第93話 傷んだ葉の下から伸びる返芽菜と、一度の失敗で仕事を戻せない印刷工房監督
マルタ・エッケルは四十五歳になる人間の女性であり、レーヴェン中央区の外れにある印刷工房《白梟印房》で、客から原稿を受け取るところから版の準備、試し刷り、完成品の検品、納期の調整に至るまで、工房全体の流れを管理する現場監督を務めていた。濃い栗色の髪は首筋へ触れない長さまで切り揃え、作業中には紙粉や墨が顔へ掛からないよう細い布で後ろへ押さえている。小柄で華奢に見えるものの、厚い紙束や木版を日常的に持ち運んできたため腕には十分な力があり、右手の親指と人差し指には、何十年も紙の端を揃え続けたことで薄い硬皮ができていた。
《白梟印房》が扱うものは、厚い本ばかりではない。商店が店先へ掲げる値札、役所から配られる告知、学校で使う文字練習紙、芝居小屋の演目表、薬房が薬袋へ添える注意書き、旅商人が通りで配る小さな宣伝札など、同じ文面を何十枚、何百枚と必要とする仕事が毎日のように持ち込まれてくる。
原稿を受け取った後も、ただ機械へ紙を入れれば同じものが出来上がるわけではない。文字を一つずつ組んで版を作り、原稿と照らし合わせ、上下や左右を間違えていないかを確かめたうえで試し刷りを行う。そこで文字の位置や墨の濃さを調整し、正式な枚数へ入ってからも、何十枚かごとに見本と比べて版のずれや文字抜けが起きていないか確認しなければならなかった。
一枚だけ失敗したなら、その一枚を使わなければ済む。
しかし誤った版で百枚、二百枚と刷ってしまえば、同じ間違いがそのまま増えていく。特に日付や時刻、価格、薬の量、集合場所のような情報を間違えれば、紙と墨の損失だけでは終わらず、その紙を信じた誰かの行動まで誤らせる可能性があった。
だからマルタは、若い職人へ何度も言ってきた。
「一枚早く刷ることより、間違ったものを百枚作らない方が大事だからね」
工房で働く者たちも、その考え自体には異論を持っていない。
問題は、誰かが一度大きな失敗をした後だった。
版組みで文字を取り違えれば、その後はしばらく版台へ立たせない。墨量の調整で大きく失敗すれば、刷り機へ触れさせることを避ける。納品数を間違えた者には数勘定を任せず、紙を切り損ねた見習いには裁断以外の仕事を回す。
失敗直後なら、それ自体は不自然な対応ではなかった。
原因が分からないまま同じ作業へ戻せば、同じ失敗を繰り返すかもしれない。
ところがマルタの場合、一度外した後に、
「いつ、何ができれば戻してよいのか」
を決めていなかった。
一週間が過ぎても、
(まだ早いかもしれない)
と考える。
一月が過ぎても、
(また同じことをしたら)
という心配が残る。
本人が別の作業を問題なく続け、注意手順を覚え、反省した様子を見せていても、一度失った仕事だけはなかなか返さない。
マルタ自身は、それを罰だとは思っていなかった。
工房を守っている。
客を守っている。
同じ失敗を繰り返さないために、危険な場所へ戻していないだけだと思っていた。
そのやり方を何年も続けた結果、《白梟印房》では別の問題が目立つようになっていた。
経験を積んだ職人が複数いるにもかかわらず、重要な版組みや最終確認はマルタと一部の熟練職人へ集中する。若い者が小さな失敗をすると、その仕事を覚える機会そのものが減り、一度外された者は、次第に自分から提案することをやめていった。
マルタの仕事だけが増える。
それでも彼女は、
(任せてまた失敗するよりはいい)
と考えていた。
その考えが本当に工房を安全にしているのかを疑うまでには、かなり長い時間が必要だった。
◇
マルタが印刷の仕事へ入ったのは十七歳の時だった。
父は革袋を作る職人で、母は市場近くの菓子店で包装と会計をしていた。兄が二人いたものの、長兄は荷車商へ入り、次兄は町の警備仕事を選んだため、マルタも家業を継ぐよう求められることはなかった。
本人も革細工にはあまり興味がなかった。
子どもの頃から好きだったのは、文字の並んだ紙だった。
学校へ通えた期間は長くなかったが、教会が配る読み書き用の紙や、市場の壁へ貼られる告知をよく眺めていた。内容を読むこと以上に、
「どうして同じ紙が何枚もあるのか」
ということが不思議だった。
ある日、父へ聞いたことがある。
「これ、誰かが全部一枚ずつ書いてるの?」
「大きい町には、同じ紙を何枚も作る工房があるらしいぞ」
「どうやって?」
「そこまでは知らん」
知らないなら自分で見たいと思った。
十七歳になった年、《白梟印房》の前身にあたる小さな印刷屋へ入り、最初は紙運びと掃除から始めた。
当時の親方はゲルド・エッケルという二十九歳の男性であり、後にマルタの夫となる人物でもある。ゲルドは作業に厳しかったが、失敗した見習いからすぐ仕事を取り上げる人ではなかった。
マルタが初めて墨ローラーを任された日、力を入れすぎたため試し刷りの文字が潰れたことがある。黒い墨が文字の隙間へ広がり、本来は細く見えるはずの線まで太くなっていた。
「止めろ」
ゲルドが言った。
マルタは青ざめた。
「すみません。墨が多かったですか?」
「それもあるけど、ローラー押しすぎ。紙三枚で気づいたならまだいい」
ゲルドは失敗した一枚を捨てず、乾かしてからマルタへ渡した。
「持っとけ」
「これを?」
「次に、どこまでなら大丈夫か比べるため」
翌日。
マルタがいつもの紙揃えへ向かおうとすると、ゲルドから再びローラーを渡された。
「昨日失敗したのに、また私がやるんですか?」
「昨日失敗したから、今日やるんだろ」
「また潰したら?」
「いきなり百枚刷らせるわけじゃない。まず三枚」
最初の一枚は、今度は慎重になりすぎて墨が薄かった。
二枚目で少し調整する。
三枚目が見本とほぼ同じ濃さになった。
「昨日より分かってる」
ゲルドはそれだけ言い、次の作業へ移った。
版組みを覚え始めた時にも、マルタは文字を一つ逆さに入れたことがある。幸い、試し刷りで見つかったため本刷りへは入らず、使えなくなった紙も一枚で済んだ。
マルタは、
「今日はもう版を触らない方がいいですか」
と聞いた。
ゲルドは怪訝そうな顔をした。
「何で?」
