第6話 傷んだ野菜と、ただ飯を嫌う少年
ルカ・ベルは十二歳になる人間の少年であり、レーヴェン西区の外れにある孤児院で暮らしていた。痩せた身体に何度も継ぎ当てられた服を着て、茶色の髪は自分で切っているため左右の長さが少し違い、靴も踵の部分を布で補修して使い続けている。
年齢のわりに顔つきは少し大人びており、初対面の相手へ愛想よく笑うことは少ない。誰かから物をもらう時には、喜ぶより先に「何を返せばいいのか」と考える癖があり、そのため周囲からは遠慮深い子どもと思われることもあった。
しかし、ルカ自身は遠慮しているつもりではない。
何かをもらったなら、その分だけ自分も働くべきだと考えているだけだった。
彼が孤児院へ入ったのは七歳の時である。
父親は荷運びの仕事をしており、母親は市場で野菜を売る店を手伝っていたが、流行病が重なった年に二人とも短期間のうちに亡くなった。近くに引き取れる親族もいなかったため、ルカは当時五歳だった妹と一緒に孤児院へ預けられた。
ところが、その妹も翌年の冬を越すことができなかった。
薬も食事も与えられた。
孤児院の者たちが放置したわけではない。
それでも、幼い身体は持たなかった。
その経験が、ルカの中に「食べられる時に食べるべきだ」という考えを残してもよさそうなものだったが、実際には少し違う形で残った。
◇
妹が生きていた頃、ルカは自分のパンを何度も半分に割って渡していた。
妹の方が小さい。
身体も弱い。
だから自分より多く食べた方がいいと思っていた。
孤児院の大人たちは、ルカにもきちんと食べるよう何度も言ったが、本人は空腹を我慢すればその分だけ妹が少し楽になると思っていた。
妹が亡くなったあとも、その癖だけが残った。
年下の子どもが腹を空かせていれば、自分の分を渡す。
余分なパンがあれば、自分より先に小さな子へ回す。
自分が食べなくても、倒れない程度なら問題ないと思っていた。
そしてもう一つ、誰かから無条件で食事を渡されることを強く嫌うようになった。
◇
理由の一つは、孤児院へ来た直後に経験した教会での食事だった。
教会では月に何度か、困窮者や孤児へ無料で温かい食事を配っていた。
悪意のあるものではない。
それどころか、寒い季節には多くの者がその食事に助けられていた。
ルカも孤児院の大人に連れられ、何度かそこで食べた。
ただ、食べ終えた後に司祭から「また困ったらおいで」と言われるたび、ルカは妙に落ち着かなくなった。
何も働いていない。
何も返していない。
それなのに食事をもらった。
相手は見返りなど求めていなかったが、ルカには「返せないものを受け取った」という感覚だけが残った。
◇
そのため十歳を過ぎる頃には、市場で小さな仕事を探すようになった。
荷箱を運ぶ。
散らばった野菜を拾う。
閉店後の掃除を手伝う。
使い終えた布袋を畳む。
仕事の対価として銅貨をもらえることもあれば、売り物にならない野菜や、一日経って硬くなったパンを渡されることもある。
ルカはそういう食べ物なら受け取れた。
働いたからもらった。
何を返したのかが分かる。
その関係なら安心できた。
市場の商人たちも、最初はただの痩せた孤児として見ていたが、頼んだことを忘れず、約束した時間にも比較的きちんと来るため、少しずつ仕事を頼む者が増えていった。
◇
その日の昼過ぎ、ルカは市場から孤児院へ戻る途中だった。
背中には古い布袋を背負っている。
中には、売り物にならなくなった野菜がいくつか入っていた。
葉の端が黒くなり始めた《朝雫菜》。
表面に深い傷が入った《黄芋》。
形が小さすぎて店頭へ出せなかった《根玉葱》。
どれも完全に腐っているわけではない。
悪い部分を切れば食べられると市場の店主から言われ、閉店準備を手伝った対価としてもらったものだった。
ところが西区の路地へ入ったところで、布袋の底が突然破れた。
「うわっ」
