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異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


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第92話 節ごとに味の違う連節茸と、一人で測りきろうとする測量師

 レイナ・ヴォルクは三十六歳になる人間の女性であり、レーヴェン市役所から依頼を受けて道路や農地、水路、建物予定地などを測る測量師として働いていた。濃い黒茶色の髪は肩へかからない程度に切り揃え、屋外作業では額へ細い布を巻き、腰には方位盤や記録板、距離紐、簡易水平器、杭打ち用の小槌などをまとめた革帯を着けている。細身ではあるものの、十五年以上にわたって野外を歩き、斜面へ杭を打ち、重い測定棒を抱えて移動する生活を続けてきたため、脚と背中には見た目以上の力があった。


 測量師の仕事は、単純に二つの地点の距離を測れば終わるものではない。新しい道路を通すなら、距離だけでなく土地の傾斜や高低差、水が集まりやすい場所、既存の建物や道、私有地との境界まで確認しなければならず、水路ならば水が途中で止まらない勾配を確保する必要がある。農地の区分を見直す場合には、現在使われている畦と土地台帳へ記された古い境界が一致しているかを調べ、必要なら過去の登記記録まで辿ることもあった。


 図面の上では指一本ほどにしか見えない差が、現地では数歩、場合によってはそれ以上のずれになる。道路が他人の土地へ入り込み、水路が逆勾配になり、建物予定地の高さを誤れば、大雨のたびに水が流れ込むような問題へつながるため、重要な区画では複数人で測定値を確認するのが普通だった。


 一人が測定棒を立て、別の一人が方位や高低差を読み、もう一人が数字を記録する。区画の終わりでは基準点へ戻って全体の誤差を確認し、許容範囲を外れていれば、その原因になりそうな地点だけを再測定する。


 本来、それは一人の目と記憶へ仕事を集中させないための仕組みだった。


 レイナも理屈では理解している。


 役所の測量規定にも、重要区画は複数人で照合するよう明記されている。


 ところが実際の仕事になると、彼女は自分以外の誰かが取った数字を、そのまま最終成果へ使うことを苦手としていた。


 助手が測定棒を立てれば、後から自分でも角度を確かめたくなる。


 同僚が一つの区画を測れば、その日の夕方にもう一度自分でも同じ場所へ行きたくなる。


 記録係が丁寧に数字を書き残していても、提出前には別の帳面へ自分の手で書き写しながら全数を確認する。


 相手を信用していないわけではない。


 少なくともレイナは、長い間そう考えていた。


 責任者である自分が最後に確認するのは当然であり、自分の名で提出する図面なら、自分の目で全てを見ておくべきだと思っていただけだった。


 ただ、その「確認」の範囲は年々広がっていた。


 最初は提出前の数字だけだったものが、やがて現場の再測定へ変わり、さらに助手の立てた測定棒の位置や、杭番号の書き方まで自分で確かめなければ落ち着かなくなっている。


 仕事仲間から、


「そこまでやるなら、二人で組んでいる意味がないだろ」


 と言われても、


「責任者だから確認しているだけ」


 と返してきた。


 そしてレイナの図面は実際に正確だった。


 大きな見落としも少ない。


 その実績が、自分のやり方は間違っていないという確信を長く支えていた。


 しかし仕事量が増えれば、自分一人が使える時間は増えない。


 体力も二十代の頃と同じではない。


 それでも誰かへ任せる範囲を広げることだけは、


(自分ではできなくなったから人へ渡した)


 ように思えて、どうしても受け入れにくかった。


          ◇


 レイナが測量師を目指したのは十六歳の頃だった。


 父は石積み職人で、母は市外れの染物工房で布の下洗いをしていた。暮らしに大きな余裕がある家ではなかったものの、父が道路や橋の補修仕事へ入る日は、幼いレイナも邪魔にならない範囲で現場の近くまで連れていってもらうことがあった。


 十歳のある日、まだ何も作られていない土の上へ等間隔に打たれた杭を見つけた。


「この棒、何のために立ってるの?」


 父へ尋ねる。


「道の端だ」


「道なんてないよ」


「今はな。これから、この間へ道を作る」


「誰がここって決めたの?」


「先に土地を測る人がいるんだよ」


 その答えに興味を持った。


 何もない土地へ線を決める人がいる。


 その線を見て石工が動き、大工が動き、土を運ぶ人間が動き、やがて何十年も残る道路や橋ができる。


 工事そのものより、その前に行われる仕事の方へ惹かれた。


 十六歳になると市の測量補助へ応募し、見習いとして働き始めた。


 最初の親方は、バルツという五十代の男性だった。


 口数は少ないが、見習いだからという理由でいつまでも雑用だけをさせる人ではなく、できることが増えれば少しずつ実際の測量へ参加させた。


 一年目のレイナが主に任されたのは、測定棒を立て、距離紐のねじれを直し、杭を打ち、記録板を持つことだった。それでも仕事の流れはよく見えた。


 ある日、レイナが測定棒を立てた時、地面が柔らかかったため棒が僅かに傾いた。


 遠くで方位盤を見ていたバルツが、


「右へ一指」


 と声を飛ばす。


 レイナが位置を直す。


「そこで止めろ」


 測定が終わった後、気になって尋ねた。


「一指くらいでも駄目なんですか?」


「近い場所なら大きな差にはならん。でもその小さいずれを何度もつないだら、最後には大きくなる」


「じゃあ最初から全部完璧にしないといけない?」


 若いレイナがそう聞くと、バルツは首を振った。


「完璧な一回なんてない。だから測り直すし、別の人間が見るし、最後に基準へ戻って確かめる」


「でも一回目が正しければ、やり直さなくていいですよね」


「一回目が正しいかどうかを、一回目だけでは分からんだろ」


 当時のレイナは、その教えを素直に受け入れた。


 一回の測定へ全ての正確さを求めるのではなく、複数の確認によって誤差を小さくする。


 だから組で働く。


 二十歳を過ぎる頃には方位盤を任され、二十三歳になると、小さな区画なら自分が中心となって測量を進められるようになった。


 問題が起きたのは二十四歳の時だった。


 二つの農家が隣接する畑の境界について、市役所へ確認を求めてきた。長年使われてきた畦の位置と古い土地台帳へ記された距離が一致しておらず、どちらの家も相手を責めてはいないものの、次の世代へ土地を渡す前にはっきりさせたいという依頼だった。


