第91話 香りの移る移香実と、昔の約束を同じ形で守り続ける渡し舟の船頭
イリアン・ロズは四十八歳になる人間の男性であり、レーヴェンから西へ半日ほど進んだところを流れる《ラウゼ川》で、渡し舟と小口輸送を兼ねた船を二十七年間動かしてきた船頭だった。日に焼けた顔には目尻から頬へ細い皺が伸び、濃い茶色だった髪にはかなり白いものが増えている。背丈はそれほど高くないが、流れへ逆らって櫂を扱い、濡れた荷を一人で持ち上げる仕事を長く続けてきたため、肩から腕にかけては厚い筋肉が残っていた。
彼の舟は、人を向こう岸へ渡すだけのものではない。
川沿いには大きな街道から外れた小村がいくつもあり、橋へ出るには長く迂回しなければならない場所もあった。そのためイリアンは、乗客のほかに薬、手紙、農具の部品、織物、保存食、種、塩などを積み、決まった曜日ごとに川沿いの集落を回っている。
中でも長く続いているのが、下流の《エスナ村》へ向かう便だった。
毎週、火曜日と金曜日。
朝に船着き場を出る。
下流へ向かい、村で人と荷物を下ろし、戻りの荷を積んで帰る。
春も夏も秋も、川が凍るほどの冬を除けば同じである。
雨が強く危険な日は運休するが、それ以外では二十年以上ほとんど変えていなかった。
村人も知っている。
「火曜と金曜にはイリアンが来る」
それを前提に、買い物を頼み、手紙を預け、町へ行く人間が船着き場へ集まる。
だからイリアンは、その便を何より大事にしていた。
ただし、二十年前と現在では、エスナ村を取り巻く状況そのものが変わっていた。
五年前、下流側へ新しい石橋が完成した。
村から橋までは徒歩で一刻ほどかかるものの、荷車なら以前より遥かに町へ出やすい。若い村人の中には自分たちで荷車を共同購入し、大きな買い物や農産物の出荷については橋を使う者も増えていた。
イリアンの船を使う客は、昔より減っている。
火曜日には、乗客が一人もいないことさえある。
荷物も、小さな包みが三つだけという週があった。
それでも舟は出す。
エスナ村へ行く。
村人が誰も乗らなくても、船着き場へ着いてしばらく待ち、戻る。
金曜日も同じだった。
彼にとっては、
「客が少ないから行かなくてよい」
という話ではない。
火曜と金曜に来る。
そう約束した。
なら、客が一人でもいなくても行く。
それが誠実さだと思っていた。
問題は、その約束を守ることによって、別の場所へ必要な時間を回せなくなっていたことである。
ラウゼ川のさらに上流には、《ナルカ集落》という小さな開拓地があった。
林業と薬草採取を行う人々が住んでいるが、町へ出る道が荒れており、雨の時期には荷車が通りにくい。
最近、その集落からイリアンへ、
「週に一度でいいから、薬と手紙を運んでもらえないか」
という相談が来ていた。
火曜日なら、レーヴェン側の薬房が荷を準備しやすい。
川の流れも比較的穏やかで、上流便へ使いやすい。
しかし火曜日にはエスナ村へ行く。
金曜日もエスナ村。
水曜は舟や網の整備。
木曜は町側の荷受けと臨時便。
土曜は農産物の大口輸送。
空いている曜日がない。
ナルカへは、
「今は難しい」
と断り続けていた。
それでも毎週火曜日、ほとんど空の舟でエスナへ向かうたびに、
(この時間で上流へ行ける)
と思う。
だからといって火曜便を減らすことは、イリアンにはできなかった。
◇
イリアンが火曜と金曜の便へ強くこだわるようになったのは、二十六歳の頃に交わした約束が理由だった。
彼の父は漁師だった。
ラウゼ川の浅瀬で網を張り、川魚を取り、余った分を近隣の村へ売る。イリアンも子どもの頃から舟へ乗せられ、流れの読み方や舟底へ水が入った時の処理、風が変わった時にどの岸へ寄るべきかなどを教えられた。
十九歳になる頃には、一人で小舟を扱えるようになっている。
ただし父と同じ漁師にはならなかった。
魚を待つより、人や荷物を運ぶ方が性に合った。
二十一歳で小さな渡し舟を買い、最初は町の近くで対岸へ人を渡していた。