黄芋が一つ転がる。
根玉葱も二つ、石畳の上へ落ちた。
ルカは慌ててしゃがみ込んだ。
◇
「大丈夫?」
すぐ近くから声がした。
顔を上げると、《持ち込み食堂》の前にミレイアが立っていた。
「触らなくていい」
ルカは反射的に言った。
「でも転がってるよ」
「俺のだから」
「取らないって」
ミレイアは少し呆れながらも、近くへ転がった黄芋を足で止めた。
「袋、破れてるけど」
「分かってる」
「紐あるよ」
「いらない」
「無料でくれるって言ってるんじゃなくて」
「じゃあいくら?」
「紐一本でお金取らないよ」
「ならいらない」
ルカは落ちた野菜を腕の中へ集めた。
◇
そのやり取りを店の中から見ていた悠斗が外へ出てきた。
「どうした?」
「袋が破れたみたい」
ミレイアが答える。
「紐いらないって」
「いくらならいい?」
悠斗がルカへ尋ねる。
「銅貨はあんまり持ってない」
「じゃあ、店の裏に空箱が五つあるから、それを中へ運んでくれたら紐と交換する?」
ルカが顔を上げた。
「仕事?」
「五箱運ぶだけ」
「本当にそれでいい?」
「俺がやる予定だったから」
「重い?」
「空だから軽い」
ルカは少し考えたあと、頷いた。
「やる」
◇
空箱は店の裏口近くに積まれていた。
ルカは一つずつ店内の倉庫へ運ぶ。
本当に空だったため、それほど時間はかからない。
五箱目を所定の場所へ置くと、悠斗が新しい紐を取り出した。
「これで約束分」
「袋直すのは自分でやる」
「できる?」
「いつもやってる」
ルカは破れた布袋の底を折り込み、紐を通して簡単に縛った。
きれいな修理とは言えないが、野菜を入れて運ぶ程度なら問題なさそうだった。
「器用だね」
ミレイアが言う。
「破れるたび直してるから」
「新しい袋買わないの?」
「まだ使える」
◇
悠斗の視線が、地面から拾われた朝雫菜へ向いた。
「それ、食べるの?」
「食べられるところは」
「かなり傷んでない?」
「黒いところ切れば大丈夫って言われた」
「誰に?」
「市場の野菜屋」
「何日前の?」
「今日もらった」
「見てもいい?」
ルカが警戒する。
「何で?」
「食べられそうな部分がどのくらいあるか気になって」
「料理人?」
「一応」
ルカは店の看板を見た。
《あなたの食材、料理します。》
◇
「この店、持ってきたもの料理するんだろ」
「そう」
「こんなのでも?」
「食べられる状態なら」
「金かかる?」
「調理代はもらう」
「じゃあ無理」
ルカはすぐ答えた。
「今持ってない?」
「使う予定の金がある」
「なら無理に使わなくていいよ」
悠斗はあっさり言った。
ルカは少し意外そうな顔をした。
「食べさせるって言わないの?」
「何で?」
「子どもだから」
「客じゃないなら勝手に料理できないし」
◇
「でも、その野菜は少し気になる」
「何が?」
「食べられないところまで持って帰ると、孤児院で切るの大変じゃない?」
「俺がやる」
「じゃあ問題ない?」
「うん」
悠斗は一度頷き、それから尋ねた。
「市場って、朝早く開く店どこ?」
「何で?」
「買い出しに使いたい」
「教えたら何かくれる?」
「情報代ってこと?」
「仕事なら」
悠斗は少し考えた。
「じゃあ、この野菜を見て安全そうな部分と捨てた方がいい部分を分ける代わりに、朝早く開く店を三軒教えてくれる?」
ルカはしばらく悠斗を見る。
◇
「それで同じ?」
「俺は市場の情報欲しい。ルカは野菜見てほしい?」
「別に自分でもできる」
「じゃあいらない?」
「……でも見てもらう」
「なら交換成立?」
「うん」
ルカは修理した袋から野菜を出した。
悠斗は朝雫菜から確認した。
葉の端が黒くなっているものは広めに切り落とす。
中心まで柔らかく崩れている葉は使わない。
黄芋は傷の周辺を少し深めに削れば中は問題なさそうだった。
根玉葱は小さいだけで、傷みはほとんどない。