 主担当はレイナより年上の測量師で、レイナは補助として参加した。


 現場では二人で測る。


 同じ基準杭から距離を取り、それぞれ記録を残す。


 数字そのものに問題はなかった。


 ところが役所へ戻った後、主担当が現場記録を正式図面へ転記する際、一つの数字を取り違えた。


 十五歩八分。


 それを十五歩三分と書いた。


 紙の上では僅かな差に見えたが、その線を境界の端まで延ばせばずれは大きくなり、仮杭を打った時点で片方の農家から、


「うちの土地が狭くなっている」


 と抗議が出た。


 再測量を行い、間違いが発覚した。


 幸い、本工事へ入る前だったため実害は出なかった。


 主担当は上司から叱責を受けた。


 レイナ自身も、


「現場にいたなら、提出前に気づく余地はなかったか」


 と聞かれた。


 責任を押しつけられたわけではない。


 むしろ今後の確認手順を見直すための問いだったのだろう。


 それでもレイナの中には、


(私が提出図面と自分の記録を全部照合していれば、気づけた)


 という思いだけが強く残った。


 実際、自分の手元には正しい十五歩八分という数字が残っていた。


 それ以降、関わった仕事については提出前に必ず全数を照合するようになった。


 その習慣は役立った。


 小さな転記ミスを何度か見つけた。


 すると、


(数字を確認するだけでなく、重要な地点は自分でもう一度測った方がさらに確実だ)


 と考えるようになった。


 重要地点だけなら大きな問題はない。


 しかし、再測定して異常が見つからない経験が続くと、


(ここまで見るなら隣も確認した方がいい)


 という範囲の広がりが始まった。


 やがて他人が担当した区画を丸ごと再測定する。


 見習いが書いた記録も全部自分で書き写す。


 組で行う確認は、


「複数人の作業を重ねること」


 ではなく、


「他人の仕事を最後に自分一人でもう一度やること」


 へ変わっていった。


          ◇


 現在、レイナとよく組むのは二人だった。


 三十一歳の男性オスカー・レムは測量師として七年目で、背が高く、斜面や段差のある場所へ測定棒を立てることを得意としていた。図面を引く速さではレイナに及ばないものの、地面の状態や古い道の痕跡を現場で読むことには強く、特に雨の後の斜面でどこへ足を置けば安定するかをよく知っている。


 二十歳の女性カナ・セルクは見習い三年目で、小柄ながら数字を扱うことに向いていた。同じ地点を複数回測った際の差を並べ、どこからずれが大きくなったかを探すのが早く、記録板の字も丁寧だった。


 市役所から、レーヴェン北東部へ新しい排水路を通すための測量依頼が入った。


 近年、家屋が増えたことで雨水の流れが変わり、農地の一部へ水が溜まるようになったため、既存の排水路へ接続する新しい水路を作る計画である。


 予定区間は長く、途中には古い石垣と傾斜地もある。


 三人で五日程度。


 それが最初の見積もりだった。


 初日の朝、レイナは現場図を広げた。


「オスカーは北側の高低差を取って。カナは杭番号と距離の記録。私は中央から南側の境界と既存水路を見る」


 オスカーが地図を覗く。


「北側、方位まで俺が取っていいんだな?」


「一回は。それが終わったら私も確認する」


「また全部?」


「重要な水路だから」


「俺の区画だけで半日あるぞ」


「提出前には必要」


 オスカーは何か言いたそうだったが、仕事を始めた。


 初日は予定通り進んだ。


 オスカーの北側区画も終わる。


 普通なら役所へ戻って三人の数字を照合し、問題がなければ翌日へ進むところだった。


 ところがレイナは、日が傾き始めた現場で北側へ戻ろうとした。


「どこ行く?」


 オスカーが聞く。


「北側をもう一回見る」


「明日でもいいだろ」


「雨が降ったら杭が見えにくくなる」


「高低差は変わらない」


「地面の見え方は変わる」


 結局、レイナはオスカーが半日かけて取った区間の主要点を一人でもう一度確認した。


 結果はほぼ同じだった。


 差は全て許容範囲へ収まる。


「ほら」


 帰り道でオスカーが言った。


「合ってただろ」


「合ってるって確認できた」


「俺の測定は、その確認のための下書きか?」


「そういう意味じゃない」


「でも明日も同じことするんだろ」


 レイナは返事をしなかった。


 二日目。


 カナの記録板へ、少し読みづらい杭番号が一つあった。


「これ、七番?」


「はい。数字の横に斜線も入れてます」


「一番じゃなくて?」


「七です」


 レイナは数秒見た後、


「現場へ戻って確認する」


 と言った。


 カナが驚く。


「杭番号だけですよ。私、七番のところで書いたの覚えてます」


「違っていたら後で困る」


 半刻近くかけて現場へ戻る。


 杭を見る。


 七番である。


 戻る。


 それだけで予定は少し遅れた。


 三日目には、最初の見積もりから半日近い遅れが出ていた。


 オスカーが地図を見ながら言う。


「このままだと五日で終わらない」


「終わらせる」


「どうやって?」


「今日は少し残る」


「何時まで?」


「必要なところまで」


「カナも?」


 レイナはカナを見る。


 見習いは朝からずっと歩き、疲労が顔へ出ている。


「カナは先に戻っていい。役所で記録を整理して」


「じゃあ照合は?」


「私が後でやる」


 オスカーが眉を寄せた。


「だから一人で抱えるなって言ってる」


「責任者は私」


「責任者だから、三人の仕事を全部一人でもう一回やるのか?」


「間違いが出たら、提出者は私になる」


「それは俺たちが仕事しなくていい理由じゃないだろ」


「数字が間違って水路が逆へ流れた時にも同じこと言える?」


 思っていたより強い言葉が出た。


 オスカーが黙る。


 カナも記録板へ視線を落とした。


 レイナ自身、


(言いすぎた)


 とは感じたが、その場で言葉を戻すことはできなかった。


 責任を持つ。


 失敗を出さない。


 そのために自分が多く確認する。


 何が間違っているのか、自分ではまだ分からなかった。


          ◇


 四日目の午後、南側区間で問題が起きた。


 そこには古い石垣に沿って長い斜面があり、雨の後には土が緩みやすい。通常なら二人一組で入り、一人が上側で測定棒を安定させ、もう一人が下側から水平と方位を読む。


 ところが仕事は遅れている。


 オスカーには北側の追加確認を頼んでいた。


 カナは中間記録を役所へ届ける必要がある。


 レイナは、


「南側くらいなら一人で進められる」


 と判断した。


 短距離の測定なら単独でもできる。


 測定棒を立て、固定した後で下側へ移動し、方位盤と水平器を確認する。位置が悪ければ再び斜面を上り、棒を直し、また下へ戻ればよい。


 二人で行うより移動は増える。


 それでも人を待つより早いと思った。


 最初の地点で測定棒を深めに差し、地面が柔らかいため根元を踏んで固めてから斜面を下り、方位盤を覗くと棒が僅かに傾いて見えた。もう一度上り、位置を調整してから下へ戻ると、今度は問題ない。