そこでエスナ村の村長だったオルグという老人と知り合った。
当時のエスナ村は、今よりずっと不便だった。
大きな橋はない。
雨が降れば山側の道は泥で使えない。
町へ行くには徒歩でかなり遠回りするか、舟を頼むしかない。
しかし定期便はなく、必要な時に船頭を探さなければならなかった。
病人が出た時、薬が一日遅れたこともある。
町へ売る予定の乳酪を運べず、傷ませたこともあった。
オルグは若いイリアンへ言った。
「週に二度、決まった日に来てもらえないか」
「客がいなくても?」
「来るって分かってれば、その日に合わせて荷を用意できる。舟が来るかどうか分からんのが一番困るんだ」
まだ仕事の少なかったイリアンにとっても悪い話ではなかった。
「何曜がいい?」
「市場へ出すなら火曜。薬や週末の買い物を考えたら金曜も欲しい」
「じゃあ火曜と金曜」
「続けられるか?」
「川が出られるなら行く」
オルグは何度も確認した。
「一月だけじゃないぞ」
「分かってる」
「客が少ない日もあるぞ」
「それでも行く」
その場で交わしただけの約束だった。
紙の契約書もない。
役所へ届けたわけでもない。
それでもイリアンには重かった。
若い船頭へ、
「お前なら任せられる」
と村全体が信じた最初の仕事だったからである。
実際、その約束は仕事を変えた。
火曜と金曜に必ず船が来る。
村人はそれへ合わせて荷を用意する。
薬房も、
「火曜便へ乗せる」
という形で薬を預けられるようになる。
乳酪、卵、織物、薬草なども決まった日に町へ運べる。
イリアン自身の収入も安定した。
何年か経つ頃には、
「エスナ便のイリアン」
と呼ばれることもあった。
二十九歳の冬、父を亡くした。
葬儀の翌日が火曜日だった。
村人は、
「今週は来なくていい」
と伝えてくれた。
それでもイリアンは舟を出した。
母から、
「一日くらい休みなさい」
と言われても、
「火曜だから」
と答えた。
その日、エスナ村から乗った客は一人だけだった。
町の治療院へ行く老女である。
「来てくれて助かった」
その言葉によって、
(やっぱり来るべきだった)
と強く思った。
そこから、
「決めた日に行くことそのものが約束を守ることだ」
という考えが、さらに強くなった。
数年後、村長オルグが亡くなった。
葬儀の時、後を継いだ息子のダナンがイリアンへ言った。
「親父が一番感謝してたの、たぶんこの舟だよ」
イリアンは、
「俺もこの仕事もらって助かった」
と答えた。
それ以降も、火曜と金曜の便を変えなかった。
村の人口が減っても。
荷車が増えても。
新しい橋ができても。
約束したからである。
◇
ある火曜日、イリアンは朝からエスナ便へ出た。
舟へ積んでいるのは、小さな薬包が一つ、町の仕立屋から預かった布包みが一つ、塩の袋が一つだけだった。
乗客はいない。
下流へ向かう流れに乗り、いつもの船着き場へ着く。
待っていたのはダナンの妻だけだった。
「薬、ありがとう」
「ああ」
「今日は帰りの荷、ないよ」
「誰か町へ行く人は?」
「いないと思う」
イリアンは船着き場で半刻ほど待った。
誰も来ない。
そのまま帰る。
途中、上流へ分かれる支流の入り口が見えた。
ナルカ集落へ向かうなら、あそこから逆方向へ進む。
(今日なら、薬を運べたな)
思う。
前日に、ナルカの若い男が訪ねてきていた。
「集落の治療師が使う止血薬が減ってる。今週は無理か?」
「火曜はエスナ」
「エスナの後からじゃ駄目?」
「戻る頃には遅くなる」
「木曜は?」
「臨時荷が入る」
「来週でもいい。火曜を一回だけ」
それでも断った。
「火曜はエスナへ行く」
若い男は不満そうだったが、
「分かった」
と帰った。
その日のエスナ便には、往復で乗客が一人もいなかった。
荷も三つだけ。
もちろん薬包一つでも、届ける価値はある。
しかし、
(あの薬なら金曜でも間に合ったんじゃないか)
と考えてしまう。
村側からも、
「火曜便、最近ほとんど使わない」
と聞いていた。
それでも翌週の火曜日も、同じように出た。
