第7話 行き先のない果実と、立ち止まれない配達人
フェリス・ニャールは二十三歳になる猫獣人の配達人であり、レーヴェンの配達組合に所属して五年目になる若い女性だった。灰色がかった茶色の髪を肩の辺りで切り揃え、その頭には同じ色の猫耳が生えており、感情が動くたびに耳先がわずかに傾く。腰の後ろから伸びる細い尾も落ち着きなく揺れることが多く、本人が平静を装っていても、耳と尾を見ればある程度の機嫌が分かると言われていた。
背は高くないが、細身の身体には長時間走り続けるための筋肉がついており、特に脚は人間の女性よりかなり強い。配達組合から支給された短い上着には、雨に濡れても崩れにくいよう加工された木札が縫いつけられ、その札にある印を見れば、街の商人たちは彼女が正式な配達人であることをすぐに理解できた。
性格は明るく、人見知りも少ない。
ただし、一つの場所に長く留まることを極端に苦手としていた。
荷物を渡し終えれば、すぐに次の届け先へ向かう。
次の依頼まで時間が空けば、組合へ戻って別の仕事を探す。
休日になれば洗濯や買い出し、道具の手入れを予定表に詰め込み、それでも時間が余れば、知り合いの店へ頼まれてもいない荷運びを手伝いに行く。
周囲からは働き者と見られていたし、実際フェリス自身も仕事を嫌ってはいなかった。
むしろ走っている時間は好きだった。
問題は、走る理由がない時にも止まれなくなっていることだった。
◇
フェリスが生まれたのは、レーヴェンから半日ほど歩いたところにある小さな集落である。
父は荷車の修理を請け負う職人で、母は近隣の農家から買い取った布や食材を小さな店で扱っていた。
家は裕福ではなかったものの、食べるものに困るほど貧しくもなく、フェリスは一人娘として比較的自由に育てられた。
子どもの頃から走るのが好きで、父の工房と母の店の間を何度も往復し、忘れ物があれば頼まれる前に届けるような子どもだった。
「フェリスは足が速いね」
そう褒められることが嬉しかった。
母に荷物を届ければ感謝され、父に道具を持っていけば頭を撫でられる。
何かを運び、誰かの役に立ち、そのまま次の場所へ走る。
そういう時間が昔から好きだった。
◇
十五歳の頃、レーヴェンから来た配達人を初めて間近で見た。
腰に組合札をつけ、封書や小荷物をいくつも抱えながら、道順をほとんど迷わず村から村へ移動していく姿が格好よく見えた。
フェリスはすぐに配達人になりたいと思った。
両親は最初、若すぎると止めた。
それでも十七歳になるまで村周辺の道を覚え、商人の荷運びを手伝い、十八歳でようやくレーヴェンの配達組合へ登録した。
最初の一年は失敗も多かった。
急ぎすぎて転ぶ。
荷物を抱えすぎて順番を間違える。
最短距離を選んだつもりが工事中の道へ入り、かえって遅れる。
しかし、失敗するたびに道を覚え、依頼ごとに優先順位をつけることを学び、今では西区から中央区へ抜ける細い路地までほとんど頭へ入っている。
◇
配達人として上達するほど、フェリスの毎日は忙しくなった。
組合からも信頼され、急ぎの荷物を任されることが増えた。
商人から個人的に名前を覚えられ、「フェリスなら早い」と指名されることもある。
仕事が増えることは嬉しかった。
頼られていると分かるからである。
ただ、二十歳を過ぎた頃から、休日に何をすればよいのか分からなくなり始めた。
朝起きて、届ける荷物がない。
組合へ行く必要もない。
次に向かう場所が決まっていない。
そんな日になると、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
だからフェリスは、休日にも予定を作るようになった。
◇
洗濯をする。
靴底を直す。
市場へ行く。
保存食を買う。
部屋を掃除する。