 同じことを何度か繰り返す。


 次の地点へ移った頃、細い雨が降り始めた。


 作業を中止するほどではない。


 レイナはそのまま続けた。


 石垣に近い場所で足を置いた瞬間、表面の土が思ったより深く崩れた。


 身体が斜面側へ傾く。


 反射的に測定棒へ手を伸ばしたものの、細い棒は人の体重を支えるためのものではなく、レイナは一段下の土へ膝を強く打ちつけ、掌も地面へ擦りつけた。


 数歩滑っただけで、大きな転落にはならなかった。


 膝は痛む。


 右の掌から少し血が出ている。


 それでも骨を折った感覚はない。


 しばらくその場へ座りながら、最初に浮かんだのは痛みではなかった。


(もし足首を折っていたら)


 だった。


 周囲に誰もいない。


 雨で遠くの声も聞こえにくい。


 オスカーが戻るのは夕方。


 カナはすでに役所へ向かっている。


 自分は、


「責任を持つため」


 に一人でここへ来た。


 その自分が動けなくなれば、残りの測量そのものが止まる。


 ゆっくり立つ。


 膝へ体重を掛ける。


 痛いが歩ける。


 測定棒のところまで戻った。


 いつもの癖で続きを始めようとしたところで、手を止めた。


 自分でも馬鹿らしく感じた。


 正確な図面を作るために、規定で二人作業になっている斜面へ一人で入り、怪我をしている。


 それで何を守っているのか分からなかった。


 その日は、そこで作業を切り上げた。


          ◇


 翌朝には膝へ青い痣が広がっていた。


 歩けるため仕事へは出たが、オスカーにはすぐ気づかれた。


「膝どうした?」


「昨日滑った」


「南側?」


「そう」


「一人で?」


「大したことない」


「大したことあるかどうかじゃなくて、あそこ二人作業の場所だろ」


「時間がなかった」


 レイナがそう答えると、オスカーの表情が変わった。


「その時間なくしたの、誰だよ」


「何が言いたいの」


「俺が取った区画を全部測り直して、カナの杭番号一個確認するために半刻戻って、それで遅れてたんだろ」


「確認は必要だった」


「全部必要だったのか?」


「重要な測量なんだから」


「じゃあ俺とカナは何のためにいる?」


 また同じ問いだった。


 レイナは反射的に、


「人数が必要な量だから」


 と答える。


「量が多いから使って、精度は全部お前一人で担保するのか?」


「責任者は私だから」


「それなら俺が七年やってても、カナが何年働いても変わらないだろ」


「何が?」


「最後にお前が全部やり直さないと信用しないんだから」


「信用してないなんて言ってない」


「言葉で言ってなくても同じだよ」


 オスカーは声を荒らげてはいなかった。


 だから余計に響いた。


「俺が北側を半日かけて測る。でもお前は夕方にもう一回やる。カナが数字を書く。でも読みにくければ現場まで戻る。じゃあ俺たちが何年やったら、やり直さなくなるんだ?」


 答えはなかった。


 レイナ自身、そこを決めたことがない。


 何年経っても、おそらく自分で確認する。


 つまり経験が足りないから任せられないのではなく、


「自分でやらないと不安だから」


 任せられないだけだった。


 その日、市役所へ予定延長の報告をした。


 上司は天候も考慮し、一日の延長を認めた。


 ただし記録を見ながら、


「三人で六日なら、最初の五日見積もりが少し甘かったか」


 と尋ねた。


 レイナは一瞬迷った。


「再確認へ予定以上の時間を使いました」


「規定以上に?」


「はい」


「何か大きな誤差は見つかった?」


「今のところありません」


 上司は少し考えた後で言った。


「精度を落とせとは言わない。ただ、人員三名で組んでいる意味が薄くならないよう、次は確認方法も含めて仕事を組んでくれ」


 責める声ではない。


 それでも自分の中へ長く残った。


          ◇


 測量がようやく終わった日の帰り、レイナは北市場へ寄った。


 膝の痛みはかなり引いている。


 家へ戻ってから手の込んだ食事を作る気力はなく、焼いた肉かパンでも買おうと思っていたところで、《連節茸》という見慣れない大きな茸が目に入った。


 長い一本の茸だが、茎がはっきり三つの節へ分かれている。


 根元は白く太く、指で押してもほとんどへこまない。


 中央は薄い褐色で、根元より少し柔らかい。


 上には細い茎と大きな傘があり、こちらは触れると簡単にしなるほど柔らかかった。


 店主の老人が言った。


「節で味も使い方も違うぞ」


「一本なのに?」


「一本だから同じところもあるが、硬さが違う。下は長く煮ると出汁が出る。真ん中は焼くとうまい。上は柔らかいから長く煮るな」


「全部一緒の鍋に入れたら?」


「下が柔らかくなるまで煮たら上が消えるし、上に合わせて止めたら下が硬い」


「じゃあ別々に料理する?」


「別皿にしてもいいし、入れる時間変えて最後に一緒へしてもいい」


 疲れているレイナには、少し面倒に聞こえた。


 それでも一本買った。


 家へ帰り、夕食の準備をする。


 老人の説明は覚えていた。


 しかし、


(茸一本にそこまで分けなくても、長く煮れば全部食べられる)


 と思ってしまう。


 根元も中央も傘も、ほぼ同じ厚さへ切った。


 根玉葱と少量の塩漬け肉を入れた鍋へ全部まとめて加え、煮始める。


 最初に変化したのは上の傘だった。


 すぐ柔らかくなり、煮汁を吸う。


 中央はまだ歯応えがある。


 根元はかなり硬い。


 根元へ合わせてさらに煮ると、上部の傘は形を失い、煮汁の中へ崩れ始めた。


 中央が食べやすくなる。


 根元はまだ少し硬い。


 さらに火を入れる。


 最後には根元も食べられるようになったが、上部はほとんど元の形を残していなかった。


 味は悪くない。


 下の節からは確かに出汁が出ている。


 ただし、


(全部同じに扱わない方がよかった)


