第5話 大きな卵と、休めない治癒師
ユリア・セインは三十歳になる人間の治癒師であり、レーヴェン中央区にある中規模の治療院で、十年以上にわたって怪我人や病人の治療に携わっていた。淡い栗色の髪を肩の少し下まで伸ばしているが、仕事中は邪魔にならないよう後ろで一つにまとめ、白を基調とした治癒師服の袖も肘の辺りまで折り上げていることが多い。
背は高くなく、体格も華奢な方だが、魔力を使った治癒だけではなく、傷口の洗浄や包帯の固定、骨折した患者の身体を支えるような仕事も毎日こなしているため、見た目以上に体力はあった。
性格は真面目で責任感が強く、患者を前にすると自分の疲労や空腹を後回しにする癖がある。治療院では「ユリアに頼めば最後まで見てくれる」と信頼されている一方で、同僚たちからは「最後まで見すぎる」と注意されることも珍しくなかった。
ユリアが治癒師を目指したのは、家族に同じ仕事をしている者がいたからではない。
彼女はレーヴェン近郊の農村で、穀物を育てる両親のもとに生まれた。
子どもの頃から身体が特別丈夫だったわけでもなく、むしろ熱を出しやすい方だったため、村へ巡回してくる治癒師の世話になることが何度もあった。
熱で動けない時に水を飲ませてもらい、幼い弟が転んで額を切った時には傷を閉じてもらい、母親が出産で体調を崩した時には夜遅くまで診てもらった。
その姿に憧れたことが、最初のきっかけだった。
◇
十四歳になる頃には、ユリアには治癒術への適性があることが分かった。
村の治癒師から基礎を教わり、十六歳でレーヴェンへ出ると、治療院に住み込みながら本格的な技術を学んだ。
傷を塞ぐ魔術だけでは治療にならないことを知ったのも、その頃である。
汚れた傷を無理に閉じれば中で悪化する。
骨がずれたまま治癒術を使えば、間違った形で固まる。
血を失った患者に魔術だけを使っても、食事や水分、休養が足りなければ回復は遅れる。
だからユリアは、魔術そのものよりも、いつ何をするべきかを見極めることを大切にする治癒師になった。
若い頃から評判は悪くなかった。
特に出血を伴う傷や、体内の魔力循環を整える治療を得意としており、二十代半ばには年上の治癒師からも意見を求められるようになっていた。
しかし、その働き方には一つだけ大きな歪みが残っていた。
◇
九年前、まだ二十一歳だったユリアは、治療院で昼の休憩を取っていた。
その日は朝から患者が多く、簡単な擦り傷から高熱、荷車から落ちた骨折まで、何人もの治療が続いていた。
昼鐘が鳴った時点で急を要する患者はいなかった。
先輩治癒師からも「今のうちに食べてきなさい」と言われたため、ユリアは治療院を離れ、近くの食堂へ向かった。
それは規則違反でも、怠慢でもなかった。
他の治癒師も院内に残っていた。
ところが、ユリアが食事をしている最中に、工事現場で大怪我を負った男性が運び込まれた。
腹部を深く傷つけ、出血も激しかった。
◇
治療院に残っていた者たちも全力で処置した。
止血を行い、治癒術を使い、ユリアへ知らせるため人も走らせた。
しかし、ユリアが戻った時には、患者の状態はすでに悪化していた。
彼女は得意としていた魔力循環の補助と止血術を使った。
それでも間に合わなかった。
男性はその日のうちに亡くなった。
誰もユリアを責めなかった。
院長は何度も、あれはユリア一人の責任ではないと説明した。
昼休みに外へ出たことも規則通りで、他の治癒師もいた。
ユリアがその場に残っていたとして、本当に救えたかどうかも分からない。
本人も理屈では理解していた。
それでも、「自分が食事をしていた間に、必要とされる患者が来た」という記憶だけが強く残った。
◇
それ以降、ユリアは昼休みをまともに取らなくなった。
患者が少ない日は治療室の隅で硬いパンを急いで食べる。
混んでいれば食べない。
食事中でも呼ばれればすぐに戻る。
本当の緊急事態なら当然だったが、軽い切り傷や薬の受け取り程度でも、自分の名前を呼ばれると反射的に立ち上がるようになった。