知人に手紙を届ける。
必要のない用事まで増やしてしまえば、一日は簡単に埋まった。
ところが両親から届く手紙だけは、なぜか後回しにした。
《たまには帰っておいで》
《母さんが果実煮を作ったぞ》
《次の休みはいつだ》
家までは歩いて半日ほどである。
朝に出れば昼過ぎには着ける。
決して帰れない距離ではない。
両親と仲が悪いわけでもなかった。
それでも、一年以上帰っていなかった。
◇
理由を聞かれれば、いつも「仕事が忙しいから」と答えた。
嘘ではない。
配達人の仕事は本当に忙しい。
しかし、丸一日休みがあった日もある。
帰ろうと思えば帰れた。
それでも行かなかった。
家へ帰ると、母は必ず言う。
「仕事じゃないんだから座ってなさい」
父も言う。
「今日は何も運ばなくていいぞ」
そこへ座らされると、フェリスは困る。
次に行く場所がない。
何時までに届ける荷物もない。
ただ食べて、話して、夕方になる。
その「何もない時間」が、仕事で走り続けることよりずっと落ち着かなかった。
◇
そんなフェリスが《持ち込み食堂》を訪れたのは、昼過ぎのことだった。
肩から下げた配達鞄とは別に、小さな木箱を抱えている。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが迎えた。
「食事できます?」
「できます。持ち込みですか?」
「そうなんだけど、ちょっと困ったやつで」
フェリスが木箱を卓へ置く。
蓋を開けると、中には橙色と金色の中間のような果実が六つ並んでいた。
一つ一つは拳より少し小さく、皮からは甘い花のような香りが漂っている。
「きれいですね」
ミレイアが言う。
「《香珠果》」
「食べられる?」
「もちろん」
「何が困ってるんです?」
「届け先がなくなった」
◇
厨房から出てきた悠斗が、事情を聞く。
「届け先がなくなった?」
「菓子屋に届ける予定だったんだけど、昨日急に閉店したらしい」
「潰れた?」
「違うみたい。店主の親が倒れて、しばらく故郷に戻るって」
「じゃあ受け取れない?」
「朝行ったらもう閉まってた」
「送り主へ返せないの?」
「返せるけど、遠い」
「どのくらい?」
「二日かかる」
「果物もたない?」
「この状態なら、たぶん明日か明後日まで」
フェリスは箱を覗いた。
「依頼料は前払いされてるから、組合では私が処分していいことになった」
◇
「処分?」
「食べても売ってもいい」
「なら食べれば?」
ミレイアが言う。
「六個も?」
「分ければ」
「私、菓子作らないし」
「そのままは?」
「食べられるけど、一人で六個は飽きる」
「それで店へ?」
「何か食事に使えないかなと思って」
悠斗は一つ手に取る。
「皮も食べられる?」
「薄い部分なら。香りが強いから菓子屋は皮も削って使う」
「種は?」
「中に大きいのが一つ」
「酸味は?」
「甘酸っぱい」
「じゃあ肉と合わせられそう」
◇
「肉?」
フェリスの耳が立った。
「菓子じゃなく?」
「食事にしたいんですよね」
「したい」
「鳥肉なら合いそう」
「じゃあそれで」
「今すぐ?」
「できるだけ早く」
悠斗が少し首をかしげる。
「急ぎの配達ある?」
「ない」
「じゃあ何で急ぐの?」
「次の依頼取りに行きたいから」
「今日は休憩?」
「昼の空き時間」
「何時まで?」
フェリスはそこで少し詰まった。
「決まってない」
「じゃあ急がなくてもいい?」
「でも早い方がいいでしょ」
◇
ミレイアがフェリスを見る。
「さっきからずっと足動いてますよ」
「え?」
フェリスは自分の脚を見た。
椅子へ座っているのに、片方の踵を小刻みに上下させている。
「癖」
「落ち着かない?」
「別に」
「じゃあ止めてみて」
「何で?」
「気になったから」