今度は荷が一つもない。
ただし、
(行かなかった日に限って誰かが待っていたら)
と思う。
空の舟を出した。
エスナへ着く。
船着き場に、老人が一人いた。
「町へ行く?」
イリアンが聞く。
「いや、散歩だ」
「荷は?」
「ない」
老人が笑う。
「今日も来たんだな」
「火曜だから」
「橋できてから火曜に乗る人、ほとんどいないぞ」
「でも必要な人がいるかもしれない」
「そりゃいるかもしれんが」
老人はそれ以上言わなかった。
帰りの舟で、イリアンは少し腹が立っていた。
村人に、
「来なくていい」
と言われたわけではない。
だから続ける。
それでいいはずなのに、誰も使わない舟を出すたび、自分の方が約束へしがみついているような感覚が出始めていた。
◇
その頃、エスナ村のダナンが一度レーヴェン近郊まで出てきた。
六十一歳になっており、父オルグの頃から長く村のまとめ役をしている男である。
イリアンの船着き場へ寄り、荷を下ろすのを少し手伝った後で言った。
「火曜便のことなんだけどな」
イリアンの手が止まった。
「何だ」
「減らしてもいいんじゃないかって話が出てる」
「誰が言った?」
「村で」
「困る人はいないのか」
「火曜しか駄目って人は、今はほとんどいない。橋もあるしな」
「ほとんどってことは、いるんだろ」
「たまにはいる」
「なら必要だ」
ダナンは困った顔をした。
「金曜は残してほしい。町へ行く年寄りも多いし、荷も集めやすい。ただ火曜は、毎週じゃなくてもいいんじゃないかって」
「昔、火曜と金曜って決めただろ」
「決めたのは親父とお前だ」
「村との約束だ」
「その村が、変えてもいいって言ってる」
イリアンには、その言葉が受け入れられなかった。
「オルグは、来る日が決まってることが大事だって言った」
「その頃は橋がなかった」
「橋があっても、歩けない人はいる」
「だから全部なくせとは言ってない」
「一度減らしたら、後から戻すのは難しい」
「戻す必要が出たら相談すればいいだろ」
イリアンは首を振った。
「俺は火曜と金曜に行く」
ダナンがしばらく黙った。
「お前、村のために続けてるんだよな?」
「当たり前だ」
「なら、一回村の話も聞けよ」
その言葉に、少し怒りを覚えた。
「二十年以上休まず行ってる俺が、村の話を聞いてないって言うのか」
「そういう意味じゃない」
「ならいい」
会話はそこで終わった。
しかしダナンが帰った後も、
『その村が、変えてもいいって言ってる』
という言葉だけは頭へ残った。
◇
数日後、イリアンは川沿いの市場で《移香実》という果実を買った。
拳ほどの大きさで、皮は薄い橙色をしている。表面に細かな青い筋があり、店先へ並んでいるだけでも爽やかな香りが漂っていた。
店主の女性が説明する。
「採ってすぐは香りがかなり強いよ。二、三日置くと香りが落ち着いて甘味が出る」
「古くなるってこと?」
「傷むのとは違う。香りの出方が変わるんだ」
「どっちがうまい?」
「使い方によるね。採りたてなら魚とか白肉に合わせると香りが立つし、少し置いたものは甘味が出るから焼き菓子や煮物にも使いやすい」
「同じ実なのに?」
「同じ実だから変わるんでしょう」
イリアンは五つ買った。
舟仕事の合間に少しずつ食べるつもりだった。
その日の夜、最初の一つを切る。
香りが強い。
酸味もあり、果汁は少し固い。
そのまま食べるより、塩を振った白身魚と一緒なら合いそうな味だった。
二日後。
もう一つ切る。
香りは最初ほど鋭くない。
代わりに果肉が柔らかくなり、甘味が増えている。
「本当に変わるんだな」
残り三つを見る。
そのうち一つは、翌日の朝食で食べるつもりだった。
しかし次の日は舟の修理が長引いた。
さらに一日置く。
四日目。
香りはもっと穏やかになっている。
甘い。
最初の実と比べると、同じ食べ方が合うとは思えない。
そこでイリアンは妙なことを考えた。
(採れた日に決めた食べ方を、四日目にも同じようにする必要はあるのか?)
