第8話 鉄殻貝と、傷つく道具
ボルグ・ガランは六十一歳になるドワーフの鍛冶師であり、レーヴェン西区の職人工房が集まる一角で《ガラン鍛冶工房》を営んでいた。人間と比べれば背は低いが、肩幅は広く、長年槌を振り続けてきた腕は太く、火床の熱に晒されてきた顔や手には細かな火傷の痕がいくつも残っている。
灰色が混じり始めた赤褐色の髪を短く刈り、顎には胸元近くまで伸びた硬い髭がある。仕事中には髭を革紐でまとめて火へ近づきすぎないようにしており、腰には火箸や小型の金槌、測り具を入れるための革帯を常に巻いていた。
性格は頑固で、気に入らない仕事を無理に褒めることはない。
しかし、客の持ち込んだ道具が本当に修理できない時には、できるふりをして金を取ることも嫌う。
「直せるものは直す。直せんものは直せんと言う」
それがボルグの口癖だった。
職人として道具を大切にする一方で、飾るために新品のまま置いておくことには興味がなく、「使うために作ったものは、使って傷つくのが当たり前だ」とも普段から言っていた。
ところが、その言葉と自分の教え方が、本当に一致していたのかどうかを考えることになったのは、ある一振りの小さな槌が欠けた日だった。
◇
ボルグはレーヴェンからさらに西へ離れたドワーフの鉱山集落で生まれた。
父も祖父も鍛冶師であり、母は鉱夫たちが使う革具を補修する職人だった。
幼い頃から火床の音と槌の響きを聞いて育ち、十歳になる頃には炭を運び、十二歳で火床の空気を送る役目を手伝っていた。
しかし、家が鍛冶師だったからといって、最初から優秀だったわけではない。
見習い時代のボルグは力任せに槌を振る癖があり、金属の中心を狙わずに縁へ当ててしまうことも多かった。
十八歳の頃には、師匠から借りた小さな仕上げ槌の柄を一本折ったこともある。
その時、当時の師匠だった老ドワーフは怒鳴らなかった。
折れた柄をボルグの前へ置き、まず尋ねた。
「どこへ力が逃げたか分かるか」
若いボルグは答えられなかった。
◇
師匠は折れた木目や手の位置を見せながら、握りが強すぎること、肩から振り下ろしていること、打撃の直前に手首がずれていることを説明した。
それから言った。
「道具は、下手な使い方も覚えとる」
その言葉を、ボルグは長く忘れなかった。
槌の面がどこから丸くなるか。
柄のどこが先に滑らかになるか。
鋏の刃がどちらへ偏って減るか。
道具についた傷や摩耗を見れば、使い手の癖が分かることがある。
だから新品の状態を保つことより、どう使われた結果として今の形になったのかを見ることが大切なのだと教わった。
ボルグはその教えを胸に、三十代でレーヴェンへ出て工房を構え、四十年以上にわたって武器や農具、馬車の金具、日用品まで様々なものを作り続けてきた。
◇
そんなボルグの工房には、三年ほど前から若い見習いが一人入っていた。
まだ独り立ちできるほどではないが、炭の扱い、単純な釘や留め具の成形、簡単な刃物の研ぎ直しまで任せられる程度には成長している。
ただし、力を入れると右肩が少し開く癖があった。
ボルグは以前からそれに気づいていた。
何度か「肩を開くな」と注意したこともある。
しかし、なぜ開くと何が起きるのかまで、きちんと説明したことはなかった。
そして三日前、その見習いがボルグの小さな仕上げ槌を使った。
借りること自体には許可を出していた。
問題は、その後だった。
◇
槌の打面の右下が、ほんのわずかに欠けていた。
大きな破損ではない。
修理しようと思えばできる。
それでも、その槌はボルグが三十年以上使ってきたものだった。
若い頃から何度も柄を替え、打面も磨き直し、手に馴染んだ重さへ育ててきた道具である。
「誰がやった」
低い声で聞くと、見習いが自分だと答えた。
「縁で叩いたのか」
「たぶん」
「たぶんじゃねえ」
「すみません」
「道具も扱えん奴に鉄は触らせん」
ボルグはその場で怒鳴った。
◇
「職人なら道具くらい新品みてえに扱え」
そこまで言った。
見習いは黙って頭を下げた。
翌朝、工房へ来なかった。
その次の日も姿を見せなかった。
ボルグは腹を立てているつもりだった。
「たった一度怒鳴られたくらいで来なくなるなら、それまでだ」
そう言って通常通り仕事を続けた。
しかし、朝になるたび入口を見る。
昼になれば、見習いがいつも使っている作業台の方へ視線が向く。
夜には、欠けたままの仕上げ槌を何度も手に取っていた。
自分が気にしているのが槌なのか、見習いなのか、だんだん分からなくなってきた。
◇
そんな三日目の昼、工房へダリオ・ロッサがやって来た。
ダリオは四十六歳になる人間の漁師であり、レーヴェン西側に広がる大きな湖で二十年以上漁をしている男だった。日に焼けた肌と太い腕を持ち、黒髪には少し白いものが混じり始めている。声が大きく、冗談も多いが、天候と水の変化には非常に慎重で、若い漁師が無理をしようとすれば真っ先に止めるような人物でもあった。