「意味ないでしょ」
「止められない?」
「止められる」
フェリスは脚を止めた。
数秒後、尾が揺れ始める。
ミレイアが笑う。
「今度は尻尾」
「これは勝手に動くの」
「耳も」
「猫獣人はそういうもの」
◇
悠斗は香珠果を半分に切った。
中は橙色で果汁が多く、中心には大きな種が一つある。
少量味見すると、最初に酸味があり、そのあと強い香りを伴った甘さが広がった。
「やっぱり肉に合いそう」
「どんな?」
「焼いた鳥肉に果汁を絡めます」
「時間かかる?」
「普通」
「何分?」
「それ聞いてどうするんです?」
「終わる時間分かれば次の予定決められるから」
悠斗とミレイアが顔を見合わせた。
「予定決めないと駄目?」
ミレイアが尋ねる。
「駄目じゃないけど」
「じゃあ今日は決めないで待ったら?」
「何のために?」
◇
「止まる練習?」
「嫌」
フェリスは即答した。
「そこまで嫌?」
「練習する意味がない」
「休むため?」
「夜寝てる」
「休日は?」
「色々やる」
「何もやらない時間ある?」
「必要ないでしょ」
フェリスは少し笑って答えた。
「時間って使えるのに、何もしないのもったいないし」
「全部使わないと駄目?」
悠斗が尋ねる。
「空いてたら何かできる」
「でも空いてるから休むこともできる?」
「できるけど」
「嫌?」
フェリスは答えなかった。
◇
悠斗は鳥肉へ軽く塩を振り、皮側から焼き始めた。
香珠果は半分を絞り、果汁へ少量の蜜、塩、刻んだ香草を混ぜる。
残りは薄く切り、根玉葱と一緒に軽く焼くことにした。
「皮も少し使います?」
悠斗が聞く。
「食べられる」
「じゃあ香りづけに」
薄く削った皮を少量だけ刻む。
果実の香りが一気に強くなった。
「いい匂い」
フェリスが言う。
「菓子屋が欲しがるの分かる」
「これ、普段よく運ぶ?」
「季節になると結構」
「食べたことは?」
「ある」
「好き?」
「好きだけど、わざわざ買わない」
「届けるだけ?」
「そう」
◇
「配達の仕事、好きなんですね」
ミレイアが尋ねる。
「好き」
フェリスの返事は早かった。
「走るのが?」
「それもあるし、届けた時の顔見るのも好き」
「顔?」
「待ってた荷物が届くと、皆ちょっと安心するでしょ」
「確かに」
「誕生日の包みとか、薬とか、手紙とか。必要なものをちゃんと届く場所へ持っていくのが好き」
「じゃあ今の果物は?」
「行き先なくなった」
フェリスは木箱を見る。
「だから、ちょっと変な感じ」
「行き先がないから?」
「うん」
「果物だけ?」
ミレイアの質問に、フェリスの耳が少し後ろへ傾いた。
◇
「何が言いたいの?」
「フェリスさんも、行き先決まってないと落ち着かないのかなって」
「配達人だから普通」
「仕事中は分かるけど」
「休みも?」
「休みは……」
フェリスは少し言葉を止めた。
「予定ある」
「何する?」
「洗濯とか買い物とか」
「終わったら?」
「別のことする」
「全部終わったら?」
「組合へ行く」
「休みなのに?」
「仕事あったらやる」
「それ休み?」
ミレイアが尋ねる。
◇
「自分でやってるからいいの」
「疲れない?」
「疲れたら寝る」
「家族は近い?」
その質問に、フェリスの尾が一度だけ止まった。
「何で家族?」
「休みの日に帰ったりしないのかなって」
「家は村」
「遠い?」
「半日」
「じゃあ帰れる?」
「帰れる」
「最近いつ帰った?」
フェリスは少し目を逸らした。
「一年前くらい」
「仲悪い?」
「全然」
「じゃあ何で?」
「忙しいから」
◇
「休みの日あるんですよね?」
悠斗が聞く。
「あるけど」
「じゃあ忙しいだけじゃない?」
「何でそこまで聞くの」
「聞かなくてもいいですけど」
悠斗は果汁のたれを軽く煮詰めながら答えた。