同僚たちは何度も注意した。
「少し休んでください」
「それ、ティナでも診られます」
「午後まで何も食べていないでしょう」
ユリアはそのたびに「大丈夫」と答えた。
実際には、大丈夫ではなかった。
ここ数年で二度、仕事中に立ちくらみを起こして倒れている。
それでも習慣は変えられなかった。
◇
そんなユリアの後輩として同じ治療院で働いているのが、ティナ・アルベルだった。
ティナは二十五歳になる人間の治癒師で、明るい茶色の髪を顎の辺りで切り揃え、丸い眼鏡を使うことがある。ユリアより五歳若く、治療師としての経験も短いが、観察力があり、患者の表情や呼吸、痛みの変化を丁寧に見ることを得意としていた。
治癒術の出力だけならユリアに及ばない。
その代わり、軽傷者の処置や回復期の患者を見ることには慣れており、最近では治療院の中でも一人で任せられる仕事が増えている。
ティナ自身は商人の家に生まれたが、幼い頃に兄が重い怪我を負った際、長い回復期間を支えてくれた治癒師へ憧れてこの道を選んだ。
彼女はユリアを尊敬していた。
同時に、ユリアの働き方だけは真似したくないとも思っていた。
◇
「ユリアさん、昼食べました?」
ある日の午後、ティナが尋ねた。
「まだ」
「朝は?」
「お茶だけ」
「それ、食べたって言いません」
「今は患者が落ち着いてるから、あとで」
「その《あとで》が夕方になるんです」
「分かってる」
「分かってないですよね」
ティナは少し呆れた。
「今日の午後は私もいます」
「でも何かあったら」
「重症なら呼びます」
「軽症でも判断に迷うことがあるでしょう」
「その時も呼びます」
「なら結局」
「だから、全部最初からユリアさんがいる必要はないって言ってるんです」
◇
ユリアは答えず、机の上に置かれた記録へ視線を戻した。
「また聞いてないふりしてる」
「聞いてる」
「じゃあ食べてください」
「食欲がない」
「空腹が長すぎるとそうなるんです」
「患者に言うみたいに言わないで」
「患者ならもっと厳しく言います」
ティナはため息をついた。
「せめて今日は、これ持って帰って食べてください」
そう言って差し出したのは、淡い青灰色の大きな卵だった。
普通の鶏卵とは比べものにならない。
両手で持ってようやく安定するほどの大きさがある。
◇
「《風走鳥》の卵?」
「はい」
風走鳥は、レーヴェン周辺の牧場でも飼育されている大型の鳥である。
脚が速く、野生個体は人間が走って追いつけないほどの速度で草原を移動する。
家畜化された個体は肉や羽、卵を得るために飼われており、治療院でも裏手の小さな飼育場で数羽を育てていた。
「今日産んだ分?」
「一つ余ったんです」
「患者用に使わないの?」
「今週分は足りてます」
「なら皆で食べれば」
「ユリアさんが持って帰ってください」
「どうして私だけ」
「自分で料理すれば、少なくとも食べるでしょう」
ティナの読みは半分だけ当たっていた。
◇
ユリアは料理が不得意ではない。
ただし、仕事を終えて家へ戻った頃には疲れており、最近は火を使うことさえ面倒になっていた。
「これ、大きすぎる」
「三、四人分くらいあります」
「一人で食べきれない」
「何回かに分けてください」
「傷むでしょう」
「じゃあ食堂で料理してもらえばいいじゃないですか」
「食堂?」
「西区に持ち込みを料理してくれる店があるって聞きました」
ユリアは少し考えた。
「今から?」
「今からです」
「仕事中だけど」
「勤務終わりましたよ」
「記録が」
「私が残りをまとめます」
ティナはそこで譲らなかった。
◇
結局、ユリアは風走鳥の卵を持って治療院を出た。
昼食どころか、朝からほとんど何も口にしていない。
空腹の感覚はすでに薄くなり、代わりに身体全体が重かった。
西区へ着いた時には、日が傾き始めている。
《持ち込み食堂》
看板を確認して扉を開く。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが声をかけた。