「間違えたから」
「直しただろ」
「また間違えるかもしれません」
「じゃあ短い版をもう一本組め。やらせなかったら、いつ正しくなるんだ」
その育て方が、当時のマルタには当たり前だった。
失敗すれば原因を見る。
すぐ大きな仕事へ戻すのではなく、少ない枚数や簡単な版で試す。
確認して問題がなければ、次へ進む。
失敗前と同じように何も考えず任せるわけでもなく、失敗したからといってその仕事を永久に奪うわけでもない。
二十三歳でマルタとゲルドは結婚した。
子どもには恵まれなかったが、二人で工房を少しずつ大きくし、版の種類を増やし、従業員を雇った。《白梟印房》という名前になったのも、その頃である。
ゲルドは版と印刷機を中心に見て、マルタは検品、注文、在庫、納期をまとめるようになった。
二人の役割は自然に分かれた。
その生活が十三年ほど続いた後、マルタが三十六歳の冬にゲルドは病で亡くなった。
最初は風邪に似た高熱だった。
数日で治ると思っていた。
しかし熱が下がらず、治療師を呼んでも回復せず、十日ほどで帰らなかった。
悲しむ時間もないうちに、工房には翌週納品の注文が残った。
職人もいる。
賃金も払わなければならない。
材料の発注も止められない。
マルタは、それまでゲルドが担当していた判断まで自分で引き受けることになった。
最初の一年は失敗が多かった。
マルタ自身が全ての機械へ慣れていない。
職人たちも最終判断を誰へ求めればよいのか迷う。
注文を受けすぎた週もあれば、紙の仕入れ量を読み違えたこともある。
それでも一つずつ手順を整え、三年ほど掛けて、
「マルタが全体を見る工房」
という形へ変わっていった。
そして四年前、そのやり方を決定的に固くする出来事が起きた。
当時二十四歳だった職人、ヨエル・ハーンが、役所から依頼された避難訓練の告知を担当したのである。
ヨエルは十代から印刷仕事へ入り、版組み、刷り、紙準備の全てを一通りこなせる職人だった。動作は派手ではないが、慎重で、ゲルドが生きていた頃から、
「長く使える」
と言われていた。
役所から届いた原稿には、
『西鐘が三度鳴った後、第二広場へ集合』
と書かれていた。
ところがヨエルは、版を組む際に、
『第三広場』
としてしまった。
第二広場と第三広場は、どちらもレーヴェン市内に実在する。
存在しない地名ではない。
だから出来上がった文章だけを読んでも不自然には見えなかった。
ヨエル本人が試し刷りを確認する。
別の職人も文字の抜けや版の傾きを見る。
マルタはその日、学校向けの大量教材へ付ききりになっており、役所の見本を机の端で確認しただけだった。
「文字欠けなし。墨も問題なし」
そう見て、本刷りを許可した。
八百枚。
すべて刷った。
束ねて役所へ納品した。
翌朝、役所の職員が工房へ走り込んできた。
「集合場所が違います」
そこで初めて間違いが分かった。
すでに一部は町へ掲示されていた。
職人を分けて回収する。
正しい版を組み直す。
刷り直す。
役所へ届ける。
作業は夜中まで続いた。
幸い訓練本番まで日数があったため、間違った紙を信じて住民が第三広場へ集まるような事態にはならなかった。
それでも、
「もし災害時の実際の告知だったら」
という考えは残った。
紙八百枚。
墨。
人手。
それらを失ったことより、人を誤った避難先へ向かわせる可能性を作ったことの方が、マルタには重かった。
翌朝、ヨエルは工房が開く前から待っていた。
「すみませんでした」
「何で第二と第三を間違えたの?」
「原稿を見た時には第二だと分かってたんです。でも版を組む途中で、別の告知に第三広場があったのが頭に残ってたのかもしれません」
「原稿と照合した?」
「しました」
「それで見つけられなかったの?」
「はい」
「八百枚よ」
「分かってます」
「分かってるで済むことじゃない」
「はい」
マルタはその日から、ヨエルを正式な版組みから外した。
最初は一週間ほどのつもりだった。
紙の裁断。
束ね。
納品準備。
在庫確認。
そういう仕事を任せた。
一週間後、商店向けの短い版なら戻してもよいのではないかと考えた。
ところが実際に原稿を渡そうとすると、
(価格を一桁間違えたら?)
という不安が出た。
「もう少し後にしよう」
一月が過ぎる。
ヨエルは何も言わず別の仕事を続ける。
その頃には本人なりに照合方法を考え、原稿へ印を付けながら確認する方法まで作っていた。
それでもマルタは、
(練習でできても、本番でまた間違えたら)
と思った。
三月。
半年。
一年。
刷り機の補助や紙管理へは戻した。
それでも正式な版組みと最終原稿照合だけは、ほとんど任せなかった。
その仕事はマルタと、五十二歳になる熟練職人ベラ・コンツへ集中した。
ヨエルも強く抗議しなかった。
ただ、以前は原稿を受け取ると、
「この文字だと一段狭くできます」
「ここは少し空けた方が読みやすいです」
と自分から意見を出していた男が、いつの間にか、
「次は何をしますか」
とだけ聞くようになった。
マルタは、それを慎重になった結果だと思っていた。
◇
現在の《白梟印房》では、ヨエルのほかに、版と印刷機を長く担当するベラ、紙の裁断と在庫を管理する三十八歳の男性ルーグ、見習い二年目になる十九歳の女性ナナ・ウェルが働いていた。
学校が増え、商店も多くなったレーヴェンでは印刷物の需要が年々増しており、以前より仕事量は多い。
ある月曜日には、役所から三種類の掲示物が同時に持ち込まれた。
来月の街路清掃日程。
市場西門の一時閉鎖。
井戸点検による使用停止時間。
いずれも大量部数ではないものの、日時と場所が重要な原稿だった。
ベラが三枚を机へ並べた。
「私が西門と井戸。ヨエルに清掃日程やってもらえば、午前中で版終わるよ」
マルタはほとんど考えず答えた。
「ヨエルは紙の準備をお願い。版は私が一つやる」
ヨエルは何も言わなかった。
ベラだけが顔を上げる。
「いつまで?」
「何が?」
「ヨエルを版から外しておくの」
「役所の掲示でしょう。間違えられない」
「四年前から一回も版で間違えてないよ」
「版を任せてないんだから当たり前でしょう」
