第83話 層ごとに火を変える層皮茸と、役目を降りられない鐘守
トルヴァ・メイスは五十二歳になる人間の男性であり、レーヴェンから南へ半日ほど進んだ街道宿場で、二十七年にわたり《時告げ鐘楼》の鐘守を務めていた。白髪が混じり始めた焦げ茶色の髪は短く刈り込み、左の頬には若い頃、切れた鐘綱の金具が跳ね返った時についた細い傷が残っている。大柄ではないものの、毎日重い鐘綱を扱ってきた肩と背中には年齢以上の厚みがあり、右手のひらには古い縄だこが幾重にも重なっていた。
レムナの時告げ鐘楼は、宿場のほぼ中央に建つ石造りの塔であり、四階建てほどの高さしかないものの、周囲に高い建物が少ないため、その鐘の音は町外れの厩舎や畑までよく届いた。鐘そのものは一つだけだが、鳴らす回数と間隔によって意味が異なり、夜明け前には一打、朝市の始まりには三打、正午には長く一打、夕刻には二打を鳴らす決まりになっている。
さらに火災、盗賊の接近、街道の閉鎖、大雨による渡し場の停止などが起これば、通常とは別の合図を使う。火災なら長打の後に短打を連続させ、渡し場の閉鎖なら短打を四回ずつ二組に分ける。祭りの日には日常と違う打ち方も加わるため、ただ決められた時刻に綱を引けばよいという仕事ではなかった。
時計を持つ者が少ないレムナでは、宿屋も商人も厩舎も、鐘によって一日の区切りを知る。朝の鐘を聞いて厨房へ火を入れる宿屋があり、正午の鐘を目安に馬を休ませる商隊があり、夕刻の鐘が鳴れば門番の交代や夜の支度が始まる。農家が朝市へ野菜を運ぶ日には三打の鐘が店開きの目安となり、旅人も宿場を出る時刻を決める際には鐘楼を気にした。
トルヴァは、その生活の中へ自分の仕事が組み込まれていることを誇りにしていた。
二十五歳で前任の鐘守から役目を受け継いで以来、無断で鐘を休ませたことは一度もない。若い頃に高熱を出した時でさえ、朝だけは布を何枚も巻いて鐘楼へ上り、一打を鳴らしてから寝床へ戻った。父親の葬儀で隣村へ行った時も、自分が夕刻までに戻れないと分かっていたため、前日のうちに代理を立て、鐘の間隔を何度も確認してから町を離れた。
前任の鐘守ガレスから、まだ弟子だった頃に教えられた言葉がある。
「鐘は、人が聞いて使うものだ。鳴ると思っている鐘が鳴らないのが、一番困る」
トルヴァは、その言葉を二十七年間守ってきた。
そのため宿屋の主人から、
「あそこの鐘は狂わない」
と言われることもあれば、幼い子どもたちから、
「鐘のおじさん」
と呼ばれることもあった。
毎日同じ時刻に、同じように鐘を鳴らすだけの仕事だと考える者もいる。それでもトルヴァにとっては、その「同じように」が大切だった。晴天の日だけ正確でも意味はなく、雨の日も、雪の日も、旅人が少ない日も、祭りで町中が騒がしい日も、必要な時刻に必要な音を届けることこそ鐘守の仕事だと思っていた。
ところが五十歳を越えた頃から、自分の身体だけは、それまでとまったく同じではなくなり始めた。
最初に違和感が出たのは右肩だった。強く綱を引いた翌朝、腕を頭より高く上げる時に鈍い痛みが残るようになり、寒い日にはその痛みが肘の方まで伸びることもあった。数日すれば治まるため放っておいたが、その次には腰が重くなり、鐘楼の狭い螺旋階段を上る時、一段目から足が軽かった昔との違いを感じるようになった。
冬には指の節も固くなる。
鐘綱を握れないほどではない。
階段も上れる。
鐘も鳴らせる。
だからトルヴァは、それまでと同じように仕事を続けた。
自分ができるうちは、自分がやる。
それだけのことだと思っていた。
問題がはっきり形になったのは、前年の冬だった。
雪の朝、鐘楼の石階段へ薄い氷が張っていたことに気づかず、トルヴァは足を滑らせて三段ほど落ちた。身体を強く打ちつけたものの骨折はなく、左膝をひどく腫らした程度で済んだが、一月近く階段を上るたび痛みが残った。
その時、町長から初めて本格的に言われた。
「そろそろ若い者へ、朝か夕方だけでも教えた方がいい」
トルヴァは即座に断った。
「まだ鳴らせます」
「鳴らせるかどうかだけの話じゃない。あんた一人しか知らないままで、ある日急に動けなくなる方が困る」
「動けなくなったら、その時に代わりを決めればいいでしょう」
「その時から教えて間に合う仕事じゃないのは、あんたが一番分かってるはずだ」
鐘を一度鳴らすだけなら、力のある大人なら誰でもできる。
しかし正しい間隔で鳴らし、余計な二打目を響かせず、雨で重くなった綱や冬の硬い金具を扱い、緊急鐘の区別まで覚えるには、それなりの時間が必要だった。
後継者は、いつか育てなければならない。
頭では分かっていた。
それでもトルヴァには、自分がまだできることを、できるうちから誰かへ渡すという考えだけがどうしても受け入れられなかった。
◇