「持ち込みですか?」
「はい」
ユリアは大きな卵を卓へ置いた。
「随分大きいですね」
「風走鳥の卵です」
「食べられる?」
「もちろんです」
「悠斗さん呼びますね」
◇
厨房から出てきた悠斗は、卵を両手で持ち上げた。
「重い」
「三、四人分あります」
「一人です?」
「はい」
「全部料理する?」
「できれば」
「食べきれます?」
「……たぶん」
その返事と、ユリアの顔色を見比べた悠斗が少し眉を寄せた。
「今日何か食べました?」
「どうしてそんなことを?」
「顔色悪いので」
「仕事が忙しかっただけです」
「昼は?」
「まだ」
「朝は?」
「お茶を」
「それは食事じゃないですね」
◇
「給仕の人にも同じこと言われそうですね」
ミレイアが横から言う。
「治療院でも言われました」
「じゃあ皆同じこと思ってるんですね」
「私は治癒師です」
「それと食事するかどうか関係あります?」
ユリアは答えに詰まった。
「体調悪い?」
悠斗が尋ねる。
「病気ではありません」
「ふらつく?」
「少し」
「なら先に水飲んでください」
悠斗はコップを差し出した。
ユリアは反論する気力もなく、素直に受け取った。
◇
「卵の安全な食べ方は?」
悠斗が改めて尋ねる。
「普通の卵とほぼ同じです。ただし生食はしません」
「殻に毒とかは?」
「ありません」
「黄身と白身の比率は?」
「黄身が多めです」
「味は濃い?」
「普通の鳥卵より少し」
「じゃあ厚焼きみたいにしようかな」
「厚焼き?」
「卵に具を入れて、厚く焼く料理です」
「それなら食べやすそうですね」
悠斗は黄芋、根玉葱、乳酪、少量の香草を用意した。
◇
風走鳥の卵は殻が厚く、普通に卓の角へ当てただけでは割れなかった。
「硬いですね」
「野生では外敵も多いので」
「叩いていい?」
「中まで割らなければ」
悠斗は包丁の背を使い、殻へ少しずつ亀裂を入れた。
ようやく開くと、中から濃い黄色の黄身と大量の白身が流れ出す。
「本当に大きい」
ミレイアが覗き込む。
「一人で食べる量じゃないですね」
「だから余った分は持ち帰ればいいですよ」
悠斗が言う。
「持ち帰れる?」
「火を通して、早めに食べるなら」
ユリアは頷いた。
◇
黄芋は先に柔らかく茹で、小さく切る。
根玉葱はじっくり炒めて甘さを出す。
卵には乳酪と塩を加え、さらに乾燥香草を少しだけ混ぜた。
「野菜も入れるんですね」
ユリアが尋ねる。
「卵だけだと重そうなので」
「黄芋も?」
「腹持ちよくしたいです」
「私のため?」
「今腹減ってるなら、その方がいいかなと」
「そこまでしなくても」
「じゃあ何がいいです?」
「……そのままで」
ユリアは諦めたように答えた。
◇
大きな鉄鍋へ卵液を流し入れる。
最初は強すぎない火で底を固め、途中から蓋をして中までゆっくり熱を通す。
表面だけが焦げないよう火を調整しながら、何度か位置も変える。
「治癒師さんなんですか?」
ミレイアが尋ねた。
「はい」
「大変?」
「仕事なので」
「それ答えになってます?」
「よく言われます」
ミレイアが笑った。
「患者さん多いんですか?」
「日によります」
「今日は?」
「多かったです」
「それで朝から食べてない?」
「そうです」
◇
「治癒師さんなら、食べないと倒れるって分かりますよね」
「分かっています」
「じゃあ何で?」
ミレイアの問いに、ユリアは少し黙った。
「癖です」
「どんな?」
「患者がいる時に、自分だけ休むのが落ち着かないんです」
「患者がいない時は?」
「いるかもしれないと思います」
「ずっと?」
「治療院なので」
「じゃあ永遠に休めないですね」
ミレイアは悪気なく言った。
ユリアは返す言葉を失った。
◇
悠斗は調理を続けながら聞いていた。
「休んでる間に何かあったことあるんです?」
ユリアの指が少し止まった。
「あります」
「それが原因?」
「……たぶん」
「話したくなければいいですけど」
「いえ」
ユリアは水を一口飲んだ。
「九年前のことです」
