第84話 味を受け渡す吸蜜蕪と、借りを残せない製陶職人
エルネ・バルトは四十七歳になる人間の男性であり、レーヴェン北区の外れに広がる窯職人街で、《赤土窯房》という小さな製陶工房を営んでいた。黒に近い茶髪には耳の上から白いものが目立ち始め、窯へ火を入れる日は汗で髪が額へ張りつかないよう、仕事前に水で撫でつけている。太く節張った指の爪には、どれだけ洗っても薄い赤土が残り、右手の親指には長年轆轤の縁へ触れ続けたことで厚い皮ができていた。
《赤土窯房》で作るものは、貴族の屋敷へ飾られる一点物の壺や、宝石を埋め込んだ豪華な器ではない。宿屋で毎日使われる深皿や小鉢、酒場の杯、薬房が乾燥薬草を保管する蓋壺、農家の油甕や塩壺、一般家庭の水差しなど、欠ければ直され、割れれば買い替えられ、それでも生活の中からなくならない器を中心に作っていた。
エルネ自身、その仕事が性に合っていると思っていた。何月もかけて一枚だけの飾り皿を完成させるより、同じ大きさの汁椀を二十個揃え、宿屋の食卓へ毎日並べてもらう方が嬉しい。形を揃える腕は窯職人街でも知られており、完成した小鉢を十個積み重ねても縁の高さがほとんどずれず、一つずつ手に取った時の重さまで近づけられるため、食堂や宿からまとめて注文されることが多かった。
仕事以外の部分でも、エルネはひどく几帳面な男だった。預かった代金は一銅貨でも間違えず、納期を一日早めても遅らせても必ず先方へ伝える。隣の窯から粘土を一袋借りれば同じ量を返し、焼成の途中で薪を十本分けてもらえば、後日同じ種類の薪を十本以上持っていく。荷車を借りたなら、次に相手が使う時には自分から運搬を手伝おうとした。
商売上の金銭や材料についてなら、それはむしろ信頼につながる性格だった。
問題は、エルネが金や物だけでなく、人から受けた好意まで同じように数えていたことである。
隣の職人が粘土袋を一刻運んでくれれば、自分も相手の仕事を一刻ほど手伝わなければ落ち着かない。雨の日に同僚が予備の上着を貸してくれれば、返却するだけでは足りず、何か小さな菓子まで添える。市場の顔見知りから、
「今日は売れ残ったから持っていきな」
と野菜を一袋渡されれば、その場で値段を尋ね、金を受け取ってもらえないなら、数日以内に同程度の価値がありそうな品を持っていった。
食事を奢られることも苦手だった。
「次は自分が払う」
という曖昧な形では落ち着かず、できるだけその場で半額を渡そうとする。相手から、
「今日は俺が払いたいんだからいい」
と言われても、
「それだと俺だけ得をする」
と譲らない。
本人にとっては、それが礼儀だった。
人から何かを受け取りっぱなしにしない。
助けてもらったなら、同じくらい返す。
返すまでは、借りが残っている。
その考えを、エルネは長い間ほとんど疑ったことがなかった。
しかし四十代へ入り、工房を持ち、人を雇うようになると、その几帳面さが少しずつ別の形で周囲へ影響していることが見え始めた。
エルネの近くにいる人間が、彼へ何かをしてやる前に、
「これをしたら、また返そうとするだろうな」
と考えるようになっていたのである。
◇
エルネが借りを残すことを嫌うようになった理由は、幼い頃の家の事情にあった。
父バルトは日雇いの石工として働き、母ミーナは市場の共同洗い場で布や器を洗う仕事を手伝っていた。二人とも働き者だったが、収入は季節によって安定せず、工事の減る冬や長雨の年には、食費や薪代へ困ることも珍しくなかった。
エルネが十歳の冬、父が建築現場から落ちて足を折った。
命に別状はなかったものの、三月ほど重い仕事ができなくなった。
母一人の収入で、両親と三人の子どもを養う。
蓄えはすぐに減った。
そんな家族を、近所の人たちが助けてくれた。
隣のパン屋が前日の黒パンを三つ持ってきた。市場の野菜商ロッサは、見た目が悪く売りにくい根菜を一籠置いていった。父と同じ組で働いていた石工たちは、冬用の薪を二束運んできた。
母は受け取るたび、何度も頭を下げた。
「助かります。本当にありがとう」
家族は実際、それで冬を越せた。
幼いエルネがよく覚えているのは、夜になると母が小さな帳面を開き、受け取ったものを書いていた姿だった。
『パン屋――黒パン三つ』
『ロッサ――根菜一籠』
『石工組――薪二束』
母は記憶力の悪い人ではなかった。それでも一つずつ文字へ残していたため、エルネには、それが返すべき借りの記録に見えた。
父の足が治り、少しずつ仕事へ戻るようになると、母は周囲へ手を返し始めた。
パン屋が忙しい日に洗い物を手伝う。
ロッサの店の棚が壊れれば父が直す。
石工仲間の家族が病気になった時には、母が煮込みを届ける。
ある夜、エルネは母へ尋ねた。
「もらった分、全部返すの?」
ミーナは洗った器を拭きながら答えた。
「返せるものは返したいね」
「くれたんじゃないの?」
「そうだよ。みんな返してほしくて持ってきたわけじゃない」
「なら、返さなくてもいいんじゃない?」
母は少し考えてから笑った。
「困った時に助けてもらったんだから、今度はうちができる時に何かしたいんだよ。もらったまま何も考えなくなるのは嫌だからね」
子どものエルネには、その後半より、
『助けてもらったら返す』
という部分の方が強く残った。
父も似た言葉を使った。
怪我から復帰した後、自分を助けてくれた仲間が忙しくなれば、頼まれる前から現場へ入り、
「借りを返すだけだ」
と笑っていた。
幼いエルネには、その姿が格好よく見えた。
誰かの好意へ甘え続けない。
助けられた分、次はこちらが助ける。
大人はそうするものだと思った。
十四歳で製陶工房へ見習いに入ってから、その考えはさらに強くなった。