トルヴァが鐘守という役目を簡単に手放せない理由は、二十代の頃まで遡る。
父親はレムナの街道沿いで荷車の車輪を直す修理職人であり、四人の子どもの長男だったトルヴァも十五歳から仕事場を手伝っていた。ところが木の癖を読むことも、車軸へ寸法通り穴を開けることも、弟の方がずっと早く身につけた。
父は長男だから家業を継げとは言わなかった。
「向いてる仕事を探せばいい」
とだけ言った。
優しい言葉だった。
しかしトルヴァ本人には、家業を任せてもらえなかったという感覚が残った。
二十代前半までは、宿屋の荷運び、市場の荷ほどき、商隊の短期護衛補助、倉庫整理など、いくつもの仕事をした。雇い主と揉めて辞めたわけではなく、どれも必要な時だけ人手を求められる仕事だったため、一つの場所に長く残ることがなかった。
一つの仕事を覚える。
しばらく働く。
季節が変われば別の者へ渡し、自分はまた別の場所へ行く。
若いトルヴァには、それがひどく落ち着かなかった。
自分には、
「これは自分の仕事だ」
と言えるものが何もない。
そんな頃、時告げ鐘楼の鐘守だったガレスが足を悪くし、後継者を探していると聞いた。
トルヴァはすぐ応募した。
毎日必ず必要とされる仕事だから、というのが最初の理由だった。
ところがガレスは、初日に彼を追い返した。
「鐘を引っ張るだけだと思ってるなら、もっと別の仕事探しな」
「そうは思ってません」
「なら、何する仕事だ」
答えられなかった。
それでも諦めず、翌日も鐘楼へ行った。
掃除をした。
油を運んだ。
階段の苔を落とした。
何日か続けた後、ガレスはようやく弟子として置いた。
実際に綱を握ると、鐘を一度きれいに鳴らすだけでも思っていたより難しかった。
力任せに引けば鐘が大きく揺れすぎ、次に必要な一打との間隔が狂う。弱ければ町外れまで音が届かない。風向きによって音の抜け方が変わり、雪が積もった日は響きが柔らかくなる。綱も晴天時と雨天時では重さが変わり、濡れた繊維を強く引けば手の皮が剥ける。
トルヴァは毎日覚えた。
夜明けより早く起きる。
鐘楼へ上る前に空を見る。
綱と金具を確認する。
朝の一打を鳴らす。
朝市の三打を鳴らす。
正午の一打。
夕刻の二打。
空いた時間には鐘軸を点検し、緊急鐘を身体へ覚え込ませる。
三年後、ガレスは完全に引退した。
最後の日、老人は鐘楼の鍵をトルヴァへ渡し、
「今日からお前の鐘だ」
と言った。
その時の重さを、トルヴァは今も覚えている。
鍵自体は小さい。
それでも、自分が初めて最後まで任されたもののように感じた。
ここだけは途中で誰かへ渡さない。
この仕事だけは、自分が守り続ける。
そう決めた。
それから二十七年、実際に一日一日を積み重ねた。
だから現在になって、
「少しずつ誰かへ任せればいい」
と言われても、トルヴァの中では単なる勤務分担には聞こえなかった。
長く握ってきた鍵を、少しずつ返していくように感じられたのである。
◇
町長が後継候補として連れてきたのは、二十三歳の青年ニルスだった。
宿場の厩舎で働いている男性で、丈夫な体つきをしているものの動作は丁寧で、馬を驚かせるような大声を出さない。幼い頃からレムナで暮らしてきたため、朝市や正午の鐘はもちろん、火災鐘と街道封鎖の音が違うことも大まかには知っていた。
「全部任せる話じゃない」
町長は鐘楼の下で説明した。
「まず朝と夕方の基本だけ覚えさせたい。あんたは正午も緊急時の判断も続ければいい」
「鐘守は一人で足ります」
「今まではな」
「今も足りています」
トルヴァは譲らなかった。
ニルスも気まずそうに口を挟んだ。
「俺も、トルヴァさんの代わりになりたいわけじゃないです。厩舎を辞めるつもりもないし」
「なら厩舎の仕事を続ければいい」
「でも俺が鐘を覚えておけば、病気の時くらい代われるでしょう」
「必要になったら、その時に教える」
「緊急鐘まで一日で?」
トルヴァは答えを詰まらせた。
町長が横から、
「だから今から少しずつ覚えろって言ってるんだ」
と続ける。
「まだ必要ありません」
最終的には、それで押し切った。
町長も強制はしなかった。
ただ、
「必要になってからじゃ遅いことだけは忘れるな」
と言い残した。
それから何月も経たないうちに、その言葉が現実味を持つ出来事が起きた。
大雨で南の渡し場が閉鎖された日の夕方、役所から緊急連絡が鐘楼へ届いた。普段なら、街道封鎖を知らせる短打四回を一組として、間を置いて二度繰り返す。
トルヴァは雨の中、急いで塔へ上った。
石階段が湿っている。
左膝が少し痛む。
それでも時間を遅らせるわけにはいかない。
鐘綱を握り、最初の四打を鳴らす。
問題ない。
間を取り、二組目へ入る。
三打までは正確だった。
四打目を引こうとした瞬間、右肩へ鋭い痛みが走った。
指が一度緩んだ。