 とは思った。


 翌日、市場で予備に買っておいたもう一本を見る。


 仕事で散々、


「自分で全部やるな」


 と言われた後で、茸まで一本まとめて同じ鍋へ放り込んだことが妙に可笑しくなった。


 その茸を持ち、《持ち込み食堂》へ向かった。


          ◇


 悠斗は連節茸を受け取ると、まず三つの節へ順番に触れ、硬さと香りを比べた。


「かなり性質が違いますね」


「市場でも言われた。家では全部一緒に煮て、上が崩れた」


「じゃあ今日は、それぞれ火の入れ方を変えます」


 悠斗は最も硬い根元の節を切り離し、小さめの角切りへした。


「ここは出汁も出るみたいなので、最初から煮ます」


 中央の節は厚めの輪切りへする。


「これは焼き目をつけます」


 上部は傘を大きく残し、柔らかな茎も長めに切った。


「これは最後に短く火を入れます」


 レイナは調理台を見る。


「全部別々に作るの?」


「途中までは。でも最後は一皿へ合わせます」


 根元の節を薄い出汁へ入れ、根玉葱と一緒にゆっくり煮る。時間が経つにつれ、茸の旨味が汁へ移り、硬かった果肉も少しずつ柔らかくなる。


 その間に中央の節へ軽く油をなじませ、別の鍋で焼き色をつける。表面は香ばしくなるが、中には歯応えを残す。


 上部は白肉へほぼ火が入った最後の段階で加え、長く煮込まず、表面がしんなりする程度で火を止めた。


 最後に、根元の節から出た煮汁へ白肉と中央の焼いた節を合わせ、その上へ柔らかな傘を載せる。


 《連節茸と白肉の重ね煮》が出来上がった。


 一つの皿に、同じ茸が三つの食感で入っている。


 根元は柔らかくなり、煮汁そのものへ濃い旨味を渡している。


 中央は噛んだ時に香りが立ち、上の傘は柔らかいまま白肉の出汁を軽く吸っていた。


「同じ茸なのに、全部同じやり方にしないんだな」


 レイナが言う。


「硬さが違ったので」


「別々にやってから一緒にする方が面倒じゃない?」


「少し工程は増えます。でも、全部を同じ鍋で同じ時間だけ煮て、どこかを崩すよりは調整しやすいです」


 レイナは根元、中央、傘の順に食べる。


 どれも同じ茸の味を持っている。


 しかし役割が違う。


「全部、悠斗がやるんだね」


「今日は俺が料理してますから」


「ミレイアに頼まないの?」


 ミレイアが少し笑った。


「急に私へ来ましたね」


 悠斗も笑う。


「今日は店が落ち着いてるので自分でやりましたけど、忙しければ下ごしらえを頼むこともあります」


「切り方間違えたら?」


「何を切ってもらうかによります」


「中央の茸を薄く切りすぎたら、焼いた時に食感変わるでしょう」


「なら最初に見本を一つ切ります。絶対に戻せない工程なら俺がやることもありますけど、全部を自分でやらないと料理にならないわけではないです」


「任せた相手が失敗したら?」


 思っていた以上に強い口調になった。


 悠斗は少し考える。


「店の料理として出すなら、最終的には俺も責任あります。でも、だから皿運びから野菜洗いまで全部自分でやる、とはならないですね」


 レイナは匙を止めた。


 そこから、自分が測量師であることを話し始めた。


          ◇


 二十四歳の頃、正しい現場記録があったのに提出図面の転記ミスへ気づけなかったこと。


 それ以来、自分が関わった仕事は最後に自分で確認しなければ落ち着かなくなったこと。


 現在は、オスカーやカナが取った測定まで自分でもう一度行い、そのせいで予定が遅れ、ついには一人で斜面へ入って滑ったこと。


「提出図面には、私が主担当として名前を出す」


 レイナは言った。


「だから間違いがあったら、私が説明しないといけない。自分で見てない数字が間違ってた時に、『そこは他の人がやったので』なんて言えないでしょう」


 ミレイアが尋ねる。


「言わなくてもいいんじゃないですか?」


「どういう意味?」


「レイナさんが責任者なら、『こちらの仕事で間違いがありました』って言えばいい。でもそれと、全部自分で作業しなきゃいけないのは同じなんです?」


「自分で確認しておけば、間違いを防げる」


「全部を?」


「できるだけ」


 悠斗が尋ねる。


「測量って、同じ区間を丸ごと測り直す以外にも確認方法があります?」


「ある。基準点へ戻った時の誤差を見るとか、別方向から距離を取るとか、つなぎ目だけ照合するとか」


「なら、誰かが測ったものを信用するか、全部自分でやり直すかの二つだけじゃないんですね」


 レイナは少し黙った。


「そうだけど」


「どうして丸ごとやり直すんです?」


 答えようとして、


「責任があるから」


 と言いかけた。


 しかし斜面で滑った時のことを思い出す。


 規定を破って一人で入り、自分が怪我をすれば、仕事全体が止まる。


 それも責任者としての判断だった。


「……その方が安心するから」


 初めて、そう言った。


 言葉にしてみると、責任とは少し違う。


「他人へ任せたところで間違いが出たら、任せた私の責任になる。それが怖い」


「なら、自分で全部やる?」


「そうしてきた」


「その結果、一人で斜面へ入って怪我しかけた?」


「そう」


「もし動けなくなって、残り全部止まったら?」


「……それも私の責任」


 レイナは自分から答えた。


 ミレイアが言う。


「責任者って、一番たくさん手を動かす人じゃないのかもしれませんね」


「じゃあ何?」


「誰が何をするか決めて、必要なところを確認して、何かあった時に全体を直す人とか」


 悠斗も頷いた。


「俺も忙しい時はミレイアへ頼みます。でも何でも丸投げするわけじゃなくて、初めての作業なら最初にやり方を伝えるし、間違えると大きく変わるところは自分で見る。逆に、任せられるところまで全部抱えたら、料理そのものが遅れます」