最初の工房では粘土も薪も共同で使うことが多く、予定より土を使えば隣の作業台から一塊もらうこともある。釉薬を少量分けてもらうこともあれば、焼成中に薪が不足して別の窯から数本借りることもあった。
エルネは必ず返した。
土を一袋借りれば一袋。
釉薬を一壺分けてもらえば、原料が入った日に同量を戻す。
夜中に薪を十本運んでもらった時には、翌朝十二本返した。
「二本多いぞ」
師匠に言われる。
「夜中に運んでもらった分です」
「そんなところまで数えるのか」
師匠は笑った。
エルネは褒められたと思った。
それ以来、貸し借りが残っていない状態こそ、誰とも対等でいられる状態だと考えるようになった。
誰にも借りがない。
誰にも恩を盾にされない。
自分も誰かへ貸しを押しつけない。
それが一番きれいな関係だと思っていた。
◇
現在の《赤土窯房》には、エルネのほかに二人の職人が働いている。
三十一歳のミナトは、別の窯房で十年以上経験を積んだ後、六年前に《赤土窯房》へ移ってきた女性だった。淡い茶色の髪を耳の下で短く切り揃え、轆轤よりも釉薬の調合を得意としている。作った配合を細かく記録する几帳面さはエルネとも合うが、貸し借りについては彼ほど細かく考えない。
もう一人は十八歳の見習いセフで、工房へ入って二年目になる。細身ながら力はあり、現在は土練り、窯掃除、薪運びをこなしながら、簡単な小皿や杯を一人で作れるようになっていた。
ある春の日、《赤土窯房》へ宿屋から大きな注文が入った。
深皿三十枚、小鉢二十個、酒杯三十個。
宿屋の食堂改装に合わせて器を一新するための注文で、納期は三週間後だった。
普段なら余裕をもって終えられる量だった。
ところが作業開始から一週間ほど経ったところで、エルネが主に使っている大型轆轤の軸が突然割れた。
回転中に小さな異音がし、次の瞬間には台が大きく傾いた。作りかけの深皿は崩れたものの怪我はなく、エルネはすぐ軸を外して状態を確認した。
「新しい軸へ替えないと駄目ですね」
ミナトが言う。
「削り直せば二日でできる」
「二日、深皿止まりますよ」
「予備を使う」
「予備の轆轤、小さいでしょう。小鉢ならいいけど、今回の深皿は安定しません」
「分かってる」
その日の午後、隣で《青壺窯》を営むラドが様子を見に来た。五十歳になる男性で、エルネとは独立前から二十年以上の付き合いがある。
「軸やったって?」
「どこから聞いた」
「窯職人街で昼前に壊れた轆轤の話が夕方まで秘密になると思うなよ」
ラドは壊れた軸を見てから言った。
「うちの二台目、夕方から空くぞ。使え」
エルネはすぐに首を振った。
「大丈夫だ」
「深皿の納期あるだろ」
「軸を作り直す」
「二日潰すより、夜だけうちの轆轤使った方が早い」
「二晩借りたら、何を返す」
ラドが呆れた顔をした。
「まだ借りてもないのに返す話するな」
「返し方が決まらないものは借りにくい」
「お前、前に俺が腰をやった時、窯詰め二日手伝っただろ」
「あれは、その前に薪を――」
「どこまで遡る気だ」
ミナトが横から口を挟んだ。
「二晩だけ借りましょう。深皿を先に回せば、後はうちの予備でも進められます」
「でも」
「納期守れない方が宿屋へ迷惑です」
それには反論できない。
結局、エルネは二晩だけ《青壺窯》の轆轤を借りた。
作業は大きく進み、壊れた軸を修理している間にも深皿の成形を止めずに済んだ。おかげで宿屋への納期は予定通り守れた。
ところが納品を終えた翌朝、エルネは工房の帳面へ、
『青壺窯――大型轆轤、二夜』
と記した。
その日のうちにラドのところへ行く。
「今、何か手伝う仕事あるか」
「ない」
「窯掃除は」
「昨日終わった」
「薪運びは」
「先週入れた」
「次の粘土搬入は?」
「来月」
「なら来月行く」
ラドが深く息を吐いた。
「まだ轆轤のこと言ってるのか」
「二晩借りた」
「それで宿屋の注文間に合ったならいいだろ」
「お前だけ二晩損してる」
「俺の轆轤はその時間使う予定なかった」
「場所も使った」
「誰も困ってない」
「でも借りは残る」
ラドはしばらくエルネを見ると、
「お前さ、こっちが貸したかったっていうのは数えないのか」
と言った。
「何だそれ」
「困ってる知り合いに空いてる轆轤貸して、納期に間に合った。それで俺は別に嫌な気分してない。なのにお前が『何か返させろ、何か返させろ』って追いかけてきたら、そっちの方が面倒なんだよ」
「面倒?」
「貸す前に『また返しに来るな』って考えるようになる」
エルネは言葉を失った。
「お前が悪いやつって話じゃない。細かすぎるんだ」
ラドは笑ったが、その言葉には冗談だけではないものが含まれていた。
工房へ戻ると、ミナトにも似たことを言われた。
「ラドさん、最近エルネさんに物貸す時、ちょっと構えてますよ」
「貸したくないなら断ればいい」
「貸したくないんじゃなくて、その後が面倒なんですよ」
「返されて困ることなんてないだろ」
「同じだけ返そうとするからです。向こうが欲しい時じゃなく、エルネさんが返したい時に」
そこで初めて、エルネは少し黙った。
「返す側が決めるものじゃないのか」
ミナトが首を傾げる。
「それだと、受け取る側は選べないですよね」
エルネには、その考え方がよく分からなかった。
◇
夏前のある朝、北区には強い雨が降った。
工房へ来たセフは途中で傘を壊し、肩から背中まで濡れていた。まだ窯へ火を入れる前で工房内も冷えていたため、ミナトが自分の予備の上着を貸した。
「これ着な。濡れたままだと冷えるよ」
「ありがとうございます」
昼になる。
セフが持ってきたのは小さな黒パン一つだけだった。
ミナトは自分が二つ持ってきていた肉入りの焼き包みを見て、