フェリスはしばらく黙っていた。
「帰ると、何もやることないんだよね」
「実家で?」
「母さんが全部やる」
「楽じゃない?」
「落ち着かない」
「何で?」
「座ってろって言われるから」
「それが嫌?」
「……ちょっと」
◇
「父さんも、《今日は何も運ばなくていい》って言う」
「優しいですね」
「優しいよ」
「でも嫌?」
「嫌っていうか」
フェリスは指先で卓を軽く叩いた。
「何もしなくていいって言われると、何すればいいか分からなくなる」
「何もしなくていいんじゃ?」
「だから、それが分からないの」
「座って話すとか」
「話が途切れたら?」
「黙っててもいいんじゃない?」
「気まずい」
「家族なのに?」
「家族だから余計に」
◇
フェリスは少し困ったように笑った。
「仕事だと簡単なんだよ」
「何が?」
「次に何するか決まってるから」
「荷物取る、届ける、戻る?」
「そう」
「休みは?」
「自分で決めないといけない」
「それが大変?」
「何か予定作れば大丈夫」
「何もないと?」
フェリスは少し考えた。
「余計なこと考える」
「例えば?」
「仕事、このままでいいのかなとか」
「嫌いじゃないんですよね?」
「好き」
「じゃあ何が問題?」
「分かんない」
◇
「他には?」
ミレイアが聞く。
「家、もっと帰った方がいいのかなとか」
「帰りたい?」
「たぶん」
「じゃあ帰れば?」
「簡単に言うね」
「半日ですよね?」
「距離の話じゃない」
「じゃあ何?」
フェリスは答えに詰まった。
「帰ったら、次の日まで予定ない」
「それが怖い?」
「怖いってほどじゃ」
「じゃあ?」
「……落ち着かない」
フェリスはようやく認めた。
◇
「ずっと動いてないと、何か考えちゃうんですね」
悠斗が言う。
「悪い?」
「悪いとは言ってないです」
「仕事好きならそれでいいでしょ」
「いいと思います」
「じゃあ」
「でも、好きだから動くのと、止まるのが嫌だから動くのは少し違うかも」
フェリスは悠斗を見る。
「同じじゃない?」
「結果は同じでも、自分がしんどい時あるんじゃないですか」
「……」
「休みの日まで予定詰めないと落ち着かないなら、ちょっと疲れそうだなと思って」
「疲れてない」
「じゃあ試してみます?」
◇
「何を?」
「この料理できるまで、次の予定決めない」
フェリスの耳がぴんと立った。
「それだけ?」
「それだけ」
「何分?」
「時間聞いたら予定になるでしょ」
「ずるい」
「嫌ならしなくていいです」
「できる」
「じゃあやってみる?」
「できるって」
フェリスは腕を組んだ。
そのまま椅子へ座る。
数秒後、視線が入口へ向いた。
外を配達人が一人走り抜ける。
フェリスの身体がわずかに前へ動いた。
◇
「知り合い?」
ミレイアが聞く。
「組合の人」
「追わない?」
「追わない」
「仕事あるか聞かなくていい?」
「今は食事中」
「まだ料理来てないけど」
「細かい」
フェリスは視線を卓へ戻した。
尾がまた揺れる。
その後、壁を見る。
厨房を見る。
窓の外を見る。
「暇」
「まだ三分くらいですよ」
「三分も?」
「時間知りたかった?」
「言わないで」
フェリスは額を卓へつけそうになった。
◇
「止まるの苦手なんですね」
ミレイアが言う。
「分かったから言わないで」
「何考えてた?」
「次どこ行こうかなって」
「決めない練習なのに」
「勝手に出る」
「他は?」
「家の手紙、まだ返してないなって」
「いつ来た?」
「十日前」
「何て?」
「次の休みに帰れって」
「休みはいつ?」
「明後日」
「帰る?」
「……」
フェリスは卓の上へ視線を落とした。
◇
「予定は?」
悠斗が聞く。
「洗濯」
「どのくらい?」
「朝やれば終わる」
「その後?」
「靴の紐買う」
「急ぎ?」