ダリオは湖畔の漁師一家に生まれ、幼い頃から父親の小舟へ乗って育った。
十五歳で本格的に網を扱い始め、二十歳を過ぎる頃には自分の舟を持った。
現在は数人の仲間と組んで漁をしている。
ボルグとは十年以上の付き合いがあり、網を固定する金具や舟の留め具、刃物の修理を何度も頼んでいた。
「おい、ボルグ」
「うるせえ。入ってくるなりでかい声出すな」
「鍛冶場で小声出して聞こえるか」
「今日は何だ」
「礼」
ダリオが大きな桶を工房へ置いた。
◇
「何の礼だ」
「この前、網の金具安く直してくれただろ」
「普通の修理代は取った」
「普通より安かった」
「錆び落として曲げ直しただけだ」
「こっちは助かったんだよ」
桶の中には冷たい湖水が入っている。
その底に、三つの巨大な貝が沈んでいた。
一つが両手で抱えるほど大きい。
殻は黒灰色で、表面には金属のような光沢があり、一般的な貝殻とは明らかに質感が違っている。
「《鉄殻貝》だ」
ダリオが言った。
「また面倒なもん持ってきやがったな」
「食えるぞ」
「殻をどうしろってんだ」
◇
鉄殻貝は西の湖の深い場所に生息する大型の淡水貝である。
身は食用になるが、名の通り殻が非常に硬い。
小型のものなら専用の楔で開けられるものの、長く生きた大型個体になると普通の刃物では殻へ傷をつけることさえ難しくなる。
無理に刃を差し込めば、包丁の方が欠けることすらある。
「何で三つもある」
ボルグが尋ねる。
「今日網に引っかかった」
「全部俺に?」
「一つはお前、二つは俺」
「持って帰れ」
「料理できねえ」
「俺だってできん」
「西区に変な食堂あるだろ」
ダリオが笑った。
「持ってきた食材を料理してくれる店」
◇
「何で俺まで行く」
「殻開けられそうだから」
「俺を貝割り道具にするな」
「普通の包丁使わせたら欠けるだろ」
「料理屋へ鍛冶道具持ち込む気か」
「行けば分かる」
ダリオは勝手に桶を持ち上げた。
「昼まだだろ」
「食った」
「何を」
「朝の残り」
「それ昼飯じゃねえ」
「どいつもこいつも飯の話ばかりしやがって」
「誰に言われた」
「関係ねえ」
ボルグは不機嫌そうに答えた。
ダリオは作業台の上にある仕上げ槌へ目を向けた。
◇
「それ、欠けてるな」
「見るな」
「珍しいな。お前が道具欠けさせるなんて」
「俺じゃねえ」
「見習いか」
ボルグが黙る。
「当たり?」
「うるせえ」
「今日いないな」
「休みだ」
「三日続けて?」
「何で知ってる」
「昨日も一昨日も前通った」
「漁師が何で工房の前うろついてんだ」
「魚屋へ行く道だ」
ダリオは槌をもう一度見た。
「怒鳴ったな」
「怒鳴って何が悪い」
「別に」
「道具を雑に使ったんだぞ」
「なら教えりゃいい」
「教えてる」
「怒鳴るのが?」
ボルグの眉が動いた。
◇
「飯食いに行くぞ」
ダリオはそれ以上言わず、桶を抱えて工房を出た。
「勝手に決めるな」
「来ないなら三つとも俺が食う」
「一つは俺の礼じゃなかったのか」
「じゃあ来い」
結局、ボルグは欠けた仕上げ槌を革袋へ入れ、ダリオの後を追った。
◇
《持ち込み食堂》へ着くと、ミレイアが巨大な桶を見てすぐに眉を上げた。
「今日は大きいですね」
「貝だ」
ダリオが答える。
「これが?」
「鉄殻貝」
「名前から嫌な予感がする」
「その予感は合ってる」
ボルグが言う。
悠斗が厨房から出てきた。
「何ですか、これ」
「食い物」
「貝?」
「そうだ」
悠斗は殻を指で触った。
硬い。
軽く叩くと、石ではなく金属に近い乾いた音が返ってきた。
◇
「普通に包丁入らなそうですね」
「入れたら刃が負ける」
ボルグが答える。
「どうやって開けるんです?」
「漁師は楔使う」
ダリオが言う。
「今日は持ってない」
「何で?」
「こいつがいるから」
ダリオがボルグを指す。
「俺は調理器具じゃねえ」
「でも開け方分かる?」
悠斗が尋ねる。
ボルグは殻を手に取り、合わせ目を確認した。
「無理に打つなら開けられる」
「殻割る?」
「割る」
「中に欠片入りません?」
「入るかもしれん」
「じゃあ別の方法試したいですね」
◇
「あるのか」
ボルグが聞く。
「貝なら、熱で少し開きません?」
「普通の貝はな」
ダリオが答える。
「鉄殻貝は殻の筋肉も強いぞ」
「じゃあ試すだけ」
悠斗は大きな鍋を用意した。
鉄殻貝が完全に入る大きさではないため、少量の水を張った鍋の上へ金網を置き、その上へ貝を載せる。
蓋代わりに大きな金属盆をかぶせる。
「蒸す?」
ダリオが尋ねる。
「いきなり強く熱すると殻が変に割れそうなので、ゆっくり」
「待つのか」
「待ちます」
ボルグが鼻を鳴らした。
「槌で一発の方が早い」
◇
「早いけど、刃とか殻とか傷めない方法があるならそっち試したいです」
悠斗の言葉に、ダリオが横目でボルグを見る。
「何だ」
「何も」
「その顔やめろ」
ゆっくり蒸していくと、しばらくして殻の合わせ目から細い湯気が出始めた。
