第94話 切るまで香りの分からない三香根と、何も書き留めない薬材受入係
ベルノ・カッセルは五十四歳になる人間の男性であり、レーヴェン東区に店と倉庫を構える薬材問屋《青枝商会》で、各地から届く薬草、乾燥根、樹皮、茸、花、鉱塩などを受け取り、それが荷札通りの品であるか、傷みや混入がないか、どの倉庫へ保管すべきかを判断する受入係を二十九年間務めていた。灰色の混じった焦げ茶色の髪は短く刈り込み、鼻の下には細い髭を残している。大柄な男ではないものの、毎日のように袋や木箱を持ち上げ、匂いを確かめるため荷へ身を屈めてきたせいか、背中は年齢よりわずかに丸く、その代わり指先には乾燥根を折った時の硬さや、葉へ残った湿気を見分ける細かな感覚が染みついていた。
《青枝商会》へ運び込まれる薬材は、八百屋の野菜のように見ただけで名前の分かる品ばかりではない。同じ灰白色の根でも鎮静薬へ使うものと眠気を払うものがあり、外側の色が同じ樹皮でも、採れた山や木の年齢によって内側の色と香りが違うことがある。乾燥前には明らかに別の植物でも、葉を落とし、細く刻み、乾かしてしまえば経験の浅い者にはほとんど同じに見える品さえあった。
しかも受入係が見るのは品名だけではない。薬草なら葉の色や乾燥の程度、根なら断面と香り、花材なら虫や黴の混入、樹皮なら内側の変色まで確かめ、同じ品でも湿気を含んでいれば通常棚へ入れず乾燥室へ回さなければならない。荷札へ《白眠根》と書かれていても、現物を見て別の根だと分かれば止めるのが仕事であり、産地の採取者が悪意なく似た植物を混ぜてしまうこともある以上、文字だけを信用して倉庫へ流すわけにはいかなかった。
ベルノは、その判別を二十九年繰り返している。
袋の口を開き、色を見て、指で折り、必要なら小刀で表面を削り、鼻へ近づける。その一連の動作を終えるまでに掛かる時間は短く、よほど珍しい品でなければ、商人が説明を始めるより先に答えが出ることもあった。
「西丘の乾燥白根だな。去年より少し香りが弱いけど、傷んでるわけじゃない」
「この葉は南湿地産じゃない。葉裏へ細い赤筋が残ってるから北沼の方だ」
「その樹皮は四番倉庫じゃなく五番へ持っていってくれ。今の時期に四番へ置くと湿気を吸いやすい」
そんな判断を次々に出すベルノを見て、若い頃から周囲では、
「ベルノの頭の中には、商会の倉庫がもう一組入っている」
と冗談を言う者がいた。
本人も、その言葉を嫌ってはいなかった。
品名を覚える。
産地を覚える。
匂いを覚える。
保管場所を覚える。
誰が何曜日に何を運び、どの薬房がどの品を多く買うかまで覚えておけば、帳簿を探しに戻らなくても仕事が進む。
それこそが、長年現場へ立ってきた人間の強みだと思っていた。
受入内容そのものは、もちろん商会の帳簿へ残される。何箱入ったか、どこから来たか、誰へ売ったかまで記録係が書かなければ商売にはならないため、ベルノも記録そのものを否定していたわけではない。
ただし、
「受入係が判断するための覚え書き」
や、
「現物を確認した後で付ける札」
となると話が違った。
若い助手が小さな帳面を開き、
「この葉裏の特徴だけ書いておきます」
と言えば、
「一回触ったものくらい頭へ入れろ。毎回紙を探してたら遅いぞ」
と答える。
棚の前へ細かな分類札を増やそうという提案にも、
「薬材は札を見るんじゃなく、現物を見て覚えるんだ」
と反対してきた。
その考えにも一理はある。
箱へ《白眠根》と書いてあるからといって、中身まで必ず白眠根とは限らない。文字だけを信じて現物を見る目を失えば、薬材問屋としては危険である。
しかしベルノはいつの間にか、
「現物を見ること」
と、
「確認した結果を残さないこと」
まで同じものとして扱うようになっていた。
そして《青枝商会》の仕事は、彼が二十五歳だった頃と同じ規模ではなくなっている。
当時、日常的に扱っていた薬材は百種類ほどで、倉庫も二棟しかなかった。
現在は取引先が増え、薬草や乾燥根だけで三百種類を超える。同じ植物を乾燥法や採取時期によって別商品として扱うことも多くなり、薬房だけでなく染物工房、香料店、酒造家、菓子店まで《青枝商会》から材料を買うようになったため、保管方法も以前より細かく分かれていた。
覚えることが増えた。
人も増えた。
途中で別の仕事へ呼ばれる回数も増えた。
それでもベルノは、昔と同じように頭の中へ全部を置いておけることこそ、熟練者である証のように思い続けていた。
◇
ベルノが記憶へ強く頼るようになった理由は、父の仕事にまで遡る。
父は小さな乾物店を営み、豆や乾燥茸、粉、塩漬け香草を近所の住民や宿屋へ売っていた。母が会計と客の応対をし、ベルノも幼い頃から袋の口を縛ったり、棚へ品を並べたりして手伝っている。
店の品数は三十種類ほどで、客の大半は近所の常連だった。
父は客の顔を見るだけで、
「火曜だからロマ爺さんは白豆だな」
「西通りの宿屋なら、月末は乾燥茸を二袋」
「薬師のアナは白根を半斤。今日は香草もいるか?」
と注文を先回りする。
幼いベルノには、それがずいぶん格好よく見えた。
「父さん、全部覚えてるの?」
「毎日やってりゃ自然に分かる」
「書かなくても?」
「売った数は書くさ。でも客が来るたび帳面開いて『何でしたっけ』じゃ、商売にならんだろ」
父の店では、それで問題なく回っていた。
品は少ない。
客も大きく変わらない。
同じ人が何年も同じ物を買いに来る。
父の記憶が、そのまま店の速さになっていた。
ベルノも同じやり方を身につけた。
十九歳の頃には、自分も常連客の注文をほとんど覚えられるようになっている。
ところが父が腰を痛め、重い袋を扱えなくなったことで店は次第に縮小し、ベルノが二十五歳の時に閉めることになった。