ベラは少し口を閉じた後で、静かに続けた。
「じゃあ、何をしたら戻せるの?」
マルタは手を止めた。
「どういう意味?」
「四年前に失敗して外した。それは分かる。でも、その後何をできれば版組みに戻るの?」
「慎重に仕事できるようになったら」
「どうやって確かめるの?」
「それは……」
「試し版?」
「決めてない」
「期間?」
「時間だけの話じゃない」
「だったら、戻す条件ないじゃない」
ヨエルが近くにいる。
それ以上話すことができず、マルタは、
「今は注文を進めて」
と会話を切った。
夕方、ヨエルが揃えた紙束を持ってきた。
「西門の分、百二十枚準備できました」
「ありがとう」
「次は井戸の紙でいいですか?」
「同じ大きさでお願い」
「分かりました」
以前なら、原稿を見て、
「この版ならこう組んだ方がいい」
と言ったかもしれない。
今は何も聞かない。
マルタは紙束を運んでいく背中を見送りながら、ベラの言葉を思い返した。
『戻す条件ないじゃない』
自分では、
「十分安全になったら戻す」
つもりだった。
しかし十分とは何かを決めていないなら、永遠に十分にならない。
その数日後、今度は見習いのナナが小さな失敗をした。
商店向けの値札用紙を切る際、完成寸法の線ではなく、その一つ内側へ引かれていた補助線を基準にしてしまい、十六枚を細く切りすぎたのである。
高価な紙ではない。
まだ印刷前だったため、文字入りの完成品を捨てたわけでもない。
別の小型札へ回せる可能性もある。
「すみません」
ナナはすぐ謝った。
「線、こっちが切る場所だと思ってました」
マルタは一枚を手に取り、寸法を見る。
「この紙、前も切ったよね」
「はい」
「次から裁断はルーグにやってもらって。ナナは紙揃えと包装へ戻って」
ナナの表情が僅かに固くなった。
「いつまでですか?」
その一言で、マルタは止まった。
ヨエルには四年間答えられなかった質問である。
「……しばらく」
ナナはそれ以上聞かず、
「分かりました」
とだけ答えた。
午後、ルーグが裁断台で紙を揃えながら小声で言った。
「ナナ、裁断覚えてる途中なんだけどな」
「だから一回外すの」
「外すのは分かる。でも戻す時は?」
「様子見て」
「何の様子?」
また同じところへ来た。
マルタは苛立った。
「失敗した直後に同じ紙を切らせて、また駄目にしたらどうするの」
「最初は廃紙で練習させればいいだろ」
「仕事中に練習ばかりさせる余裕ない」
「でも外したままなら覚えないよ」
「ルーグ」
「分かった。俺は切る」
ルーグはそれ以上言わなかった。
マルタも帳簿を開いたが、いつものように数字へ集中できなかった。
ヨエルの八百枚と、ナナの十六枚では失敗の大きさが違う。
人への影響も違う。
本人の経験も違う。
それでも自分が最初に取った対応は、
『その仕事から外す』
という点で同じだった。
そして外した後にどうするかは、どちらにも決めていない。
◇
その週の終わり、工房へ紙を納めている農村商人が、荷車の端に積んでいた《返芽菜》という葉野菜を一束置いていった。
長い茎の周りへ肉厚の葉が幾重にも重なって生える植物で、色は濃い緑から中心へ向かうほど淡くなる。ところが今回の束は運搬中に擦れたらしく、外側の葉に裂けや傷が多く、一枚は端の広い範囲が茶色く変わっていた。
「こんなの、売り物になるの?」
マルタが聞く。
「これは自分の家用に持ってたやつ。紙多く買ってもらったから置いてく」
「傷んでるけど食べられる?」
「外葉の駄目なところだけ落とせばな。芯は元気だ」
商人は一本を持ち上げ、根元を示した。
「畑じゃ、外から葉を取って芯を残す。根まで残しておけば、しばらくしてまた柔らかい葉が出る」
「外の葉がこんなに傷んでも?」
「外葉が傷んだからって、芯まで死んだとは限らんよ。逆に芯まで腐ってたら、外だけ剥がしても駄目だけどな」
「どうやって見るの?」
「根元押して柔らかすぎないか、変な臭いしないか、中の色がおかしくないか。食うなら食うで、駄目なところは落とす」
マルタは一束受け取った。
その夜、家で外葉を一枚ずつ剥がしてみる。
傷の深い部分は茶色く柔らかくなっている。
そこは食べたくない。
ただし裂けているだけの葉や、端に擦り傷がある葉まで腐っているわけではない。その下へ進めば、しっかりした緑の葉が現れ、中心近くには柔らかな淡色の葉が詰まっていた。
商人は、
「芯を残せばまた出る」
と言った。
しかしマルタは畑を持っていない。
その日は全部食べるつもりで根元から切り、外葉も中心葉も同じ大きさにして鍋へ入れた。
塩漬け肉と根玉葱も加える。
煮る。
食べられはした。
ただし外葉はまだ筋が強く、そこへ合わせて火を入れたため、柔らかな中心葉は崩れ気味になっている。
翌日、残っていたもう一束を見た時、
(これも同じように全部煮ても、また同じになるな)
と思った。
そこで《持ち込み食堂》へ持っていくことにした。
悠斗は返芽菜を受け取ると、葉を外側から一枚ずつ確かめた。
「ここは擦れ傷ですね。こっちは傷みが深いので落とした方がいいです」
「裂けてる葉は?」
「変な臭いもないし、中まで変色してないので使えそうです」
ミレイアが中心を覗き込む。
「中はかなり綺麗ですね」
「農家では、芯残すとまた葉が出るらしいよ」
マルタが言う。
「家へ植えるんですか?」
「私は畑ないから全部切った」
「今日は葉だけなので、そのまま料理しますね」
悠斗は、外側の硬い葉、中ほどの葉、中心の柔らかな葉へ分けた。
傷みの深いところだけは切り落とす。
硬い外葉は細く刻む。
中葉は少し大きめに切る。
中心葉はほとんど形を崩さず残しておく。
「全部一緒に煮ないの?」
マルタが聞いた。
「昨日、一緒に煮ました?」
「分かる?」
「硬さがかなり違うので、同時だと中心が先に柔らかくなりそうです」
燻製肉と根玉葱を炒め、薄い出汁を加えた鍋へ最初に入れたのは、細切りの外葉だった。時間を掛けて筋を柔らかくし、その後で中葉を加え、最後に中心の柔らかな葉だけを短く火へ通す。
一方、外葉のうち見た目は悪いものの傷みが浅い部分は、さらに細かく刻み、少量の乳酪と穀粉を合わせて薄く焼いた。