完全には開かない。
それでも、わずかな隙間ができた。
「開いてる」
ミレイアが覗き込む。
「ほんの少しですね」
悠斗は包丁を取らなかった。
代わりに厚い木のへらを持ってきた。
◇
「それでいけるか?」
ボルグが尋ねる。
「刃物入れるより安全そうなので」
悠斗は布で貝を押さえ、隙間へ木のへらを差し込んだ。
少しずつ力をかける。
木が軋む。
「折れるぞ」
「折れたら別の方法にします」
無理にこじらず、一度外して再び蒸す。
さらに熱が入ると、合わせ目が先ほどより広がった。
木のへらを再び入れる。
今度は殻がゆっくり開いた。
「開いた」
ミレイアが声を上げる。
◇
殻の内側には、顔ほどの大きさがある巨大な貝柱と、その周囲を包む柔らかな身が詰まっており、熱と一緒に濃い湖の香りが立ち上ってきた。
「でかいな」
悠斗が言う。
「だから持ってきた」
ダリオが少し誇らしそうに答える。
「食べられない部分あります?」
「砂袋は外した方がいい。あと黒い部分も取る」
「毒は?」
「ない」
「加熱はしっかり?」
「生で食う奴はいない」
「じゃあそうします」
悠斗は食べられる部分を慎重に外した。
◇
「包丁、普通に入りますね」
「身は普通だ」
ダリオが答える。
「殻だけ妙に硬い」
悠斗は巨大な貝柱を触った。
かなり弾力がある。
「全部焼くと硬くなりそう」
「煮る?」
「一部は薄く切って短く焼きたいです」
「残りは?」
「根玉葱と乳酪で焼こうかなと」
「貝に乳酪?」
ダリオが少し怪訝そうな顔をする。
「嫌なら別にできます」
「いや、食う」
「俺も」
ボルグが答えた。
◇
調理が始まると、ボルグは厨房の端に置かれた木のへらを見た。
先ほど鉄殻貝を開くために使ったものである。
先端には少し圧痕が残っていた。
「傷ついたな」
ボルグが言う。
悠斗が確認する。
「少し潰れましたね」
「新しかったのか」
「そこそこ使ってます」
「気にしねえのか」
「使えるなら」
「さっき貝に使ったせいだぞ」
「そのために使ったので」
ボルグはへらを見る。
「刃物より木を傷める方選んだんだな」
「刃が欠けるより直しやすそうだったので」
◇
「傷んだら替える?」
ボルグが尋ねる。
「先だけ削ればまだ使えそうです」
「削れば短くなる」
「少しは」
「元と同じじゃなくなるぞ」
「でも使えるんですよね」
「使える」
「なら使います」
ダリオが笑いを堪えている。
「何がおかしい」
ボルグが睨む。
「いや、別に」
「言え」
「昨日の見習いにも同じこと言ったのかと思ってな」
ボルグの顔が険しくなった。
「こいつのへらと俺の槌を一緒にするな」
◇
「何が違う」
「年数も道具としての精度も違う」
「でも使って傷ついたんだろ」
「雑に使ったから欠けた」
「そこは違うか」
ダリオはあっさり頷いた。
「だったら、その違いを教えたのか?」
「肩を開くなとは言ってる」
「何で開いたら欠けるかは?」
ボルグが黙る。
「言ったのか」
「……細かいことまで毎回説明してられるか」
「じゃあ分からんまま使ったんじゃねえの」
「見りゃ分かる」
「お前はな」
ダリオはそう言って、水を飲んだ。
◇
悠斗は貝柱の一部を薄く切り、鉄板で短時間だけ焼いた。
表面に色がついたところで裏返し、火を入れすぎないうちに取り出す。
残りの貝身は食べやすい大きさへ切り、炒めた根玉葱と合わせた。
耐熱皿へ入れ、少量の乳と乳酪を加えて焼く。
香草は強すぎないものを選んだ。
湖の貝独特の香りを完全に消すのではなく、食べやすく整える程度に使う。
「ボルグさんの槌、何があったんです?」
ミレイアが尋ねた。
「聞くな」
「欠けたって話?」
ダリオが勝手に答える。
「見習いが欠けさせた」
「それで怒った?」
「当たり前だ」
◇
「道具大事ですもんね」
ミレイアが言う。
「大事だから使うんだ」
ボルグが答える。
「使えば傷つく?」
「当たり前だ」
「じゃあ欠けても?」
「普通の傷と雑な傷は違う」
「どう違うの?」
「長く使えば槌の面は少しずつ丸くなる。柄も握る場所が滑らかになる。それは使った結果だ」
「欠けたのは?」
「縁で叩いた。正しく面を当ててりゃ起きにくい傷だ」
「じゃあ使ったからじゃなく、使い方が悪かった?」
「そういうことだ」
ボルグは即答した。
◇
「それ、見習いさん知ってる?」
ミレイアが尋ねる。
「知ってるはずだ」
「聞いた?」
「何を」
「何で欠けたと思ってるか」
「聞く前に見りゃ分かった」
「ボルグさんが?」
「そうだ」
「見習いさん本人は?」
ボルグはまた黙った。
ダリオが口を挟む。
「たぶんって言ったんだろ」
「何で知ってる」
「お前さっき言ってた」
「余計なところだけ覚えてやがる」
◇
ボルグは革袋から欠けた仕上げ槌を取り出した。
打面の右下が小さく欠けている。
悠斗は手に取ろうとせず、卓の上で見た。
「かなり長く使ってるんですか?」
「三十年以上」
「柄は新しそう」