その後、乾物の経験を活かせる仕事として入ったのが《青枝商会》だった。
当時の商会は現在より遥かに小さく、ベルノを教えた受入係はエルクという六十歳近い男性だった。
エルクは荷札を信用しすぎる者を嫌った。
入って間もない頃、ベルノへ一袋の乾燥根を差し出したことがある。
「札には《白骨根》って書いてある。お前はどう見る?」
ベルノは根を手に取った。
表面は白灰色。
細長く、乾燥すると少し捻れる。
「白骨根だと思います」
「じゃあ折れ」
言われた通り一本折る。
断面は淡い黄色だった。
ベルノが首を傾げる。
「黄芯根?」
「そう。外だけ乾くと似る。札を書いた奴が取り違えたか、採取者が袋へ混ぜたんだろ」
「荷札が違ってるんですね」
「だから現物を見る」
その教えは、現在までベルノの仕事の根になっている。
別の日、見習いだったベルノが薬材の特徴を紙へ書きながら覚えていると、エルクが後ろから声を掛けた。
「書くのはいいけど、現場では紙より先に手を出せよ」
「見ない方がいいですか?」
「逆だ。紙へ《白骨根》って書いてあるから白骨根だと思うなってことだ」
エルク自身は、分厚い帳面を一冊持っていた。
産地ごとの色。
採取季節による違い。
雨季に傷みやすいもの。
見た目が似ている別品。
初めて扱った加工薬材について調べた記録まで、何年分も書き込まれている。
ベルノは不思議に思った。
「エルクさんでも、そんなに書くんですか」
「俺を何だと思ってる」
「だって、ほとんど何でも見れば分かるでしょう」
「分かるものはな」
「じゃあ普段、この帳面あまり見ませんよね」
「毎日は見ない」
「覚えてるなら要らないんじゃないですか?」
エルクは笑っただけだった。
「今のお前には、そう見えるんだろうな」
その意味を、若いベルノは深く考えなかった。
二十八歳頃には受入を一人で任され、三十五歳を過ぎる頃にはエルクより速く品を振り分ける日も増えていた。
エルクが引退する時、その古い帳面を商会へ置いていった。
「必要なら使え」
ベルノは受け取った。
しかし棚へ入れたまま、自分から開くことはほとんどなかった。
(分からないなら覚えればいい)
その頃のベルノには、それで十分だった。
長い間、本当にそれで仕事ができていたことも、後になって考えを変えにくくした理由の一つだった。
◇
現在、ベルノの下には二人の受入助手がいる。
二十八歳の男性リオ・サナスは商会へ入って六年目で、乾燥根や樹皮をよく覚えている。慎重な性格で、一度見間違えた品や、新しく入荷した産地については、自分用の小さな帳面へ特徴を書き残す癖があった。
二十一歳の女性フェナ・ルスは受入二年目で、香草や花材を中心に覚えている途中だった。嗅覚が良く、ベルノでも一度鼻へ近づけなければ気づかない程度の香りの違いを見つけることがある一方、産地名や細かな棚番号についてはまだ経験が足りない。
ある朝、北門を通ってきた荷車が予定より早く到着した。
乾燥薬草の袋が十八個。
通常なら、それを受け終えてから西方の商隊を見る予定だった。
ところが前日に街道の一部が雨で塞がれ、旅程を変更した西方商隊まで同じ時間帯に到着し、受入台の前にはさらに木箱十一個が並んだ。
「先に北便を見る。リオは袋を開けて、フェナは荷札を読み上げてくれ。西便は日陰側へ寄せて、雨に濡れた箱があれば別にしておけ」
ベルノが指示を出し、三人で作業を始めた。
フェナが一枚目の荷札を読む。
「乾燥灰葉、四袋。北丘、二十日乾燥」
ベルノは一袋から葉を取り、色と葉裏を確認する。
「問題なし。二番倉庫の通常棚」
次の箱をリオが開く。
「白苦皮、三箱」
表面を削り、内側の色を見る。
「四番。奥じゃなく入口側」
さらに月露花、淡冬皮、乾燥根と続く。
判断は速かった。
リオが新しい産地の樹皮を見て、自分の帳面を取り出す。
「この葉脈だけ一行書いておきます」
「後にしろ。今荷が詰まってる」
「初めての谷なんで」
「一回見れば覚える。今は進めよう」
リオは少し迷ってから帳面を閉じた。
その直後、店内の記録係が受入場まで出てくる。
「ベルノさん、昨日の南便の《細赤根》なんですけど、五箱で合ってます?」
「五箱」
「帳簿が四になってるんですが」
「最後に小箱が一つ追加で来ただろ。商人が荷台の下から出してきたやつ」
「ああ、あれですね。直しておきます」
その会話をしている間にも、フェナが次の札を読み上げている。
「《淡冬皮》二箱です」
「三番の乾燥棚」
続けて、
「《蒼睡花》一箱。西谷、日陰乾燥」
と読み上げた。
ベルノは記録係へ顔を向けたまま、
「六番」
と答えた。
そこへ薬房の使者までやってきて、
「昨日の白樹皮、今受け取れます?」
と尋ねる。
ベルノは倉庫係へ場所を伝える。
その間にも荷箱は運ばれていく。
午前中だけで二十九個の受入を終え、午後には通常業務へ戻った。
ところが夕方近くになって、薬房から《蒼睡花》を一箱すぐ出してほしいという注文が入った。
倉庫係が六番へ向かう。
しばらくして戻ってきた。
「ありません」
「何が?」
「蒼睡花です。今日入った一箱、六番にないです」
「あるだろ。俺が六番って言った」
「全部見ました」
ベルノ自身が倉庫へ行った。
棚の奥まで見る。
ない。
受入場へ戻って荷札控えを確認する。
《蒼睡花 一箱》
確かに入っている。
フェナが不安そうに言った。
「私も六番って聞きました」
「俺もそう言った」
リオが朝の流れを思い返す。
「蒼睡花の前が淡冬皮でしたよね」
「そうだ」
「淡冬皮は三番。それから記録係に話しかけられて、その後ベルノさんが六番って言った」
「だから六番だ」
「運ぶ側は、どっちを聞いてたんでしょう」
倉庫三番へ向かう。
淡冬皮の奥に、蒼睡花の箱が置かれていた。