「朝、作りすぎたから一個食べる?」
と渡した。
「でも俺、パンあります」
「それじゃ夕方まで腹もたないでしょ」
「じゃあ半分だけ」
「一個食べな」
何でもないやり取りだった。
翌日、セフは市場で買った小さな焼き菓子を一袋持ってきた。
「ミナトさん、これ」
「何?」
「昨日の上着と昼飯のお返しです」
ミナトが受け取らず、エルネを見る。
「誰に言われたの」
セフは少し困った。
「エルネさんから、借りたものやしてもらったことは返した方がいいって、前に」
エルネは眉を寄せた。
「自分で買ったんだろ」
「はい。でも返さないと悪いかなと思って」
ミナトが静かに聞く。
「昨日、私、返してほしそうだった?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ、この菓子買うお金、本当は別に使いたかった?」
セフは若者らしく正直だった。
「今日の昼に、肉を足そうかなとは思ってました」
ミナトがエルネを見る。
「これでも返させた方がいいです?」
責める調子ではない。
だからこそ、答えに詰まった。
自分はセフへ、
『恩は必ず翌日までに返せ』
と教えたつもりなどなかった。
しかし若い見習いは、そう受け取っていた。
「菓子は三人で食べよう」
結局そうした。
その日の午後から、ミナトはセフへ食べ物を分ける時、
「これは返さなくていいから」
とわざわざ付け加えるようになった。
上着を貸す時も、
「洗って返すだけでいいよ」
と言う。
エルネには、それがひどく気になった。
自分がいることで、好意を渡す側が毎回条件を説明しなければならなくなっている。
それでも、
「借りを返すのが悪いことなのか」
という疑問は消えなかった。
◇
その少し後、妹のヘラが《赤土窯房》へやって来た。
エルネより五歳年下で、北区の市場近くにある織物店で働いている。結婚して二人の子どもがおり、兄妹で会うのは月に一度あるかどうかだったが、関係は悪くなかった。
「母さんの家を片づけてたら、これ出てきた」
ヘラが持ってきたのは、角が擦れた小さな帳面だった。
表紙を見ただけで、エルネには分かった。
「まだ残ってたのか」
「覚えてる?」
「父さんが怪我した時のだろ」
頁を開く。
『パン屋――黒パン三つ』
『ロッサ――根菜一籠』
『石工組――薪二束』
四十年近く前の文字が残っていた。
「母さん、これ見て全部返してた」
エルネが言う。
「返せるものは返してたね」
「これがあったから、忘れなかったんだろ」
「兄さん、後ろまでちゃんと読んだことある?」
「子どもの頃には何回か見た」
「じゃあ今、読んでみて」
頁を進める。
最初の方は、確かに受け取ったものが多い。
ところが父が仕事へ戻り始めた頃から、書き方が少し変わっている。
『ロッサの下の子、熱。麦粥を届ける』
『南通りの老夫婦、薪運びを手伝う』
『市場へ来たばかりの親子へ、子ども服二着』
『パン屋の娘の婚礼、洗い場の手伝い』
エルネは何頁か前へ戻った。
「これ、返してる相手が違う」
「そうだよ」
「ロッサから根菜もらったのに、別の家へ粥持っていってる」
「だから、これ商売の帳簿じゃないよ」
「でも受け取ったものを記録してる」
「助けてもらったことを忘れないためじゃない?」
「返すためじゃなく?」
「それもあったと思うよ。でも母さん、誰に何を返せば帳尻が合うなんて計算してなかったでしょう」
エルネは幼い頃を思い出す。
確かに父はロッサの棚を修理した。
しかしロッサは、その後も傷物野菜を何度も持ってきた。
いつ「返済完了」になったのか、記憶にない。
「じゃあ、いつ借りがなくなった」
ヘラが笑う。
「なくならなくてもよかったんじゃない?」
「何でだ」
「近所付き合いだったから。困った時、できる方がやってたんでしょう」
「それだと、ずっと片方だけ助けることになるかもしれない」
「なった?」
エルネは答えられなかった。
「母さん、助けてもらうだけの人だった?」
「違う」
「ロッサさん、助けるだけの人だった?」
「違う」
「じゃあ、その時その時で変わってたんじゃない?」
ヘラは帳面を兄へ渡した。
「これ、兄さん持ってていいよ」
「お前は?」
「私は覚えてること少ないし、兄さんの方が母さんの字分かるでしょう」
エルネは反射的に言った。
「なら代わりに何か――」
ヘラが笑う。
「兄妹で母さんの帳面を渡すのに、何を返すつもりなの」
口を閉じた。
「そういうところだよ」
ヘラは笑ったまま帰った。
帳面だけが作業台へ残った。
◇
数日後、ミナトが大きな白い根菜を三本持ってきた。
普通の蕪より細長く、表面には淡い琥珀色の筋が入っている。
「叔父の畑から《吸蜜蕪》が届きました」
セフが一本を覗き込む。
「名前からすると甘いんです?」
「生だとそこまで甘くないらしいよ。煮汁をすごく吸うんだって」
「普通の蕪も吸うでしょう」
エルネが言う。
「これは一度吸った味を、別の煮汁へ入れた時に少し出すんです。叔父が言うには、甘い汁で煮た後、塩味の肉と合わせると両方が馴染むって」
「何だそれ」
ミナトは三本のうち一本を差し出した。
「一本持って帰ります?」
エルネは受け取る前に尋ねた。
「いくらだ」
「叔父から送られてきたんですよ」
「市場なら」
「知りません」
「明日調べて――」
ミナトが蕪を引っ込めた。
「やっぱりあげません」
「何でだ」
「野菜一本渡すだけで、返礼の相談が始まるからです」
セフが笑いそうになり、慌てて口を押さえた。
「余ってるから食べてほしいだけですよ」
「もらったら、俺だけ得する」
「私も叔父からもらって得してます」
「家族だろ」