「四本目だ」
「交換してる?」
「木は消耗する」
「打つところも?」
「磨き直してる」
「じゃあ元のままじゃないんですね」
「当たり前だ。使えば変わる」
「でも大事な槌?」
「そうだ」
◇
「修理できます?」
悠斗が聞く。
「できる」
「完全に元通り?」
「無理だ」
「何が変わる?」
「欠けた分を落として面を取り直す。少し軽くなるし、重心もわずかに変わる」
「使えなくなる?」
「そんな欠けじゃねえ」
「じゃあ修理したら別の使い方もできる?」
「場合によっちゃな」
ボルグは槌を手に取った。
「長く使った道具は、直すたび少しずつ変わる」
「それでも使う?」
「使えるならな」
答えてから、ボルグ自身が少し顔をしかめた。
◇
三日前、自分は見習いに何と言ったか。
《職人なら道具くらい新品みてえに扱え》
新品のように。
自分が普段最も嫌っている言い方だった。
槌は使うためにある。
使えば傷つく。
長く使えば形も変わる。
だから、傷そのものが問題なのではない。
どんな使い方をして、なぜその傷がついたのかが問題だった。
「俺、馬鹿なこと言ったな」
ボルグが低く呟いた。
「珍しい」
ダリオが言う。
「黙れ」
「何言った」
「新品みたいに扱えって」
ダリオが吹き出した。
◇
「笑うな!」
「お前が?」
「腹立ってたんだよ」
「お前、客が新品みたいに農具持ってきたら《使え》って言うだろ」
「言う」
「自分の見習いには新品みたいにしろ?」
「だから馬鹿だったって言ってんだ」
ボルグは槌の欠けた部分を指でなぞった。
「ただ、これをやった使い方が悪いのは変わらん」
「そこまで消す必要ないだろ」
ダリオが言う。
「怒鳴ったことと、教えることは別だ」
「……」
「欠けた理由教えればいい」
「分かってる」
◇
「本当に?」
「しつこいぞ」
「三日来てないんだろ」
ボルグの手が止まった。
「明日も来なかったら?」
「知らん」
「気にしてるくせに」
「気にしてねえ」
「朝、入口何回見た」
「数えてんじゃねえ」
ダリオが笑う。
ボルグは水を一気に飲んだ。
◇
「見習いさん、辞めたんですか?」
ミレイアが尋ねる。
「知らん」
「家は?」
「西区の外れ」
「様子見に行かない?」
「職人が一度怒鳴られただけで逃げたなら」
「本当に逃げたって分かる?」
ミレイアが聞く。
「来てない」
「理由は聞いた?」
「……」
今日のボルグは、何度同じところで言葉に詰まるのか分からなかった。
「皆、聞け聞けとうるせえな」
「分からないまま決めるよりいいかなって」
悠斗が言う。
ボルグは彼を見る。
「料理人まで言うか」
◇
「俺もさっき鉄殻貝、いきなり割らなかったので」
「それと一緒にするな」
「硬そうだから、どう開くか試しただけです」
「見りゃ硬いのは分かる」
「でもどのくらい熱で開くかは分からなかった」
「……」
「見て分かることと、試さないと分からないことってあるじゃないですか」
ボルグは返事をせず、槌を袋へ戻した。
◇
やがて《鉄殻貝と根玉葱の乳酪焼き》が完成した。
焼き皿の表面では乳酪が軽く色づき、その下に厚い貝身と甘く炒めた根玉葱が見えている。
別皿には、巨大な貝柱を薄く切って短時間だけ焼いたものが並んだ。
「こっちから食っていいか」
ダリオが貝柱を指す。
「どうぞ」
一切れ口へ入れる。
外側には軽い焼き目がついているが、中には弾力と水分が残っている。
「うまい」
ダリオがすぐに言った。
「焼きすぎてないな」
「硬くなりそうだったので」
ボルグも一切れ食べる。
◇
「確かにこれならいい」
「鍛冶師にも分かる?」
ダリオが笑う。
「食うことくらい分かる」
「お前、工房じゃ干し肉ばっかりだろ」
「仕事中に食えりゃいい」
「そういうところだぞ」
「何がだ」
乳酪焼きも口へ運ぶ。
貝の濃い旨味へ根玉葱の甘さが重なり、乳酪の塩気が全体をまとめている。
火を通しすぎた部分には多少の歯応えがあるが、噛むほど味が出た。
「こっちも悪くねえ」
ボルグが言う。
◇
「同じ貝でも焼き方違うんですね」
ミレイアが言う。
「部位が違うので」
悠斗が答える。
「全部一緒に焼くより?」
「貝柱は短く焼いた方が好きでした」
「乳酪焼きに入れたら駄目?」
「駄目じゃないけど、ちょっと硬くなると思います」
「使えないわけじゃない?」
「使い方が変わる感じです」
ボルグが匙を止めた。
今日だけで、自分の耳に残る言葉が妙に多い。
◇
「道具も同じか」
ボルグが言う。
「何が?」
ダリオが尋ねる。
「直して重さが変われば、前と全く同じ使い方じゃなくなるかもしれん」
「でも使える?」
「使える」
「じゃあいいだろ」
「簡単に言うな」
「難しくするなよ」
ボルグは小さく鼻を鳴らした。
「俺の師匠が昔、道具は下手な使い方も覚えるって言ってた」
「いいこと言うな」
「嫌な爺だったぞ」
「お前より?」
「比べるな」
◇
ボルグは見習いが槌を使っていた時の姿を思い出した。