綱を持ち直し、最後の一打を鳴らす。
音そのものは届いた。
ただし、三打目から四打目までの間がいつもより長かった。
宿場の人間が意味を間違えるほどではない。
それでも、長年自分の鐘を聞いている者なら違いに気づく程度には乱れていた。
翌朝、ニルスが鐘楼へ来た。
「肩、大丈夫ですか」
「何のことだ」
「昨日、最後の一打が遅れましたよね」
「雨で綱が重かっただけだ」
「俺にも緊急鐘を教えてください」
トルヴァは眉を寄せた。
「急に何だ」
「昨日みたいなことがあったからです。今すぐ全部代わるって意味じゃなくて、覚えておきたい」
「必要になったら教えると言っただろう」
「昨日、必要になりかけたじゃないですか」
胸の奥へ刺さった。
「鳴らしただろう」
「鳴りました。でも、もし肩が最後まで上がらなかったら?」
「上がった」
「そういう話じゃなくて――」
「鐘守は私だ」
思った以上に強い声になった。
ニルスは黙った。
「余計な心配はしなくていい。厩舎へ戻りなさい」
青年はしばらく何か言いたそうにしていたものの、
「分かりました」
と答えて鐘楼を下りた。
トルヴァは一人になってから右肩を押さえた。
昨日の痛みは、まだ完全には引いていなかった。
◇
数日後、北方から来た茸採りの商人がレムナへ立ち寄り、市場へ大きな茸を並べた。
白茶色の傘は大人の手のひらより大きく、表面には薄い皮が何重にも重なったような筋が見える。軸も太く、一本だけでもかなり重い。
「《層皮茸》だよ。今年は大きいのが採れた」
市場の女主人が一つ持ち上げた。
「重いね。どうやって食べるの?」
「外の層は薄く切って焼くと香ばしい。真ん中は煮ると汁を吸う。芯は硬いから先に火を入れた方がいい」
「全部まとめて煮込んじゃ駄目?」
「食えるけど、外が溶ける頃でも芯が硬いぞ」
商人が笑った。
「面倒な茸だね」
「層ごとに分けりゃ、捨てるところほとんどない。山の村じゃ重宝してるよ」
たまたま市場へ寄っていたトルヴァも、その話を聞いた。
女主人とは顔見知りである。
「トルヴァも半分持ってく?」
「一人で茸半分も多い」
「煮れば減るでしょう」
「それなら」
半分を受け取った。
帰宅して包丁を入れてみると、商人が言っていた意味がよく分かった。
外側は薄く締まった繊維で、押してもあまり水分が出ない。中ほどは肉厚で柔らかく、軸に近い中央には白い芯が通っており、そこだけ明らかに硬い。
分ければよい。
そう聞いた。
しかし一人分の夕飯へそこまで手間をかける気になれず、トルヴァはすべてを似た大きさへ切り、塩漬け肉と根菜と一緒に鍋へ入れた。
しばらく煮る。
外側は早く柔らかくなり、一部が煮汁へ崩れ始める。
中層はちょうどよい。
芯を一つ食べる。
まだかなり硬い。
さらに煮た。
今度は芯も食べやすくなったが、その頃には外側がほとんど形を失い、中ほどまでかなり柔らかくなっていた。
味が悪いわけではない。
むしろ茸の旨味が煮汁へ出て、普通の夕食としては十分食べられる。
ただ、
『層ごとに使えば、捨てるところが少ない』
という商人の言葉の意味は理解できた。
同じ一つの茸であっても、全部へ同じ時間だけ同じ火を入れる必要はない。
トルヴァは鍋を食べながら、ふとニルスのことを考えた。
自分は鐘守。
ニルスは厩舎係。
鐘守の仕事は、自分が鐘を鳴らすこと。
そう決まっている。
茸と人間を同じにするつもりなどなかったが、一つのものへ一つの役割しか認めない考え方だけは、どこか似ているような気がした。
しかし、その夜はそれ以上考えなかった。
翌週、鐘綱へ使う金具の交換申請を出すため、トルヴァはレーヴェンへ行くことになった。
朝の鐘だけ自分で鳴らし、正午と夕方は町長が一日限りの代理を立てる。鐘を他人へ任せた状態で町を離れることが気になったが、役所で現物を見て金具を選ぶ必要があるため仕方がなかった。
用事が予定より早く終わった。
宿場へ帰るにはまだ時間がある。
トルヴァは持ってきていた残りの層皮茸を見て、以前から旅人の間で名前を聞いていた《持ち込み食堂》へ寄ることにした。
◇
悠斗は層皮茸の断面を見ると、すぐ包丁を入れず、外側から中央まで指で硬さを確かめた。
「かなり層で違いますね」
「昨日、全部一緒に煮たら外側がほとんど消えた」
「芯は硬かったです?」
「外が崩れてから、ようやく食べやすくなった」
「じゃあ今日は、火へ入れる順番を分けてみます」
トルヴァは厨房台の向こうを見た。
「同じ茸だぞ」
「はい。同じ茸だから最後は一緒にします」
悠斗は外皮に近い薄い層を細長く切り、中層は少し厚めの短冊へし、中央の白い芯だけを小さめの角切りにした。
まず芯を鍋へ入れ、薄い出汁と根玉葱でゆっくり火を通す。
中層は、しばらく待ってから加える。
外側だけは鍋へ入れず、別の鉄板へ薄く油を引いて焼き始めた。