「これは普通に使えます」
悠斗が言う。
◇
「朝雫菜は?」
「半分くらいかな」
「全部食べられない?」
「俺なら黒く柔らかくなってるところは外す」
「もったいない」
「食べて腹壊した方がもったいなくない?」
「……それは困る」
「孤児院に他の子もいるんでしょ」
「いる」
「じゃあ余計に」
ルカは少し不満そうだったが、捨てる部分を別へ分けた。
「市場の店は?」
「東入口の《青葉籠》が一番早い。次が角の爺さんの芋屋。その向かいの豆屋も朝鐘より前に開いてることある」
「助かる」
「これで終わり?」
「約束分は」
◇
ルカは野菜を袋へ戻した。
帰ろうとしたところで、店内から料理の匂いが流れてきた。
鳥肉を焼く匂いだった。
ルカの足が一瞬止まる。
「腹減ってる?」
ミレイアが聞く。
「別に」
その直後、腹が小さく鳴った。
ミレイアが笑いそうになり、ルカが睨む。
「笑うな」
「笑ってない」
「顔が笑ってる」
「ちょっとだけ」
「帰る」
ルカが歩き出そうとする。
◇
「今日、朝飯食べた?」
悠斗が聞く。
「パン」
「昼は?」
「まだ」
「孤児院で食べる?」
「この野菜持って帰る」
「じゃあそれまで何も食べない?」
「平気」
「夕方まで?」
「慣れてる」
「慣れてるのと平気なのは違うと思うけど」
「ただで飯出すって言うならいらない」
ルカの声が少し強くなった。
「言ってないよ」
「大人はすぐそうする」
「どんな?」
「かわいそうだから食べろって」
ルカは少し苛立ったように答えた。
◇
「嫌なの?」
ミレイアが尋ねる。
「嫌」
「何で?」
「返せないから」
「返さなくていいって言われても?」
「それが嫌なんだ」
「借りみたいに感じる?」
「……そう」
ルカは少し考え、言葉を探した。
「ただで何かもらうと、返せない感じがする」
「相手が返さなくていいって言っても?」
「俺が気になる」
ミレイアはそれ以上「もらえばいい」とは言わなかった。
「じゃあ仕事なら食べられる?」
「仕事した分なら」
「さっきの箱みたいに?」
「うん」
◇
悠斗は少し考えた。
「今日はもう、店で頼める仕事ないな」
ルカが意外そうに見る。
「作ればいいじゃん」
「必要ない仕事を作って飯と交換するの?」
「駄目?」
「俺は嫌かな」
「何で?」
「ルカが仕事の対価で食べたいなら、本当に役に立つ仕事の方がいいでしょう」
「じゃあ今日は?」
「今日はなし」
ルカは少し黙った。
「本当に飯くれないんだ」
「仕事ないから」
「変な大人」
「よく分からないけど、たぶん褒められてないね」
◇
「でも、明日の朝なら仕事ある」
悠斗が続ける。
ルカの目が動いた。
「何?」
「市場の値段を見てきてほしい」
「値段?」
「朝雫菜、黄芋、根玉葱、それから肉や卵で安いもの。あと、売れ残りそうなものとか、珍しい食材があったら教えて」
「買い出し?」
「俺が毎朝全部回るより、市場を知ってる人に見てもらった方が早い」
「いくら?」
「銅貨三枚」
ルカの表情が少し変わった。
「本当に?」
「情報がちゃんとしてれば」
「何時まで?」
「朝の鐘が鳴って少しした頃」
「紙は?」
「書ける?」
「数字と店の名前くらいなら」
◇
「じゃあこれ使って」
悠斗は小さな紙と炭筆を渡した。
「これも仕事道具?」
「貸すだけ」
「なくしたら?」
「その時は相談」
「銅貨から引く?」
「なくした理由による」
「理由?」
「わざと捨てたなら困る。でも普通に落としたなら、次からなくさない方法考える」
「それでまた雇う?」
「仕事がちゃんとしてれば」
「一回間違えたら?」
「値段間違えた?」
「例えば」
「適当に見たなら次は頼まないかもしれない。でもちゃんと見て間違えたなら、どうして間違えたか確認する」
◇
「間違えてもいいの?」
「よくはない」
「じゃあ?」
「真面目にやった上で間違うのと、適当にやるのは違うでしょ」
