第27話 白煙の狙撃、闇を駆ける猟犬
第2部 第27話:白煙の狙撃、闇を駆ける猟犬
備讃瀬戸の夜気を裂き、漆黒の複合型ゴムボートが海面を滑る。
機関を絞って微速で接近した先、十万トン級原油タンカー「あきつ丸」の船尾が、巨大な鉄の絶壁となって立ちはだかっていた。
水面下では、直径十メートル近い巨大なスクリューが回転し、巻き起こるキャビテーションの渦が近づく者すべてをミンチにしようと荒れ狂っている。
「行くぞ。スクリューの死角――舵の真後ろだけが安全地帯だ」
神田のくぐもった声とともに、大輔たちは空気呼吸器を持たないスキン装備のまま、極寒の冬の海へと滑り込んだ。
轟音と凄まじい水流の乱れ。大輔は神田のフィンが生み出すわずかな水流のポケットに食らいつき、巨大な鉄の船底を這うように進む。そして、スクリューの乱流が届かない船尾のデッドスペース――ラダートランク(舵の格納部)の暗い空洞へと一気に浮上した。
プハァッ! と息を吐き出し、張り巡らされた点検用の足場へ這い上がる。
頭上には、舵機室へと通じる外部点検口のハッチ。大型犬の肩幅では絶対に通り抜けられない極狭の隙間だ。小柄な大輔は体を捻るようにしてその隙間へ滑り込み、内側からロックを解除して神田たちを引き入れた。
タンカーの心臓部の一つ、舵機室。巨大な油圧シリンダーとモーターが鎮座する空間へ潜入した大輔たちは、防水パックから素早く防弾装具と銃器を取り出し、濡れた体へ装着した。
大輔は六十四式自動小銃のグリップを握り込み、震える親指でセレクターを引っ張りながら「ア(安全)」から「タ(単発)」へ切り替えた。木製の銃床と黒染めされた鉄の冷たい感触が、これから始まる殺し合いの現実を掌に突きつけていた。
「よし。俺が油圧系統をバイパスし、外部から舵をロックする。大輔、扉の警戒を――」
神田が分厚い掌を油圧バルブへ伸ばした、まさにその瞬間だった。
パシィィンッ!
消音器を通した、破裂するような乾いた発射音が、舵機室の暗闇を薙ぎ払った。
点検に降りてきていたテロリストの待ち伏せ。暗闇を切り裂く一筋の曳光。
「フゴッ……!?」
濁った、短い絶叫。
大輔の目の前で、咄嗟に大輔を庇うように動いた神田の樽のような身体が、横合いから殴り倒されたように計器盤へ激突した。
神田の分厚い首の付け根――防弾襟のわずかな隙間、頸動脈から数センチ横の肉が弾丸に深々と抉られ、鮮血が赤い非常灯の下で黒々と吹き飛んだ。
「神田先輩ッ!!」
大輔は反射的に銃口を闇へ向け、引き金を引いた。
ダダンッ!
六十四式特有の重く直線的な反動が大輔の肩を激しく叩き、7.62ミリ弾が鉄の隔壁を貫いて強烈な火花と鼓膜を破るような轟音を散らす。敵の舌打ちと、慌てて階段を駆け上がって逃げていく足音が響いた。
大輔は銃を構えたまま膝をつき、倒れ伏した神田の首元の傷を、止血グローブで強く圧迫した。
生暖かい血が、指の隙間から容赦なく溢れ出す。神田の平たい顔が苦悶に歪み、潰れた鼻からヒューヒューと血混じりの呼気が漏れる。
「神田先輩! しっかりしてください!」
「ア……グ……」
「喋らないでください! 今、止血ガーゼを――」
「……離せ、バカ野郎」
神田の血まみれの太い指が、大輔の腕を強引に払い除けた。
網膜症で視界が歪み、首から血を流しながらも、そのパグの潜水士は獣のような執念で立ち上がり、油圧コンソールの前へ這い寄った。血に染まった掌で、メインバルブを力ずくで回し切る。
ガコンッ! という重い振動とともに、タンカーの巨大な舵が物理的に固定された。
「これで……ブリッジからの操舵は不能だ。瀬戸大橋への激突は……防いだ」
神田はそのままズルズルと崩れ落ち、隔壁に背を預けて荒い息を吐いた。
その時、頭上の甲板から、連続する閃光音とヘリコプターの爆音が響き渡った。
「本庁の特殊警備隊(SST)の降下突入が始まった……。俺はここで、舵を死守する」
神田は震える手で止血パッドを首に押し当てながら、右の暗点越しに大輔を睨みつけた。
「お前は……行け」
「俺は先輩のバディです! 先輩を置いて行けるわけが――」
「俺の血の匂いに釣られて、必ず敵がここを取り返しに来る。足手まといの俺を庇いながらじゃ、お前も死ぬぞ」
神田の黒い瞳が、不器用な情愛と、刃のような厳しさで大輔を射抜いた。
「お前の鼻は、今の発砲で逃げたテロリストの匂いを、完全に覚えてるはずだ。上から突入したSSTの『猟犬』になれ。逃げたネズミどもを一匹残らず追い詰めろ」
「神田先輩……!」
「行け、大輔! 俺の教え子なら、最後まで自分の任務を噛みちぎれッ!」
血を吐くような怒号。
大輔の胸の奥で、激しい炎が弾けた。
呉のプールで泥水を啜り、来島海峡の濁流をねじ伏せ、安芸灘の業火を潜り抜けてきた。そのすべてを叩き込んでくれたバディが、己の命を削ってタンカーの舵を守り抜いたのだ。
――もう、逃げない。
大輔は六十四式小銃の負い紐を強く引き絞り、足元に落ちた神田の血を人差し指で拭って、己の頬に引いた。
原油の臭気が染みついた船内にあってなお、大輔の嗅覚は、闇の奥から漂う新しい硝煙と、逃げた敵の「汗の恐怖の匂い」を正確に捉えていた。
「……必ず、迎えに来ます」
大輔は低く身を沈めると、血の匂いを追う本物の猟犬となって、海賊の待つ上層階への階段を一気に駆け上がった。