「そこだけ煮ないのか」
「早く柔らかくなりすぎそうなので、焼いて食感を残します」
「最後は同じ皿なんだろう」
「同じ皿です。でも途中の扱いは違ってもいいかなと」
鍋の芯を一つ取り出し、悠斗が硬さを確かめる。
「まだ少し硬いですね」
もう少し煮る。
その後で中層を加え、さらに白い鳥肉を入れる。
外側の薄い層は鉄板の上で縁が色づき、茸らしい香りが強くなった。
トルヴァは見ながら言う。
「ずいぶん面倒なことをする」
「全部一緒に煮た方が楽ではあります」
「なら、そっちでもいいだろう」
「食べられればいいなら。でもせっかく層が違うので、違うところを残してみたいです」
悠斗は芯が十分柔らかくなったところで鍋の味を整え、煮た中層と白肉を皿へ盛った。その上へ、鉄板で香ばしく焼いた外層を重ねる。
完成した《層皮茸と白肉の重ね煮》には、同じ茸から三つの食感が残っていた。
トルヴァは最初に中央の芯を食べる。
昨日の鍋では最後まで硬かった部分が、今日は最初から火へ入れられたことで、ほくりと噛み切れるほど柔らかい。
次に中層を食べる。
煮汁をよく吸っているものの、形は崩れていない。
最後に外側。
こちらは煮ていないため、縁に軽い歯応えと香ばしさが残っている。
「一番外が、昨日と全然違う」
「昨日は長く煮ました?」
「芯が柔らかくなるまで」
「じゃあ外側には長すぎたんでしょうね」
トルヴァはもう一度皿を見る。
「全部一つの鍋で作る方が、一つの料理らしくないか」
悠斗は少し考えた。
「一つの鍋で作っても一つの料理ですし、途中で分けても最後にまとまれば一つの料理だと思います。全部を同じ時間、同じやり方にすることが、まとまりとは限らないので」
「途中で役割を変えても?」
「外側は香ばしさを出して、中は汁を吸って、芯は長く火を入れる。それぞれ向いてることをしてもらった感じですね」
役割、という言葉に、トルヴァは少しだけ反応した。
◇
ミレイアが水を運んできた時、トルヴァの右肩へ巻かれた細い布に気づいた。
「肩、怪我されてるんですか?」
「怪我というほどじゃない。仕事で少し痛むだけだ」
「何のお仕事です?」
「鐘守」
「鐘を鳴らす人?」
「レムナで二十七年やっている」
自分の仕事を答える時、トルヴァの声には自然と誇りが出た。
「二十七年ですか。毎日?」
「朝、朝市、正午、夕方。祭りと緊急時は別だ」
話しているうちに、町長とニルスのことまで口にした。
若い者へ一部を教えろと言われていること。
厩舎係のニルスが鐘を覚えたがっていること。
自分はまだ仕事ができるため、交代の必要はないと考えていること。
「引退する話なんですか?」
ミレイアが尋ねる。
「違う」
「じゃあ、誰かにも覚えてもらうだけ?」
「覚えれば、そのうち鳴らしたがる。朝を一回任せれば、次は夕方、正午、その先は全部だ」
「その人、全部やりたいって言ってるんです?」
「本人は違うと言っている」
「なら、今のところ違うんじゃないですか?」
トルヴァは少しむっとした。
「最初は誰だってそう言う」
悠斗が会話へ入る。
「朝を誰かに鳴らしてもらったら、トルヴァさんは鐘守じゃなくなるんですか?」
「毎日鐘を鳴らすのが鐘守だ」
「鐘の点検は?」
「それも鐘守の仕事だ」
「緊急鐘の判断は?」
「それもだ」
「鐘綱の交換は?」
「もちろん私が見る」
「後継へ教えるのは?」
トルヴァは少し止まった。
「……本来は鐘守が教える」
「じゃあ、鳴らす以外にもかなりありますね」
これまで自分でも知っていたことだった。
しかし一つずつ並べられると、少し違って見えた。
トルヴァは反論する。
「全部やってきた。だから鐘守なんだ」
「今までは全部一人で?」
「そうだ」
「肩が痛い日も?」
「鳴らせるなら鳴らす」
「鳴らせることと、一人で全部やる必要があることは、同じですか?」
トルヴァの顔が険しくなった。
「私の鐘を見たこともないのに、簡単に言うな」
「鐘のことは分からないです」
悠斗はすぐに認めた。
「ただ、この茸を全部一緒に煮ることもできたけど、分けた方が食べやすかった。それを見ていて、今の話と少し似て聞こえただけです」
「茸と人間は違う」
「違います」
否定されなかったため、トルヴァは逆に次の言葉を失った。
ミレイアが尋ねる。
「もしニルスさんが朝だけ鳴らして、トルヴァさんが正午と夕方を鳴らしたら、それでも鐘守ですよね?」
「最初はな」
「最初は?」
「そのうち若い方が全部できるようになる。そうなれば、私がいる意味がなくなる」
それが本音だった。
口にしてから、トルヴァ自身が少し驚いた。
自分が怖いのは、ニルスが下手に鐘を鳴らすことだけではなかった。
上手になることも怖かったのだ。
若者が正確に鐘を鳴らせるようになる。