ルカはしばらく黙った。
「明日やる」
「じゃあ頼む」
「銅貨三枚、本当に払う?」
「払う」
「値段見るだけなのに?」
「俺が市場歩く時間が減るから」
「俺、いつも市場いる」
「それでも俺にとっては価値あるよ」
ルカは紙と炭筆を慎重に袋へ入れた。
「分かった」
◇
翌朝、ルカは普段より少し早く孤児院を出た。
市場へ着くと、いつも仕事を手伝っている店へ顔を出しながら、悠斗に頼まれた値段を確認していく。
朝雫菜は《青葉籠》が安い。
黄芋は西側の店より東入口の方が少し安かった。
根玉葱は値段に大きな差がない。
さらに市場の奥では、皮に大きな傷が入った《香珠果》を安くする相談がされていた。
果実自体は食べられそうだが、見た目が悪いため夕方まで売れなければさらに値下げするらしい。
別の豆屋では、《夜露豆》という見慣れない暗い青色の豆が少量だけ入荷していた。
「それ何?」
ルカが尋ねる。
「南から来た商人が置いてった」
「食える?」
「煮れば食えるらしい」
「いくら?」
店主が値段を教える。
◇
ルカは紙へ書き込んだ。
文字は少し歪んでいたが、店名と値段は読める。
朝鐘が鳴ったあと、《持ち込み食堂》へ向かった。
「来た」
ミレイアが入口で言う。
「遅くない?」
「時間ぴったり?」
「少し早いくらい」
ルカは紙を悠斗へ渡した。
「朝雫菜は青葉籠が安い。黄芋は東入口。香珠果が傷ありで安くなりそう。あと夜露豆っていうのが入ってた」
「夜露豆?」
「青っぽい豆」
「値段は?」
「書いた」
悠斗が紙を見る。
◇
「ちゃんと全部ある」
「仕事だから」
「助かった」
悠斗は約束通り銅貨三枚を差し出した。
ルカは受け取る前に尋ねた。
「本当にいいの?」
「約束だから」
「俺、いつも市場行くついでだった」
「でも、そのついでに俺が欲しい情報集めたんでしょ」
「そうだけど」
「だったら仕事」
「時間そんなに増えてない」
「俺がやったらもっと時間かかる」
ルカは銅貨を受け取った。
何度か掌の上で確認する。
「三枚ある」
「疑ってた?」
「間違って二枚かもしれないから」
◇
「今日も仕事ある?」
「毎日同じ量はいらないかな」
ルカの表情が少し落ちた。
「でも二、三日に一回は頼みたい」
「本当に?」
「値段変わるし、変わった食材も見たいから」
「いつ来ればいい?」
「明後日の朝」
「分かった」
ルカは銅貨を袋へ入れようとした。
その時、厨房に置かれている昨日と似た傷野菜へ目を向けた。
「それ」
「何?」
「昨日俺が持ってたのと同じ」
「今朝買ってきた」
「傷んでる」
「傷んでるところは外す」
悠斗が答える。
◇
「何作るの?」
「朝雫菜と黄芋を卵で煮ようかなと」
「美味い?」
「まだ作ってない」
「俺の昨日の野菜でもできた?」
「状態が同じなら」
ルカは少し考えた。
「今、調理代いくら?」
「食材持ち込みなら、このくらい」
悠斗が値段を伝える。
ルカは銅貨三枚を見た。
「俺の野菜、まだ孤児院にある」
「昨日食べなかったの?」
「全部は使わなかった」
「どのくらい?」
「黄芋二つと根玉葱一つ、朝雫菜も少し」
「状態悪くなってなければ使えるかも」
◇
「卵代もいる?」
「卵を店のもの使うなら」
「全部で?」
悠斗が計算する。
ルカは銅貨を数えた。
「払える」
「でも全部使うと今日の稼ぎかなり減るよ」
「俺の金だろ」
「そうだね」
「じゃあ使う」
「孤児院に取りに戻る?」
「うん」
「持ってきたら状態もう一度見る」
「分かった」
ルカは店を飛び出した。
◇
一時間ほどして、布袋を抱えて戻ってきた。
昨日より朝雫菜の葉は少ししおれている。
悠斗は一枚ずつ確認し、傷んだところを切り落とした。
「ここは使わない」
「昨日より増えた?」
「一日経ったから」
「早く食べればよかった」
「そうですね」
「じゃあ、もらえるだけ持って帰るのも駄目?」