淡冬皮二箱を運んだ直後、同じ流れで三番へ持っていかれたらしい。
幸い蒼睡花は強い光と熱を避ける必要こそあるものの、三番倉庫へ半日置いた程度で品質が崩れる薬材ではなかった。
「六番へ移して。今日の注文分は、その箱から出していい」
事故にはならなかった。
ベルノは、それで終わらせるつもりだった。
しかしリオが受入場へ戻ってから言う。
「荷が集中した日は、確認した後で棚番号も箱に書きませんか」
「荷札があるだろ」
「荷札には品名と産地しかありません。商会内の保管棚は、今全部口頭です」
「普段は間違えない」
「今日は間違えました」
「一回だ」
「その一回が薬材だったでしょう」
ベルノは眉を寄せた。
「何でも札へ書けばいいって話じゃない。札を見ればいい仕事にしたら、若いのが現物を見なくなる」
「現物確認と、確認後の置き場所を書くのは別だと思います」
「そこまで紙へ書かないと動けないなら、倉庫を覚えてないってことだ」
リオは、それ以上言わなかった。
フェナも黙っていた。
ベルノ自身は、
(忙しかった日に起きた一度の行き違い)
として片づけた。
ところが一週間後、今度はもっと危うい取り違えが起きた。
南方から、《白眠根》三箱と《白醒根》二箱が届いた。
二つは乾燥すると外見が非常によく似ている。
白眠根は鎮静系の調合へ使う。
白醒根は逆に眠気を払う薬へ少量加える。
作用が異なるため、《青枝商会》では必ず断面と削った時の香りを確認する決まりになっていた。
ベルノは五箱を順番に確かめた。
「手前三つが白眠。奥二つが白醒。産地札も合ってる」
フェナが商会用の札を書く。
その途中、取引先の薬師が直接受入場へ来た。
「ベルノ、去年の北谷産《冬刺皮》が残ってるって聞いたんだけど」
「四番の右奥に二束ある」
「状態見たい。今いいか?」
「すぐ戻る」
ベルノは薬師と倉庫へ向かった。
通路を空けるため、リオは白眠根と白醒根の箱を一度脇へ寄せ、その後元の辺りへ戻した。
十分ほどしてベルノが戻る。
五箱には商会札が付いていた。
白眠根三。
白醒根二。
見た目には問題ない。
夕方、白醒根を一箱注文していた薬房の使者が来た。
倉庫係が札通り一箱出す。
薬房側でも受領時に確認するため、その場で一本を折った。
使者が首を傾げる。
「これ、白眠根じゃないですか?」
すぐ出荷を止めた。
五箱すべてを受入場へ戻し、産地札と中身を再確認すると、商会札が二箱分だけ逆になっていた。
フェナの顔から血の気が引く。
「すみません。私が札を間違えました」
「現物を見た?」
ベルノが尋ねる。
「ベルノさんが確認した後だったので、位置で付けました」
「白醒根と白眠根は似てるって知ってるだろ」
「はい」
「なら迷ったら断面を見るか聞け」
「すみません」
そこで終わらせかけたところで、リオが口を開いた。
「俺も箱動かしました」
ベルノが見る。
「薬師さんが通る時です。『手前三、奥二』って位置で聞いてたのに、そこから箱動かした。戻した時に順番変わったんだと思います」
「だったら戻す時に現物を見ろ」
「それはそうです。でも、確認済みの箱そのものに何も残ってなかった」
「産地札はある」
「産地札の品名、略号です。フェナはまだ全部覚えてません」
「なら覚えるのが仕事だ」
「覚えるまで、毎回一回ずつ間違えていいんですか?」
ベルノの表情が固くなった。
リオも言い過ぎたと感じたのか、一度口を閉じた。
それでも続けた。
「俺、札だけ見ろって言ってるんじゃないです。現物を見た結果を、次に触る人へ残した方がいいって言ってるんです」
今回は薬房側の受領確認で止まった。
薬として使われてはいない。
しかし前回の倉庫違いより一段危険だったことは、ベルノにも分かる。
しかも、
「自分が現物を確認した」
ところまでは正しかった。
その結果が、自分の頭の中と、
『手前三箱、奥二箱』
という一時的な位置だけに残り、その後別の人間が箱を動かしたことで失われた。
一人で最初から最後まで触る仕事なら、それでも成立する。
現在は三人で受ける。
途中で薬師に呼ばれる。
箱を動かす人間もいる。
つまり仕事の形そのものが変わっている。
それでもベルノは、その日の時点では、
「だから札を増やそう」
とまでは思えなかった。
◇
月末、商会主のミカルが受入場へやってきた。
四十代半ばになる男性で、父の代から《青枝商会》を継ぎ、ここ十年ほどで地方の薬草組合との取引を大きく増やしている。
「ベルノ、来月から東丘薬草組合の品が入る」
書類を渡される。
「いくつ?」
「十二種類。そのうち五つは今まで扱ってない加工品」
ベルノは紙を見る。
同じ赤花根でも低温乾燥と焙り乾燥で分けられている。
半発酵させた樹皮。
途中まで乾かして香りを残した花材。
細かい等級もある。
「最初の正式便は?」
「来月第五日。来週、見本が来る」
「分かった」
ミカルはそこで話を終えず、
「それと、受入手順を少し整理したい」
と続けた。
ベルノは嫌な予感がした。
「確認札?」
「もう聞いたか」
「リオが言ってる」
「最近二回、受入後の流れで問題出ただろ」
「どっちも出荷前には止まった」
「止まったのは良かった。でも荷量も品数も増えてる。誰が現物確認して、どこへ入れると決めたか、箱へ一枚残したい」
「札ばかり増やすと、誰も現物見なくなる」
「現物確認をやめるとは言ってない。現物を見た人が最後に書く」
「書く時間分遅くなる」
「棚を探し直した時間と、五箱全部確認し直した時間より長いか?」
ベルノは黙った。
「全部変えろとは言わない。新しい十二品で一回試そう。確認者、品名、棚番号だけ」
「見本帳まで作る気か?」
「新しい品については組合の説明も残したい」
「現物見たら覚えればいい」
ミカルは少し困ったように笑った。