「家族なら返さなくていいんですか?」
「それは……」
「じゃあ叔父の子どもに皿をあげたら返したことになります?」
「違うだろ」
「何で?」
最近、同じようなところで言葉に詰まることが増えた。
ミナトは蕪を作業台へ置いた。
「これは、返してほしい物じゃないです。余ってるから持ってきただけ。エルネさんが食べても、セフが食べてもいいし、嫌いなら私が持って帰ります」
「食べ物を捨てるとは言ってない」
「なら食べてください」
その日の夜、エルネは吸蜜蕪を持ち帰った。
普通に肉と煮れば食べられるだろう。
しかし、
『一度味を吸って、別のところへ少し返す』
という性質が妙に気になった。
翌日はレーヴェン中心部へ器の納品へ行く予定がある。
エルネは蕪を包み、以前宿屋の料理人から聞いたことのある《持ち込み食堂》へ持っていくことにした。
◇
悠斗は吸蜜蕪を見ると、名前は知っていたものの、自分で扱った経験はほとんどないと答えた。
「ちゃんと料理するのは初めてです。どんな性質って聞いてます?」
「煮汁を吸う。甘い汁を吸わせてから別の鍋に入れると、少し味が戻るらしい」
「面白いですね」
悠斗は縦へ切った。
中は白いが、一般的な蕪より繊維の間に細かな空洞が多く、断面が少し粗く見える。
いきなり本調理へ入らず、小さな一片を水へ入れて火を通す。
「かなり水分含みますね」
ミレイアが覗く。
「最初より少し膨らんだ?」
「気のせいじゃないと思います」
悠斗は少し考えた後、
「二段階でやってみます」
と決めた。
一つ目の鍋には薄い出汁を張り、薄切りの根玉葱と、ごく少量の蜜を加える。
エルネが聞く。
「甘い料理にするのか」
「甘くするほどは入れません。まず蕪へ吸わせてみたいので」
大ぶりに切った吸蜜蕪を入れる。
火が通るにつれて、白かった断面が少し透き通り、煮汁を含んで重くなる。
悠斗は一つ取り出し、冷ましてから味を見る。
「中まで甘味入ってます」
そこで蕪だけを一度鍋から取り出した。
「何で出す」
「次の鍋に移します」
別の鍋では、白い鳥肉と茸を塩気の薄い出汁で煮ている。
そこへ先ほどの吸蜜蕪を加える。
「最初の汁は入れないのか」
「後で必要なら足します。でもまず蕪からどのくらい味が出るか見ます」
しばらく煮る。
悠斗が煮汁を味見する。
ミレイアにも小皿へ少し分けた。
「あ、ちょっと甘くなってる」
「根玉葱も蜜も、こっちの鍋には入れてないんですよね」
「入れてないです」
エルネも小皿を受け取る。
確かに、鳥肉と茸だけの出汁に、柔らかな甘味が混じっている。
「吸ったものを返してるのか」
「少しは。でも蕪の中にも甘さは残ってます」
「全部返してない?」
「少なくとも、同じ状態へ戻ってはいないですね。最初の出汁の味に、肉や茸の味も入ってますから」
最後に、一つ目の甘い煮汁をほんの少しだけ二つ目の鍋へ加え、全体の味を整えた。
完成した《吸蜜蕪と白肉の二段煮》では、蕪の中へ根玉葱と蜜の穏やかな甘味が染み込んでいる一方、外側には鳥肉と茸の旨味も重なっていた。煮汁の方にも、蕪を通して戻ってきたような丸い甘さがある。
エルネはゆっくり食べる。
「変な食材だ」
「何をどれだけ受け取って、どのくらい出したか、途中から分からなくなりますね」
悠斗が言う。
「測れないのか」
「重さなら測れますけど、根玉葱の甘味を何割吸って、茸へ何割渡したかまでは難しいですね」
「料理屋なのに?」
「原価や量は見ます。でも食材同士の味のやり取りを全部帳面にはしないです」
ミレイアが笑った。
「そんな帳面つけたら、鍋一つで頁いっぱいになりますよ」
エルネには、その発想自体が少し落ち着かなかった。
◇
悠斗から、
「普段、帳面をつける仕事なんですか?」
と尋ねられ、エルネは製陶職人だと答えた。
そこから、轆轤を二晩借りた話、ラドへ同じだけ返そうとして面倒がられた話、セフが昼食の翌日に菓子を買ってきた話まで自然に続いた。
「借りを残さないようにしてるだけだ」
エルネが言う。
「物を借りたら返すのは普通だと思います」
悠斗が答える。
「だろう」
「でも、助けてもらった時間とか、食べ物を分けてもらったことまで、全部同じように戻さないと駄目ですか?」
「それも受け取ったものだろ」
ミレイアが尋ねる。
「相手が返してほしくないって言っても?」
「その場では遠慮してるだけかもしれない」
「本当に返してほしくない人もいますよ」
「してもらった事実は残る」
「残っても駄目?」
エルネは少し考えた。
「相手だけ損したままになる」
「相手が損したと思ってなかったら?」
「受け取った側が勝手に決めることじゃない」
「じゃあ、返す物を相手が要らないって言っても、受け取らせる?」
その問いは、ラドから言われたことと同じだった。
悠斗が続ける。
「例えば、ミレイアが忙しい時に俺の片づけを少し手伝ってくれたとして、俺が翌日その時間分だけ別の仕事を無理に探して返したら、そこで全部終わりですか?」
ミレイアが答える。
「私なら、いちいち時間測られた方が疲れます」
「でも片方だけ助け続けることになるかもしれない」
エルネが言う。
「本当にそうなって嫌なら、その時は話すと思います。でも今日私が手伝って、来週は悠斗さんが重い鍋を持ってくれるかもしれないし、別の日には私が何もしてないのに賄いを多めにもらうかもしれない」
「それを全部数えない?」
「数えてないですね」
エルネには、その曖昧さが不安だった。
「じゃあ、いつ釣り合ったか分からないだろ」
ミレイアは少し考えた。
「釣り合わせるために一緒に働いてるわけじゃないからかな」
エルネは返せなかった。
そこで母の古い帳面の話をした。