右肩が外へ開く。
そのため打面が水平に入らず、槌の右下が先に当たる。
通常の打撃なら一度で大きく欠けることはない。
しかし、その角度で何度も硬い鉄へ当て続ければ、縁へ負担が集中する。
欠けた位置は、まさにそれと一致していた。
「分かった」
ボルグが言う。
「何が?」
ミレイアが聞く。
「欠けた理由」
「さっきから分かってたんじゃないの?」
「俺はな」
「じゃあ見習いさんは?」
「たぶん分かってねえ」
「何で?」
「俺が説明してねえからだ」
◇
「肩開くな、とは言った」
ボルグは続ける。
「でも、開いたら槌のどこが当たるか、どこへ力が逃げるかまでは見せてねえ」
「じゃあ今度説明する?」
「来たらな」
「来なかったら?」
ミレイアが聞く。
「迎えに行く」
ボルグは渋々答えた。
ダリオが笑う。
「最初からそう言え」
「明日だけだ」
「何が」
「明日来なかったら行く」
「今日行けよ」
「飯の後は仕事がある」
「槌直すのか」
「まず直さねえ」
◇
ダリオが少し意外そうな顔をする。
「何で?」
「欠けたまま見せる」
「見習いに?」
「そうだ」
「直してからじゃ駄目?」
「駄目じゃねえが、傷が残ってた方が説明しやすい」
ボルグは槌の袋を叩いた。
「どこへ当たったか見せる」
「その後直す?」
「一緒にな」
「見習いにやらせる?」
「まだ俺がやる。だが見せる」
「いいじゃねえか」
「お前に褒められても嬉しくねえ」
◇
「怒鳴ったことは?」
悠斗が尋ねる。
ボルグは嫌そうな顔をした。
「そこまで聞くのか」
「気になったので」
「……謝る」
ダリオが匙を落としかけた。
「何だその顔」
「いや」
「俺だって謝る時くらいある」
「見たことねえ」
「お前にはねえだけだ」
「何て言う」
「それは俺が決める」
ボルグは皿に残った貝を食べた。
◇
食事を終え、会計を済ませる。
悠斗は先ほど使った木のへらを見ながら、先端の潰れた部分を小刀でほんの少しだけ削った。
「やっぱり直すんだな」
ボルグが言う。
「ささくれてたので」
「新品には戻らんぞ」
「戻さなくていいです」
「短くなった」
「使える範囲です」
「そのうちまた削る?」
「たぶん」
「最後は?」
「使いにくくなったら別の用途にするか、交換します」
「簡単に捨てる?」
「使えなくなるまで使いたいですね」
ボルグは頷いた。
◇
店を出たあと、ダリオは湖の方へ戻った。
ボルグは工房へ向かう。
「見習いの家行かねえのか」
分かれ道でダリオが聞く。
「明日の朝待つ」
「来なかったら?」
「行くって言っただろ」
「忘れるなよ」
「漁師に言われなくても分かってる」
「じゃあな」
ダリオは手を振った。
ボルグは工房へ戻ると、最初に仕上げ槌を作業台へ置いた。
◇
修理道具も用意した。
しかし、削らない。
欠けた右下をそのまま残す。
別の紙へ簡単な円を描き、槌の面が斜めに当たった時にどこへ力が集中するのかを書いた。
「こんなもん、口で説明すりゃいいだろ」
自分で言いながら、それでも図を残した。
それから自分の若い頃の古い槌を倉庫から探した。
柄はすでに外してある。
打面は長い使用によって丸みを帯び、中心付近には細かな傷が何十本も残っている。
壊れてはいない。
ただ、使われた跡がある。
それも横へ置いた。
◇
翌朝。
ボルグは普段より少し早く工房を開けた。
火床へ炭を入れる。
道具を並べる。
入口は見ない。
そう決めた。
炭を整える。
入口を見た。
「……」
自分へ腹が立つ。
作業台を拭く。
また入口を見る。
朝鐘が鳴る。
見習いは来ない。
「昼まで待つか」
誰に言うでもなく呟いた。
その直後、工房の扉が開いた。
◇
見習いが立っていた。
三日ぶりだった。
「おはようございます」
声が少し小さい。
「遅え」
ボルグが反射的に言った。
見習いの肩が縮む。
そこでボルグは言い直した。
「……いや、今日は時間前か」
「はい」
「入れ」
「でも」
「いいから入れ」
見習いは恐る恐る工房へ入った。
作業台の上に欠けた仕上げ槌があるのを見て、表情が硬くなる。
「それ」
「ああ」
「すみませんでした」
◇
ボルグはしばらく黙ってから答えた。
「俺も悪かった」
見習いが顔を上げた。
「え?」
「聞き返すな」
「でも」
「怒鳴ったことだ」
「俺が槌を欠けさせたから」
「それはお前が悪い」
「……はい」
「そこは変えん」
「はい」
「ただ、俺は肩を開くなとしか言ってなかった」
ボルグは槌を手に取った。
「何で開いちゃ駄目か、分かってたか」
見習いは少し迷う。
◇
「力が逃げるから?」
「どこへ」
「……分かりません」
「だろうな」
ボルグは仕上げ槌を作業台へ置いた。
「見ろ」
欠けた部分を指す。
「右下だ」
「はい」
「お前が打つ時、右肩が開く」
「はい」
「肩が開くと、槌の面がこう傾く」
別の槌を持ち、わざと斜めに構える。
「そのまま振ると、全面じゃなく右下が先に当たる」
「ここ?」