「食べきれないなら、結果的に捨てることはあるね」
ルカは少し考えた。
「市場で傷野菜もらう時、量見た方がいい?」
「使える分だけなら」
「たくさんもらえる方が得じゃない?」
「腐らせたら得?」
「……違う」
◇
黄芋の傷を深めに削り、根玉葱を切る。
朝雫菜は使える部分だけを細かく刻んだ。
悠斗は鍋で根玉葱を炒め、黄芋と少量の水を加えて柔らかく煮る。
そこへ朝雫菜を加え、最後に溶いた卵を流し入れた。
「汁が少しとろっとしてる」
ルカが鍋を覗く。
「黄芋が少し崩れたから」
「卵全部?」
「一個だけ」
「普通の卵?」
「そう」
「風走鳥じゃない?」
「毎回あんな大きいの使わないよ」
ルカには意味が分からなかったが、そのまま頷いた。
◇
「《傷野菜と卵のとろみ煮》です」
悠斗が皿を置いた。
ルカはすぐに匙を取らず、腰の袋から銅貨を出した。
「先に払う」
「食べた後でもいいよ」
「先」
「じゃあもらいます」
悠斗は調理代と卵代だけを受け取った。
残った銅貨はルカへ返す。
「これ、俺の?」
「そう」
「料理代払った?」
「払った」
ルカは残った銅貨を確かめてから、ようやく椅子へ座った。
◇
一口食べる。
黄芋は柔らかく崩れ、根玉葱には甘さがある。
朝雫菜には少し青い香りが残っているが、卵が全体をまとめていた。
市場でそのまま捨てられる可能性もあった食材とは思えない。
「うまい」
「よかった」
「これ、俺が払ったんだよな」
「そうだよ」
「仕事した金で?」
「そう」
ルカはもう一口食べた。
「店で食うの、初めて」
「食堂自体?」
「客としては」
「今までは?」
「運ぶ仕事の途中で、外でパン食うくらい」
◇
「孤児院のご飯は?」
「食べる」
「でも自分の分、他の子にあげたりする?」
ミレイアが尋ねた。
ルカの手が少し止まる。
「何で分かる」
「何となく」
「小さい奴の方が腹減るだろ」
「ルカも減るでしょ」
「俺は我慢できる」
「毎日?」
「慣れてる」
「さっきもその話してたね」
ミレイアは責めるようには言わなかった。
「自分の分食べると、誰かの分が減る感じする?」
ルカは少し黙った。
◇
「昔、妹にやってた」
「妹?」
「もういない」
それだけで、ミレイアは深く聞かなかった。
ルカは自分から少し続けた。
「俺より小さくて、よく熱出してた。だから俺のパンやってた」
「そうだったんだ」
「でも死んだ」
店内が少し静かになる。
「食べ物足りなかったからじゃないって言われた」
「うん」
「でも、俺が食うより妹にやった方がいいと思ってた」
「今も?」
「小さい子がいたら、そっちの方がいい気がする」
◇
悠斗が鍋を片づけながら言った。
「ルカが働けなくなったら?」
「何が?」
「朝市場行くのも、箱運ぶのもできなくなる」
「病気になったら?」
「空腹でもふらつくことあるでしょ」
「俺は大丈夫」
「本当に?」
「……たまに頭痛い」
「朝飯抜いた日?」
「多分」
「じゃあ食べた方が仕事できる?」
ルカは少し嫌そうな顔をした。
「自分のために食べろってこと?」
「仕事続けたいなら、食べるのも必要じゃないかな」
◇
「でも、小さい子が腹減ってたら?」
「ルカの分全部渡す以外にも方法あるんじゃない?」
「例えば?」
「孤児院の人に言うとか、明日の仕事を増やすとか」
「仕事増えるか分からない」
「それはそう」
「だったら俺のパン半分やった方が早い」
「一回ならね」
「毎日は?」
「ルカも足りなくなる」
ルカは皿を見た。
「自分が食べるの、贅沢みたいに感じる?」
ミレイアが尋ねる。
「贅沢っていうか」
ルカは言葉を探した。
「俺が食べた分、誰かにやれたのにって思う」
◇
「じゃあ、仕事する時に靴が破れたら?」
悠斗が尋ねる。
「直す」
「紐使う?」
「使う」
「その紐、他の誰かにも使えるよね」