父が怪我した冬、近所から受け取った物を母が全部書いていたこと。
自分はそれを借り帳だと思っていたこと。
ところが妹と読み直したら、母が別の人へしたことまで混じっていたこと。
「母さん自身は何て言ってたんです?」
悠斗が聞く。
「昔、『困った時に助けてもらったから、返せる時に返したい』とは言ってた」
「誰に返すって?」
エルネは止まった。
「そこまでは言ってない」
「同じ量って?」
「言ってない」
記憶の中の母は、
『うちができる時に何かしたい』
と言っていた。
いつ。
誰へ。
どれだけ。
そこまでは決めていなかった。
「返さないのが嫌なんじゃない」
エルネは言った。
「もらいっぱなしで平気な人間になるのが嫌なんだ。誰かが助けてくれて当然だと思うのが嫌だ」
悠斗は頷いた。
「それは、返済を全部揃えないと守れないことですか?」
エルネが眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「助けてもらったことを覚えてる。ありがたかったと思う。次に自分ができる時、誰かを助ける。それでも『当然だと思ってる人』にはならない気がします」
「でも、助けてくれた本人には返してない」
「本人が困った時に助けられるなら、それでもいいし、困ってないなら無理に困り事を作ってもらう必要はないんじゃないですか?」
ラドへ、
『何かないか』
と何度も聞いた自分を思い出す。
「返すために、相手へ仕事を作らせてるってことか」
「そうなる時もあるかもしれません」
エルネは嫌そうな顔をした。
「じゃあ、何もしないのか」
「何もしないっていうより、今すぐ帳尻を合わせなくてもいい、くらいです」
悠斗が皿の吸蜜蕪を指した。
「この蕪も、最初に根玉葱と蜜から味をもらいましたけど、その味を根玉葱へ返してないですよね」
「食材と人間は違う」
「はい。でも、もらったものがそのまま同じ場所へ戻らなくても、なくなってはいない、というところは少し似てるなと思って」
エルネは蕪を一口食べた。
最初の鍋の蜜の甘さだけではない。
二つ目の鍋へ入った鳥肉や茸の味も吸い込んでいる。
そして、その一部がまた煮汁へ出ている。
何をどれだけ受け取ったのか、すでに分けられない。
「これ、気持ち悪くないのか」
エルネが聞く。
「味が混ざるのが?」
「誰から何をもらったか分からなくなるのが」
ミレイアは少し笑った。
「全部忘れるのは寂しいですけど、『未返済』って書かなくても、覚えておく方法はあると思います」
「例えば」
「大事にしてもらった、とか」
エルネは眉間へ皺を寄せた。
「帳面に向かない言葉だな」
「商売の帳簿じゃないですから」
その答えに、母の古い帳面が重なった。
◇
店を出る時、悠斗は残った吸蜜蕪を包みながら、家庭でも同じ二段煮を作れるよう簡単に手順を伝えた。
「蜜はどれくらいだ」
エルネが尋ねる。
「今日の蕪一本なら、小匙に少し乗るくらいで十分です」
「同じ量にすれば同じ味になる?」
「蕪の大きさも水分も違うので、途中で味を見た方がいいです」
「料理ってやつは、本当に数字を揃えさせないな」
「揃えるところは揃えますよ。でも、食材が全部同じじゃないので」
帰り道、エルネは母の帳面のことを考え続けた。
助けてもらったことを覚える。
それはやめたくない。
自分だけが受け取り続け、相手へ何もしない人間にもなりたくない。
ただし、
『黒パン三つをもらったから、黒パン三つ分を返す』
という形だけが、忘れない方法ではないのかもしれない。
答えはまだ曖昧だった。
それでも以前ほど、
「すぐ返さなければ」
という一つの答えだけには見えなくなっていた。
◇
数日後、《青壺窯》のラドが工房へ来た。
「来月の粘土搬入、十七日になった」
エルネがすぐ顔を上げる。
「朝から行く」
「来なくていい」
「何でだ」
「若いの二人いるし、荷車も一台増やした。人手足りてる」
「でも轆轤を二晩――」
そこまで言い、止まった。
ラドが面白そうに見ている。
「何だよ」
「本当に人手はいらないんだな」
「いらない」
「俺が行ったら邪魔か」
「邪魔とまでは言わんけど、仕事ないから茶飲んで帰ることになるぞ」
エルネは少し黙った。
「分かった。行かない」
ラドが目を丸くする。
「終わり?」
「終わりだ」
「気持ち悪くない?」
「気持ち悪い」
「じゃあ来いよ」
「お前が要らないって言ってるんだから行かない」
自分で言っていて落ち着かなかった。
帳面にはまだ『大型轆轤、二夜』と残っている。
しかしラドが必要としていない手伝いを押しつけることは、相手のためというより自分の気分を軽くするためなのだと、今は少し分かる。
「ただし、本当に困ったら言え」
エルネが言う。
「その時、轆轤二晩分より少ない仕事でも?」
ラドがからかう。
以前なら答えに詰まったかもしれない。
「必要な分だけやる」
「多かったら?」
「できる範囲でやる」
「お前、随分雑になったな」
「普通になったって言え」
二人で笑った。
借りが消えたとは感じなかった。
それでも、その借りを今すぐゼロへしなくてもラドとの関係が壊れないことだけは分かった。
◇
セフとのやり取りにも、少しずつ変化が出た。
ある朝、荷車から粘土袋を下ろしている途中で一袋の口が裂け、中身が傾きかけた。エルネはすぐ横へ入り、セフと二人で袋を抱えて作業台まで運んだ。
昼になると、セフが市場で買った赤い果実を一つ差し出した。
「朝、助けてもらったので」
エルネは果実を見る。
「朝のは工房の仕事だ」
「でも俺が袋をちゃんと持ってなかったから」
「私の工房の粘土だろ。倒れそうなら私も持つ」
「じゃあ、返さなくていい?」
「返さなくていい」