 レイナは連節茸を見る。


 三つの節が一皿へ入っている。


 全部が同じ働きをしているわけではない。


 根元が出汁を出す。


 中央が食感を残す。


 上部が柔らかさを加える。


「測量でも役割はある」


 レイナが呟く。


「オスカーは斜面で測定棒を立てるのが上手い。カナは複数の記録から誤差を見つけるのが早い。私は図面をまとめるのが一番速い」


「それなのに?」


「最後は全部、私が触ってる」


 自分で言ってみると、ずいぶん不自然なことをしていた。


 得意な人へ任せておきながら、最後に自分が同じ仕事をやり直す。


 それでは、得意な人を使っているのではなく、単に作業量を二倍にしているだけである。


「でも任せた人が間違えることはある」


 レイナが言う。


「ありますよ」


 悠斗は簡単に認めた。


「その時は?」


「戻せるなら直します。何で間違えたかも見ます。説明が足りなかったのか、その人が確認を飛ばしたのか、作業そのものが難しすぎたのか。次に同じ任せ方をしないために」


「一回失敗したら取り上げるんじゃなく?」


「失敗の中身次第でしょうね」


 レイナは、その考え方を持ち帰った。


          ◇


 翌週、三人は市外れの小さな道路補修予定地へ向かった。


 前回ほど長い区画ではなく、二日あれば十分な仕事である。


 現場へ着いた後、レイナはいつものように地図を広げたが、最初の指示を少し変えた。


「オスカーは西側の高低差と斜面。カナは全記録と杭番号。私は東側の境界と道路線を取る」


 オスカーが聞く。


「最後に全部、お前が測り直す?」


「今回はやらない」


 すぐには誰も返事をしなかった。


「代わりに、区画のつなぎ目と基準点へ戻った時の誤差を三人で確認する。数字が怪しいところだけ再測定」


 カナが少し不安そうに尋ねる。


「私の記録も、全部別帳面へ書き直さないんですか?」


「原記録を一緒に照合する。でも私がもう一冊作るのはやめる」


 オスカーが笑った。


「膝打ったの、よほど効いたな」


「仕事して」


 午前中、オスカーは西側斜面へ入る。


 レイナは自分の境界測定を進めながら、何度も視線を向けたくなった。


(棒、垂直に立ってる?)


(あの基準点、本当に合ってる?)


 気になる。


 しかしオスカーは七年目で、しかも斜面作業は自分より安定している。


 そこへ自分が行けば、自分の区画が止まる。


 レイナは境界杭へ視線を戻した。


 昼過ぎ、オスカーが記録を持ってくる。


「西側終わり。二地点だけ、旧図面より高低差大きい」


 以前ならすぐ現場へ向かった。


「理由は?」


「雨で道肩が削れてる。ここの現場図に入れた」


 オスカーが簡易写図板を見せる。


 削れた位置も描いてある。


「午後に東側とつなぐ時、その二地点だけ一緒に見る」


「全部じゃない?」


「全部じゃない」


 午後、今度はカナの記録で一つの数字が気になった。


「ここ、十九歩二分?」


「はい」


「十九歩七分じゃなく?」


「二分です。原記録もあります」


 以前なら、その場で現地へ戻った。


 レイナはカナから最初の記録板を受け取り、前後の数字を並べた。オスカー側から逆算しても、十九歩前後に収まるため、大きな矛盾はない。


「現場、戻ります?」


 カナが聞く。


 レイナは数秒考える。


「最後の接続誤差が大きかったら戻る。今は進める」


 夕方。


 全区画を基準点へつなぎ直す。


 誤差は許容範囲内だった。


 その数字を見ても、レイナの胸には不安が残った。


(本当に全部合ってる?)


 しかしオスカーが言う。


「規定の確認は終わった」


「見落としがあるかもしれない」


「それは全部お前が測ってもある」


「簡単に言うね」


「だから三人で別のところ見たんだろ」


 レイナは提出した。


 数日経っても修正依頼は来なかった。


 一度うまくいっただけで、自分の考えが全部変わるわけではない。


 それでも、


「自分で全作業を再現しなくても、精度を確保できる」


 という最初の経験にはなった。


          ◇


 次の仕事では、逆に任せ方の問題が出た。


 市外れへ新しい倉庫を建てる予定地で、平坦な土地だったため、レイナは一辺の距離測定をカナへ任せた。


「この杭から、この奥の杭までを二回測って、差も書いておいて」


「分かりました」


 レイナは別の区画へ向かった。


 午後、カナが記録を持ってくる。


 二回の測定値はほぼ同じ。


 精度だけ見れば問題ない。


 ところが図面へ入れた時、その一辺だけ古い土地台帳と大きく合わなかった。


「どの杭を起点にした?」


 レイナが尋ねる。


 カナが現場図を指した。


 間違った古い石杭だった。


 近くには古い杭が二つあり、そのうち一つは現在使われていない。


 その事情をレイナは知っていた。


 カナは知らなかった。


「何で確認しなかったの?」


 声が強くなった。


 カナの表情が固まる。


「図面だと、こっちが基準に見えました。前の資料にも番号が残っていたので」


(だから任せると危ない)


 以前の考えが、ほとんど反射的に出た。


 そのまま、


「もういい。私がやる」


 と言いかける。


 そこで止まった。


 自分は何を説明したか。


『この杭から、この奥の杭まで』


 としか言っていない。


 古い杭が二本あることも、どちらが廃止されたかも伝えていなかった。


「……ごめん」


 レイナが言った。


 カナが目を上げる。


「え?」


「私が基準杭の説明をしてなかった。任せ方が悪かった」


「でも私も、分からなかったなら聞くべきでした」


「次から聞いて。ただ今回は、私が知ってることをあなたも知ってる前提で渡した」


 二人で現場へ戻り、正しい基準杭から測り直す。


 半刻ほど余計にかかった。


 以前なら、


(最初から自分でやれば早かった)


 と考えた。


 今回は、


(最初に基準杭を一緒に確認してから任せれば、測り直しはなかった)


 と考えることができた。


 任せることが間違いだったのではない。


 必要な情報を渡さずに任せたことが問題だった。


 帰り道、オスカーに話す。


「カナが基準杭を間違えた」


「聞いた」


「私が説明してなかった」


「珍しいな。自分の方にも原因あったって認めるの」


「うるさい」


「で、明日からまた全部自分でやる?」


「やらない」


 レイナは即答した。


「次は、任せる前に基準点を一緒に確認する」


「それでいいだろ」


 オスカーはそれ以上何も言わなかった。


          ◇


 その頃からレイナは、現場へ出る前に仕事を三つへ分けて考えるようになった。


『誰へ任せる作業か』


『その人へ共有しなければならない条件は何か』


『最後に全員で確認する場所はどこか』


 オスカーへ斜面を任せるなら、起点と終点、過去に地盤が動いた場所だけは最初に共有する。


 カナへ記録を任せるなら、現場番号と古い台帳番号が食い違っている場所を先に伝える。


 自分は区画同士の接続と、図面全体の整合を見る。


 さらに、間違えた後に簡単に戻せないものについては途中確認を入れ、後から修正できる記録整理まで自分が抱え込まないようにした。


 それでも不安は消えない。


 オスカーの区画が終われば、


(もう一度見に行った方が)