「でも俺の袋直さないと仕事できない」
「食事も似てない?」
「……同じなの?」
「完全に同じじゃないけど、自分が働くために必要なものではあると思う」
ルカはしばらく考えた。
「食うのも仕事のため?」
「仕事だけじゃないけど、ルカにはその考え方の方が分かりやすいかなと思って」
「じゃあ、働かない日は?」
「普通に生きるために食べていいよ」
◇
ルカは顔をしかめた。
「それが分かりにくい」
「じゃあ今は、働くためでもいいんじゃない?」
「いいの?」
「食べないよりは」
悠斗は無理に考えを変えさせようとはしなかった。
「無料の食事を受け取れって言うつもりもないよ」
「本当?」
「ここでは、本当に仕事がある時は仕事と対価にする。ない時はないって言う」
「今日みたいに?」
「そう」
「飯が余ってても?」
「店として余ったものをどうするかは別の話だけど、ルカに渡すためだけに偽物の仕事は作らない」
ルカはゆっくり頷いた。
◇
それから十日ほど、ルカは数日に一度《持ち込み食堂》のために市場を回るようになった。
値段を見て、安くなりそうな食材を確認し、珍しいものがあれば名前と店を聞く。
最初は店主へ何度も細かい質問をしすぎ、ある商人から「仕事の邪魔だ」と注意された。
悠斗はそれを聞いて、次からは商売の邪魔をしない範囲で聞くよう伝えた。
「値段だけ見るなら、客の邪魔にならない時にして」
「分かった」
「珍しい食材も、忙しそうなら後で」
「聞けなかったら?」
「聞けなかったって報告でいい」
「仕事失敗?」
「無理に聞いて店の邪魔する方が困る」
◇
別の日には、ルカが約束の時間より遅れて来た。
「遅かった」
悠斗が言う。
「市場で荷車ひっくり返ってた」
「手伝った?」
「うん」
「それなら仕方ない?」
「仕事だから遅れたのは駄目だろ」
「連絡できなかったしね」
「次、どうする?」
「無理なら誰かに言伝頼む」
「それでいこう」
「今日の銅貨、減る?」
「情報はちゃんとあるし、今回は減らさない。でも遅れるのが続いたら考える」
「分かった」
ルカは怒られなかったことより、子どもだから許されたわけではないことに少し安心していた。
◇
市場の商人たちも、ルカが《持ち込み食堂》のために情報を集めていることを知り始めた。
「今日は何見てる」
八百屋の店主が尋ねる。
「傷野菜と安い根菜」
「傷んだのなら裏にあるぞ」
「全部はいらない」
「珍しいな」
「使える分だけでいい」
「前は何でも持って帰ってたろ」
「腐らせると得じゃない」
「誰に言われた」
「料理人」
店主が笑った。
「少し賢くなったな」
「前から賢い」
「そういうことにしとくか」
◇
ルカ自身の食事も、少しずつ変わっていた。
大きく変わったわけではない。
孤児院で自分の分を年下の子へ渡す日もまだあった。
ただ、全部を渡すことは減った。
パンが二つあれば一つは残す。
自分が朝から市場へ出る予定の日には、少なくとも何か一つ食べてから出るようにする。
それでも時々、幼い子から「少しちょうだい」と言われれば、反射的に全部渡しそうになる。
ある日の夜もそうだった。
ルカは翌朝のために、自分の賃金で一日経った安いパンを一つ買っていた。
◇
孤児院の食卓が終わったあと、七歳ほどの少年がそのパンを見つけた。
「ルカ、それ食べる?」
「明日の朝」
「ちょっとちょうだい」
以前なら、迷わず半分に割っていただろう。
ルカはパンを見た。
明日は市場へ行く。
東側から西側まで値段を見て回る予定だ。
朝食を抜けば、途中で腹が減る。
それでも、目の前の子どもが欲しがっている。
「……これは明日の俺の朝飯」
ルカが答えた。
少年が少し驚いた。
「くれないの?」
「今日はもう食べただろ」
「食べた」
「じゃあこれは俺の」
◇
言ったあと、胸の奥が少し痛んだ。
悪いことをした気がした。