「そうだ」
見習いが欠けた箇所を見る。
◇
「一回ならすぐ欠けるとは限らん」
ボルグは続けた。
「だが何度もそこだけで叩けば、縁へ負担が集まる」
「だから欠けた?」
「たぶんな」
「俺、気づかなかった」
「俺も気づかせてなかった」
「でも前から肩は注意されてました」
「ああ」
「直せなかった俺が」
「だから両方だ」
ボルグは少し苛立ったように言った。
「全部俺が悪いとも言わんし、全部お前だけのせいとも言わん」
◇
「それと」
ボルグは隣に置いた古い槌を見せた。
「こっちを見ろ」
「古い」
「俺が若い頃使ってた」
「面が丸いですね」
「使って減った」
「傷も多い」
「そうだ」
「これは直さないんですか?」
「この程度なら使える」
「でも新品みたいじゃ」
見習いはそこで口を止めた。
三日前にボルグから言われた言葉を思い出したのだろう。
ボルグは大きく息を吐いた。
◇
「そのことだ」
「……はい」
「俺が言った《職人なら道具を新品みたいに扱え》ってのは忘れろ」
「いいんですか?」
「俺が間違えた」
見習いは目を丸くした。
「道具は傷つく」
ボルグははっきり言った。
「使ってりゃ当たり前だ」
「じゃあ、欠けてもいい?」
「そこまで雑にまとめるな」
見習いの顔に、ほんの少しだけ緊張とは違うものが戻った。
「普通に使ってつく傷と、悪い使い方でつく傷は違う」
「はい」
「だが傷を恐れて道具を使わなくなるのも違う」
◇
「大事な槌なんですよね」
「ああ」
「もう貸してもらえないと思ってました」
「当分は横で使え」
「使っていいんですか」
「直したらな」
「俺が直す?」
「まだ無理だ」
「ですよね」
「見てろ」
ボルグは修理の準備を始めた。
欠けた部分をそのまま埋めることはできない。
周辺を少しずつ削って面を作り直す必要がある。
削れば重量はわずかに減る。
重心も少し変わる。
◇
「元と同じにはならん」
ボルグが説明する。
「でも使える?」
「使える」
「前と同じ仕事に?」
「多少感覚は変わる。軽くなりすぎたら仕上げ向きじゃなくなるかもしれん」
「その時は?」
「別の仕事に使う」
「捨てない?」
「使えるうちはな」
見習いはじっと見ていた。
「道具って、直しても変わるんですね」
「当たり前だ」
「俺、壊したら終わりだと思ってました」
「終わる道具もある」
「これは違う?」
「今回はな」
◇
ボルグは削る前に、見習いへ欠けた位置をもう一度見せた。
「この傷を覚えろ」
「はい」
「隠すために直すんじゃねえ」
「何で?」
「原因分からんまま綺麗にしたら、また同じことやる」
「じゃあ直す前に見る?」
「そうだ」
ボルグは少し笑った。
「昔、俺の師匠にも似たこと言われた」
「ボルグさんも道具壊したんですか?」
「柄を折った」
「本当に?」
「何だその顔」
「意外で」
「見習いの頃だぞ」
◇
「怒られました?」
「説明された」
「怒鳴られなかった?」
「俺の師匠は怒鳴る時はもっとひどかったが、その時は怒鳴らんかった」
「じゃあボルグさんも」
「言うな」
見習いが少し笑った。
三日ぶりに、その顔を見た。
「何で三日来なかった」
ボルグが尋ねる。
「辞めようと思ってました」
「やっぱりか」
「俺、道具も扱えないなら向いてないと思って」
「誰がそう決めた」
「ボルグさんが、鉄触らせないって」
ボルグは額へ手を当てた。
◇
「怒ってた」
「はい」
「言い過ぎた」
「はい」
「そこはもう一回謝る」
「……はい」
「ただし、次また分からんことを分からんまま使うな」
「聞きます」
「俺が《見れば分かる》って言ったら?」
見習いが少し考える。
「分からないって言います」
「そうしろ」
「怒らない?」
「内容による」
「そこは怒るんですね」
「当たり前だ」
二人の間に少しだけ笑いが戻った。
◇
仕上げ槌の修理が始まった。
欠けた周囲を必要以上に削らず、打面全体の形を少しずつ整える。
見習いは横で作業を見る。
ボルグは普段より細かく説明した。
「ここだけ落とすと傾く」
「はい」
「だから反対側も少し取る」
「重くなくなる?」
「少しな」
「柄は替えない?」
「今回はそのまま」
「重心変わります?」
「変わる。だから最後に振って確かめる」
修理は一時間近くかかった。
◇
完成した槌は、以前よりほんの少しだけ打面が小さくなった。
持った時の重さもわずかに軽い。
しかし、道具として使えないほどではない。
ボルグは何度か試し打ちをした。
「どうです?」
見習いが尋ねる。
「軽くなった」
「使いにくい?」
「前より細かい仕事には悪くない」
「じゃあ別の使い方?」
「そうなるかもしれん」
ボルグは槌を見た。
三十年以上使ってきた形とは少し違う。
それでも、手の中にはまだ馴染む。
◇
「使ってみろ」
ボルグが見習いへ槌を差し出した。
「俺が?」
「お前が」
「また欠けたら」
「今度は理由分かってるだろ」
「でも」