セフが一度果実を引っ込めた。
少ししてから、もう一度差し出す。
「じゃあ普通に、一個食べます?」
「何で」
「二個買ったからです」
エルネは一瞬迷った。
「返さなくていいですよ」
先に言われた。
奥で釉薬を混ぜていたミナトが肩を震わせている。
「笑うな」
「何も言ってません」
エルネは果実を受け取った。
「ありがとう」
それだけで終えた。
何か一つ手順を飛ばしたような居心地の悪さは残ったものの、その日の帳面へ、
『セフ――果実一個』
とは書かなかった。
夕方になって何度か思い出し、それでも書かなかった。
受け取ったことまで忘れる必要はない。
ただし、返済待ちの項目として残す必要もないのかもしれない。
◇
その後も、エルネは何かしてもらうたびすぐ自然に受け取れるようになったわけではなかった。
ミナトが帰宅途中、自分の買い物と同じ店で工房用の灯油を買ってきた時には、代金を払った後で、
「運んだ手間は?」
と尋ねた。
「同じ道なので、ほとんどないです」
「それなら何もなしでいいのか」
「何か欲しかったら自分から言いますよ」
「そういうものか」
「そういうものです」
別の日、ミナトが新しい釉薬の調合を試したくて、一刻ほど仕事後に残った。
エルネは翌朝、
「今日は一刻遅く来てもいい」
と言った。
「別にいいですよ。自分が試したくて残ったので」
「でも工房で使う配合になるかもしれない」
「じゃあ上手くいったら、私の配合として使わせてください」
「それでいいのか」
「それがいいです」
受け取る相手が何を求めているかは、必ずしも自分が決めることではない。
同じ一刻を返せば公平になるとも限らない。
返礼自体を求めていない場合もある。
その区別を考えるようになると、貸し借りは以前より面倒になった。
しかし人との関係は少し楽になった。
◇
妹ヘラが再び工房へ来た時、エルネは母の帳面を作業台の引き出しから取り出した。
「読んだ?」
「全部」
「借り帳だった?」
からかうように聞かれる。
「母さん、計算は雑だった」
「そこなの?」
「同じ相手へ同じだけ返してない」
「だから言ったでしょう」
「でも受け取ったことは、かなり細かく書いてる」
「忘れたくなかったんじゃない?」
エルネは帳面をめくる。
「返済済みの印が一つもない」
「借金じゃなかったからじゃない?」
「じゃあ何の帳面だったと思う」
ヘラは少し考えた。
「自分たちが一人で暮らしてないって、忘れないためじゃない?」
エルネが顔をしかめる。
「母さんがそう言ったのか」
「私の想像」
「なら勝手じゃないか」
「兄さんの『借り帳』も勝手だったでしょう」
確かにそうだった。
ヘラは布袋を机へ置いた。
「うちの子たちが拾った木の実。多すぎるから半分あげる」
「また返さなくていいやつか」
「返したければ何かくれてもいいけど、同じ量の木の実をわざわざ買ってこないでね」
「そこまではしない」
言いながら、以前の自分なら似たことをした可能性があると気づき、少し黙った。
「何」
「何でもない」
布袋を受け取る。
「ありがとう」
ヘラは笑って帰った。
その夜、エルネは残っていた吸蜜蕪を使って、もう一度二段煮を作った。
最初の鍋へ根玉葱と少量の蜜を入れ、蕪へ味を吸わせる。別の鍋では肉と茸を煮込み、そこへ蕪を移す。
最後に、ヘラの子どもたちが拾った木の実を少し砕き、上へ散らした。
《持ち込み食堂》では使わなかった材料だ。
食べてみる。
木の実の香ばしさが蕪の甘味へ合う。
悪くない。
そこでふと、この一皿へ関わっている人間を数え始めた。
吸蜜蕪は、ミナトの叔父の畑から来た。
ミナトが工房へ持ってきた。
二段煮の方法は悠斗に教わった。
木の実はヘラの子どもたちが拾った。
肉は近所の肉屋から買った。
茸は市場の店主が、閉店間際だからと少し多めに入れてくれたものだった。
どこまでを借りと呼ぶのか。
ミナトへ蕪一本。
悠斗へ料理一回。
ヘラへ木の実半袋。
市場の店主へ茸の追加分。
そんなことを始めれば、夕食一皿だけで帳面が埋まる。
「母さん、こんなこと全部計算してなかったな」
独り言が出た。
ミーナが帳面へ残していたのは、帳尻ではなかったのかもしれない。
助けてもらったこと。
誰かへ手を出したこと。
その日の暮らしの中で、人と関わったこと。
そういうものを忘れたくなかっただけなのではないか。
◇
秋が近づいた頃、《赤土窯房》で大きな焼成の失敗が起きた。
夜中から予報以上の強風が吹き、窯の片側だけ火の回り方が強くなったのである。
翌朝、窯を開ける。
割れた器は少ない。
しかし左側に積んでいた白釉の深皿十二枚へ色むらが出ていた。
日用品としては十分使える。
ただし、宿屋から頼まれた「同じ白色を揃えたい」という注文品には入れられない。
「作り直しですね」
ミナトが皿を一枚ずつ確認する。
「納期は五日後」
「成形して乾かして焼くなら、ぎりぎりです」
土も釉薬もある。
問題は薪だった。
予定外の再焼成をするだけの量が、工房には残っていない。
次の納入は四日後。
それを待てば間に合わない。
以前のエルネなら、まず自分の倉を何度も調べ、足りない分を節約できないか考え、それでも駄目なら隣へ借りに行った後で、返礼まで同時に考えただろう。
今回は、必要量を確認した後、そのまま《青壺窯》へ向かった。
「ラド、薪二束貸せるか」
「あるぞ」
「焼き直しが出た。納期五日後」
「裏の山から持ってけ。乾いてる方な」
「助かる」
「おう」
そこで会話が終わりそうになった。
エルネの口から、
「来月――」
という言葉が出かかった。
止める。
「何だ?」
「何でもない。必要な時、何かあったら言え」