「まだ切れてない」
「他は?」
「組合の掲示見る」
「休みなのに?」
「仕事あったら」
「実家は?」
「半日」
「朝出れば?」
「昼に着く」
「帰りは?」
「泊まれば次の日戻れる」
「できそう?」
フェリスは口をへの字に曲げた。
◇
「何か理由が欲しい」
「帰る理由?」
「うん」
「家族に会うじゃ駄目?」
「……ちょっと弱い」
ミレイアが首をかしげる。
「弱い?」
「配達なら行きやすい」
「何か届ける?」
フェリスの視線が木箱へ向いた。
香珠果が六つ入っている。
「これ」
「果物?」
「三つくらい持って帰る」
「両親に?」
「うん」
「配達?」
「そう」
「自分の荷物なのに?」
「配達ってことにする」
フェリスの耳が少し前を向いた。
◇
「それなら帰れそう?」
「たぶん」
「じゃあ全部あげる?」
「いや」
フェリスはすぐ答えた。
「二つは自分で食べる」
「珍しい」
「何が?」
「仕事の荷物じゃなく、自分の分として残すから」
「私だって食べるよ」
「ならいいですね」
「あと一つは?」
「料理に使ってるでしょ」
「そうでした」
ミレイアが笑った。
◇
鳥肉が焼き上がると、悠斗は余分な脂を軽く落とし、香珠果の果汁を使ったたれを鍋へ加えた。
果汁が熱で煮詰まり、甘酸っぱい香りが立つ。
そこへ薄切りの香珠果と炒めた根玉葱を合わせる。
皮はほんの少しだけ最後に加え、香りを残した。
付け合わせには黄芋を焼き、肉のたれを少量絡める。
「できました」
悠斗が皿を置く。
「《鳥肉の香珠果焼き》です」
「やっと」
「何分でした?」
「聞かない」
「成長した?」
「今だけ」
◇
フェリスは鳥肉を一口食べた。
皮には香ばしい焼き色がつき、その脂へ香珠果の酸味が加わっている。
果実自体の甘さも残っているため、蜜だけを使うより香りが複雑だった。
「美味しい」
「よかった」
「菓子よりこっち好きかも」
「じゃあ持って帰った分も料理する?」
「母さんにやらせる」
「自分で作らない?」
「私は料理そんなに得意じゃない」
「そこは任せる?」
「母さんの方が上手いから」
「ならいいですね」
フェリスは黄芋も食べた。
◇
「明後日本当に帰る?」
ミレイアが尋ねる。
「配達する」
「香珠果を?」
「三つ」
「届けたらすぐ戻る?」
フェリスの手が止まった。
「……それじゃ意味ない?」
「私に聞かれても」
「帰るなら泊まった方がいい?」
「好きにしたらいいと思います」
「またそれ」
「自分で決めるしかないでしょう」
「面倒」
フェリスはため息をついた。
「じゃあ、昼飯まではいる」
「何で昼?」
「最初から一日って決めると落ち着かないから」
「小さくする?」
「うん」
◇
「昼までいて、大丈夫そうなら夕方まで」
「それでいいんじゃないですか」
「泊まるかは?」
「その時決める」
「予定決めてるようで決めてないですね」
ミレイアが言う。
「これくらいがいい」
「止まる練習?」
「練習って言葉やめて」
「じゃあ帰省」
「配達」
「まだ言う」
フェリスは笑った。
◇
食事を終えたあと、フェリスは残った香珠果を木箱から出した。
三つは実家へ。
二つは自分用。
一つは今日の料理に使ったため、これで全部になる。
「この二つ、いつ食べる?」
ミレイアが尋ねる。
「今日と明日」
「ちゃんと予定決めるんだ」
「腐るから」
「それは必要な予定ですね」
「全部一緒にしないで」
フェリスは香珠果を配達鞄とは別の小袋へ入れた。
「これは仕事の荷物じゃない」
「自分の?」
「そう」
少しだけ言い方が照れくさそうだった。
◇
店を出る前、フェリスは入口で立ち止まった。
「組合戻る?」
ミレイアが尋ねる。
「……」
いつもなら迷わない。
組合へ戻り、追加の依頼がないか確認する。
