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海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第25話 火花と鉄錆、最深部の鼓動  

第2部 第25話:火花と鉄錆、最深部の鼓動

 大輔が伝令のためにボートで離脱した後、傾斜を増す車両甲板の最奥。「機関室」と記された重厚な水密ハッチの前に、神田はたった一人で立っていた。

 足元を満たす海水はすでに腰の深さに達し、重油とススが黒い粘膜となって水面を覆っている。すぐ背後からは、引火した車両が爆ぜる熱波がじりじりとウエットスーツを焦がしていた。

 神田は水密ハッチのハンドルに両手をかけ、樽のような全体重を乗せて押し下げようとした。

 だが、ビクともしない。

「くそっ……水圧だけじゃねえ。船体のねじれで、枠ごと歪んで完全に噛み込んでやがる!」

 特注フルフェイスマスクの発声板越しに、神田の苛立ちを押し殺した声が響いた。

 奥からは、ゴボゴボと不気味な気泡の漏れる音と、隔壁がきしむ破滅の金属音が聞こえてくる。大輔に「五分で見捨てろ」と告げたタイムリミットまで、残り時間はあとわずかだ。

 神田の右目は、中心の暗点が大きく広がり、視界の半分を黒く塗り潰していた。薄暗い水没区画では、遠近感すらまともに掴めない。

 神田は左目だけを限界まで見開き、周囲の瓦礫を見渡した。爆燃で吹き飛んだトラックの荷台から、へし折れた太い鉄パイプが転がっているのを見つける。

 それを拾い上げると、構造的に強度が落ちている隔壁のロック受けの隙間へ、パイプの先端を勘と執念だけで滑り込ませた。

「開けやがれッ……!」

 神田が吼えた。

 テコの原理を利用し、パグ特有の極太の腕と、岩塊のような僧帽筋の力をパイプへ一点集中させる。並のダイバーなら手首の腱を違えるか、関節が外れるほどの凄まじい負荷。だが、愛玩犬の規格外の筋肉密度がそれをねじ伏せ、一歩も引かずに押し込み続ける。

 バキィッ!

 耳障りな破砕音とともに、水密ハッチのロック機構がへし折れ、扉が内側へわずかに歪んで隙間を開けた。神田はその隙間に分厚い肩をねじ込み、強引にこじ開けて機関室へ雪崩れ込んだ。

 突入した機関室の光景は、地獄そのものだった。

 主機ディーゼルは座礁の衝撃でマウントから脱落し、へし折れたパイプから、蒸気と海水が吹き荒れている。

 水深二メートルを超えた底には、破裂した配管に挟まれ、すでに事切れている機関員の姿がライトの光に浮かび上がった。

 犠牲者だ。間に合わなかった命の現実が、網膜を刺す。だが神田は一瞥しただけで、無念を振り切るように奥の空間へと首を巡らせた。感傷に浸る隙を、海は与えない。

 天井近く、倒壊した点検用足場の手すりに、必死に腕を絡ませて首だけを水面から出している影があった。

「う……あ……ッ」

「生存者だ!」

 神田は濁水を切り裂いて突進した。

 衰弱し切った若い船員の脇の下へ太い腕を差し込み、手すりから引き剥がす。

「しっかりしろ、沿岸警備隊だ! 息を吸え!」

 その瞬間、ズズズ……と、巨大な鉄の塊が海底を滑るような地響きが走った。

 フェリーの船底が暗礁から抜け落ち、横倒しへのカウントダウンが始まったのだ。

 神田は生存者の体を自身の胸にがっちりと抱え込んだ。

 大輔からの伝令を受け、「ながら」の佐々木班長たちが退避のサイレンを鳴らしている音が、船の鉄板越しに微かに聞こえる。

(大輔、ちゃんと情報を繋いだな。……よし)

 神田の両脚が同時に濁流を打ち据え、歪んだハッチをすり抜けて、崩壊する車両甲板を一直線に駆け抜ける。

 ガラガラと音を立てて転覆車両が頭上を滑り落ちていく中、神田は浸水する搬入口の縁を力強く蹴り上げ、沈みゆく船体から大きく距離を取るように外洋の鉛色の海へ身を投げ出した。

 直後、巨大なフェリーが完全にバランスを失い、横倒しになりながら白い腹を空へ晒して、猛烈な引き波の渦とともに瀬戸内の海底へ沈んでいった。

 ドバシャアァッ!

 渦の引力を、BCDの最大浮力と強靭なキックで間一髪振り切り、二つの頭部が冷たい外気の中へ飛び出した。

「神田先輩ァッ!」

 大輔の絶叫が響いた。

 神田が海水の飛沫を拭って左目を開けると、安全圏のギリギリのラインで、佐々木班長とともに第二救難艇をとんぼ返りさせてきた大輔が、身を乗り出してこちらへ手を伸ばしていた。

「……要救助者一名、確保だ! 引き揚げろ!」

 神田が海面を叩いて叫んだ直後、極度の緊張と疲労で男が神田の腕の中に崩れ落ちた。

 ボートから身を乗り出した大輔と佐々木が、要救助者の襟首を掴んで力強く引き揚げ、続いて神田の分厚い身体をボートの底へ引っ張り込む。

 間一髪。

 大輔の正確な情報伝達と、神田の右目の死角を補う異常なまでの執念。わずか数十秒の遅れが、生と死を完全に分かっていた。

 神田は仰向けに倒れ込み、フルフェイスマスクを外して「フゴッ」とパグ特有の荒い息を吐き出した。その口元には、かつてないほど不敵で、誇り高い笑みが浮かんでいた。

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