「言うよ」
それだけで薪を借りた。
工房の材料管理帳には、
『青壺窯より薪二束』
と記す。
これは物として返す必要があるためである。
後日、同じ程度の乾燥薪を二束返す予定を記した。
ただしその横へ、
『夜間搬出の手間』
『急ぎ対応の恩』
などという別の項目は作らなかった。
相手がその手間を借金として渡したわけではないからである。
焼き直しは間に合った。
宿屋へ同じ白釉の皿を揃えて納品する。
数週間後、今度は《青壺窯》で釉薬を入れていた大樽が割れた。
ラドが工房へ走ってくる。
「大きい空き壺、二つあるか」
「ある」
「一日だけ貸してくれ」
「持っていけ」
「いくらだ」
「割ったら壺代」
「運ぶ手間は?」
ラドがわざと聞く。
エルネは顔をしかめた。
「面倒なやつだな」
「誰に似たと思ってる」
二人で笑った。
ラドが大壺を二つ持って帰る。
一瞬だけ、
(薪二束と大壺二個なら、大壺の方が高い)
という考えが浮かんだ。
しかし、その先を計算しなかった。
今ラドには壺が必要だった。
自分の工房には空きがある。
だから貸した。
それでいい。
◇
工房の三人の間にも、その考え方は少しずつ根づいた。
冬前の忙しい日、セフが朝から夕方まで土練りと削りを続けていた。
「今日はもう帰れ」
エルネが言う。
「この小鉢だけ終わらせます」
「明日でいい」
「でもミナトさん、まだ釉薬やってるし」
ミナトが答える。
「私は今日この配合を終わらせたいだけ。セフは朝から荷運びもしたでしょう」
以前のエルネなら、誰か一人だけ早く帰れば、その分を別の日に必ず揃えようとしたかもしれない。
「じゃあ今日は帰れ。明日、窯掃除が多ければ頼む」
セフが尋ねる。
「今日早く帰る分?」
エルネは一度考えてから首を振った。
「違う。明日仕事があれば頼む。なければ頼まない」
「それでいいんですか」
「今日のお前は、もう十分働いてる」
翌朝、窯掃除は予想より短く済んだ。
セフへ余分な仕事を頼む必要はなかった。
それでも、
『昨日早く帰らせた分が残っている』
とは考えなかった。
勤務時間として必要な管理は別にある。
しかし、人への配慮まで同じ量で返させる必要はなかった。
◇
年末が近づいた頃、エルネは市場で吸蜜蕪を見つけた。
最初にミナトからもらったものより大きく、琥珀色の筋も濃い。
今度は自分で代金を払い、一つ買った。
仕事の区切りがついた午後、《持ち込み食堂》へ持っていく。
「また吸蜜蕪ですね」
ミレイアが笑う。
「今度は買った」
「最初の一本、ミナトさんへ返しました?」
からかうように聞かれる。
エルネは少し顔をしかめた。
「返してない」
「気にならなくなった?」
「気にはなる」
「まだ?」
「前ほどじゃない」
悠斗が蕪を切る。
「今日はどうします?」
「前の二段煮がいい。ただ、家で木の実を載せたら合った」
「いいですね。今日はそれもやりましょう」
最初の鍋で穏やかな甘味を吸わせ、二つ目の鍋で白肉と茸の旨味を重ねる。最後へ砕いた木の実を加える。
前回と似た料理である。
しかし蕪が大きいため火の入り方は違い、木の実が加わったことで香りも変わった。
エルネは出来上がった料理を食べながら言う。
「教えてもらったものに、自分のものを足したんだな」
「料理って大体そういうところありますよ」
悠斗が答える。
「誰かから教わったやり方を、そのまま一生同じにするわけじゃないですし」
ミレイアが尋ねる。
「じゃあ最近は、借りを残せるようになったんですか?」
「その言い方は嫌だ」
「何て言えばいい?」
エルネはしばらく考えた。
「受け取ったものを、すぐ同じ形で返さなくても置いておけるようになった」
「それ、かなり違いますね」
「返さないってことじゃないぞ。金を借りたら金は返す。薪を借りたら薪も返す。約束したなら守る」
「好意は?」
「返したい時は返す。でも相手がいらないって言ってるのに、同じ量を受け取らせることはしない」
自分で言葉にしてみると、ようやく納得できた。
◇
春先、母ミーナの命日が来た。
エルネとヘラは郊外の小さな墓地へ一緒に行き、墓前へ花を置いた。
帰り道、ヘラが聞く。
「母さんの帳面、まだ持ってる?」
「ある」
「どうするの」
「後ろに紙を足した」
「兄さんも書いてるの?」
「少し」
「借り帳を?」
エルネは首を振った。
「違う」
「じゃあ何を書くの」
「まだ名前は決めてない」
実際、母の古い帳面の最後へ、新しい紙を何枚か綴じ足していた。
そこには以前のように、
『誰から何を借りた』
『いつ返した』
とは書いていない。
『ラド――大型轆轤を二晩貸してくれた。宿屋の注文に間に合った』
『ミナト――吸蜜蕪を持ってきた』
『セフ――赤い果実を一つ分けてくれた』
『ヘラ――母さんの帳面を持ってきた』
と、その時ありがたかったことを書いている。
別の頁には、
『青壺窯へ空き壺二つを貸した』
『市場で困っていた新人陶工へ土屋を教えた』
『セフの練習皿を窯の安定する位置へ入れた』
と、自分が誰かへしたことも書く。
ただし線で結ばない。
『ラドの轆轤=大壺二つ』
という計算はしない。
「母さんの真似かもしれない」
エルネが言う。
「借りじゃなく?」
「何を受け取ったか、忘れないための帳面」
「自分がしたことも書くんでしょう」
「返済のつもりじゃないこともな」
ヘラが少し笑った。
「その方が母さんっぽい気がする」
「お前の想像だろ」
「兄さんの想像よりは近かったかもよ」
「それは認めない」
二人で笑った。
◇
その年の初夏、《赤土窯房》ではセフが初めて、注文品の小鉢十個を一人で揃えることになった。
同じ直径。
同じ高さ。
同じ厚み。
口縁の開き方まで近づける。