 と思う日もある。


 カナの記録を閉じた後で、


(夜に全部書き写せば安心できる)


 と考えることもある。


 そういう時は、


「何を確認したいのか」


 を自分へ問い直した。


 理由があるなら確認する。


 接続誤差が大きい。


 古い台帳と合わない。


 水路の勾配が不自然。


 そういう時は再測定する。


 ただ、


「自分でやってないから不安」


 という理由だけなら、まず組として決めた確認方法へ戻る。


 ある昼休み、カナが尋ねた。


「レイナさん、前はどうして全部自分で確認してたんですか?」


 レイナはパンをちぎりながら少し考えた。


「間違った図面を出すのが怖かったから」


「今は怖くないですか?」


「怖いよ」


「じゃあ何で任せられるようになったんです?」


「一人で全部やる方が、別の間違いを増やすこともあるって分かったから」


 オスカーが笑った。


「ずいぶん時間かかったな」


「黙って食べて」


 カナが続ける。


「でもレイナさんの方が経験長いですよね」


「経験が長い人が、全部の作業で一番上手いわけじゃないでしょう」


「例えば?」


「斜面で測定棒を安定させるのはオスカーの方が上手い」


 オスカーが得意そうな顔をした。


「複数の測定記録を並べて、どこから差が出たか探すのはカナの方が早い」


「私ですか?」


「そう。私は図面へまとめるのが速い」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 以前なら、


「主担当なら全部できなければならない」


 と考えただろう。


 今は、


「主担当でも、他の人より不得意な作業がある」


 ことを普通に言えた。


          ◇


 秋の終わり、市場で再び連節茸を見つけた。


 以前の老人が同じ店にいる。


「今度はちゃんと節ごとに分けろよ」


「一回失敗しただけで、随分覚えてるね」


「全部一緒に煮た客なんて珍しいからな」


 二本買う。


 一本は自宅用。


 もう一本は翌日の昼、オスカーとカナと一緒に食べるつもりだった。


 翌日、現場近くの簡易炊事場で連節茸を出す。


「何だそれ」


 オスカーが聞く。


「茸。三人で作る」


「俺、料理しないぞ」


「切るだけでいい」


 根元の節を切り離し、見本として一個だけ角切りにする。


「オスカーはこのくらいの大きさで下節を切って」


「全部同じじゃなきゃ駄目?」


「煮るから多少違っていい」


 中央の節はカナへ渡す。


「これは厚めの輪切り。このくらい」


 見本を一枚作る。


「分かりました」


 上部はレイナが担当する。


 三人で作業を始めた。


 オスカーが切った根元は、レイナの見本ほど完全には揃っていない。


 少し大きいものが混じる。


「もう少し――」


 と言いかけた。


 しかし煮込む部分であり、大きさの差も小さい。


「そのくらいで大丈夫」


「本当に?」


「何で疑うの」


「前のお前なら全部切り直してた」


 返す言葉がない。


 カナは中央をかなり丁寧に揃えた。


 根元を先に鍋へ入れ、煮始める。


 中央の節はオスカーへ焼いてもらった。


「どこまで焼けばいい?」


「片面に薄く色がつくくらい。ずっと動かさないで」


「焦げたら?」


「少しくらいなら食べられる」


「責任者がそれ言うのか」


「料理の責任者は私じゃない」


「じゃあ誰だ」


「今日は……三人?」


 自分でも少し妙な答えだった。


 出来上がった煮物は、《持ち込み食堂》で食べたものほど綺麗ではなかった。


 根元の大きさは少し不揃い。


 中央の一枚には焼き色が強くついた。


 それでも根元からは出汁が出ており、中央の歯応えも残り、上部は柔らかかった。


「一人で作った方が綺麗だった?」


 オスカーが尋ねる。


「多分」


「じゃあ一人でやればよかった」


「でも三人でやった方が早かった」


 カナが一口食べる。


「味は?」


 レイナも食べた。


「ちゃんと美味しい」


 完璧に自分の好みへ揃っていなくても、必要なところまで出来ている。


 それで十分だった。


          ◇


 冬前、市役所から大きな仕事が入った。


 レーヴェン南側へ新しい住宅区を整備する計画があり、道路と排水路の位置を決めるため、広い土地を一度に測る必要がある。


 通常の三人では間に合わない。


 別班から二人が加わり、五人で七日間の予定が組まれた。


 以前のレイナなら、人数が増えるほど、


「自分が最終確認しなければならない他人の作業」


 が増えると感じただろう。


 今回は初日の朝に全員を集め、地図へ区画を書き込んだ。


「三つに分ける。ただし完全に切り離さない。各区画の起点と終点は全員で共有して、二日ごとに接続誤差を確認する」


 北側はオスカーと別班の測量師。


 中央はレイナとカナ。


 南側は別班の若手二人。


「異常が出た区画だけ再測定する。私が全部を後から測り直すことはしない」


 別班の測量師が少し驚いた。


「前は全部やってたんですか?」


 オスカーが口を開く。


「そこは知らなくていい」


 レイナが先に止めた。


 一日目は問題なく進んだ。


 二日目の午後、南区画から若手二人が相談へ来た。


「旧図面より高低差が大きいです。二回測ったんですけど同じ数字でした」


 以前ならすぐ現場へ向かった。


 今回は先に聞く。


「基準点はどこを使った?」


「旧排水杭の横です」


 レイナは資料を見た。


「その杭、去年移設されてる。新しい基準は三歩南」


 二人が顔を見合わせる。


「じゃあ測り直します」


「起点だけ直して、そこからつながる区間を再測定して。全部戻る必要はない」


 自分は現場へ行かない。


 三日目。


 北側のオスカーから、


「地盤沈下してる可能性がある」


 と連絡が来た。


 これは道路と水路の両方へ影響する。


 レイナも現場へ向かった。


 オスカーの記録を見る。


 複数地点で同じ傾向。


 別方向から自分でも測る。


 やはり低い。


 これは主担当として直接確認する価値がある。


 市へ追加の地盤調査を提案した。


 何でも任せるわけではない。


 何でも自分でやるわけでもない。


 どこへ自分の時間を使うべきかを判断する。


 五日目の夕方、カナが記録板を見ながら声を上げた。


「中央区画、接続誤差が大きいです」


 数字を見る。


 確かに許容範囲を超えている。


 以前なら、その日のうちに中央区画全部をやり直そうとしたかもしれない。


 今回は、接続する三地点の記録を先に並べる。


 一地点から突然ずれが増えている。


 そこへ戻る。


 確認すると、距離紐の固定位置が半歩ほどずれていた。


 原因地点から先の二つだけを再測定し、日暮れ前には誤差を収めることができた。


 最初から全てを疑わなかったため、必要な場所へ早く辿り着けた。


 七日目には予定通り現場測量を終える。


 役所へ戻り、全員の原記録を使って図面をまとめる。


 レイナは一つ一つの数字を別帳面へ書き写さなかった。


 区画の接続。


 境界。


 水路勾配。


 地盤沈下が疑われる地点。


 戻せない重要部分へ重点を置いて確認した。


 提出前夜。


 机には大量の記録が残っている。


(全部を自分で見直した方がいい)