まだ夕方まで時間はある。
配達を二、三件増やせるかもしれない。
「今日はもう一件終わってる?」
悠斗が聞く。
「朝から七件」
「じゃあ十分?」
「組合ならまだあると思う」
「やりたい?」
フェリスは扉の外を見た。
◇
仕事は嫌ではない。
むしろ、今からもう一件走るのも楽しいかもしれない。
ただ、本当に仕事がしたいのか、それとも行き先がなくなるのが嫌だから組合へ向かおうとしているのか、自分でも少し分からなくなった。
「今日は戻らない」
フェリスが言った。
「じゃあ何する?」
「分からない」
「本当に?」
「分からないまま歩く」
「それも予定?」
「それ以上言ったら怒るよ」
ミレイアが笑った。
「気をつけて」
「うん」
フェリスは店を出た。
◇
明後日の朝、フェリスはいつもの時間に目を覚ました。
休みの日だった。
最初に洗濯をする。
ここまでは予定通りである。
普段なら、そのあと市場へ行き、必要のない買い物まで済ませ、昼前には組合へ顔を出していた。
その日は違った。
洗濯物を干し終えると、香珠果を三つ布へ包んだ。
靴紐はまだ使える。
組合へ行く必要もない。
配達鞄を持とうとして一度止まり、代わりに小さな旅袋だけを肩へ掛けた。
「配達じゃないんだから鞄いらない」
自分でそう呟く。
◇
城門を出る。
故郷の村へ続く街道はよく知っている。
配達でも何度か通った道である。
仕事の時なら、半日かかる距離でもかなり速く進む。
その日は急がなかった。
少なくとも、急がないつもりだった。
気づくといつもの配達速度になっている。
「違う」
フェリスは歩調を落とした。
少し進む。
また速くなる。
再び落とす。
誰に時間を測られているわけでもないのに、妙に難しかった。
◇
街道脇に休憩用の石が置かれている場所へ着いた。
普段のフェリスなら通り過ぎる。
村までまだ歩けるし、休むほど疲れていない。
その日だけは座ってみることにした。
荷物を膝へ置く。
道を商人が一人歩いてくる。
フェリスより少し遅れていたはずなのに、そのまま前へ進んでいった。
反射的に立ち上がりそうになる。
(競争じゃない)
自分へ言い聞かせる。
商人の背中が遠ざかる。
何も起きない。
◇
「別に先に行かれても困らないんだ」
フェリスは小さく呟いた。
休憩している間、風の音が聞こえた。
草が揺れる。
鳥が飛ぶ。
仕事の時にも見ているはずの景色なのに、立ち止まって見ると少し違っていた。
五分ほどしてから、また歩き出した。
時間は測っていなかった。
そこだけは《持ち込み食堂》での待ち時間より少し上手くできた気がした。
◇
昼を少し過ぎた頃、故郷の村へ着いた。
母の店は昔と同じ場所にあった。
入口では母親が布を畳んでいる。
「……母さん」
呼ぶと、母の耳がぴんと立った。
「フェリス?」
「配達」
フェリスは香珠果の包みを持ち上げた。
母は数秒黙ったあと、笑った。
「一年ぶりに帰ってきて最初の言葉がそれ?」
「香珠果三つ」
「誰からの?」
「私から」
「じゃあ配達じゃないでしょう」
「細かいことはいいの」
◇
奥から父も出てきた。
「お前、本当にフェリスか」
「娘の顔忘れた?」
「一年以上帰らない娘は少し忘れる」
「手紙は出してた」
「三通に一回くらいな」
「忙しかったの」
「今日は?」
「休み」
父が目を細める。
「じゃあ仕事は?」
「ない」
「本当に?」
「ないって言ってるでしょ」
両親は顔を見合わせた。
「なら昼飯食っていけ」
母が言う。
◇
「そのつもり」
フェリスが答えると、母が少し驚いた。
「すぐ帰らないの?」
「昼まではいるって決めてた」
「今もう昼だけど」
「じゃあ食べ終わるまで」
「その後は?」
「まだ決めてない」
父がさらに驚く。
「お前が?」
「何その顔」