すぐに、
「果物と約束は違う」
と打ち消した。
それでも、残っていた二つを持ち、《持ち込み食堂》へ行ってみることにした。
◇
悠斗は移香実を切る前に香りを確かめ、皮へ指を当てた。
「少し置いてあります?」
「四日くらい」
「最初はもっと香り強かったです?」
「かなり」
「甘味は?」
「今の方がある」
悠斗は半分に切った。
果肉は鮮やかな橙色で、中心に小さな種が並んでいる。
「二つありますけど、両方同じ日に買ったんですか?」
「そう」
「状態はほぼ同じですね」
「採れたては、魚に合うって言われた」
「今日はどうしましょう」
「同じように魚へ使える?」
「使えます。でも今の甘さなら、少し違う料理も合いそうです」
「同じ実なのに?」
「同じ実でも、今の状態に合わせた方がよさそうです」
イリアンには市場の店主と同じことを言われた気がした。
悠斗は一つを薄く切り、白肉へ合わせることにした。
もう一つは、火を入れて甘味を出す。
白肉には軽く塩をして表面を焼き、火が入りすぎる前に取り出す。その鍋へ薄切りの移香実と根玉葱を加え、果汁を出しながら短く炒める。
採れたてほど強い香りではない。
その代わり、柔らかくなった甘味が根玉葱とよく合う。
白肉を戻し、最後に少量の酸味のある草汁で全体を締める。
《白肉と移香実の軽い煮焼き》が一皿。
もう一つは厚めに切り、蜜をほとんど使わず、薄い生地へ並べて焼いた。
《移香実の薄焼き菓子》。
イリアンが白肉から食べる。
「最初の香りとは違う」
「四日経ってるので」
「悪くなったわけじゃない?」
「俺が最初の日の状態を知らないので比べきれませんけど、これはこれで十分美味しいと思います」
次に焼き菓子を食べる。
甘味が強い。
採れたての鋭い香りがそのまま残っていたら、むしろ焼き菓子には強すぎたかもしれない。
「店の人は、最初は魚に合うって言ってた」
「その時は、そうだったんでしょうね」
「じゃあ四日後に違う食べ方したら、最初の言葉を無視することにならない?」
悠斗が少し不思議そうな顔をした。
「状態が変わったのに、最初の食べ方だけ守る方が変じゃないですか?」
イリアンは黙った。
その反応を見たミレイアが尋ねる。
「何か、食べ物じゃない話ありました?」
「船頭をしてる」
そこからエスナ便の話をした。
◇
二十年以上前、橋のなかったエスナ村から、
「火曜と金曜へ必ず来てほしい」
と頼まれたこと。
村にとって、それが本当に必要だったこと。
父を亡くした翌日でも火曜便を出し、その日一人の老女を治療院へ運べたこと。
それ以来、
「決めた日に行くことそのものが約束を守ることだ」
と考えてきたこと。
しかし五年前に橋ができ、火曜便の利用者がほとんどいなくなっていること。
上流のナルカ集落から、火曜日に薬や手紙を運ぶ便を頼まれていること。
そして現在の村のまとめ役であるダナンから、
「火曜便を減らしてもいい」
と言われたこと。
悠斗は途中で口を挟まず聞いていた。
「村の人が、火曜をやめてほしいと言ってるんですか?」
「全部やめろじゃない。毎週じゃなくてもいいって」
「金曜は?」
「残してほしいらしい」
「火曜に必要な人が出ることは?」
「たまにはある」
「その時、橋以外の方法は?」
「事前に分かれば臨時で行ける」
「連絡はできます?」
「村の船着き場に合図柱がある。町側から伝言を回すこともできる」
ミレイアが聞いた。
「じゃあ火曜便を毎週出さなくても、必要な火曜だけ行く方法はあるんですね」
「ある」
「それでも変えたくない?」
「約束したから」
イリアンは即答した。
「何を約束したんです?」
悠斗が尋ねる。
「火曜と金曜に行くこと」
「それで当時、何を守ろうとしてたんです?」
「村が町と切れないようにすることだ」
そこまで答えた後、イリアンは少し止まった。
悠斗は続ける。
「当時は、それを守るために火曜と金曜が必要だった?」
「そうだ」
「今は?」
「橋がある」
「でも金曜便は必要」
「ああ。年寄りもいるし、少量の荷を荷車で運ぶより舟の方が楽なこともある」