「ベルノだから覚えられることと、商会として残ってないと困ることは分けたいんだ」
「俺がいれば分かる」
「お前、あと三十年働く?」
「そこまでは働かん」
「だったら余計に残してくれ」
冗談めいた言い方だった。
しかしベルノには少し刺さった。
とりあえず、新規十二品だけ確認札を試すことで話は終わった。
その日の帰り道、ベルノは普段より少し機嫌が悪かった。
帳面が嫌いなわけではない。
商会帳簿が必要なのも知っている。
それでも、
「自分の判断を紙へ書かないと次へ進めない」
ような仕事に変わることが、自分の腕が落ちた証明のように感じられた。
市場を通った時、《三香根》という見慣れない根菜が目に入った。
掌より少し長い白茶色の根で、一本が三つの太い節へ分かれている。
売り台の横には小さな札が三枚あった。
『上節――若草香』
『中節――木実香』
『下節――土甘香』
「同じ根なのに違うのか?」
ベルノが尋ねると、店主の女性が一本持ち上げた。
「切ればすぐ分かるよ。上は青い香り、真ん中は木の実みたいな匂い、下は生だと弱いけど長く煮ると甘くなる」
「外から見分けられない?」
「慣れた人なら硬さや節の形で大体は。でも絶対なら切る」
「料理も別?」
「上は火を入れすぎると香り飛ぶ。真ん中は焼く。下は煮込むといい」
「一本なのに面倒だな」
「美味しく食べたいならね」
ベルノは一本買った。
家へ戻り、三つの節を切り離す。
上。
中。
下。
店で見た説明は一度で覚えている。
(上が若草、中が木実、下が土甘)
問題ない。
並べてから手を洗うため台所の反対側へ移り、戻ってみる。
三つの節は、切り離すと想像以上によく似ていた。
一瞬だけ、
(右が上だったか?)
と迷う。
硬さを確かめる。
最も硬いものが下だろう。
残り二つの片方を薄く切る。
爽やかな青い香りが出た。
「こっちが上」
残ったものが中。
切れば分かった。
ベルノは、
(ほら、札なんかなくても現物を見れば分かる)
と妙に安心した。
店主からは節ごとに調理を変えるよう言われている。
しかし三つの鍋を使うのが面倒だった。
「同じ根なんだから、長く煮れば全部食べられるだろ」
根玉葱と燻製肉を鍋へ入れ、三香根も三節まとめて加えた。
しばらくすると、上節から爽やかな香りが立つ。
しかし下節がまだ硬いため、さらに煮る。
青い香りが弱くなる。
中節が柔らかくなる。
下節へ火が通る頃には、最初にあった上節の匂いはほとんど残っていなかった。
食べられる。
下節には甘味がある。
中節も普通の根菜としては悪くない。
ただ、
「三香」
と呼ばれる意味は分からなくなっていた。
翌日、市場の店主へその話をすると、呆れられた。
「全部一緒に長く煮たの?」
「ちゃんと食えたぞ」
「食べられるかどうかじゃなくて、上の香り飛んだでしょう」
「飛んだ」
「真ん中は焼いた?」
「煮た」
「それじゃ三香根買った意味薄いよ」
「料理は面倒だな」
「説明の札まで置いてあるのに」
ベルノは少しむっとしたものの、もう一本買った。
今度は自分で料理する前に、《持ち込み食堂》へ持ち込んだ。
悠斗は根を受け取り、三つの節を見比べる。
「どこがどれか分かります?」
ベルノが尋ねる。
「初めてなので説明を聞きたいです」
「上が若草香。中が木実香。下が土甘香。上は短く、中は焼く、下は長く煮る」
「じゃあ切って確認します」
悠斗は三つへ分け、それぞれ端を少し切った。
若草香の節からは青い爽やかな匂い。
木実香からは穏やかな香ばしさ。
土甘香は生では香りが弱い。
「確かに違いますね」
悠斗は三枚の小皿を出し、それぞれへ節を置いた後、紙片へ、
『最後・短く』
『焼く』
『先に煮る』
と簡単に書いて皿の前へ置いた。
ベルノがすぐ反応する。
「それ、必要か?」
「この後ほかの料理もあるので、混ぜないように」
「三つだぞ。覚えられるだろ」
「覚えられますよ」
「だったら書く必要ないじゃないか」
悠斗は、特に気を悪くした様子もなく紙を置いたままにした。
「覚えていられることと、覚えておく必要があることは少し違うかなと思ってます」
「料理人なのに、自分が今何するかくらい頭へ入れないのか」
「入ってます。でも、それを頭の中で持ち続けるより、今の火加減とか肉の状態を見たいので」
ベルノには、まだ納得できない。
悠斗は土甘香の節を先に薄い出汁へ入れ、根玉葱と一緒に弱めの火で煮始めた。その間に別の客から持ち込まれていた魚の様子を見て、ミレイアから注文の確認を受け、白肉の表面も焼いていく。
何度か別の作業を挟んだ後、三香根へ戻る。
小皿の紙を見る。
『焼く』
木実香の節を厚めに切り、油を薄く引いた鍋へ並べた。表面へ焼き色がつくと、生の時より木の実に近い香りがはっきり立つ。
最後に若草香を薄切りにし、白肉へほぼ火が入った段階で加える。長く炒めず、表面が僅かにしんなりしたところで火を止めた。
土甘香を煮た汁へ白肉を合わせ、その上へ焼いた木実香と若草香を盛る。
《三香根と白肉の三仕立て》
ベルノは、まず下節から食べた。
煮た土甘香は柔らかく、根玉葱とは違う穏やかな甘味が汁へ出ている。
木実香は噛んだ瞬間に焼いた香りが立つ。
若草香は、昨夜の鍋では消えていた爽やかさを残していた。
「本当に全部違うな」
「同時に同じ火を入れなかったので」
「でも、途中に置いてた札。あれなくてもできただろ」
「多分できます」
「じゃあ、何で書く」
ベルノがそこへ戻ると、悠斗は少し考えてから答えた。
「途中で誰かに話しかけられても、別の鍋を見ても、戻った時に一秒で続きが分かるからです」
「一秒くらい考えれば思い出せる」
「そうですね。でも、その一秒を十回使うより、紙へ預けておいた方が料理を見る方に使えます」
「そんなので腕が鈍らないか」