そして、昼休みに外へ出ていた時に重傷者が運び込まれ、その患者が亡くなったことを話した。
誰にも責められなかったことも。
自分がいたとして助けられたか分からないことも。
◇
「それでも、食べていた時に起きた」
ユリアが言う。
「だから休まなくなった?」
ミレイアが尋ねる。
「完全には休まなくなったわけではありません」
「でも食べない?」
「短く済ませます」
「今日みたいに?」
「……今日は少し忙しすぎました」
「いつもは?」
「似たようなものです」
ユリアは自分で言ってから、少し苦笑した。
「説得力がありませんね」
「ないですね」
ミレイアが即答した。
◇
「他の治癒師さんいるんですよね」
悠斗が尋ねる。
「います」
「ユリアさんしかできない治療もある?」
「あります」
「全部?」
「いいえ」
「じゃあ、ユリアさんじゃなくてもいい患者もいる?」
「もちろんです」
「なのに全部呼ばれたら行く?」
「自分の方が早い時があります」
「早いのと、必要なのは同じです?」
ユリアは黙った。
「それ、治療院でも言われました」
「誰に?」
「後輩のティナに」
◇
「どんな人です?」
ミレイアが聞く。
「二十五歳の治癒師です。軽傷や回復中の患者を見るのが上手で、最近はかなり任せられるようになりました」
「じゃあ任せれば?」
「任せています」
「食事中に軽傷来たら?」
「私も見ます」
「それ任せてないんじゃ」
「ティナも見ます」
「二人でやる必要ある?」
ユリアはまた答えられなかった。
「私がいた方が早く終わることもあります」
「でも、その分ユリアさんが食べられない?」
「はい」
「それで倒れたら?」
ミレイアが尋ねた。
◇
「二回ほどあります」
「二回?」
ミレイアの声が大きくなった。
「軽い立ちくらみです」
「倒れたって言いましたよね?」
「大事にはなりませんでした」
「患者ならどうします?」
悠斗が聞く。
「何が?」
「朝から食べずに働いて、二回倒れた患者が《大事じゃない》って言ったら」
ユリアはしばらく悠斗を見た。
「食事と休養を取るよう言います」
「自分には?」
「……言いません」
「何で?」
「治癒師だからでしょうか」
「人間じゃない?」
「人間です」
◇
ミレイアが少し笑った。
「自分で言ってるじゃないですか」
「患者と治癒師では立場が違います」
「身体は?」
「同じです」
「じゃあ食べないと?」
「弱ります」
「魔力使うなら?」
「消耗します」
「それでも食べない?」
ユリアは小さく息を吐いた。
「こうして言葉にすると、随分おかしいですね」
「普段考えない?」
「考える前に動いています」
◇
厚焼きの表面が固まり始める。
悠斗は火を弱くし、中心までじっくり熱を入れた。
「急に毎日一時間休むとか、できそうです?」
悠斗が尋ねる。
「無理だと思います」
「じゃあ何なら?」
「何がでしょう」
「最初に変えられそうなこと」
ユリアは少し考えた。
「昼に食事を取る」
「どのくらい?」
「二十分くらいなら」
「その間に患者来たら?」
ユリアの表情がまた固くなる。
「重症なら戻ります」
「軽症なら?」
「……ティナに任せる」
◇
「どこからが重症?」
ミレイアが尋ねる。
「大量出血、呼吸が苦しい、意識がない、急激な状態悪化」
「他は?」
「高熱でも意識がはっきりしているなら、まず他の治癒師が診られます」
「切り傷は?」
「浅ければ任せられます」
「打撲は?」
「状態次第ですが、最初の確認はティナでもできます」
「じゃあ基準あるんですね」
「あります」
「今まで使わなかった?」
「患者のためには使っています」
「自分の休憩には?」
「使っていませんでした」
ユリアは自嘲気味に笑った。
◇
「それ使えばいいんじゃないですか」
悠斗が言う。
「簡単に言いますね」
「細かい治療のこと分からないので」
「でも、考え方は間違っていないと思います」
「ティナさんにも相談する?」
「そうします」
「明日から?」
「……明日から」
ユリアは少し不安そうだった。