「火曜は?」
「使う人は減った」
「なら、守りたいものと、そのための方法が昔より少し離れてきてるんですかね」
イリアンは顔をしかめた。
「方法を変えたら、約束を破ったことになる」
「村の側が話し合いたいと言ってても?」
「約束したのは俺だ」
「相手も約束の片方では?」
返事が出なかった。
約束には、自分と相手がいる。
当たり前のことである。
しかし二十年以上守り続けるうち、
「約束を変えるかどうか」
まで自分一人の責任だと思うようになっていた。
「オルグさんは、火曜と金曜そのものを守ってほしかったんでしょうか」
悠斗が聞く。
「その頃は、それが必要だった」
「もし今も生きてて、橋ができて、村の人が火曜を使わなくなって、別の集落が困ってると知ったら?」
「分からない」
「なら、今の村の人に聞くしかないですよね」
ダナンはすでに話しに来ている。
イリアンは苦い顔をした。
「聞いた。でも俺が断った」
「何で?」
「変えたら、二十年守ってきたものを自分で軽くするみたいで嫌だった」
ようやく本音が出た。
火曜便を減らす。
そうすれば、
(今まであれだけ無理して守ったのは何だったんだ)
と思ってしまう。
父の葬儀の翌日に出たこと。
嵐の翌朝に舟を確認してから無理のない範囲で出たこと。
客が一人でも船着き場へ行ったこと。
そういう二十年まで、
「別に必要なかった」
と認めるような気がした。
ミレイアが静かに言った。
「昔必要だったことが、今変わったからって、昔も要らなかったことにはならないと思います」
イリアンが顔を上げる。
「火曜便で助かった人、本当にいたんですよね?」
「いた」
「なら、その時は必要だったんじゃないですか」
悠斗も続けた。
「この移香実も、採れたての時に魚へ合ったことと、四日後に焼き菓子へ合うことは両立しますよ。四日後の食べ方が違うからって、最初の日の食べ方が間違いになるわけじゃない」
「果物と船を一緒にするなよ」
「同じとは言ってないです」
イリアンは少しだけ笑った。
それでも考える。
昔、火曜と金曜が必要だった。
だから守った。
今、村の状況が変わった。
それでも村を町から切らないという目的は残っている。
なら、形だけを変えることは本当に裏切りなのか。
「変えて、後で困ったら?」
イリアンが尋ねる。
「戻せないんです?」
「戻せる」
「なら、一度決めたら永久に固定しなくてもいいのでは?」
その言葉は、最近のイリアンが最も避けていた考えだった。
◇
数日後、イリアンはエスナ村へ行った。
金曜日である。
この便は今も乗客が多い。
町へ行く老人が三人。
戻りには塩、薬、布、農具の部品などが乗った。
仕事を終えた後、ダナンの家へ寄る。
「火曜便の話をしたい」
ダナンは少し驚いた。
「今度は最後まで聞いてくれるか?」
「たぶん」
「たぶんか」
村の集会所へ何人かを集めてもらった。
高齢者。
農家。
荷車を共同所有している若い夫婦。
薬草を町へ売っている女性。
以前火曜便をよく使っていた者もいる。
イリアンは最初に聞いた。
「火曜便、今どのくらい必要だ?」
若い農家が答える。
「毎週じゃなくていいと思う。大きい荷は橋へ回せるし」
高齢の女性が言う。
「私は橋まで歩くの大変だから、舟ある方が助かるよ。ただ町へ行く日は前もって決められる」
「火曜じゃないと駄目?」
「医者の予約が火曜なら火曜。でも毎週ではないね」
薬草商の女性は、
「金曜が残るなら、普段の荷はそこで足りる」
と言った。
別の老人が続ける。
「昔は火曜便がないと本当に困った。でも今は橋あるからな」
イリアンが尋ねる。
「火曜に必要な人が出たら?」
ダナンは合図柱の話を出した。
船着き場へ青布を上げれば、
「次の火曜便が必要」
という合図にする。
町側へ前日までに伝言が届けば、イリアンが通常通り来る。
急な病人など、火曜を待てない場合には別途臨時便を頼む。
「毎週固定じゃなく、必要な火曜だけ?」
イリアンが確認する。
「そう」
「忘れられないか」