緊急鐘を覚える。
綱の点検もできる。
そうなれば、自分の二十七年間が終わるように感じる。
「ニルスさん、鐘本体の癖まで分かるんですか?」
悠斗が聞く。
「まだ分からない」
「冬の綱の調子は?」
「教えてない」
「祭りの全部の打ち方は?」
「知らない」
「じゃあ、教える人はまだ必要ですよね」
トルヴァは皿の中の層皮茸を見つめた。
「鐘を鳴らす人から、鐘を教える人になるのは嫌ですか?」
ミレイアが聞く。
「それは引退した人間がやることだ」
「誰がそう決めたんです?」
答えられなかった。
自分がそう思っていただけだった。
◇
トルヴァは、食事を続けながら若い頃の話をした。
父の車輪修理を継げなかったこと。
いくつもの短期仕事を転々としたこと。
ガレスに弟子入りして、初めて一つの役目を長く任されたこと。
そして、
『今日からお前の鐘だ』
と鍵を渡された日のこと。
「それまで、自分には最後まで任された仕事がなかった。鐘だけは途中で誰かへ渡さないと決めたんだ」
悠斗もミレイアも、その部分について軽く否定しなかった。
「二十七年、守ってきたんですね」
悠斗が言う。
「だから、まだできるのに一部を渡すのが嫌なんだ。朝だけだろうが一回だろうが、手を離したら、そこから終わり始める気がする」
「今まで続けたことまで、途中になる感じですか?」
かなり近かった。
トルヴァは頷いた。
「最後までやるって、ずっと一人で全部やることなんでしょうか」
悠斗の言葉に、トルヴァは眉を寄せた。
「若いお前には簡単に言える」
「そうですね。俺も二十七年同じ仕事を続けたことはないので、その寂しさまでは分からないです」
悠斗は反論せず、そこで一度区切った。
「ただ、トルヴァさんの師匠が言ったのは、『自分で毎日鳴らせ』だったんですか?」
「違う」
「何て?」
昔の声が蘇る。
『鐘は人が聞いて使うものだ。鳴ると思っている鐘が鳴らないのが、一番困る』
トルヴァはゆっくり口にした。
「鐘が、必要な時に鳴ることを守れと言われた」
「なら、トルヴァさんが守りたかったものって、自分一人で綱を引くことより、鐘がちゃんと鳴ることなのかもしれませんね」
すぐには受け入れられなかった。
自分で鳴らすことも、その中へ含まれている。
二十七年間、そのやり方で守ってきた。
しかし、もし明日右肩が本当に動かなくなり、ニルスも何も知らなければ、朝の鐘は鳴らない。
それでは師匠の言葉を守ったことになるのか。
考えるほど、答えは簡単ではなくなった。
◇
レムナへ戻った翌朝、トルヴァはいつも通り夜明けより早く鐘楼へ上った。
右肩は前日より少し楽だった。
鐘綱を握る。
時刻を待つ。
夜空が薄くなったところで、一打を鳴らす。
響きはいつも通りだった。
自分で鳴らせる。
まだできる。
その事実を確かめると、少し安心した。
正午の鐘も自分で鳴らした。
夕刻前、厩舎仕事を終えたニルスが鐘楼の前を通った。
「ニルス」
呼び止める。
青年が振り向く。
「はい」
「明日の朝、夜明けより五打前に来なさい」
ニルスの目が少し大きくなる。
「鐘?」
「朝の一打だけ教える」
「俺が鳴らすんですか」
「まだ鳴らさない。まず見る」
「分かりました」
「遅れたら、その日は教えない」
「絶対来ます」
翌朝、ニルスは約束より早く現れた。
トルヴァはすぐ綱を握らせず、鐘楼の点検から教えた。
「夜に雨が降った日は、ここの金具を見る。濡れたまま強く引くと綱が擦れやすい。冬なら階段の上三段が先に凍るから、必ず足元を確かめる」
「鐘を鳴らす前に見ること多いですね」
「音だけ覚えても鐘守にはならない」
その言葉を自分で言い、少し引っかかった。
鐘を鳴らすことだけが鐘守ではないと、自分から説明している。
ニルスへ綱の持ち方を教える。
「朝は一打だけだから、強く引きすぎるな。鐘が大きく揺れすぎると、戻りで余計な音が出る」
「この辺まで?」
「もう少し下」
「これくらい?」
「そう。力は腕だけじゃなく腰から」
数回、鐘を鳴らさない程度に綱を動かさせる。
夜明けの時刻になる。
ニルスが期待した顔をする。
「今日は私が鳴らす」
「まだですか」
「一日見ただけで渡すか」
「ですよね」
トルヴァが一打を鳴らした。
ニルスは横から、綱の動きだけでなく鐘の揺れまで見ていた。
夕刻にも呼んだ。
今度は二打の間隔を教える。
一週間、それを続けた。
最初は教えるだけ。
次に、鐘を鳴らさない程度の練習。
そして一週間後、初めて朝の一打をニルスへ任せた。
「力を入れすぎるな」
「はい」
「時刻を見る」
「はい」
「まだだぞ」
「分かってます」
少し待つ。
「今」
ニルスが綱を引く。
鐘が鳴った。
音は少し強かったものの、余計な揺れは出なかった。
宿場の屋根へ朝の一打が広がる。
トルヴァは、妙な感覚で聞いた。