「傷つけるのが怖くて持てないなら、何も作れん」
見習いは恐る恐る受け取った。
「何打ちます?」
「柔らかい鉄でいい」
「仕上げ?」
「まず平面」
小さな鉄片を金床へ置く。
見習いが槌を構えた。
◇
右肩がわずかに開く。
「止めろ」
ボルグが言う。
見習いの手が止まった。
「怒ってます?」
「まだ打ってねえだろ」
「はい」
「肩」
ボルグは見習いの後ろに立った。
「前は開くなとしか言わなかった」
「はい」
「今日は何で開くか見る」
「何でです?」
「お前、振り上げる時に肘を外へ逃がしてる」
「はい」
「そのまま下ろすから面が傾く」
ボルグは自分で一度ゆっくり動作を見せた。
「肘を完全に固める必要はねえ。だが面がどこ向いてるか見ろ」
◇
見習いがもう一度構える。
今度は肩が少し閉じた。
「打て」
一打。
乾いた音が工房へ響く。
完全に中心ではない。
「右寄り」
ボルグが言う。
「分かります?」
「跡見ろ」
鉄の表面に残った打痕を指す。
「こっちが深い」
「本当だ」
「次」
二打目。
「今度は?」
「少し真ん中」
「そうだ」
見習いが三打目を振る。
◇
ボルグは怒鳴らなかった。
悪いところがあれば、どこが悪いかを言った。
打痕を見せる。
肩の位置を確認する。
握りが強すぎれば指摘する。
見習いも分からなければ聞く。
「今の何で左へ流れたんです?」
「手首返した」
「自分で分かりませんでした」
「もう一回ゆっくりやれ」
以前なら「見りゃ分かる」と言っていたかもしれない。
その日は、分からないと言われれば止めて見せた。
◇
昼になる頃には、最初より打痕がかなり揃ってきた。
「疲れました」
見習いが言う。
「昨日まで休んでたくせに」
「だから余計に」
「飯にするぞ」
「何食べます?」
ボルグは工房の隅に置いてある桶を指した。
昨日ダリオから受け取った鉄殻貝の残りが一つ入っている。
「それ、どうするんです?」
「昨日料理屋で開け方見た」
「ボルグさんが料理するんですか」
「文句あるか」
「少し不安です」
「鉄なら焼ける」
「貝です」
「似たようなもんだ」
◇
当然ながら、鉄と貝は似ていなかった。
それでも昨日の手順を思い出し、工房脇の小さな調理場でゆっくり蒸した。
完全に開くまで待つ。
無理に鍛冶用の鑿を打ち込むことはしない。
見習いが横で笑う。
「槌使わないんですね」
「昨日、木のへらで開けてた」
「ボルグさんなら一発で割りそうなのに」
「殻の欠片が身に入る」
「ちゃんと覚えてる」
「当たり前だ」
少し開いた隙間へ木の道具を差し込む。
◇
二人がかりでようやく殻を開いた。
「でかい」
見習いが中を見る。
「昨日のもこんなもんだった」
「どう食べるんです?」
「薄く切って焼く」
「乳酪は?」
「工房にあるわけねえだろ」
「じゃあ塩だけ?」
「根玉葱はある」
「それでやりましょう」
二人で貝身を切り、昨日よりずっと簡単な料理にした。
貝柱は少し厚く切りすぎた。
火も少し入りすぎた。
「硬い」
見習いが噛みながら言う。
「食える」
「料理屋の方が美味かったでしょう」
「当たり前だ」
◇
「次は薄くします?」
「ああ」
「失敗ですね」
「そうだな」
「捨てる?」
「食えるんだから食う」
見習いは笑った。
「今日、失敗多いですね」
「お前が言うか」
「槌も貝も」
「同じ失敗を理由も分からず繰り返す方が悪い」
「じゃあ次は?」
「貝は薄く切る」
「槌は?」
「肩と面を見る」
「分かりました」
二人は少し硬い貝を最後まで食べた。
◇
それから数日、ボルグは見習いの槌の使い方を注意して見るようになった。
以前より口数は増えた。
だからといって優しい師匠になったわけではない。
鉄の温度を見誤れば怒る。
火箸を危険な位置へ置けば叱る。
作業台を散らかしたまま帰ろうとすればやり直させる。
ただ、その時に「駄目だ」で終わらせることは減った。
危険だから駄目なのか。
仕上がりが悪くなるから駄目なのか。
道具を不必要に傷めるから駄目なのか。
できるだけ理由まで言うようにした。
◇
ある日、見習いが鉄板を打っている時、また右肩が少し開いた。
「止めろ」
ボルグが言う。
見習いがすぐに止める。
「肩?」
「自分で見てみろ」
見習いは一度構えを解き、もう一度ゆっくり振り上げた。
「あ、本当だ」
「次どうする」
「肘を少し内へ戻して、面の向き確認します」
「やれ」
次の一打は中央に入った。
「今のは?」
「悪くねえ」
「珍しく褒めた」
「悪くねえは褒めてねえ」
「十分です」
◇
修理した仕上げ槌も、そのまま見習いが練習に使うようになった。
以前より少し軽くなったため、細かな修正作業にはむしろ使いやすい場面もあった。
ボルグ自身も必要なら使う。
完全に元の道具へ戻ったわけではない。
欠けたこともなかったことにはならない。
その代わり、今の形に合わせた役割ができた。
槌の打面には、修理した境目がほんのわずかに残っている。