「村側で当番決める」
「合図が壊れたら」
「町へ伝言出す」
「雪の時期は?」
「今まで通り、川の状態次第」
一つずつ確認していく。
話し合いは、火曜便を簡単に消すものではなかった。
必要な時に使える仕組みを作り直している。
イリアンはそこで、
「ナルカから火曜便を頼まれてる」
と初めて村側へ話した。
ダナンがすぐ言った。
「じゃあそっち行けよ」
「軽いな」
「エスナが困らないようにした上で、困ってるところへ行くならいいだろ」
高齢の女性も笑う。
「オルグ爺さんだって、空の舟を毎週こっちへ寄越すために頼んだわけじゃないよ」
「本人に聞けないだろ」
「本人を知ってた私らが言ってるんだよ」
集会所に小さな笑いが広がった。
イリアンは笑えなかった。
代わりに、胸の奥へ長く詰まっていた何かが少し緩んだ。
「じゃあ試しに三月」
イリアンが言う。
「火曜は予約便。前日までに合図か伝言があれば行く。金曜は今まで通り固定」
「三月後にまた話そう」
ダナンが答えた。
「困るなら戻す」
「それでいい」
紙へ簡単な内容を書いた。
今回は口約束だけにしない。
村の集会所へ一枚。
イリアン側の船着き場へ一枚。
『金曜――固定便』
『火曜――必要時運航。月曜夕方までの青旗、または町側への伝言で依頼』
『緊急時――曜日にかかわらず可能な範囲で臨時相談』
『三月後――利用状況を確認して再協議』
イリアンは紙を見た。
二十年以上前の約束とは形が違う。
それでも、
「村と町をつなぐ」
という意味は残っていた。
◇
翌週の火曜日、イリアンは朝から落ち着かなかった。
長年なら、起きてすぐエスナ便の準備をする日である。
船着き場から下流を見る。
青旗はない。
月曜夕方までに伝言も届いていない。
つまりエスナ便は出ない。
代わりに、舟にはナルカ集落へ運ぶ荷が積まれていた。
止血薬。
解熱用の乾燥薬草。
手紙。
鍛冶屋から預かった斧の替え刃。
小袋の塩。
イリアンは何度も荷を確認した。
(今からでもエスナへ先に行けないか)
思う。
しかし下流へ行ってから上流へ回れば時間が足りない。
エスナから依頼はない。
試験期間の最初の日から、
「念のため」
で旧便を出したら、何も変わらない。
舟を上流へ向ける。
流れへ逆らうため、下流便より力が要る。
途中で一度休みながら進み、昼前にナルカ集落の船着き場へ着いた。
待っていたのは六人だった。
「本当に来た」
以前相談へ来た若い男が笑った。
「来るって言っただろ」
「火曜は別の村があるって断られてたから」
「向こうと話した」
治療師が薬箱を受け取る。
「助かった。止血薬、あと少ししかなかった」
その言葉を聞いた時、イリアンは複雑だった。
嬉しい。
同時に、
(今まで空の舟で下流へ行っていた火曜に、これを運べたのか)
という思いも出る。
しかしそこで、
「今までの火曜便は無駄だった」
とは考えなかった。
昔はエスナに必要だった。
橋ができてからも、変える話をするまでには時間が必要だった。
今は状況が変わり、話し合って、新しい形にした。
それだけである。
◇
三月の試験期間には、予想外のことも起こった。
一月目。
火曜のエスナ予約便は一度だけ。
高齢の女性が町の治療院へ行くためだった。
青旗が月曜の昼に上がる。
イリアンはナルカ側へ、
「今週は水曜へずらす」
と伝言を出し、火曜はエスナへ向かった。
以前なら、
「ナルカ便を始めたなら、火曜は上流」
と固定したかもしれない。
今回は、そもそも火曜を完全にナルカ専用へしたわけではない。
エスナが必要な時は行く。
そのための仕組みを残している。
二月目。
大雨で川が増水し、金曜便を運休した週があった。
以前なら、
「金曜を休んだ分、次の火曜は必ず固定便へ戻すべきだ」
と考えたかもしれない。
村へ連絡を取り、必要な荷を確認する。
急ぐ薬が一つあったため、雨が落ち着いた日曜に臨時便を出した。
次の火曜は予約がないためナルカへ向かう。
曜日そのものより、
「必要なものが必要な時に届く」
ことを優先した。