自分は何もしていないようでいて、ずっと綱の状態とニルスの手を見ていた。
「どうでした?」
「強い」
「失敗?」
「失敗ではない。明日は少し弱く」
教える言葉が自然に出た。
◇
それでも、ニルスが上達することへ寂しさを覚えないわけではなかった。
一月も経つ頃には、朝の一打だけならトルヴァと大きな差がないところまで安定してきた。
「今のどうでした?」
ある朝、ニルスが尋ねる。
「悪くない」
「前より?」
「前よりはいい」
「じゃあ朝、俺が担当する日を作れます?」
トルヴァの胸が少しざわついた。
「そこまで急ぐな」
「急いでるわけじゃないです」
「なら今まで通りでいい」
ニルスは反論せず、綱をまとめた。
その態度が、以前より少し気になった。
「お前、本当に鐘守になりたいわけじゃないのか」
トルヴァが尋ねる。
「厩舎の仕事、好きですよ」
「なら何でここまで覚える」
「必要な時に代われるようにっていうのもありますけど……鐘、面白いので」
「面白い?」
「町の端だと音として聞こえるのに、ここにいると腹まで響くでしょう。晴れの日と雨の日で音も少し違うし」
「冬はもっと変わる」
「どう変わるんです?」
「金属が冷えて、音の立ち上がりが少し硬くなる。雪が多い日は遠くの反響が弱くなるから、町の中では音が近く聞こえる」
「今度、冬にもちゃんと聞きたいです」
ニルスは純粋に興味を持っていた。
誰かが自分の椅子を奪おうとしているのではない。
自分が二十七年間見てきた鐘を、同じように面白いと思う若い人間がいる。
そう考えると、少しだけ見え方が変わった。
◇
実際にニルスへ任せる必要が生じたのは、その月の終わりだった。
前日、トルヴァは鐘楼の予備綱を一人で移動させ、その夜から右肩の痛みが強くなった。
翌朝、目を覚まして腕を上げる。
動く。
ただ、力を入れれば鋭く痛む。
これまでなら、そのまま鐘楼へ行った。
今回も上着を着た。
しかし玄関を開けるところで止まった。
夜明けまでまだ少し時間がある。
ニルスの家は厩舎の裏にある。
歩けば間に合う。
トルヴァは、初めて自分から若者の家へ向かった。
戸を叩く。
眠そうな顔でニルスが出てくる。
「トルヴァさん?」
「朝の鐘を鳴らせ」
一瞬で表情が変わった。
「肩ですか」
「時間がない。来い」
「はい」
二人で鐘楼へ向かう。
階段はトルヴァも上った。
綱と金具を確認する。
「異常なし。いつも通りでいい」
ニルスが所定の位置へ立つ。
「まだ時刻前だ」
「分かってます」
外が少しずつ明るくなる。
トルヴァは自分の手で綱を握らないまま、夜明けを待った。
「今だ」
ニルスが引く。
鐘が一度、大きく響いた。
宿場の屋根を越え、厩舎、市場、門、宿屋へ音が広がる。
いつもの朝の鐘だった。
宿屋の厨房から煙が上がる。
厩舎で馬が動き始める。
市場へ入ってきた荷車が荷下ろしの準備をする。
町は、何も変わらないように朝を迎えた。
自分が綱を引かなかった。
それでも鐘は鳴った。
トルヴァの胸には、安心と一緒に寂しさも生まれた。
「どうでした?」
ニルスが聞く。
「少しだけ弱い」
「聞こえなかった場所あります?」
「そこまでじゃない。次はほんの少し強く」
自分でも驚くほど、すぐ次の指導が出た。
その日は正午まで肩を休めた。
痛みが少し引いたため、正午の鐘は自分で鳴らした。
朝をニルスに任せたからといって、残りまで全部失うわけではない。
そんな当たり前のことを、自分の身体で確かめた。
◇
それからは、無理のない範囲で分担を決めた。
ニルスには厩舎の本職があるため、毎日鐘楼へ来させるわけではない。週に二度だけ朝を任せ、夕刻は月に数回、厩舎の勤務が早く終わる日に練習する。
正午の鐘は基本的にトルヴァが続けた。
緊急鐘についても、ようやく教え始めた。
「火災は長打三回の後に短打を続ける。渡し場閉鎖は短打四回を二組。盗賊警報は――」
紙へ書いていると、ニルスが驚いた。
「今まで全部頭の中に入ってたんですか」
「師匠から口で教わった」
「町長は全部知ってます?」
「大体は」
「大体じゃ、トルヴァさんが倒れたら困りません?」
今では、その指摘に腹を立てるより先に、
「その通りだ」
と思える。
そこで緊急鐘の一覧を二部作り、一部を鐘楼へ、一部を町長の役所へ置いた。
さらに鐘綱の交換時期、鐘軸へ油を差す季節、冬前に確認する石壁の場所、長雨の後に見る金具まで書き出した。
最初は、
(こんなものを全部残したら、本当に私がいなくても動く)
という不安があった。
しかし書いていくうちに、二十七年の間に自分が覚えたことが、鐘の打ち方だけではなかったと改めて分かってきた。
風向きによって音の抜け方を見ること。
綱の毛羽立ちから交換時期を読むこと。
鐘楼の壁へ入った亀裂が新しいか古いか判断すること。