見習い二年目のセフにとって、一個だけ綺麗な器を作るよりずっと難しい課題だった。
一個目と二個目は悪くない。
三個目で少し高さが出る。
エルネが指摘する。
「手首が上がってる。土を上へ引きすぎだ」
「削れば揃います?」
「限度がある。次から成形で直せ」
七個目は途中で崩した。
「すみません」
「割ったわけじゃない。練り直せ」
八個目は口が少し広い。
ミナトが横から、
「乾燥で少し締まるけど、それでも広いね」
と教える。
予定より半日遅れ、ようやく十個が揃った。
その半日、ミナトも釉薬準備の時間を少しずらし、エルネも自分の皿成形を後へ回した。
窯詰めを始める前、セフが言った。
「二人にかなり助けてもらいました」
「見習いが初めて十個揃えるんだから普通だ」
エルネが答える。
「何か返した方がいいですよね」
少し前の自分を見ているようだった。
エルネはすぐには答えず、十個の小鉢を見た。
「じゃあ、次に新人が入って、そいつが初めて十個揃える時、お前が教えろ」
セフが目を丸くする。
「次の見習いですか?」
「いつ入るか知らない」
「何年後かもしれませんよ」
「それでいい」
「エルネさんとミナトさんには?」
「私たちが困った時、お前にできることがあれば手伝え。その時、何もなければ何もしなくていい」
「それでいいんですか」
「最近、それでもなくならないものがあるらしいと分かった」
ミナトが横で笑う。
「随分遠回りしましたね」
「お前は黙って釉薬持ってこい」
十個の小鉢を窯へ詰める。
エルネは、その中でも火の回りが最も安定する場所へセフの器を置いた。
自分が見習いだった頃も、師匠は初めての注文品を良い位置へ置いてくれた。
その師匠へ、
『良い窯位置一回分』
を返した覚えはない。
それでも今、自分が別の見習いへ同じような場所を渡している。
受け取ったものが、自分のところで止まらず次へ移っている。
それでよかった。
◇
翌朝、窯を開けた。
十個の小鉢はすべて割れずに焼けていた。
二個にはわずかな色むらが出たものの、普段使いなら問題ない。残り八個は注文品として十分揃っていた。
セフが一つずつ取り出す。
「これ、納品できます?」
「八つは入れる。二つは工房の店頭へ回す」
「十個全部揃えたかったです」
「次に揃えろ。最初から十個全部完璧なら、見習い期間いらないだろ」
ミナトが奥から声をかける。
「今日はお祝いで、昼ちょっといいもの買いません?」
セフがすぐ財布へ手を伸ばした。
「俺も払います」
エルネはその手を止める。
「今日は私が出す」
「でも俺の祝いですよ」
「だからだ」
「じゃあ次は俺が」
以前の自分なら、その言葉を聞いて初めて安心しただろう。
今は少し考えてから答えた。
「次に払いたければ払え。別の祝いなら別の人が払うかもしれない。そこはその時決める」
セフがエルネの顔を見る。
「本当にエルネさんですか」
「窯の中にもう一度入れて焼き直すぞ」
三人で笑った。
◇
昼には近くのパン屋から、肉と根菜を包んだ温かい焼きパンを三つ買った。
同じ値段ではあるものの、大きさには少し違いがある。
ミナトは一番小さいものを取った。
「朝飯が遅かったから、今日はこれくらいでいい」
セフは真ん中を取る。
結果として、一番大きい包みがエルネの前へ残った。
「私が一番大きいのか」
「今日はエルネさんが払ったんだから、いいんじゃないです?」
ミナトが言う。
「払った人間が大きいのを取ると、それはそれで釣り合いが――」
そこまで口にし、二人を見る。
セフまで笑いを堪えている。
「何だ」
「まだ出ますね」
ミナトが言う。
「四十年以上の癖が一年で消えるか」
エルネは一番大きい包みを取った。
誰かへ差し替えようとはしなかった。
昼食を終え、午後の作業へ戻る。
夕方、工房を閉める前に、エルネは母の帳面を開いた。
新しく綴じた頁へ炭筆を置く。
『セフ――初めて注文用の小鉢を八個納品できる出来まで揃えた。ミナトと三人で昼を食べた。』
そこで一度手を止める。
返済欄はない。
誰が誰へ何を返したかも書かない。
少し迷った後、その下へ一行だけ加えた。
『受け取ったものは、同じ形で戻らなくても、なくなったわけではない。』
書いた直後、少し気恥ずかしくなった。
商売の帳簿なら何の役にも立たない文章であり、母の古い頁にも、そんな理屈めいた説明は一行もない。
それでも消さなかった。
工房の外では、ミナトとセフが翌日のための粘土へ水を含ませている。隣の《青壺窯》からはラドが何かを叩く音が聞こえ、少し離れた妹の家では、今頃子どもたちが夕食の支度を手伝っているかもしれない。
自分が誰から何を受け取り、それがどこへどう渡っていったのかを、すべて正確に分けることはできない。
それでも、受け取ったことを忘れなければいい。
自分にできる時、誰かへ手を伸ばせばいい。
金や物のように返すべきものは、約束通り返す。
一方で、相手が返してほしいと思っていない好意まで無理に同じ形へ戻し、相手へ受け取らせる必要はない。
そして自分が渡したものが、同じ人間から同じ量で戻ってこなくても、それだけで損をしたと考えなくていい。
母は昔から、それを知っていたのかもしれない。
エルネだけが、長い間帳面の数字ばかりを見ていた。
「エルネさん」
外からセフの声がした。
「昼の焼き菓子、一個残ってます。食べます?」
エルネは以前なら、まず誰が代金を払ったものかを尋ねたかもしれない。
今日は帳面を閉じた。
「食べる」
と答え、何を返すか考える前に作業台から立ち上がった。
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