単身で乗り込んでくるとは随分と舐められたもんだな!」
コンソールの中央で、煙を上げる自動小銃を腰だめに構えていたのは、顔面に深い刀傷を刻んだ獰猛なドーベルマン――重火器で武装した海賊集団の頭領、ムラカミだった。
その背後には、防弾プレートとタクティカルベストを着込んだ三名の武装兵が、扇状に散開して小銃を油断なく構えている。
「死ねよ、ジャパウ・コーストガード!」
容赦ない十字砲火。
海図台の鉄板に7.62ミリ弾が突き刺さるたび、強烈な打撃振動が大輔の全身を激しく揺さぶる。
実戦経験の差は、あまりにも絶望的だった。
海賊たちは、紛争地帯の血煙を潜り抜けてきた本物の人殺しどもだ。射撃の正確さ、弾倉交換の隙を消す連携、そして躊躇なく他者の眉間を撃ち抜く殺意の質量。
対して大輔は、人を救うために海で訓練を重ねてきた潜水士の卵だ。射撃訓練場の紙の標的を撃つのとはわけが違う。引き金を絞る指先が、極度の緊張と倫理的葛藤でわずかに震える。
それでも大輔は、血まみれで舵機室に倒れた神田の姿を思い出し、六十四式自動小銃の銃口を海図台の縁から突き出して応射を試みた。
ダダンッ!
二連射。肩の骨が砕けそうな直線的な反動。だが、放たれた弾はムラカミの肩口をかすめ、背後の窓ガラスを粉砕しただけに終わった。
「甘いんだよ、犬っころが!」
ムラカミが嗤い、左の海賊へ顎をしゃくった。
一人の海賊が遮蔽物を伝って大輔の死角へ回り込み、銃口を頭上へ向けようと詰め寄ってくる。
(まずい……退路がない……!)
セラミックプレート越しに、心臓が早鐘を打つ。弾丸の雨、狭まる包囲網。
――もう、だめだ。
暗い絶望の冷気が喉元まで這い上がってきた、まさにその瞬間だった。
パァンッ、と頭上の屋上ハッチが外から吹き飛ばされた音がした。
直後、天井の隙間から黒い円筒形の物体が数個、船橋の床へ転がり落ちてくる。
(フラッシュバン……!)
大輔は銃を放り出し、反射的に目を固く閉じ、ビーグルの長い垂れ耳を両手で死に物狂いで塞いだ。
ピシャアァァァァンッ!!
閃光音響弾が、船橋の空間で連続炸裂する。
数百万カンデラの白光と百数十デシベルの強烈な爆圧。人間よりも遥かに鋭敏な視覚と聴覚を持つ犬人にとって、その破壊力は絶大だった。海賊たちが鼓膜を破られ、絶叫を上げて視覚と平衡感覚を完全に喪失する。
その直後、濃緑の防弾盾を先頭に、漆黒のタクティカルギアに身を包んだ男たちが、天井ハッチと両舷のドアから雪崩れ込んできた。
上空のヘリから降下してきた、沿岸警備庁・特殊警備隊(SST)だ。
「沿岸警備庁、特殊警備隊! 武器を捨てろ!」
「動くな! 床に伏せろッ!!」
怒号とともに放たれた機械のように精密な制圧射撃が、大輔の死角へ回り込もうとしていた海賊の太腿と、小銃を持った腕を正確に撃ち抜いた。
ガランと小銃を取り落とし、海賊が悲鳴を上げて床に崩れ落ちる。特殊警備隊の隊員たちは無駄口を一切叩かず、流れるような動作で室内の制圧を進めていく。
「人質は船尾の食堂で確保済みだ! 船橋を押さえろ!」
無線の声が飛ぶ中、釘付けにされていた通路側の扉が蹴り開けられ、防弾ヘルメットを被った佐々木班長と機動隊員たちがようやく駆け込んで来た。
「大輔、無事か!」
「班長……! 俺は、大丈夫です!」
「よく持ち堪えた! そのまま身を低くしてろ! あとは任せろ!」
佐々木の怒号が響く。
形勢は完全に逆転した。
火力の優位を失い、部下を無力化されたムラカミは、歪んだ凶相をさらに引き攣らせ、血走った目で周囲を見回した。そして、粉々に割れた船橋のフロントガラス越しに、漆黒の備讃瀬戸の海を見下ろし、狂ったような笑い声を上げた。