「何の腕です?」
「料理人なら、料理の手順は覚えてるものだろ」
「手順を知らないから書いてるわけじゃないです。忘れても困らない部分まで頭で持ち続けたくないだけです」
ミレイアが少し笑う。
「悠斗さん、買い物の紙も書きますよ」
「在庫全部覚えられないから?」
ベルノが尋ねる。
「覚えてる物もありますけど、書いた方が確実なので」
ベルノは皿へ視線を戻した。
自分の仕事の話をするつもりはなかった。
それでも最近の二件を思い出し、気づけば口へ出していた。
「薬材問屋で受入をやってる」
そこから、《青枝商会》の仕事量が増えていること、若い助手が帳面を使いたがること、自分は現物を見て覚えるよう教えていることを話した。
さらに、忙しい日に蒼睡花を別の倉庫へ入れたことと、白眠根と白醒根の箱へ逆の札が付きかけたことも話す。
「薬そのものを見分けられなかったわけじゃない」
ベルノは念を押した。
「俺が見た時には全部合ってた。後の流れで入れ違った」
悠斗は頷いた。
「それなら、ベルノさんの見分ける力とは別のところで起きたんですね」
「そうだ」
「その別のところを、記録で補うのが嫌なんです?」
「嫌というか……若いのが札だけ見て動くようになるのが嫌なんだ」
「それは現物を必ず先に見る決まりにすればいいのでは?」
「商会主も同じこと言ってる」
ミレイアが尋ねる。
「ベルノさんが現物を見分けられる力って、確認札を書くようになったらなくなるんですか?」
「なくなりはしない」
「じゃあ若い人が、現物を見てから自分の判断を書いたら?」
「覚えるのが遅くなるかもしれない」
「覚えるまでは記録を見て、覚えた後も間違い防止で書くのは駄目?」
ベルノは少し不機嫌そうに匙を動かした。
「皆、同じようなこと言うな」
悠斗が尋ねる。
「ベルノさんは、何が一番嫌なんでしょう」
「だから、札ばっかりになると――」
「それ以外です」
ベルノは黙った。
自分でも、札そのものが嫌な理由をそこまで考えたことがない。
「昔は、全部頭に入ってた」
やがてそう答えた。
「今もかなり入ってるんですよね」
「もちろんだ」
「扱うものは昔と同じです?」
「増えた。三倍以上」
「人も増えました?」
「増えた」
「倉庫は?」
「二棟から六棟」
「だったら、昔より覚えられなくなったというより、覚えておかなきゃいけない量が増えたんじゃないですか」
ベルノは返事をしなかった。
「書き始めたら、昔ほど覚えられなくなったみたいで嫌なんだよ」
口へ出してみると、ずいぶん単純な理由だった。
ミレイアは馬鹿にしなかった。
「でも、二十九年前と今って同じ仕事量じゃないんですよね」
「違う」
「なら、やり方が変わっても不思議じゃないと思います」
悠斗も続けた。
「覚えられないから書くんじゃなくて、覚えておかなくていいものを外へ出して、その分を現物を見る方へ使う、と考えることもできません?」
ベルノは三香根の小皿を見た。
たった三つの節でも悠斗は書いた。
だからといって、若草香と木実香を見分けられなくなったわけではない。
むしろ節の状態を見ながら、それぞれ違う火を入れている。
「俺の仕事は薬材だ。間違ったら料理よりまずい」
「それなら、使える確認方法が一つ増えることは悪くない気もします」
悠斗はそれ以上押さなかった。
ベルノも、その場で考えを変えたとは言わなかった。
ただ、帰る頃には、
『覚えておかなくていいものを外へ出す』
という言葉だけが頭へ残っていた。
◇
翌週、東丘薬草組合から十二種類の見本が届いた。
ベルノは受入台へ、ミカルから渡された小さな確認札の束を置いた。
札には三つしか欄がない。
『品名』
『確認者』
『保管棚』
「まず現物を見る。札だけで判断しない」
ベルノがリオとフェナへ言う。
二人が顔を見合わせる。
「分かってます」
「それから確認終わった奴が、この札を書く。新しい十二品だけだ」
リオが少しだけ口元を緩めた。
「何だ」
「何も言ってません」
「顔で言ってる」
一つ目の見本を開ける。
《東丘赤花根・低温乾燥》。
色を見る。
断面を見る。
香りを確かめる。
通常の赤花根より香りは穏やかで、断面の赤みも薄い。
「低温乾燥で合ってる」
荷札も確認する。
一致。
ベルノは確認札へ、
『東丘赤花根・低温乾燥』
『ベルノ』
『五番・乾燥棚二』
と書いた。
妙な気分だった。
自分が今分かっていることを、わざわざ文字へしている。
二つ目。
《東丘赤花根・焙り乾燥》。
現物。
荷札。
確認札。
三つ目の《薄香皮・半発酵》は、ベルノにも初めての加工品だった。
表面へ白い斑点がある。
一瞬、黴に見える。
組合の見本説明には、
『内側まで白く入り込んでいない表面斑は正常な発酵膜。緑色変は不良』
とある。
ベルノは一度読めば内容を覚えた。
以前なら紙を閉じて終わっただろう。
今回は、商会の見本帳へ、
『表面白斑は正常の場合あり。緑変色不可。内側まで湿りある場合は保留』
と短く書いた。
リオが隣から見る。
「そこまで書くんですか」
「初物だからだ」
「何も言ってません」
「また顔だ」
作業の途中で商人から空箱の置き場所を聞かれ、記録係から入荷数の確認も入った。フェナが別の見本について質問し、ミカルまで倉庫の空き状況を聞きに来る。
以前なら、話が終わるたび、
(さっきの品、五番のどの棚だったか)
と頭の中へ残していた情報を探す。
今回は受入台へ戻り、確認札を一度見るだけで続きが分かる。
昼過ぎには十二種類すべての見本を確認できた。
ミカルが様子を見に来る。
「どうだった?」
「札がなくても、十一種類は分かった」
「そうか」
「でも、あって邪魔ではなかった」
「それは採用ってこと?」
「見本だけで決めるな」
ミカルは笑い、正式便でも続けることになった。