三月目。
エスナで祭礼があり、火曜に町から人が多く戻ることになった。
通常の予約便より乗客が多い。
イリアンは事前に知り、火曜を正式便として出した。
帰りには農産物も多く積んだ。
その日、村の老人が言った。
「昔の火曜みたいだな」
イリアンも笑った。
「必要な日は出る」
「そういうのでいいんだよ」
その言葉を、以前より素直に聞けた。
三月が終わる。
村と再び話し合う。
結果は、
「金曜固定、火曜予約」
を継続することになった。
火曜便が必要だったのは三月で三回。
毎週十二回出す代わりに三回。
その空いた火曜の多くをナルカ便へ回せた。
エスナ側で大きな問題は起きなかった。
逆に、
「予約だから、自分が使う日を早めに決めるようになった」
という声も出た。
イリアンは記録へ書いた。
『火曜便――必要時運航継続。三月後、冬前に再確認』
永久に固定するのではない。
また状況が変われば話す。
◇
初夏になり、イリアンは市場で再び移香実を見つけた。
前と同じ店だった。
今度は採れたばかりのものと、三日ほど置いたものが別の籠へ分けられている。
「分けて売るようになったのか」
店主が答える。
「客に聞かれること増えたからね。こっちは香り強め。こっちは甘め」
「どっちが本物の味なんだ?」
「また面倒なこと聞くね」
店主が笑う。
「どっちもその実の味だよ。日が違うだけ」
イリアンは採れたてを二つ、三日置いたものを二つ買った。
そのうち一つずつを持ち、《持ち込み食堂》へ行った。
ミレイアが気づく。
「移香実ですね」
「今日は状態が違う二つ」
悠斗も香りを比べる。
「かなり違いますね」
「採れたてと三日もの」
「どうしましょう?」
イリアンは少し考えた。
「採れたては魚へ合わせたい。前に店の人がそう言ってたからじゃなくて、今の匂いなら合いそうだ」
「三日ものは?」
「前に食べた薄焼き菓子みたいにできる?」
「できます」
悠斗は頷いた。
採れたての実は、白身魚へ合わせた。
果汁と少量の塩、香草を使い、強い香りを活かす。
三日ものは薄焼き菓子へ使い、甘味を主役にした。
同じ移香実。
違う状態。
違う調理。
二皿を食べながら、イリアンは火曜便の話をした。
「今はエスナが予約便になった」
「どうでした?」
悠斗が聞く。
「最初の火曜は落ち着かなかった。誰も頼んでないのに下流へ行きそうになった」
「行かなかった?」
「行かなかった。その日、ナルカへ薬運んだ」
「エスナで困った人は?」
「三月で、予約があった火曜が三回。全部行った。困ることは今のところない」
「なら良さそうですね」
「今のところはな」
イリアンはそこで付け加えた。
「冬前にまた村と話す」
以前なら、
「一度決めた約束は変えない」
と言った。
今は、
「変わっていないか確認するため、また話す」
と言える。
それは約束を軽くしたのではない。
むしろ相手の現在を確認しながら続けるようになったという意味で、以前より約束そのものを丁寧に扱っているのかもしれなかった。
◇
その年の秋、エスナ村では橋へ続く道の一部が工事に入った。
二週間ほど荷車が通りにくくなる。
ダナンから連絡が来た。
「工事中だけ、火曜も固定へ戻してもらえるか」
イリアンはすぐ予定を見た。
「二週?」
「長くても三週」
「分かった。ナルカ側と調整する」
火曜便を一時的に固定へ戻す。
以前なら、
(ほら、やっぱり火曜便は残すべきだった)
と考えただろう。
今回は違った。
橋へ出にくい三週間だけ、火曜便が再び必要になった。
だから戻す。
工事が終われば、予約便へ戻す。
その間、ナルカ便は水曜へ変更し、薬房の荷出しも一日前倒ししてもらった。
どちらかとの約束を一方的に破るのではなく、両方へ事情を伝えて調整する。
三週間後、道が開く。
次の火曜からまた予約便へ戻した。
それで問題はなかった。
約束は、形を変えたから弱くなるわけではない。
相手が何を必要としているかを確認し、必要な形へ調整し続ける方が、同じ形へ縛りつけるより守れることもある。