出来上がったのは、
《返芽菜と燻製肉の重ね煮》
と、
《返芽菜の外葉と乳酪の平焼き》
だった。
マルタはまず煮物を口へ運んだ。
外葉にはきちんと歯応えが残っているが、昨日のような硬い筋はない。中葉は出汁を吸い、中心の淡い葉には柔らかな甘味があった。
「同じ野菜なのに、昨日より食べやすい」
「硬さごとに入れる順番を変えただけです」
平焼きも食べる。
裂けや擦り傷のあった外葉でも、細く刻んで焼けば食感になり、乳酪の塩気ともよく合った。
「捨てたところもあるんだよね」
「傷みが深い部分は使いませんでした」
「でも傷ついた葉を全部捨てたわけじゃない」
「食べられる状態のところまで捨てる必要はなかったので」
マルタは農村商人から聞いた話をした。
「この野菜、外葉を取っても芯と根が残ってれば、また新しい葉が出るんだって」
「強いですね」
ミレイアが言った。
「でも、傷んだ葉が元へ戻るわけじゃないんですよね。今ある傷はそのままで、新しい葉が伸びるんでしょう?」
マルタは少し考えた。
「前の葉は戻らない」
「そうみたいですね」
「じゃあ、前と同じにはならないんだ」
ミレイアは料理の話として答えた。
「同じに戻らなくても、食べられる葉がまた出るなら十分じゃないですか?」
マルタはその言葉へ返事をせず、しばらく平焼きを食べてから、
「印刷工房で監督してる」
と話し始めた。
四年前のヨエルの失敗。
八百枚の避難訓練告知。
集合場所の誤り。
その後、正式な版組みから四年間外していること。
そして最近、裁断を一度失敗したナナまで同じように外したこと。
「一回大きな間違いをした人へ、また同じ仕事を任せるのって怖くない?」
マルタが尋ねた。
悠斗はすぐに、
「任せればいい」
とは言わなかった。
「失敗の内容によりますね。八百枚で避難場所なら、かなり大きいと思います」
「でしょう」
「だから、翌日に同じ八百枚を一人で任せるのは怖いです」
「じゃあ外したのは間違ってない?」
「外したこと自体より、その後どうしたかじゃないですか?」
マルタの顔が僅かに動く。
「四年間、版を組ませてない」
「その間、ヨエルさんが今なら正しくできるか確かめました?」
「してない」
「本人は何か変えました?」
「照合手順を自分で考えてた。地名と数字は二度確認するとか、別の人に読んでもらうとか」
「その方法、試しました?」
「版を任せてないから試してない」
言ってから、構造の不自然さが自分でも分かった。
試していない。
だから信用できない。
信用できない。
だから試さない。
「八百枚か、ゼロかしかないんです?」
悠斗が尋ねる。
「どういうこと?」
「短い版を組んでもらって試し刷り三枚で止めるとか、地名も数字もない仕事から始めるとか、本刷り前に別の人が一緒に照合するとか」
マルタの中に、ゲルドの声が蘇る。
『百枚刷るわけじゃない。まず三枚』
「昔の親方が、そういう戻し方してた」
「マルタさんにも?」
「私が墨を潰した次の日に、また三枚刷らせた。版を逆さに入れた時も、その日の午後に短い版を組ませた」
「それで覚えた?」
「覚えた」
「今はしない?」
「ヨエルの失敗は大きかったから」
「なら、戻し方をもっと慎重にするのは?」
「また間違えたら」
「その時に、何で間違えたかを見るしかないと思います。ただし大きくなる前に見つけられる方法を入れて」
悠斗は返芽菜の皿へ一度視線を落とした。
「この野菜と人を同じにするつもりはないですけど、傷があるから束全部を捨てるか、何もなかったみたいに全部そのまま使うか、二つだけじゃなかったですよね」
「人は葉を切り落とせないよ」
「はい。だから同じじゃないです」
マルタは小さく笑った。
「そこ、ちゃんと言うんだね」
「料理だけで人の答えを決めるのは違うので」
それでも考えるきっかけにはなった。
失敗を軽く扱う必要はない。
事故をなかったことにもできない。
しかし、
「失敗したから仕事を外す」
ところで止めてしまえば、その人が現在どこまでできるのかは永遠に分からない。
◇
翌朝、マルタは工房へ入ると、紙在庫を確認していたヨエルへ声を掛けた。
「少し話せる?」
「はい」
二人で版台の端へ移る。
マルタは遠回しに言わなかった。
「版組み、またやりたい?」
ヨエルはすぐには答えなかった。
四年間聞かれなかった質問である。
「どうして今?」
「やりたいかどうか聞いてる」
「……やりたいです」
「でも?」
「もう戻すつもりないと思ってました」
「そう思わせたのは私」
「まあ、そうですね」
否定されない方が痛かった。
「四年前のこと、今も覚えてる?」
「忘れたことないです」
ヨエルは自分の机の引き出しを開け、小さく折った紙を取り出した。
そこには版組みの確認手順が細かく書かれている。
『地名・数字・日付は原稿上へ印をつける』
『版組み後、原稿と版を一文字ずつ指で追う』
『試し刷りは組んだ本人以外にも読み上げてもらう』
『数字と場所は最後に再確認』
「ずっと持ってたの?」
「版を外された後に作りました」
「何で見せなかった?」
「見せても版へは戻れないと思ってたから」
マルタは数秒黙った。
「明日、小さい仕事で試す」
ヨエルの目が上がる。
「本当に?」
「いきなり役所の大部数は渡さない。版組みと試し刷りまで。私かベラが一緒に照合する」
「分かりました」
「一回できたから全部元通り、にはしない」
「それでいいです」
ヨエルは、むしろ安心したようだった。
「俺も、明日いきなり避難掲示八百枚やれって言われたら怖いです」
その答えを聞き、マルタは別の思い込みにも気づいた。
仕事を戻すなら、
「昔と同じだけ一気に戻さなければならない」
わけでもない。
翌日、最初に選んだのは近所の靴修理店から頼まれた営業時間変更の札だった。
『来月より、休業日を水曜へ変更します』
地名はない。
数字もない。
部数は三十枚。
ヨエルが原稿を受け取り、版台へ向かう。
マルタは横へ立たなかった。
少し離れた机で別の注文を確認する。
それでも視線は何度も向きそうになる。
(『水曜』間違ってない?)
(『来月』を抜かしてない?)