祭りの日に広場の騒音を見て、ほんの少し強く打つこと。
そうした感覚は、紙へ書くだけでは全部渡せない。
教える必要がある。
しかも教えるためには、自分が無意識でやっていたことを言葉にしなければならない。
「鐘が跳ねすぎたら、次で少し抑える」
「どのくらい跳ねたらです?」
「音で分かる」
「俺にはまだ分からないです」
「だから聞け。分かるようになるまで教える」
言ってから、トルヴァ自身が少し笑った。
教える仕事は、思っていたより手間がかかる。
それでも、つまらなくはなかった。
◇
春祭りが近づく頃、トルヴァはもう一度レーヴェンへ行くことになった。鐘綱へ取りつける新しい金具を受け取りに行くためであり、今回は出発前から、朝の鐘をニルスへ任せることにそれほど抵抗を感じなかった。
レーヴェンへ着くと、市場で小ぶりの層皮茸を見つけた。
季節の終わりだったため前回より外側の層が薄い。
それを自分で買い、《持ち込み食堂》へ持っていった。
「また層皮茸ですね」
ミレイアが笑う。
「今度は人にもらったんじゃない」
悠斗が断面を確認する。
「前より芯が細いですね。今日はどうします?」
トルヴァは迷わず答えた。
「外は焼く。中は煮る。芯は先に火を入れる」
「覚えてますね」
「最後は全部、一つの皿にしてくれ」
「分かりました」
前と同じ考え方で料理が始まる。
ただし、前回と同じ時間では進めなかった。
「芯、もう入れるのか」
「前より細いので、前ほど長くは煮ないと思います」
「同じ茸なのに?」
「同じ種類でも今のものを見ます」
トルヴァは鐘楼のことを話した。
「朝を週二回、ニルスへ任せるようにした」
「肩は?」
「痛む日はある。でも正午は私が鳴らしてる」
「緊急鐘も教えてるんですか?」
「一覧を作った。祭りの打ち方はまだ全部じゃない」
ミレイアが笑った。
「じゃあ、ちゃんと鐘守のままですね」
「当たり前だ」
「前は朝を任せたら、そのまま全部なくなるみたいに言ってたから」
否定しようと思ったが、やめた。
「今も全部を任せるつもりはない。ただ、鳴らす以外にも仕事はある」
悠斗が鍋を見ながら尋ねる。
「教えるのも?」
「そうだ」
以前より、その言葉が自然に出た。
◇
春祭り当日、レムナの時告げ鐘楼では一年で最も複雑な鐘を鳴らす。
朝市の三打に始まり、祭り開始の長打二回、正午には通常の一打へ短打を加え、夕方の終幕ではゆっくり三打した後、最後に一度だけ強く響かせる。
これまでは、すべてトルヴァ一人で行ってきた。
今年、町長が尋ねた。
「一部だけニルスに任せるか?」
以前なら考える前に断った。
今回は少し考えた。
「朝市は私が鳴らす。祭り開始の二打をニルスにやらせる」
「終幕は?」
「まだ早い。あれは間が難しい」
「分かった」
祭り開始前、ニルスは普段より緊張していた。
「朝の一打より怖いですね」
「間違っても火事の鐘にはならん」
「町中がこっち見てますよ」
「鐘はいつも町中に聞こえてる」
トルヴァは綱と金具を確認した。
「一打目は普段より少し強く。二打目までの間を取りすぎるな」
「はい」
「私の顔を見るな。鐘を見ろ」
「分かりました」
広場には屋台が並び、人々が集まっている。
子どもたちが鐘楼を見上げる。
祭り開始の時刻になる。
ニルスが一打目を鳴らした。
大きな音が宿場へ広がる。
少し待つ。
二打目。
今度はわずかに弱い。
それでも十分届いた。
広場から歓声が上がり、祭りが始まった。
トルヴァは横で聞いていた。
自分は今、綱を引いていない。
それでも、
「二打目は少し肩が引けた。次は腰から」
と、もう次の指導を考えている。
自分の祭りを取られたとは思わなかった。
むしろ、その二打が正しく響くよう見ていた自分も、確かに鐘守だった。
夕刻の終幕は、まだ自分が鳴らした。
最後の一打が町の外へ消えていく。
ニルスが横で音を聞いている。
「今の間、覚えたか」
「多分」
「多分じゃ駄目だ。来年までに練習する」
「来年は俺も終幕やるんですか?」
「一部だけだ」
「一部なんですね」
「全部一度に渡すか」
それでよかった。
◇
祭りから一月ほど後、ニルスが鐘楼の掃除をしながら尋ねた。
「トルヴァさん、俺って鐘守なんですか?」
「まだ違う」
「即答ですね」
「鐘を何回か鳴らしたくらいで名乗るな」
「じゃあ何です?」
トルヴァは少し考えた。
「鐘守見習い」
「俺、厩舎係ですよ」
「両方でいいだろう」
口にしてから、その答えが以前の自分とは違うことに気づいた。
鐘守なら鐘守。
厩舎係なら厩舎係。
一人の人間には一つの役目があり、それを変えず続けることが責任だと思っていた。
しかしニルスは厩舎を辞めなくても鐘を覚えられる。
朝だけ鐘守見習いとして働き、昼から馬を見る日があっても何も困らない。
「じゃあトルヴァさんは?」