イリアンはようやく、それを仕事の中で実感していた。
◇
冬前の話し合いの日、エスナ村の集会所には以前と同じ顔ぶれが集まった。
金曜固定便は利用者が安定している。
火曜予約便も問題なし。
大きな祭礼や道の工事など、必要な期間だけ固定へ戻す方法も機能した。
ダナンが聞く。
「来年もこの形でいいか?」
イリアンは以前のように、自分から結論を先に言わなかった。
「村は?」
高齢の女性が答える。
「私はこれでいい。必要なら前の日に言えば来てくれるし」
若い農家も、
「大きい荷は橋、少量なら金曜、急ぎは相談で足りてる」
と言う。
別の老人が、
「もし橋が壊れたら?」
と尋ねる。
「その時は固定便増やす」
イリアンが答える。
「毎週?」
「必要な間は」
「橋直ったら?」
「また話す」
老人が笑った。
「前のお前なら、『一回増やしたらずっと火曜金曜』って言いそうだったな」
「うるさい」
集会所へ笑いが広がる。
イリアンも今度は笑った。
話し合いが終わった後、ダナンと二人で船着き場まで歩いた。
「親父との約束、破った気はするか?」
ダナンが聞いた。
イリアンは少し考えた。
「最初はした」
「今は?」
「火曜と金曜に来ることが約束だと思ってた。でもオルグが欲しかったのは、村が必要な時に町へ出られて、荷を送れることだったんだろ」
「多分な」
「金曜は今も必要。火曜は毎週じゃなくなった。でも必要なら行く」
「なら十分じゃないか」
「お前が言うと軽いんだよ」
「二十年以上重く持ちすぎたんだ」
イリアンは返事をしなかった。
否定もしなかった。
◇
数日後の火曜日。
エスナから予約はない。
ナルカへ向かう荷がある。
イリアンは船着き場へ舟を出した。
止血薬。
手紙。
小さな工具箱。
冬用の糸。
村から頼まれた塩。
荷を積み終えた後、無意識に下流の方を見る。
二十年以上続いた習慣は完全には消えていない。
火曜の朝になれば、
「エスナへ行く日だ」
と身体のどこかが思う。
それでも船着き場の合図柱に青旗はない。
伝言も来ていない。
金曜には固定便がある。
今日、下流へ行く理由はない。
イリアンは上流へ舟首を向けた。
櫂を水へ入れる。
流れへ逆らうため、下流へ向かう時より力が必要になる。
それでも何度も通ううち、どの辺りで流れが強く、どの岸へ寄れば楽かも分かるようになっていた。
途中、支流の入り口を過ぎる。
以前ここを下流側から眺めながら、
(この時間でナルカへ行ける)
と思っていた。
今は実際に向かっている。
だからといって、昔のエスナ便を無駄だったとは思わない。
橋のなかった頃、火曜の舟を待っていた人がいる。
薬を待っていた人。
町の治療院へ行った人。
乳酪や薬草を積んだ人。
父の葬儀の翌日に乗った老女もいた。
あの火曜日は、あの日に必要だった。
現在の火曜日は、現在の必要へ使えばよい。
約束を守るとは、二十年前の一文へ自分と相手を閉じ込め続けることではなかった。何を守ろうとして交わした約束だったのかを忘れず、状況が変わったなら相手と話し、必要なら形を変えながら、その意味を現在へ運び直すことでもある。
昼前、ナルカ集落の船着き場が見えてきた。
岸では何人かが待っている。
イリアンは舟を寄せるために速度を落とした。
「今日も助かった」
岸から声が飛ぶ。
イリアンは片手を上げた。
来週の火曜日にどちらへ舟を出すかは、まだ決まっていない。
エスナから予約が入れば下流へ行く。
入らなければ上流へ来る。
川が荒れれば、どちらへも出ないかもしれない。
以前のイリアンなら、その不確かさを約束が弱くなった証拠のように感じただろう。
今は違う。
必要な時に必要な場所へ舟を出すため、毎週同じ形へ固めないだけだった。
イリアンは岸へ伸ばされた綱を受け取り、舟を船着き場へ固定すると、今日ここへ届けると約束した薬箱を両手で持ち上げ、待っていた治療師のところへまっすぐ運んでいった。
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