心配になる。
しかし途中で覗けば、ヨエルが自分で確認するための仕事なのか、マルタが監視しながら組ませているだけなのか分からなくなる。
ヨエルが版を完成させた。
「確認入ります」
まず自分で原稿と版を一文字ずつ照合する。
その後、試し刷りを一枚。
ベラへ声を掛ける。
「読んでもらえます?」
ヨエルが原稿を持ち、ベラが刷り紙を読む。
「来月より」
「同じ」
「休業日を」
「同じ」
「水曜へ変更します」
「同じ」
マルタも最後に見た。
問題はない。
「あと二枚試して」
三枚とも揃っている。
「本刷りへ」
三十枚を刷る。
途中で版のずれも起きなかった。
完成後、ヨエルが尋ねる。
「次も同じくらいの版ですか?」
マルタは事前に考えていた段階を説明した。
最初は短文で低部数、数字や地名のない仕事。
次は数字が少し入る低部数。
その後に複数項目を含む版。
通常の商店や学校仕事へ戻し、安全に関わる役所掲示については、その後さらに確認して判断する。
「何をできたら次へ進むか、今回は先に決める」
マルタが言った。
ヨエルは静かに頷いた。
「その方が助かります」
ナナの裁断についても同じように考え直した。
「今日から小さい紙で裁断へ戻って」
ナナが驚いた。
「いいんですか?」
「最初の十枚はルーグと一緒。線を確認してから切る。十枚問題なければ、次の二十枚は一人」
「はい」
「分からなくなったら切る前に聞いて。聞いたこと自体は失敗にしない」
「分かりました」
ルーグが横から笑う。
「今回は戻す条件あるんだな」
「余計なこと言わない」
「褒めてるのに」
ナナは廃紙に近い安価な紙から始めた。
三枚目で刃の置き方に迷い、切る前にルーグへ聞く。
「完成側を残すなら、線の外ですよね?」
「そう。切る方じゃなく、残る幅を見て」
正しく切れた。
十枚終了。
問題なし。
その後の二十枚では、一枚だけ僅かに斜めになった。
ナナ自身が気づき、すぐ作業を止める。
「これ、この注文には使わない方がいいですよね」
マルタが確認した。
「小さい札なら使えるけど、この寸法には入れない。別用途箱へ」
「はい」
以前なら、
「また失敗した」
と受け取っただろう。
今回は違う。
ずれへ自分で気づき、大きく続ける前に止めた。
裁断仕事では、それも覚えるべき技術だった。
◇
ヨエルの二段目には、菓子店の小さな告知を選んだ。
『蜜菓子三個で銅貨五枚』
数字が二つ入る。
部数は五十枚。
ヨエルは自分で作った確認手順を使い、『三個』『五枚』へ原稿上で印をつけ、版組み後にも一文字ずつ照合した。試し刷りをベラへ読んでもらい、数字ももう一度確認する。
五十枚。
問題なし。
次は学校の臨時授業時間変更だった。
『第五日、午後一刻より算術講義』
曜日。
時刻。
科目。
以前ならマルタ自身が組んだ可能性が高い原稿である。
ヨエルへ任せる。
試し刷りの段階で、ベラが一つ問題を見つけた。
「『午後一刻』の『一』が少し浮いてる」
文字そのものは合っている。
ただし活字の固定が甘く、このまま刷り続ければ途中で位置がずれる可能性があった。
ヨエルがすぐ版を止める。
「締め直します」
直す。
再び試し刷り。
今度は問題ない。
マルタの頭には一瞬、
(やっぱり危ない)
という考えが浮かんだ。
しかし起きたことを整理する。
問題は本刷り前に見つかった。
確認手順が機能した。
大量の失敗にはなっていない。
「続けて」
マルタが言う。
ヨエルは短く頷いた。
順調な時ばかりではなかった。
通常の商店仕事へ戻し始めた頃、ヨエルは商人組合の案内札で一文字を抜かした。
原稿は、
『北市場東口にて』
だった。
版は、
『北市場口にて』
になっている。
本人の最初の確認では見逃した。
ベラの読み上げで発覚した。
「『東』がないよ」
ヨエルの表情が固くなる。
マルタの胸にも、四年前の感覚が一気に蘇った。
(また場所)
(やっぱり地名で間違える)
(戻すのが早かった)
「もう版から――」
そこまで言いかけて、止めた。
今、何が起きたのか。
本刷り前。
試し刷り一枚。
別人照合で発見。
紙一枚だけ。
修正可能。
四年前と同じではない。
「何で抜けたと思う?」
ヨエルは原稿と版を見比べた。
「『北市場』までを一つのまとまりで読んで、その後の『東口』も頭の中でまとめた時、『市場口』みたいに読んだんだと思います」
「今の方法だと、また起きる?」
「あり得ます」
「どう変える?」
ヨエルは少し考えた。
「地名と数字だけは、意味で読まず、一文字ずつ最後に別確認します。全部それやると時間掛かるので、重要項目だけ」
ベラが頷く。
「それなら現実的」
マルタも原稿を見る。
「今日は修正して、もう一回試し刷り。そこで問題なければ本刷りへ進む」
ヨエルが顔を上げた。
「止めないんですか?」
「何で?」
「間違えました」
「試しで見つかった。だから照合入れてるんでしょう」
自分の口から出た言葉に、マルタ自身が少し驚いた。
ゲルドなら、同じことを言ったかもしれない。
ヨエルは『東』を入れ直した。
確認。
試し刷り。
ベラが読み上げる。
今度は問題ない。
本刷りへ進み、予定部数を無事に終えた。
その日の夜、マルタは四年前の作業記録を久しぶりに開いた。
八百枚。
集合場所の誤り。
回収。
刷り直し。
役所からの注意。
どれも消えない。
大きな失敗だったという評価も変える必要はない。
ただ、その大きな失敗を理由に、
「今のヨエルが正しく仕事できるかを確かめる機会まで四年間与えなかった」
ことは、別の問題だった。
あの時すぐ外したのは理解できる。
マルタ自身も恐怖の中にいた。
問題は、外した後の道を作らなかったことだった。
◇
一月ほど経つ頃には、《白梟印房》の仕事分担が以前と少し変わっていた。
ヨエルは一般商店、学校、組合などの版組みへ戻っている。役所の重要掲示については、ヨエルに限らず、誰が担当しても複数人で照合する方法を試し始めた。
ナナも裁断へ戻り、小型の注文なら一人で寸法を取れるようになった。
もちろん、
「一度失敗しても必ずすぐ同じ仕事へ戻す」
という決まりにしたわけではない。
ルーグが紙の発注数を大きく間違えた時には、一度発注を他の人と一緒に行う形へ変えた。原因を調べると、単純な計算ミスではなく、在庫帳の更新を忘れたことで古い数字を使ったことが分かり、一月だけ発注前照合を入れた。