「熱でもあるのか」
「ない」
「仕事辞めた?」
「辞めてない」
「ならいい」
父は笑いながら店の奥へ戻った。
◇
昼食は特別な料理ではなかった。
根菜の煮込みと、焼いた薄い肉、昨日焼いた少し硬いパンである。
母は持ってきた香珠果を見ながら尋ねた。
「これ、どう食べるの?」
「鳥肉に合わせると美味しい」
「果物を?」
「西区の食堂でやってもらった」
「作り方覚えてる?」
「だいたい」
「じゃあ夕飯にやってみようか」
フェリスの耳が動いた。
「夕飯?」
「食べないの?」
「……」
昼で帰るつもりだった。
◇
「別に帰ってもいいよ」
母が言う。
「仕事があるなら」
「ない」
「じゃあ急ぐ理由ある?」
「ないけど」
「なら好きにしなさい」
以前なら「泊まっていけ」と強く言われることを想像していた。
実際には、母はそれ以上何も言わなかった。
父も自分の作業へ戻った。
誰もフェリスを椅子へ縛りつけたりしない。
それでも、昼食が終わった後に行き先がなくなると、やはり落ち着かなかった。
◇
「何か手伝う?」
フェリスが尋ねる。
「今日はいい」
母が答えた。
「荷物運ぶとか」
「ない」
「掃除」
「朝やった」
「店番」
「私がいる」
「じゃあ何するの」
「何もしなくていい」
「それが困るんだって」
母が少し笑った。
「昔から変わらないね」
「昔も?」
「小さい頃から、手が空くと店と工房を往復してたでしょう」
「覚えてない」
「こっちは覚えてる」
◇
フェリスは店の前の椅子へ座った。
母は店内で布を整理し、父は少し離れた工房で木槌を使っている。
自分だけ何もしていない。
最初の数分はひどく居心地が悪かった。
何度も立ち上がりそうになる。
「母さん」
「何?」
「何か話して」
「何について?」
「何でも」
「一年分あるよ」
「じゃあそれ」
母は近所の話を始めた。
隣の家の牛が柵を壊したこと。
幼い頃の友人が結婚したこと。
◇
途中で話が途切れた。
フェリスは次の話題を探そうとした。
しかし、母は特に困った様子もなく布を畳んでいる。
沈黙が続く。
数秒。
十数秒。
思っていたほど苦しくない。
「何?」
母が尋ねる。
「何でもない」
「じっと見てたから」
「黙っててもいいんだね」
「何が?」
「いや」
母は不思議そうだった。
◇
夕方が近づく頃、母は香珠果を使った鳥肉料理を作り始めた。
フェリスも味を見ながら、悠斗がしていたことを思い出して伝える。
「蜜は少しだけ」
「このくらい?」
「もう少し少なくてもいい」
「皮は?」
「香り強いからちょっと」
「配達人なのに詳しくなったね」
「食べたから」
「じゃあ次は自分で作りなさい」
「それはまた今度」
父も仕事を終えて戻ってきた。
◇
三人で夕食を食べた。
店で食べたものと同じ味ではない。
母の料理は少し甘く、香珠果も厚めに切られている。
それでも美味しかった。
「次の休みはいつ?」
父が尋ねる。
「まだ分からない」
「決まったら帰ってこい」
「毎回は無理」
「毎回なんて言ってない」
「じゃあ時々」
「理由なくても来ていいんだからね」
母が言う。
フェリスは少し困った顔をした。
「それ、まだ練習中」
「何が?」
「理由なく来ること」
◇
「今日は理由あったの?」
父が聞く。
「香珠果の配達」
「自分で持ってきただけだろ」
「最初は理由があった方がいいの」
「なら次も何か届けてくれ」
「そうする」
「そのうち手ぶらで来なさい」
母が笑う。
「そのうちね」
フェリスは答えた。
結局、その日は泊まることにした。
泊まると決めたのは夕食の後だった。
朝の時点では決めていなかった。
それでも、何も問題は起きなかった。
◇
翌朝、フェリスは朝食を食べてからレーヴェンへ戻った。
帰路も仕事の時ほど急がなかった。