 という昔の感覚が戻る。


 一晩使えば、かなりの数を確認できる。


 しかし、その結果ほとんど眠らず翌朝の最終図面を見ることになる。


 疲れた自分が新しい転記ミスを作る可能性もある。


 レイナは重要地点の照合を終えたところで、記録を閉じた。


          ◇


 提出から一週間後、市役所から一件の問い合わせが来た。


 南区画の道路幅について、


「旧土地台帳の数字と現場測定値が一致していない」


 という確認だった。


 レイナの胸が一瞬強く鳴った。


(若手の区画だ)


 以前なら、まず測定者の数字を疑った。


 今回は資料を順に揃えた。


 原記録。


 二回の測定値。


 基準杭番号。


 簡易写図。


 隣接区画との接続値。


 どれも現場測定が正しいことを示している。


 そこで古い土地記録をさらに調べると、二十年以上前に道路脇の土地交換が行われた際、新しい境界が別帳面には記録されているものの、旧台帳本体へ転記されていなかったことが分かった。


 現在の登記記録は、レイナたちが測った数字と一致する。


 市へ説明する。


 図面の修正は不要となった。


 問い合わせが終わった後、レイナは椅子へ座った。


 若手が測った数字に疑問が出た。


 それでも、自分が測り直していなかったことは問題にならなかった。


 原記録と確認手順が残っていたから、自分が責任者として答えられた。


 責任を持つことは、


「自分の手が触れていないものを一つも残さない」


 ことではない。


 誰がどう測り、何を根拠にその数字を採用したのかを把握し、問われた時に説明し、誤りなら直せる状態にしておくことでもある。


          ◇


 年末が近づいた頃、レイナは再び《持ち込み食堂》へ足を運んだ。


 手には小ぶりの連節茸が二本ある。


 ミレイアがすぐ気づいた。


「前の茸ですね」


「今日は頼み方がある」


 悠斗が受け取る。


「どうしましょう?」


「下の節は出汁へ使って、中央は焼いて、上は柔らかいまま残してほしい」


「分かりました」


 レイナは少し迷った後で続ける。


「それと、料理の途中で一つだけ、ミレイアに任せてみて」


「私?」


 ミレイアが笑った。


「何で私まで?」


「見てみたい」


 悠斗も事情を察したのか、中央の節を少し取り分けた。


「じゃあ、この茸をこの厚さくらいへ切ってもらえます?」


 見本を一枚切る。


「分かりました」


 ミレイアが切り始める。


 完全に同じ厚さではない。


 一枚だけ少し厚い。


 レイナがすぐ気づく。


「それ、直さない?」


 悠斗も見る。


「このくらいなら大丈夫です」


「焼き時間変わるでしょう」


「厚い一枚だけ少し先に入れるか、必要ならその一枚だけ切り直します」


「全部揃え直さない?」


「他は問題ないので」


 レイナは頷いた。


 料理が出来上がる。


 前回と同じように、節ごとへ違う役割が与えられている。


 ただし今日は、その工程の一部を別の人が担当している。


 それでも一皿として成立している。


 食べながら、五人で行った大規模測量の話をした。


「前は、責任があるなら全部自分でやるものだと思ってた」


 レイナが言う。


 ミレイアが尋ねる。


「今は?」


「責任があるから、誰に何を任せるか考える。必要な条件を伝える。全体がつながるところは確認する」


「任せた人が失敗したら?」


 悠斗が聞く。


「まず直す。その後で、本人の確認不足なのか、私の説明が足りなかったのか、そもそも任せるには早かったのかを見る」


「全部取り上げない?」


「失敗の内容次第。でも一回間違えたから二度と任せない、だと誰も育たない」


「レイナさんの責任は?」


「残る」


 レイナは少し考える。


「ただ、全部の失敗を私一人の失敗として抱えるのも違う気がする。私には仕事全体をまとめる責任がある。作業した人には、自分の作業を正しくやる責任がある。どっちか一つじゃない」