ベラが墨の濃さを二度続けて揃えられなかった時、マルタは以前のように、
「ベラが同じ失敗を二回した」
と結論づけず、機械側も調べた。
結果、古くなったローラーの一部が摩耗し、圧力が均等に掛かっていなかった。
「私の腕じゃなかったね」
ベラが言う。
「最初は少し疑った」
「正直」
マルタは苦笑した。
人の確認不足なら、その人へ直してもらう。
危険が大きければ一度仕事から外す。
しかし外す時には、
「何を直せば戻るのか」
まで考える。
それが新しい決まりになった。
ある休憩時間、ベラが茶を飲みながら言った。
「前より説明すること増えたね」
「増えた。面倒」
「でもマルタが全部版組む量は減った」
「その代わり、人の仕事見る時間増えた」
「監督なんだから、その方が本来じゃない?」
マルタは返事をしなかった。
否定できなかった。
そして春前、市役所から一つの原稿が届いた。
避難経路変更の掲示だった。
『東鐘二度の後、第三広場ではなく北広場へ集合』
文字を見た瞬間、マルタの身体が僅かに固まった。
地名が二つ。
数字が一つ。
安全に関わる役所掲示。
部数は六百枚。
四年前の仕事を思い出さずにはいられない。
ヨエルも原稿を見ている。
ベラが尋ねる。
「誰が版を組む?」
マルタはすぐ答えなかった。
通常仕事へは戻している。
しかし避難掲示である。
ここだけは自分で組めば安心する。
少なくとも、
(ヨエルへ任せて、もし同じことが起きたら)
という恐怖からは逃れられる。
ヨエルが先に言った。
「マルタさんが組んでもいいです」
「何で?」
「これだけは、まだ怖いでしょう」
「あなたは?」
「俺も怖いです」
その答えを聞いて、マルタは少し考えた。
失敗を忘れたから戻すのではない。
怖さがなくなった人へだけ任せるのでもない。
怖いことを分かったうえで、それを大きな失敗へしない確認手順を組めるかどうか。
「ヨエルが組んで」
ヨエルは黙った。
「ただし今回は、確認を増やす。原稿受け取り時に私と一緒に重要部分へ印を付ける。版組み後はあなた自身で全文照合、その後に地名と数字だけもう一回一文字ずつ確認。試し刷りはベラが読み上げて、最後に私が見本を確認する」
「はい」
「本刷りも最初の十枚で止める。その後も途中で抜き取り」
「分かりました」
ヨエルが原稿を受け取る。
その手は、以前より僅かに硬い。
マルタは、
「緊張しないで」
とは言わなかった。
緊張していても、手順を飛ばさなければよい。
版組みが始まる。
『東鐘二度』
『第三広場ではなく』
『北広場へ集合』
一文字ずつ置く。
完成後、ヨエルは原稿と版を順番に追い、さらに地名と数字だけをもう一度見る。
試し刷り。
ベラが読み上げる。
全て一致。
マルタも見本を取る。
『東鐘二度』
合っている。
『第三広場ではなく』
合っている。
『北広場へ集合』
合っている。
「十枚だけ」
最初の十枚を刷る。
一度止める。
版のずれなし。
文字抜けなし。
「続けて」
六百枚を刷る途中でも、何度か見本を抜き取る。
最後まで問題は起きなかった。
完成した紙束を前にして、ヨエルが長く息を吐いた。
「終わった」
「まだ納品あるよ」
マルタが言う。
「分かってます」
二人とも少し笑った。
翌日、役所へ納品する。
受け取り担当者は見本を読み、
「問題ありません」
とだけ言った。
四年前の失敗を知らない人だった。
今回ヨエルが担当したことも知らない。
外から見れば、それでよい。
正しいものが、必要な時に届く。
工房へ戻った後、マルタは今回の確認方法を作業記録へ書き込んだ。
『安全関連掲示――版組み担当本人照合、別担当読み上げ、監督最終確認、本刷り十枚後および途中抜き取り確認』
ヨエルがそれを見た。
「これ、俺用ですか?」
「違う。今後、安全関係は全部これ」
「ベラさんが組んでも?」
「ベラでも、私でも」
ヨエルは少し驚いた。
「俺だけ監視増やすんじゃないんですね」
「今回やってみて、工房の手順として良いと思ったから」
四年前の失敗は消えない。
しかしヨエル一人へ、
「避難場所を間違えた職人」
という形で貼りつけ続けるだけではなく、その失敗から得た確認方法を工房全体へ広げることができる。
その時になって初めて、四年前の出来事が、
「ヨエルを外し続ける理由」
だけではなく、
「工房を変えた経験」
へ変わり始めた。
◇
春になった頃、紙商人がまた返芽菜を持ってきた。
今度は根が残った小さな株だった。
「前の食ったか?」
「食べた」
「ならこれ、裏に土あるなら植えてみろ」
「工房の裏に少しだけある」
「水切らさなきゃ、何回か葉取れる」
マルタは一株だけ受け取り、外側の大きな葉を数枚取った後、芯と根を残して工房裏の小さな土へ植えた。
ナナが見に来る。
「何してるんです?」
「返芽菜植えてる」
「工房で野菜作るんですか?」
「一株だけ」
ヨエルも裏口から覗く。
「枯れたら?」
「枯れたら終わり」
「人より厳しいですね」
「野菜だからね」
取った葉はその日の夜、《持ち込み食堂》へ持っていった。
前回より状態が良く、虫食いが少しある程度だったため、悠斗は厚い外葉を焼き、柔らかい部分を白肉と合わせることにした。
表面へ焼き色をつけた《返芽菜と白肉の香草焼き》は、煮た時とは違う甘味があり、葉の端の軽い焦げも香ばしかった。
ミレイアが尋ねる。
「ヨエルさん、どうなりました?」
「今は通常の版組みへ戻ってる。この前、四年前と似た避難掲示も担当した」
「大丈夫だった?」
「六百枚、問題なく納品した」
「じゃあ、もう完全に前と同じですね」
マルタは首を振った。
「同じじゃない」
「違うんですか?」
「確認方法が増えた。ヨエルも自分のやり方変えたし、工房全体の手順も変えた」
悠斗が言う。
「前へ戻ったというより、別の状態になった感じですかね」
マルタは少し考えた。
「そうかもしれない。四年前より前と同じ人に戻ったわけじゃないし、私も同じ監督じゃない」
失敗前の状態へ戻す。
その考え方自体が違っていたのかもしれない。
一度起きたことは消えない。
覚えた注意も消す必要はない。
その経験を持ったまま、また仕事をする。
「今は、一回失敗した人をすぐ戻すようになったんですか?」
ミレイアが聞いた。
「そこまではしない」
マルタははっきり答えた。