「怖いです」
「何が?」
「食べている間に、また同じような患者が来ることが」
「来る可能性はあるんですよね」
「あります」
「じゃあ怖くなくなるまで待ったら?」
「たぶん一生休めません」
「なら怖いままやるしかない?」
ユリアは静かに頷いた。
◇
厚焼きが完成した。
大きな卵を使ったため、鍋いっぱいの厚みがある。
悠斗はそれを切り分け、黄芋と根玉葱が見えるよう皿へ盛った。
「《風走鳥の卵と黄芋の厚焼き》です」
「随分大きい」
「これでも一人分だけ切りました」
「残りは?」
「冷まして持ち帰れます」
「治療院で食べてもいい?」
「保存気をつければ」
「ティナにも渡します」
「自分の分残してくださいよ」
「……はい」
ユリアは苦笑した。
◇
一口食べると、濃い卵の味の中に黄芋の柔らかな甘さと根玉葱の香りが混ざっている。
乳酪が卵の濃さをさらに支え、香草が後味を少し軽くしていた。
「美味しいです」
「よかった」
「お腹空いてました?」
ミレイアが聞く。
「食べ始めたら分かりました」
「かなり?」
「かなりです」
「それ、身体が言ってたんじゃ」
「聞いていませんでした」
ユリアはもう一口食べた。
食事を進めるほど、自分がどれだけ空腹だったかが分かってくる。
◇
「治癒師なのに」
ユリアが呟いた。
「自分の身体は見ないんですね」
「患者を見ることには慣れているんです」
「じゃあ自分も患者みたいに見れば?」
ミレイアが言う。
「そんな簡単には」
「食べてない、ふらつく、二回倒れた」
ミレイアが指を折る。
「治癒師さんならどう診ます?」
「栄養不足と疲労を疑います」
「治療は?」
「食事と休養を取らせます」
「ほら」
ユリアは思わず笑った。
「あなた、容赦がないですね」
「よく言われます」
◇
「でも、休めば九年前のことを忘れるわけではありません」
ユリアが言った。
「忘れなくてもいいんじゃないですか」
悠斗が答える。
「でも」
「覚えてることと、毎回食べないことって同じです?」
「……違うと思います」
「じゃあ、忘れないために食べない必要はない?」
ユリアはしばらく考えた。
「頭では分かっています」
「身体は?」
「たぶん、まだ分かっていません」
「なら一回ずつやるしかないですね」
「また簡単に」
「料理人なので」
ユリアは少し笑った。
◇
食事を終えた頃には、顔色も来店時より少し良くなっていた。
「残り持って帰ります?」
悠斗が尋ねる。
「はい」
「何食分に分けます?」
「二つ」
「一つはティナさん?」
「そうしようと思っていました」
「もう一つは?」
「私が明日の昼に」
「本当に?」
「……たぶん」
「明日の昼に食べるなら、ちゃんと冷やしてください」
「分かっています。治療院には保存庫があります」
「じゃあ大丈夫」
ユリアは包みを受け取った。
◇
翌日、昼鐘が鳴る少し前。
治療院では午前の患者がようやく落ち着いていた。
ユリアはいつもの癖で、午後の記録を先に整理しようとした。
「ユリアさん」
ティナの声がする。
「何?」
「昼です」
「もう少しだけ」
「昨日なんて言いました?」
ユリアが振り返る。
「どうして知ってるの?」
「何を?」
「私が何か決めたこと」
「顔に書いてあります」
「そんなわけないでしょう」
「それと、その包み」
ティナが机の端を見る。
◇
「昨日の卵ですか?」
「料理してもらいました」
「食べた?」
「食べました」
「すごい」
「そこまで?」
「朝も?」
「今日は食べた」
「もっとすごい」
「あなた、私を何だと思ってるの」
「自分を患者より雑に扱う治癒師です」
ユリアは反論できなかった。
「昼も食べますよね」
「そのつもり」
「その間の患者、どうします?」
「決めたいことがある」
ユリアはティナへ向き直った。
◇
「昼休憩中でも、大量出血、呼吸困難、意識障害、急激な悪化があるならすぐ呼んで」
「はい」
「それ以外は、まずあなたか他の治癒師が診て」
「はい」
「判断に迷ったら?」