翌月の本入荷は、見本とは規模が違った。
十二種類、合計三十六箱。
さらに従来の通常便まで重なる。
ベルノは始める前に、リオとフェナへ手順を確認した。
「荷札より先に現物を見る。品が合ってると判断したら、確認した本人が札へ書く。運ぶ奴は棚番号を見て持っていく。ただし倉庫へ置く時にも、品名が合ってるか一回見る」
フェナが尋ねる。
「棚番号、もう覚えてる薬材でも札を見ます?」
「見る」
自分でそう答えた時、少し前の自分なら絶対に言わなかったと思った。
「頭と札が違ったら、その場で止められる」
「分かりました」
入荷が進む。
途中、《薄香皮》の一箱でフェナが手を止めた。
「ベルノさん、これ白い斑点が多くないですか?」
ベルノも見る。
正常な発酵膜に見える。
ただし見本より範囲が広い。
「組合説明、どこまでだった?」
ベルノは見本帳を開いた。
リオが後日届いた追加説明を書き足していた。
『白斑が表面の半分を超える場合、内部の残留湿度を確認』
「切って見るぞ」
樹皮を一枚開く。
内部へわずかな湿りが残っている。
不良品とまでは言えないが、そのまま長期保管用の棚へ入れる状態ではない。
「通常棚じゃなく乾燥室へ仮置き。組合へ確認を出してくれ」
フェナが言う。
「帳面見なかったら、五番へそのまま入れてました?」
ベルノは少し嫌そうな顔をした。
「多分な」
「書いててよかったですね」
「お前が気づいたのも良かった」
フェナは少し嬉しそうに笑った。
その日の受入は、確認札を書く工程が増えたにもかかわらず、終業時刻は普段とほとんど変わらなかった。記入そのものには時間を使ったが、誰が確認したのかを人へ聞きに行ったり、運んだ後に棚を探し直したりする時間が減ったためである。
だからといって、
「紙を増やせば全部うまくいく」
わけではないことも、間もなく分かった。
一月後、西方から《灰睡葉》が入荷した。
フェナが現物を確認し、
『灰睡葉』
『確認 フェナ』
『六番倉庫』
と札を書いた。
倉庫係が箱を運ぼうとした時、近くを通ったベルノが香りへ違和感を覚えた。
「待て。その箱、開けて」
中身は確かに灰睡葉である。
葉裏の特徴も合う。
しかし乾きが甘く、表面の一部が通常より暗い。
「フェナ、品名確認の時に乾燥も見た?」
フェナが顔を曇らせる。
「香りと葉裏で品種だけ見ました」
「この葉は、湿ったまま六番へ入れたら駄目だ」
「すみません」
ベルノは乾燥室へ回すよう指示した後、怒鳴らずに考えた。
確認札は正しく書かれている。
品名も正しい。
棚番号も、正常品なら六番で正しい。
それでも仕事としては足りなかった。
リオが尋ねる。
「札へ『乾燥確認』も増やします?」
ベルノは首を振った。
「何でも札へ足したら、今度は札の項目を埋めることが仕事になる」
「じゃあ?」
「札は、品名、誰が確認したか、どこへ入れるかだけでいい。何を見るべきかは品目ごとの見本帳へ残す」
「現物判断は人?」
「そこは人だ」
以前なら、
『フェナが札へ頼った。やはり札は駄目だ』
と結論づけたかもしれない。
今回は、記録へ任せる部分と、人間がその場で判断する部分を分ける必要があると考えた。
確認札は、途中の情報を次の人へ渡す。
見本帳は、過去の経験を残す。
現物の状態を最終的に見るのは、受入係本人。
役割が違う。
その違いが見えるようになると、ベルノは記録そのものへ感じていた抵抗が少しずつ薄れていった。
◇
秋の初め、ベルノは三香根を三本買い、《持ち込み食堂》へ持っていった。
ミレイアがすぐ気づいた。
「前の三つの香りがある根ですね」
「ああ。今日は俺も分ける」
ベルノは調理台の端を借り、一本ずつ三節へ切り分けた。
端を少し削る。
「若草香」
小皿へ。
次を切る。
「木実香」
別皿へ。
最後を触り、
「土甘香」
三つ目へ置く。
そこまでした後、ベルノは自分から小さな紙へ、
『最後』
『焼き』
『先煮』
と書いた。
ミレイアが笑う。
「書くんですね」
「分かってても書く」
「三つですよ?」
「この後、話しかけられるかもしれない」
「前と全然違いますね」
「人間は変わるんだよ」
少し不機嫌そうに答えながら、ベルノ自身も笑っていた。
悠斗は今回は、前とは違う料理を考えた。
土甘香は細かく切り、根玉葱と一緒に柔らかくなるまで煮てから軽く潰し、乳を加えてとろみのある汁へする。木実香は厚切りにして白肉と一緒に焼き、香ばしさを出す。若草香は極細に刻み、料理へ火を入れ終えた最後に散らす。
《白肉の三香根乳煮仕立て》
前回とはまるで違うが、それぞれの節の性質は同じように活かされている。
「前にどう料理したか、覚えてた?」
ベルノが尋ねる。
「覚えてましたけど、簡単な記録も見ました」
「覚えてるのに?」
「今日違うものを作りたかったので、前に何をしたか確認した方が考えやすかったです」
「前の記録は消す?」
「残します。違う料理なので」
ベルノは少し頷いた。
「昔のやり方が残ってるから、次が作りやすいのか」
「そういうこともあります」
ベルノは、自分を教えたエルクの話をした。
何十年分もの帳面を残していたこと。
自分は、
「覚えているなら帳面は要らない」
と思っていたこと。
最近になって、その帳面を久しぶりに開いたこと。
昔は取引が途絶えていた北高地の白樹皮が再び入荷した際、
『寒い年は外皮の青みが強く出る。異品ではない』
という二十年以上前の一文が残っていたおかげで、今年の品を誤って不良扱いせずに済んだ。
「エルクさん本人は、もう商会にいないんですよね?」
悠斗が聞く。
「とっくに引退してる」
「でも記録は残った」
「ああ」
「何のために書いてたんでしょうね」
ベルノは以前なら、
「忘れた時のため」
と答えただろう。