けれど、少年は思ったほど傷ついた顔をせず、「そっか」と言って別の子のところへ行った。
ルカだけがしばらくパンを見ていた。
妹にパンを渡していた頃の記憶が浮かぶ。
もっと食べさせれば助かったのではないかという、もう答えの出ない考えも浮かんだ。
それでも、そのパンを誰かへ渡さなかったからといって、目の前の誰かが飢えるわけではない。
孤児院では今日の夕食も出ていた。
明日の朝、自分が食べるために残しておくことは、誰かから奪うこととは違う。
◇
翌朝、ルカはパンを全部食べた。
途中で半分残そうとも思った。
けれど、結局最後まで食べた。
市場へ向かう。
いつもより腹が重い気がしたが、歩き始めればすぐ気にならなくなった。
午前中の市場を一通り回っても、いつものような頭痛が起きなかった。
値段を書いた紙を見直す時も、少し考えやすい。
「本当に違うのか?」
ルカは自分でも半信半疑だった。
それでも、その日の報告を終えた時、悠斗へ言った。
◇
「今日、朝飯食った」
「そう」
悠斗はそれだけ答えた。
「全部」
「うん」
「何も言わないの?」
「何を?」
「偉いとか」
「自分の朝飯食べただけでしょ」
ルカは少しむっとした。
「前は食べてなかった」
「じゃあ前より仕事しやすかった?」
「少し」
「ならよかった」
「それだけ?」
「それだけ」
悠斗は次の買い出し表へ目を落とした。
◇
ルカは少し不満そうにしていたが、すぐにその反応が嫌ではないことに気づいた。
朝飯を食べたから特別な子どもとして褒められたわけではない。
かわいそうだから食べろと言われたわけでもない。
自分が働くために、自分で買ったパンを食べただけとして扱われた。
それなら、続けてもいい気がした。
「今日の仕事は?」
「根玉葱と卵の値段。それと、魚屋で小さい魚が余ってないか見てほしい」
「いくら?」
「いつも通り」
「分かった」
「昼までに?」
「間に合う」
「無理なら言伝」
「覚えてる」
◇
その日、仕事を終えたルカは、市場のパン屋の前で少し立ち止まった。
店頭には焼きたてのパンが並んでいる。
その横には、一日経って少し硬くなったものが安く置かれていた。
「また孤児院用か?」
店主が尋ねる。
「一つだけ」
「何人分だ」
「俺の」
「自分の?」
「明日の朝の」
店主は少しだけ驚いたが、何も言わずパンを渡した。
ルカは銅貨を払い、布袋へ入れた。
◇
これからも、誰かの助けを一切受けずに生きられるわけではない。
孤児院で暮らしている時点で、屋根も寝床も多くの人の手によって支えられている。
ルカ自身、そのことを頭では分かっている。
ただ、無条件の好意を素直に受け取ることはまだ難しかった。
だから今すぐ、その考えを無理に変える必要はないのかもしれない。
仕事があれば働く。
対価を受け取る。
必要なものを自分で買う。
そして、自分が明日も働けるように、その中から自分の食事も残す。
◇
市場から孤児院へ戻る途中、ルカは袋の中を一度確かめた。
今日もらった野菜は、食べ切れそうな分だけにしてある。
傷みが強いものは最初から断った。
銅貨も少し残っている。
袋の一番上には、明日のために買った少し硬いパンが入っていた。
以前なら、誰かが欲しがればすぐ渡していたかもしれない。
今でも絶対に渡さないと決めたわけではない。
誰かが本当に食べられずに困っていれば、自分の分を分ける日もあるだろう。
それでも、自分の朝食を残しておくことまで selfish だと思う必要はないと、ほんの少しだけ考えられるようになっていた。
ルカは明日の朝に食べるパンを布袋の一番上へ入れ、誰かへ渡すためでも、腹が限界になるまで取っておくためでもなく、自分が朝起きた時に食べるものとして大切に持ちながら、孤児院へ続く道を歩いていった。
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