 以前は、責任というものを一つの大きな荷物のように考えていた。


 責任者が全部持つ。


 だから全部自分で触る。


 今は、仕事の中に複数の役割があり、それぞれが自分の部分へ責任を持った上で、主担当者が全体の接続を担うのだと思えるようになっていた。


          ◇


 冬のある朝、測量室でカナが一枚の依頼書を持ってレイナの机へ来た。


「この区画、私に主担当でやらせてもらえませんか?」


 小さな倉庫予定地だった。


 地形は平坦。


 範囲も広くない。


 境界に少し古い記録があるものの、若い測量師が主担当を経験するにはちょうどよい規模である。


「主担当で?」


「はい。最後は確認してほしいですけど」


 少し前のレイナなら、


「まだ早い」


 と言っただろう。


 依頼書を見る。


「基準杭は?」


「近くに古いのが二つあるので、先に役所資料で現行の方を確認します」


 以前の失敗を覚えている。


「地主への確認は?」


「午前中に連絡します」


「雨水の流れは?」


「南東が少し低いので、そこは高低差を細かく取ります」


 レイナはしばらく考えた。


「オスカーと二人で行って。測量はカナ主担当」


 カナの顔が明るくなる。


「いいんですか?」


「帰ってきたら基準点と接続誤差は一緒に見る。分からないことを勝手に決めない。境界みたいに後から戻しにくい判断は相談する」


「分かりました」


 カナが依頼書を抱えて去っていく。


 レイナは、その背中を見た。


 不安はある。


 数字を一つ間違えるかもしれない。


 地主の説明を聞き違えるかもしれない。


 古い杭を見落とす可能性もある。


 しかし、自分が全部やればカナはいつまで経っても主担当になれない。


 自分が二十三歳の頃にも、誰かが小さな仕事を任せてくれた。


 その後で失敗も見た。


 だからこそ覚えたこともある。


 夕方、カナとオスカーが戻ってきた。


「どうだった?」


 カナが記録板を広げる。


「一か所、古い畦と資料の境界がずれてました。地主さん二人とも今の畦が境界だと思ってたんですけど、台帳では違います」


「どうした?」


「測定だけして、境界は確定しませんでした。役所の古い記録を確認してから返事すると説明しました」


 正しい判断だった。


「高低差は?」


「南東だけ低いです。倉庫を建てるなら水抜き考えた方がいいと思います」


 レイナは記録を見る。


 二回測定した数字は揃っている。


 基準点も正しい。


 接続誤差も許容範囲内。


 オスカーが言った。


「俺はほとんど棒持ってただけだ」


「本当に?」


「方位盤を一回だけ一緒に確認した。それ以外はカナ」


 レイナは図面を見た。


 口から、


「明日、私も現場へ――」


 と出かける。


 そこで止まった。


 現場へ戻って何を確認するのか。


 不自然な数字はない。


 接続も合っている。


 境界問題は資料を調べなければ解決しないため、現場へ行くだけでは意味がない。


「明日は古い土地交換記録を探そう」


 レイナが言った。


 カナは少し驚いた後、


「はい」


 と答えた。


 翌日。


 二十年前の土地交換記録が見つかった。


 台帳本体の修正だけが途中で止まっている。


 カナの現場判断は正しかった。


 その区画は、最後までカナが主担当としてまとめた。


 レイナは提出前の図面へ目を通した。


 基準点。


 境界。


 高低差。


 接続誤差。


 必要なところは確認した。


 それでも同じ距離を自分で測り直すことはしなかった。


          ◇


 数日後、三人は仕事帰りに市場の焼きパンと煮豆を買い、役所近くの休憩所で遅い昼食を取っていた。


 オスカーがパンをちぎりながら言う。


「最近、仕事終わるの早くなったな」


「前が遅すぎたの」


 カナが笑う。


「でも確認を減らして、まだ怖くないんですか?」


「怖いよ」


 レイナは普通に答えた。


「今でも提出前になると、全部測り直したくなる」


「それなのに、何でやらないんです?」


 レイナは少し考えた。


「必要な確認と、不安を消したいだけの確認を分けるようにしたから」


「どう違う?」


 オスカーが聞く。


「数字がつながらない。基準と合わない。使う人が困る可能性がある。そういう理由があるなら確認する。でも『自分で測ってないから不安』だけなら、まず他の確認方法を見る」


「一人でやった方が気楽?」


「ある意味では」


「じゃあ任せる方が楽になったわけじゃないんだな」


「身体は楽になった」


「気持ちは?」


「前より考えること増えた」


 カナが不思議そうにする。


「どうして?」


「誰に何を任せるか、何を伝えるか、どこを一緒に見るか決めないといけないから」


 オスカーが笑った。


「それが責任者の仕事だろ」


「今なら少し分かる」


 以前のレイナなら、責任を持つために自分が一番多く測らなければならないと思っていた。


 今は違う。


 責任者として必要なのは、一人で全部を測りきることではない。


 それぞれの人間が取った測定を正しくつなぎ、重要な場所へ確認を置き、異常が出た時に誰のせいかを探すより先に、どこから直すべきか判断することだった。


          ◇


 春の初め、レイナは新しい測量依頼書を受け取った。


 市外の農道拡張。


 中程度の範囲であり、雨季までに工事へ入る予定になっている。


 依頼書には三人の名前が並んでいた。


『主担当 レイナ・ヴォルク』


『測量師 オスカー・レム』


『測量師 カナ・セルク』


 カナの前から、


『見習い』


 の文字が消えている。


 正式な測量師として昇格したのである。


 以前なら、自分の名前が一番上にあることを見て、


(最後には全部自分が確かめなければ)


 と思っただろう。


 今も責任の重さは感じる。


 しかし、その下に二人の名前があることを、


「自分が三人分の仕事を背負わなければならない」


 とは思わなかった。


 三人で現場へ向かう。


 春の雨が残り、地面は少し柔らかい。


 レイナは地図を広げ、区画を確認した。


「西の斜面はオスカー。東側の農地境界はカナ。中央の道路線は私。最初の接続点で一回集まる」


 オスカーが聞く。


「最後に全部やり直す?」


「必要なところだけ」


「成長したな」


「斜面の数字が変だったら、本当に全部やり直してもらうから」


「それは正しい」


 カナも笑った。


 三人がそれぞれの方向へ分かれる。


 レイナは中央の基準点へ方位盤を置き、最初の道路線を取った。


 しばらくすると、西側からオスカーの声が届く。


「レイナ、起点確認!」


 レイナは遠くの赤杭を見る。


「そこ。石垣側じゃなく、道側の杭!」


「了解!」


 東側では、カナが土地所有者へ古い畦について聞き取りをしている。


 レイナは一度だけ様子を見た後、自分の測定へ戻った。


 オスカーの測定棒が一瞬でも傾かないかを遠くから見張る必要はない。


 カナが数字を一文字も間違えないよう横へ立ち続ける必要もない。


 必要なら二人から声が掛かる。


 自分も必要なら呼ぶ。


 それで仕事は進む。


 昼前、三人の区画が最初の接続点へ到達した。


 それぞれの記録板を地面へ並べ、距離と高低差を照合する。


 誤差は許容範囲内だった。


 カナが尋ねる。


「ここ、もう一回測ります?」


 少し前のレイナなら、


「念のため」


 と答えた。


 今は三人の数字をもう一度見た。


 不自然な差はない。


 基準点も一致している。


 再測定をする具体的な理由は見つからなかった。


「このまま次へ進もう」


 レイナが言う。


 オスカーが測定棒を肩へ載せ、カナも記録板を抱え直した。


 三人は再び別々の測定地点へ向かって歩き始める。


 一人で全てを測りきることが、測量師としての強さではなかった。自分には見えない場所を別の人間に任せ、相手が見たものを受け取り、自分が見たものも渡しながら、それぞれの数字を一本の道や一枚の図面へ正しくつなぐこともまた、確かな仕事だった。


 レイナは中央の次の杭へ向かいながら、西側で作業を続けるオスカーと、東側で記録を取るカナを一度だけ見た。


 その後は二人の仕事を監視するために立ち止まらず、自分へ任された道路線の測定へ戻り、三人の区画が次に交わる地点まで、自分の仕事を自分の手で進めていった。


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