今は少し違った。
「自分が覚えるためだけじゃなかったんだろうな。次に見る自分かもしれないし、自分以外の奴かもしれない」
エルクの記憶は、エルクが商会を離れた日に消えた。
しかし帳面の中に置いた経験は残った。
自分もいつか《青枝商会》を離れる。
その時、
『ベルノなら見れば分かった』
という言葉だけが残っても、次の受入係には何の役にも立たない。
そこから《青枝商会》では、新しい見本帳を作り始めた。
といっても三百種類すべてを一度に書き直すことはしない。
エルクの古い帳面。
現在の取引記録。
薬草組合の説明書。
ベルノやリオ、フェナが経験したこと。
必要なものを、よく扱う品から少しずつ追加する形にした。
ベルノが自分で最初に書いたのは、《白眠根》と《白醒根》だった。
『乾燥外観は酷似。白眠根は断面灰白、削ると甘く鈍い香り。白醒根は断面黄白、削ると辛い清香。箱の位置だけで判断しないこと』
最後の一行を書いた時、少し気まずかった。
リオが覗く。
「自分へ書いてます?」
「全員へだ」
「はい」
「笑ってるだろ」
次は《蒼睡花》。
『遮光保管、六番倉庫。受入集中時は確認札必須。口頭指示のみで流さない』
これも、自分の失敗から生まれた一文である。
フェナは《灰睡葉》へ、
『品種確認後、葉の乾燥状態も確認。湿りが強い場合、通常棚へ直接入れず乾燥室へ相談』
と書いた。
以前のベルノなら、
「そんなこと一回経験すれば覚える」
と言った。
しかし自分が一回経験すれば、自分は覚える。
リオも一度経験すれば覚える。
フェナも一度経験すれば覚える。
では新しく入る者も、同じ失敗を一回ずつしなければならないのか。
その必要はない。
そこは記録から始めればいい。
数か月後、十七歳の見習いコルが受入へ入った。
初日にベルノは言った。
「荷札だけで品を決めるな。まず現物」
「はい」
「分からなかったら見本帳を見ろ」
コルが意外そうな顔をする。
「帳面、見ていいんですか?」
「何で駄目なんだ」
「薬材は全部頭に入れろって聞いたので」
ベルノは、少し前までの自分ならまったく同じことを言ったと気づいた。
「覚えるのは覚えろ。ただ、曖昧な記憶だけで薬材を決めるくらいなら帳面を見ろ。見てから現物と比べる」
「はい」
「帳面にない特徴へ気づいたら?」
「覚えます」
「それもいいけど、まず俺かリオへ見せろ。正しいなら書き足す」
コルは素直に頷いた。
ベルノはその姿を見ながら、若い自分へエルクが帳面を見せた日のことを思い出した。
◇
冬へ入る前、《青枝商会》へ《夜白芯》という北高地の薬根が届いた。
十年以上取引が途絶えており、コルはもちろん、フェナも実物を見るのは初めてだった。
「荷札は夜白芯です」
コルが言う。
「荷札の話は後。現物を見ろ」
コルが一本取る。
外皮は灰白。
切ると断面が薄い青色をしている。
「帳面見ます」
「見ろ」
見本帳には、エルクの古い記録を写した項目があった。
『夜白芯――冬採取は断面青みあり、春採取は乳白。削ると甘く冷たい香り。類似の薄夜根は断面灰色、苦香』
コルが表面を少し削る。
「甘い匂いです」
ベルノも確認する。
「夜白芯で合ってる」
確認札へ品名、確認者、棚を書く。
コルが尋ねる。
「ベルノさんは昔これ見たことあるんですか?」
「十五年くらい前に何度か」
「帳面なしでも分かりました?」
ベルノは少し考えた。
「思い出したとは思う。でも時間掛かったかもしれない」
「帳面あってよかったですね」
「ああ」
自然に答えた。
少し離れたところでリオが笑った気配がした。
「何笑ってる」
「何も言ってません」
「顔だ」
年末の棚卸しでも、記録の意味を感じる出来事があった。
五番倉庫の低温赤花根について、帳簿では三箱、現物では四箱ある。
ベルノの記憶でも四箱だった。
以前なら、
「先月、小箱一つ追加で来た」
と自分の記憶だけを根拠に帳簿を直させたかもしれない。
今回は確認札の控えを遡る。
追加分一箱の受入札が見つかった。
記録係が正式帳簿へ移す時に漏らしていたことが確認できた。
「俺も四箱って覚えてた」
ベルノが言う。
リオが尋ねる。
「じゃあ記録なくても分かったじゃないですか」
「俺が『覚えてる』だけじゃ、帳簿を書き換える根拠として弱いだろ」
「記録の味方になりましたね」
「記録は敵じゃない」
口へ出してから、自分でも妙に感じた。
最初から敵などではなかった。
自分が勝手に、
『覚える人間』
と、
『書かなければ仕事ができない人間』
を二つへ分けていただけである。
棚卸し後、ミカルが受入場へ来た。
「確認札、来年も続ける?」
ベルノは少し考えてから答えた。
「続ける。ただし項目は増やしすぎない。品名、確認者、棚でいい。状態の注意は見本帳へ分ける」
「現物確認は?」
「当然残す。むしろそこは今まで通り厳しくする」
「なら任せる」
ミカルは笑った。
ベルノも少しだけ口元を緩めた。
◇
年が明けた頃、ベルノは仕事帰りに三香根を一本買い、《持ち込み食堂》へ寄った。
悠斗へ渡す。
「今日は、俺が何も説明しなかったらどうする?」
「前に二回来てるので、もう覚えてますよ」
「何を?」
「上節は香りが飛びやすい。中節は焼くと香ばしい。下節は長く火を入れると甘い」
「記録もある?」
「あります」
「覚えてるなら見なくていいだろ」
以前の自分と同じ言葉を、今度は少し試すように言った。
悠斗は笑った。
「今日は前と違う料理にしたいので、むしろ見ます」
「何で?」
「前に何をやったか分かれば、それと違う方法を考えられるからです」
料理記録を確認する。
一度目は三つを別の火入れにして一皿へまとめた。
二度目は土甘香を乳煮へし、木実香を白肉と焼き、若草香を仕上げに使った。