ボルグは消せる範囲であっても、あえて磨きすぎなかった。
見れば、何があった道具なのか分かる。
◇
「これ、傷残ってますよね」
見習いがある日尋ねた。
「ああ」
「全部消さないんですか」
「使うのに邪魔じゃねえ」
「でも見える」
「見えた方がいい」
「何で?」
「お前がまた肩開いた時に思い出す」
「それだけ?」
「俺もな」
「ボルグさんも?」
「怒鳴る前に説明しろってな」
見習いは少し笑った。
「じゃあ大事な傷ですね」
「格好つけるな」
「でも消さないんでしょう」
「使えるから残してるだけだ」
◇
その日の午後、ダリオが網の留め具を一つ持って工房へ来た。
「直せるか」
「見せろ」
ボルグは金具を受け取った。
「これは曲がってるだけだ。すぐ直る」
「また安くしてくれ」
「嫌だ」
「鉄殻貝やっただろ」
「もう食った」
「見習いと?」
「何で知ってる」
「殻が外にある」
ダリオが工房の隅を指した。
「うまくできたか?」
「少し硬かった」
「料理向いてねえな」
「うるせえ」
◇
ダリオは修理中の仕上げ槌へ目を向けた。
「直ったな」
「少し軽くなった」
「使える?」
「ああ」
「見習いは?」
ボルグは工房の奥を顎で示した。
見習いが別の金属片を叩いている。
以前より肩の開きは減っていた。
「戻ったか」
「見りゃ分かるだろ」
「ちゃんと謝った?」
「した」
「珍しい」
「それもう聞いた」
「何教えてる」
「見れば分かることを、見れば分かるで終わらせないようにしてる」
「随分変わったな」
「別に変わってねえ」
◇
「道具は使ってなんぼだ」
ボルグは言った。
「そこは前から変わらん」
「じゃあ今回何が違った」
「使えば傷つく。それと雑に使って壊すのは別だ」
「うん」
「でも雑だった理由を教えずに、《傷つけるな》だけ言っても何も残らん」
「それを覚えた?」
「思い出しただけだ」
「師匠に教わったこと?」
「そうだ」
ボルグは槌を持ち上げた。
「忘れてたら意味ねえな」
◇
修理した網の留め具をダリオへ渡す。
「ほら」
「いくら」
ボルグが値段を言う。
「安くない」
「普通だ」
「貝の礼は」
「料理代で消えた」
「俺も払っただろ」
「知らん」
ダリオは笑いながら代金を払った。
「じゃあまた壊れたら来る」
「壊す前に持ってこい」
「使えば壊れる」
「壊れるまで放っとくのと、使って傷むのは違う」
「今度はちゃんと説明したな」
「帰れ」
ダリオは笑いながら工房を出た。
◇
夕方、見習いが一日の仕事を終える前に仕上げ槌を布で拭いていた。
汚れを落とし、打面を確認する。
「今日、新しい欠けは?」
ボルグが尋ねる。
「ないです」
「摩耗は?」
「少し跡あります」
「どこ」
「中心より少し右」
「何でだと思う」
見習いは槌と今日打った鉄を見比べた。
「まだ右肩が少し開いてるから?」
「たぶんな」
「じゃあ明日そこ見ます」
「そうしろ」
◇
「磨いて消します?」
「必要なければ消すな」
「傷なのに?」
「使った跡まで全部消したら、何を直せばいいか分からん」
「じゃあ残す」
「深くなったら整える」
「はい」
見習いは槌を棚へ戻そうとした。
「待て」
ボルグが言う。
「何です?」
「明日もそれ使え」
「いいんですか」
「そのために直した」
見習いは少しだけ嬉しそうに頷いた。
◇
翌朝も、工房にはいつも通り火が入った。
鉄を熱し、取り出し、金床へ置く。
見習いが修理された仕上げ槌を握る。
ボルグは少し離れた場所から見る。
右肩がわずかに開きかける。
以前なら、反射的に怒鳴っていたかもしれない。
「面の向き」
それだけ言う。
見習いが自分で止まり、握り直した。
槌の面を確認する。
肩を戻す。
そして一打を落とした。
◇
乾いた音が工房へ響く。
ボルグは金床の上の打痕を見た。
「今のは真ん中だ」
「はい」
「次も同じとは限らんぞ」
「分かってます」
「疲れたらまた崩れる」
「その時は?」
「自分で気づけ」
「気づかなかったら?」
「俺が言う」
見習いは頷き、もう一度槌を構えた。
◇
道具を大切にすることは、一度も傷つけないことではない。
使えば減る。
柄は馴染み、面は丸くなり、時には修理も必要になる。
不注意による傷まで肯定する必要はない。
だからこそ、なぜ傷ついたのかを見なければならない。
使った結果なのか。
技術が足りなかったのか。
道具の選び方が悪かったのか。
そして直せるなら直し、同じ理由で同じ壊し方を繰り返さないようにする。
それが、道具を怖がって使わないことよりずっと職人らしい扱い方なのだろう。
ボルグは次の一打を見ながら、右肩がわずかに外へ逃げた瞬間だけ「そこだ」と声をかけ、見習いが自分で構えを直すのを待ってから、修理された槌がこれからどんな形に馴染んでいくのかを確かめるように、その手元を見守り続けた。
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