途中で一度休憩し、前を歩く旅人を追い越さなかった。
それでも夕方には十分街へ着いた。
翌日からはまた配達の仕事へ戻る。
急ぎの荷物なら走る。
道が空いていれば近道を使う。
配達先が多い日は、以前と同じように忙しく街を駆け回る。
仕事を嫌いになったわけではない。
むしろ、一日離れてみるとやはり好きなのだと分かった。
◇
数日後、配達の合間に二十分ほど空き時間ができた。
以前なら組合へ戻り、追加の依頼を探していた。
その日、フェリスは《持ち込み食堂》へ入った。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが迎える。
「今日は何を持ってきたんです?」
「何も」
「食事?」
「もう食べた」
「じゃあ?」
「水だけください」
ミレイアが少し驚く。
「休憩?」
「たぶん」
「何分?」
フェリスがすぐに答えかけ、止まった。
「それ測ったら仕事みたいになるから言わない」
◇
「成長しましたね」
「その言い方やめて」
フェリスは窓際の席へ座った。
水を一杯飲む。
外では配達人が一人走っていった。
耳が反応する。
それでも立たない。
「実家どうでした?」
ミレイアが尋ねる。
「泊まった」
「すごい」
「皆それ言うね」
「何もしない時間あった?」
「かなり」
「どうだった?」
「最初は落ち着かなかった」
「最後は?」
「少し慣れた」
◇
「次も帰る?」
「行く」
「香珠果持って?」
「次は別のものにする」
「やっぱり配達理由いるんだ」
「最初はね」
「そのうちは?」
「手ぶらでも行くかもしれない」
「かもしれない?」
「それくらいでいいの」
フェリスは水を飲みながら笑った。
予定の空白を全て埋める癖が消えたわけではない。
休日になれば今でも朝から用事を考える。
組合の前を通れば、依頼が残っていないか気になる。
それでも、以前より一つだけ違うことがあった。
◇
予定がない時間を、すぐに失敗だと思わなくなった。
何もしていないから無駄なのではなく、次に何をしたいのかがまだ決まっていない時間として、そのまま置いておける時が少しだけ増えた。
仕事が好きなら働けばいい。
配達を頼まれ、走りたいと思えば走ればいい。
ただ、止まることが怖いから仕事を増やすのではなく、自分がやりたいから仕事を選べる方が、フェリスには心地よかった。
店内の時計代わりに置かれた砂時計へ、フェリスは一度だけ視線を向けた。
次の配達へ出るには、まだ少し早い。
「もう行く?」
ミレイアが尋ねる。
「まだ」
◇
「珍しい」
「早く出ても届け先が開いてないから」
「それだけ?」
フェリスは少し考えた。
「今はここにいたいから」
ミレイアはそれ以上何も言わなかった。
フェリスも次の予定を口にせず、窓の外を眺めた。
しばらくすると、ちょうど出発してよい時間になった。
フェリスは水の代金を払い、椅子から立ち上がる。
「また来る」
「配達がなくても?」
「なくても」
「何しに?」
「座りに」
ミレイアが笑った。
◇
店を出たフェリスは、次の届け先がある中央区へ向かった。
今度は走る。
届けるべき荷物があり、待っている相手がいるからだった。
街角を曲がり、人波の間を抜け、いつもの軽い足取りで石畳を進む。
以前と同じ仕事で、以前と同じ道を走っている。
けれど、自分が止まれないから走っているのではなく、今はこの配達をしたいから走っているのだと思えるだけで、足取りの意味が少しだけ違って感じられた。
フェリスは次の届け先の看板を見つけると速度を上げ、自分で選んだ行き先へ向かって、今度は立ち止まることを怖がらずに走っていった。
●評価●ブックマーク●アクション●感想待ってます!
読者様が応援してくれると嬉しいです!