「じゃあ今日は、下節を最初に焼いてから少量の出汁で蒸し煮にしてみます」
前の記録があるから、その反対や別の方法を考えられる。
中節は粗く刻み、白肉と炒める。
若草香は極薄に削り、熱い料理へ最後に載せるだけにした。
《三香根と白肉の香り重ね》
同じ食材でも三度目の料理はまた違う。
「記録があると、同じやり方に縛られると思ってた」
ベルノが言う。
「そういう使い方もできるでしょうけど、俺は前に何をしたか忘れないためにも使ってます」
「同じ失敗もしにくい」
「そうですね」
ベルノは頷いた。
「薬材も同じだな」
最近の商会について話す。
新しい見習いが入ったこと。
見本帳を見ながら現物を覚えていること。
自分も確認札を書くようになったこと。
「ベルノさん、書くようになって、前より覚えられなくなりました?」
ミレイアが聞く。
ベルノは少し考えた。
「逆かもしれない」
「どうして?」
「全部を同時に頭へ置かなくなったからな」
棚番号。
今何箱目か。
誰が確認したか。
それらは後から見れば分かる。
そこまで頭の中へ保持し続けなくてもよい。
その分、今年の薬材は去年より香りが弱いとか、同じ産地でも乾燥状態が違うとか、現物を見なければ分からないものへ集中できる。
「記憶を使わなくなったわけじゃない」
ベルノが言う。
「何を覚えるかが変わっただけだ」
悠斗は、
「その方が仕事に合ってるなら良さそうですね」
とだけ答えた。
それからしばらく経った春の朝、東丘から新しい便が届いた。
コルが確認札を準備し、フェナが通常便を開き、リオは先に到着した樹皮箱の状態を見ている。
ベルノは最初の《薄香皮》を受け取った。
表面の発酵膜を見る。
白斑の量。
乾き。
匂い。
内部。
一通り確かめてから、
「問題なし。五番、発酵棚」
と判断する。
コルが札を書く。
次はフェナが《東丘赤花根・低温乾燥》を見る。
ベルノは横から答えを先に言わない。
フェナ自身が断面と香りを確かめ、
「問題ありません。五番、乾燥棚二」
と答える。
確認札へ自分の名前を書く。
受入場が混み始めた。
記録係が数を聞きに来る。
薬房の使者が急ぎの商品を求める。
別の荷車まで門へ入ってくる。
ベルノはいくつか指示を出し、別の箱を確認した後、途中だった作業へ戻った。
確認札を見る。
どこまで終わったか分かる。
自分の頭の中を探す必要はない。
昼前、コルが一本の樹皮を持ってきた。
「ベルノさん、これ《青脈皮》だと思うんですけど、見本帳より香りがかなり弱いです」
ベルノが現物を見る。
外見は青脈皮で合っている。
脈の入り方も同じ。
ただし香りは確かに弱い。
「産地は?」
「南丘。ここは初めてです」
見本帳にも南丘の項目はない。
以前なら、自分の経験から似た産地を当てはめ、
「同じ青脈皮だろう」
と判断した可能性がある。
今は急がない。
「保留札を付けろ」
コルが黄色い札を取る。
『要確認』
通常の確認札とは違う。
「組合へ聞く。それまでは通常棚へ入れない」
「分かりました」
午後、返事が届いた。
品種は青脈皮で合っている。
南丘は土質の違いで香りが弱くなるが、薬効検査は済んでおり正常品。
ベルノは見本帳を開いた。
『青脈皮・南丘産――外見同、香り弱。初回入荷時、組合確認済。産地札照合』
日付も書く。
横でコルが見ていた。
「次に俺が同じの見たら、この帳面使っていいんですよね」
「いい」
「ベルノさんに聞かなくても?」
ベルノは一瞬だけ迷った。
「現物と帳面が合ってるなら、自分で判断していい。違和感があったら聞け」
「はい」
以前なら、
「自分へ聞かなくても仕事が進む」
ことを、自分の価値が減るように感じたかもしれない。
今はむしろ、それでよいと思った。
エルクが帳面を残したように、自分が知っていることを自分しか使えない状態へしておく方が、商会にとっては不便である。
その日の受入がすべて終わった後、ベルノは台の上を片づけた。
確認札の控え。
新しい見本帳。
その横には、エルクの古い帳面も置いてある。
三つを棚へ戻す。
帰り支度をしていたリオが言った。
「ベルノさん、本当に書く人になりましたね」
「何回それ言うんだ」
「最初、俺が帳面出したら怒ってたので」
「荷が詰まってる時に書いてたからだ」
「葉裏の特徴を一行だけです」
ベルノは数秒黙った。
「……あれは悪かった」
リオが振り返った。
「今、謝りました?」
「帰れ」
フェナとコルが笑う。
「お前らも帰れ。明日も便あるぞ」
全員が帰り支度を始める。
ベルノは最後に、今日書き足した南丘産青脈皮の項目をもう一度開いた。
この特徴なら、明日も覚えている。
一週間後も覚えているだろう。
一月後でも、おそらく思い出せる。
それでも日付を書き、帳面を閉じた。
明日の自分が忘れるから書いたのではない。
忙しい日の自分が余計な迷いへ時間を使わないためでもあり、自分以外の誰かが同じ薬材を手にした時、一から同じ疑問を抱き、同じ問い合わせをしなくても済むようにするためでもある。
二十九年間覚えてきたものが、紙へ書いた瞬間に消えるわけではない。
むしろ現物を見る目も、匂いを嗅ぎ分ける鼻も、そのまま残っている。
変わったのは、それらを自分の頭の中だけに置く必要はないと理解したことだった。
ベルノは倉庫の戸締まりをリオの残した確認板と照らし合わせ、すべて施錠されていることを確かめると、《青枝商会》の最後の灯りを消した。明日になれば、また知っている薬材も、見たことのない薬材も届くだろうが、そのどちらに対しても、まず自分の目と手で現物を確かめ、必要なら過去の記録を開き、今日新しく分かったことがあれば次の誰かへ残していけばよかった。
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