「失敗が大きければ外すこともある。何度言っても安全手順を飛ばす人や、失敗を隠す人には重要な仕事を任せられない場合もある」
「誰でも必ず戻せるわけではない?」
「違う。戻すことそのものを目的にはしない」
「じゃあ何が変わったんです?」
「一回失敗した時の状態だけで、その人をずっと決めないこと」
何が起きたか。
本人が原因を理解しているか。
再発を防ぐ方法があるか。
どの程度の仕事なら試せるか。
それらを見て判断する。
一度外して終わりの方が簡単だった。
しかし監督として人を使い、育てるなら、簡単な方だけを選ぶわけにはいかない。
数週間後、工房裏の返芽菜から新しい葉が出た。
親指ほどの小さな芽を最初に見つけたのはナナだった。
「マルタさん、出てます」
帳簿を見ていたマルタは顔を上げる。
「何が?」
「野菜です」
工房裏へ行く。
以前葉を取った中心から、淡い緑色の新葉が三枚ほど伸びていた。
傷んだ外葉が修復されたわけではない。
取った葉が元へ戻ったわけでもない。
残った芯から、以前にはなかった葉が伸びている。
ヨエルも見に来た。
「本当に戻るんですね」
「戻ってないよ」
マルタが答える。
「新しい葉」
「ああ、そうか」
ヨエルは芽を見ながら少し笑った。
「そっちの方が、今の工房に似てますね」
「何が?」
「別に昔へ戻ったわけじゃないから」
マルタも芽を見る。
「そうね」
それ以上は言わなかった。
◇
夏の初めには、ナナが版組みを覚えたいと言い出した。
「裁断だけじゃなく、文字もやりたいです」
本人から出た希望だった。
最初に選んだのは、
『本日 焼き豆あります』
という短い商店札である。
部数は二十枚。
マルタは指導役をヨエルへ任せた。
「俺でいいんですか?」
「確認手順、一番細かく知ってるでしょう」
「まあ、それは」
「失敗したところも知ってるし」
「そこまで言います?」
「教えるなら役に立つ」
ヨエルは少し困った顔をしながら、ナナの隣へ立った。
「まず原稿通りに並べる。ただ、全部置いてから見るんじゃなくて、一行ごとに一回確認して」
「はい」
「俺、昔地名を間違えて八百枚刷り直したことあるから」
ナナが大きく目を開く。
「八百枚?」
「声大きい」
「すみません」
「だから『自分は合ってると思ってる』状態で読むと、間違いも合ってるように見える時がある。原稿の文字を一個ずつ見る」
「分かりました」
マルタは少し離れた場所から聞いていた。
以前なら、若い職人へヨエル自身の失敗を話させることを嫌がったかもしれない。
「危ない職人」
と思われる気がするからである。
しかし今は、自分がどこで失敗したかを理解し、それをどう防ぐか他人へ説明できることも、経験の一部だと思えた。
ナナが版を組む途中、一文字を上下逆さに置いた。
ヨエルが試し刷り前に気づく。
「ここ、向き逆」
「あっ」
ナナの顔が青くなる。
「すみません」
「直せばいい。まだ刷ってない」
「でも間違えました」
「今見つけたんだから、一回直して続ける。次は同じ形の文字置いた時に向き確認」
「はい」
マルタは口を挟まなかった。
ナナが直し、そのまま最後まで組む。
試し刷り。
問題なし。
二十枚の本刷りも終わった。
完成した札を揃えながら、ナナが言った。
「最初に逆さで入れた時、もう版組み外されると思いました」
マルタが答える。
「試し刷り前に見つけて直したなら、そこで直せばいい」
「本刷り後だったら?」
「どのくらい刷ったか、何で間違えたか、本人が気づけたかを見る。その後の任せ方も変える」
「もう二度とやらせないって決めるんじゃなく?」
「一回だけでは決めない」
ナナは少し安心したように頷いた。
秋になると《白梟印房》は再び忙しくなった。
学校の新学期。
秋市の商店札。
役所の冬支度告知。
芝居小屋の公演案内。
以前なら仕事が集中するほどマルタが版を抱え込み、夜遅くまで残っていた。
今は、原稿の内容と難しさによって役割を分ける。
ベラ。
ヨエル。
短い版ならナナ。
安全に関わるものは担当者に関係なく複数人で確認する。
ある夕方、役所から急ぎの原稿が届いた。
『北門補修のため、明日午前より荷車通行止め』
翌朝までに百五十枚。
場所。
時刻。
重要な告知である。
ヨエルは学校の版を組んでいる。
ベラは印刷機の整備中。
マルタが自分で組むこともできた。
以前なら迷わずそうした。
急ぎの時ほど、
「自分でやった方が早い」
と抱え込んだからである。
ヨエルが現在の仕事から顔を上げる。
「学校の版、あと十分くらいで終わります。その後、北門やれます」
「安全確認まで入れても?」
「夕方には刷り始められます」
マルタは納期表を見る。
間に合う。
「じゃあお願い」
「はい」
マルタはその間に紙在庫と納品担当を整える。
ヨエルが版を組み、ベラが読み上げ、マルタが最終見本を見る。
百五十枚。
予定通り終わる。
急ぎだから確認を飛ばすのではなく、急ぎでも守れる手順を使う。
その方が以前より工房全体は早く動いていた。
◇
閉店後、マルタは工房裏へ出た。
返芽菜は何度か外葉を取った後も、小さな中心葉を伸ばし続けている。最初に植えた頃ほど勢いはないため、時々土を足し、水も見なければならない。
芯が残っているだけで、何もしなくても勝手に葉が増えるわけではない。
伸びる条件を整える必要がある。
十分育った外葉を二枚だけ取り、中心の小さな葉は残す。
裏口からヨエルが声を掛けた。
「今日食べるんですか?」
「二枚だけ」
「残りは?」
「まだ小さいから」
「前なら全部切ってました?」
「最初に持って帰ったやつは根元から全部切った」
「随分慣れましたね」
「何回か見れば分かる」
ヨエルが少し黙った。
「人も?」
マルタは振り返る。
「同じじゃない」
「やっぱりそこは言うんですね」
「野菜と人を同じにされたら困るでしょう」
ヨエルは笑った。
その後で、少し真面目な顔になる。
「でも、版組みに戻してくれてよかったです」
マルタは返芽菜を手にしたまま黙った。
「遅かった」
「四年は長かったですね」
「ごめん」
ヨエルの表情が僅かに変わった。
マルタがはっきり謝ったのは、これが初めてだった。
「四年前の失敗まで、なかったことにしてほしいわけじゃないです」
「分かってる」
「俺が間違えたのは本当です」
「それも分かってる」
「でも、その後ずっと戻れないのは、きつかったです」