ニルスが聞いた。
「鐘守だ」
「俺が朝を鳴らす日でも?」
「鐘守だ」
「もし一日、一回も鳴らさない日が来ても?」
手が少し止まった。
以前なら、
「そんな日は来ない」
と答えただろう。
「鐘を見て、必要な仕事をしてる間はな」
ニルスが笑った。
「それなら、かなり長く鐘守ですね」
「当たり前だ」
◇
その年の冬、トルヴァは初めて、自分で一度も鐘を鳴らさない一日を過ごした。
肩を痛めたからではない。
鐘楼の石壁へ入った古い亀裂を修理するため工事人が入り、鐘を一日休ませることになったのである。朝と夕刻だけは広場へ小さな仮鐘を置き、ニルスが鳴らす。正午は事前に宿場へ知らせた上で休止することになった。
トルヴァは朝から鐘楼へいた。
工事人へ、どの石壁なら削ってよいかを説明する。
鐘軸へ粉塵が入らないよう布をかける。
交換する金具を確認する。
古い亀裂の横へ新しい筋がないか見る。
綱は一度も握らない。
夕刻になる。
広場から仮鐘が二度聞こえた。
普段の大鐘より軽い音だった。
それでも宿屋では夜の支度が始まり、市場の店が布を掛け始める。
トルヴァは鐘楼の上から町を見た。
今日は、一度も自分で鐘を鳴らしていない。
それでも何もしていない日はなかった。
むしろ今後何年も鐘を鳴らすために必要な仕事を、一日中していた。
その時になってようやく、役目を守ることと、同じ動作を毎日続けることは同じではないと、身体の中まで納得できた。
◇
春が近づいたある夜、トルヴァは自宅で再び層皮茸を料理した。
市場で小さなものを見つけ、自分で買ってきたのである。
今度は何も迷わない。
外層を分け、細く切る。
中層は厚めに残す。
芯は小さく切って先に鍋へ入れる。
芯が柔らかくなり始めたところで中層を加え、外側だけは鉄板で香ばしく焼く。
最初に食べた時より手間はかかる。
しかし、どの部分もその層らしさを残している。
外側は香ばしく、中層は煮汁を吸い、芯は時間をかけた分だけしっかり甘い。
トルヴァは食事をしながら、その日の鐘楼を思い返した。
朝はニルスが鳴らした。
正午は自分。
午後には二人で綱を点検し、ニルスへ古い金具と新しい金具の違いを教えた。
夕刻は自分が鳴らし、ニルスが間隔を記録した。
二十七年前、自分にとって鐘守とは、
「自分の手で鐘を鳴らす人」
だった。
今は、それだけではない。
鐘を鳴らす。
綱を点検する。
緊急時の音を判断する。
記録を残す。
若い者へ教える。
自分が動けない日に、代わりが正しく鐘を鳴らせるようにしておく。
どれも鐘を守る仕事だった。
これから右肩がさらに悪くなれば、自分で鐘を鳴らす回数は減るかもしれない。いつか毎日の鐘をほとんどニルスへ渡す日が来れば、その時はきっと寂しいだろう。
二十七年以上続けた習慣なのだから、何も感じず手放せるはずがない。
それでも、役目を途中で捨てることとは違う。
ガレスから受け取った鐘を、自分のところで終わらせず次へ渡せるところまで整えることも、最後まで守るということの一部なのだと今は思えた。
◇
数日後の夜明け前、ニルスが鐘楼へ上がってきた。
「今日は俺の朝ですよね」
「分かってる」
「トルヴァさん、下で休んでてもいいですよ」
「昨日雨だった。金具の湿り方をまだお前は見落とす」
「じゃあ一緒に確認してください」
「最初からそう言えばいい」
二人で鐘綱を見る。
金具に歪みはない。
綱の繊維にも異常はない。
ニルスが所定の位置へ立ち、トルヴァは少し後ろへ下がった。
「肩の力を抜け」
「はい」
「手首だけで引くな」
「はい」
夜空の黒が薄くなり、宿場の屋根が少しずつ見え始める。
時刻まで、あとわずか。
ニルスは綱を握ったまま待った。
トルヴァは若者の手の位置、足の開き、綱の張り具合を見ている。
以前なら、自分が同じ鐘楼にいながら別の人間が綱を握っていることを、役目を奪われる光景のように感じただろう。
今は違った。
自分が何十年も守ってきた音を、同じように大切に扱おうとしている人間が横にいる。
そのことを、悪いとは思わなかった。
「今だ」
ニルスが綱を引く。
夜明けの一打が、レムナの宿場へ広がった。
強すぎず、弱すぎず、余計な揺れもない。
鐘の余韻が町の外へ消えていくまで、トルヴァは黙って耳を澄ませた。
ニルスが少し緊張した顔で振り向く。
「どうでした?」
トルヴァはすぐには答えず、完全に音が消えたことを確かめてから、若者の肩を軽く叩いた。
「今のは良かった。次も同じようにやれ」
その朝、二十七年以上鐘を守ってきた男は、自分では一度も綱を引かなかった。
それでも、正しい時刻に正しい音が宿場へ届いたことを、誰より満足そうに確かめていた。
●評価●ブックマーク●アクション●感想待ってます!
読者様が応援してくれると嬉しいです!