「うん」
すぐに許してもらおうとは思わなかった。
四年という時間も消えない。
ヨエルの方にも、
「もういい」
だけでは片づけられないものがあるだろう。
「これから私がまた、一回失敗した人を戻す条件も決めず外しっぱなしにしてたら言って」
マルタが言う。
「俺が?」
「ベラでもいい」
「じゃあ全員で言います」
「それは嫌」
「でも一人だと聞かないかもしれないでしょう」
「それは……否定できない」
二人とも少し笑った。
その夜、取った返芽菜を《持ち込み食堂》へ持っていく。
二枚しかないため、
「白肉に添えるくらいでいい」
と頼んだ。
悠斗は白肉の表面を香ばしく焼き、肉を休ませている間に同じ鍋へ返芽菜を入れた。肉から出た脂と少量の塩だけで短く火を通し、柔らかい葉がしんなりしたところで白肉と一緒に盛る。
《白肉と返芽菜の軽い焼き合わせ》
マルタは葉を口へ入れた。
最初に食べた外葉より柔らかく、苦味も少ない。
「新しい葉、味違うね」
「若い葉だからでしょうね」
「前の傷んだ葉が治って、こうなったわけじゃないんだ」
「新しく伸びた葉なので」
ミレイアが工房のことを尋ねる。
「今はヨエルさん、普通に版を組んでるんですよね?」
「うん。安全関係だけは、ヨエルに限らず誰が組んでも二人以上で見る」
「ナナさんも?」
「短い版を覚え始めた。最初に一文字逆へ入れたけど、刷る前に見つけて直した」
「外さなかった?」
「外す理由がなかったから」
その答えを、以前より自然に言える。
「前は、失敗したという事実だけを最初に見てた」
マルタは続けた。
「今は、どこで起きたか、どれくらい危険だったか、大きくなる前に本人が止められたか、同じことを防ぐ方法があるかを見る」
「それでも戻せない場合は?」
悠斗が尋ねる。
「あると思う。何回説明しても安全確認をわざと飛ばすとか、失敗を隠すとか、本人が直す気ないなら危険な仕事は任せられない」
「誰でも何度でもやらせるという話ではない?」
「全然違う」
マルタは首を振った。
「ただ、一回失敗した時の姿で、その人をずっと止めないってこと」
四年前、ヨエルは避難場所を間違えた。
その事実は変わらない。
しかし、その後に何を考え、何を覚え、どこまで変わったかを確認しないまま、
『間違える人』
として固定したのはマルタだった。
失敗した人を仕事へ戻すには、また判断しなければならない。
何を任せるか。
どこへ支えを付けるか。
何をできれば次へ進めるか。
戻せないなら、なぜなのか。
一度外して永遠に触らせない方が、監督である自分にとっては楽だった。
ただ、楽な方法と正しい管理は同じではなかった。
◇
冬が近づいた頃、《白梟印房》へ十八歳の男性セオが新しい見習いとして入った。
初日は紙揃え。
二日目には版木の掃除。
三日目から、ナナが裁断の基本を教える側へ回った。
「最初に、どっち側を残すか確認して。線そのものだけ見て切ると、幅間違えるから」
ナナが説明する。
セオが尋ねた。
「ナナさん、失敗したことあります?」
「あるよ。十六枚細く切った」
「十六も?」
「うん」
「怒られました?」
「裁断から一回外れた」
マルタは少し離れた机で帳簿を見ながら、その会話を聞いている。
「でも今は戻ってるんですよね?」
「戻る条件決めてもらって、最初は一緒に練習した」
「じゃあ失敗しても平気ですか?」
ナナは少し考えてから答えた。
「平気じゃないよ。紙は無駄になるし、お客さんから預かったものならもっと困る。でも間違えたら、何で間違えたか見て、次どうするか決める」
マルタは口を挟まなかった。
自分でそう説明できるなら、それでよかった。
昼前、セオが二十枚ずつ紙を束ねる作業で、一束だけ十九枚にした。
ナナが数え直して気づく。
「一枚足りない」
「すみません」
「もう一回、自分で数えてみて」
セオが数える。
「十九です」
「じゃあ一枚足して、もう一回」
「はい」
今度は二十。
マルタは、その様子を見ながら、
(数勘定から外した方が)
とは思わなかった。
小さな間違い。
その場で発見。
本人がやり直せる。
なら、やり直せばよい。
閉店前、ヨエルが翌日分の注文を三枚まとめてマルタへ持ってきた。
「明日の版です。薬房の営業時間変更、市場の秋売り最終日、学校の休校日」
「学校は日付入る?」
「第五日です」
「誰と確認する?」
「俺が組んで、ベラに読んでもらいます。最後の見本だけマルタさんへ」
「分かった」
以前なら学校の原稿だけ自分の机へ置き、
「これは私がやる」
と言ったかもしれない。
今はヨエルへ任せる。
任せるからといって、無関心になるわけではない。
明日、見本は確認する。
異常があれば止める。
安全に関わるなら手順を増やす。
それでよかった。
工房で働く全員が、一度も失敗しないようにすることはできない。
しかし一つの失敗がそのまま百枚、八百枚へ増える前に見つける仕組みを作り、起きた失敗から学び、直した人間がもう一度仕事へ入れる道を残すことはできる。
マルタは翌日の原稿三枚を版台の端へ揃え、それぞれの担当を書いた小さな木札を横へ置いた。
裏手の返芽菜には、これまで外葉を取った跡がいくつも残っている。最初に植えた時と同じ姿ではなく、傷んだ葉も、取った葉も戻ってはいない。それでも残った芯から伸びた葉は少しずつ大きくなり、その時々に必要な手入れを受けながら、新しい形で株を続けていた。
マルタは裏口から土の様子だけを確かめ、水はまだ足りていると判断すると、工房へ戻った。
明日も誰かが文字を組む。
誰かが紙を切る。
見習いなら、小さな間違いもするだろう。
その時、監督である自分が見るべきものは、
「この人は一度失敗した」
という過去だけではない。
今どこまでできるのか、何を直す必要があるのか、その仕事へ戻すならどの段階から始めるのかを考え、任せられない理由が残るなら、その理由まで本人へ説明する。
それが以前より手間の掛かる仕事であることは、もう分かっていた。
それでも、誰かの一度の失敗を理由に、その人のその後まで決めてしまうよりはよかった。
マルタは明日の原稿をもう一度眺めた後、仕事を始めるのは明日でよいと判断し、最後に《白梟印房》の灯りを消した。
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