「呼びます」
「軽い切り傷なら?」
「私が見ます」
「発熱は?」
「意識がはっきりしていて水分も取れるなら、まず私が確認します」
「骨折の疑いは?」
「状態を見て固定して、それから必要なら呼びます」
ユリアは頷いた。
「二十分だけ」
「分かりました」
◇
「でも、本当に危ないと思ったら呼んで」
「分かってます」
「遠慮しないで」
「しません」
「私が食べてても」
「だから呼びます」
「何度も言わせないでください」
ティナが少し笑った。
「それ、私の台詞です」
ユリアは包みを持って、治療院の休憩室へ向かった。
扉を閉めた時、胸が少しざわついた。
九年前の昼休みを思い出す。
あの時と同じように、自分は患者のいる場所から離れようとしている。
◇
椅子へ座って包みを開く。
昨日の厚焼きが一切れ入っている。
冷えているため、温め直してから食べることにした。
一口目を食べたところで、廊下から足音が聞こえた。
ユリアの身体が反射的に動きかける。
その直後、入口の方から子どもの泣き声が聞こえた。
「患者?」
ユリアは立ち上がりかけた。
そこで昨日決めたことを思い出す。
廊下へ顔だけ出した。
「ティナ」
「います」
「どうしたの?」
「転んで膝を切った子です」
「出血は?」
「少量です」
「意識は?」
「はっきりしています」
◇
「傷は深い?」
「今見るところです」
ユリアの手が扉にかかった。
「私も」
言いかけて止まる。
ティナがこちらを見た。
「ユリアさん」
「……任せていい?」
「はい」
「深かったら呼んで」
「分かりました」
ユリアは休憩室へ戻った。
座る。
厚焼きをもう一口食べる。
子どもの泣き声が聞こえるたび、立ち上がりたくなった。
九年前の記憶まで重なる。
◇
(もし、思ったより深かったら)
(もし、ティナが見落としたら)
(もし、今行けばもっと早く終わるなら)
頭の中にいくつもの理由が浮かぶ。
それでも、ティナは治癒師である。
浅い切り傷なら十分に処置できる。
自分が行った方が数分早いかもしれない。
だからといって、自分でなければならないわけではない。
ユリアは厚焼きを食べ続けた。
味は昨日より分かりにくかった。
緊張しているせいだろう。
◇
しばらくして扉が開いた。
ティナが顔を出す。
「どうだった?」
ユリアがすぐに尋ねる。
「浅い傷でした」
「縫合は?」
「必要ありません」
「汚れは?」
「洗いました」
「歩ける?」
「大丈夫です」
ユリアは大きく息を吐いた。
「呼ばなくて大丈夫でした」
「そう」
「食べ終わりました?」
ユリアが皿を見る。
あと少し残っている。
「まだ」
「じゃあ食べてください」
「もう戻っても」
「二十分って決めたでしょう」
◇
ティナは扉を閉めた。
ユリアは残りの厚焼きを見た。
実際に経った時間は、まだ十分ほどだった。
九年前と同じことは起きなかった。
だから安心してよい、という話でもない。
明日は重症者が来るかもしれない。
その時には食事を中断して戻ればいい。
今日は軽傷だった。
だから任せた。
それだけである。
ユリアは残りを最後まで食べた。
◇
翌日も、昼休憩を取った。
その日は患者が来なかった。
三日目には薬を受け取りに来た老人がいたが、受付とティナで対応できた。
四日目には、手を深く切った職人が運び込まれた。
出血が多いと聞いたユリアは、食事の途中ですぐに治療室へ戻った。
止血し、傷を確認し、治癒術を使う。
処置が終わった後、休憩室へ戻ると食事は冷めていた。
ユリアは捨てなかった。
温め直して最後まで食べた。
そのことをティナが見て、少し驚いた顔をした。
◇
「何?」
ユリアが尋ねる。
「前なら、もう食べなかったと思って」
「そうね」
「変わりました?」
「まだ分からない」
「でも食べる?」
「必要だから」
「患者みたいに?」
「それを言うのはやめて」
ティナが笑った。
ユリアも少し笑った。
完全に罪悪感が消えたわけではない。
食事の途中で廊下の足音が聞こえると、今でも反射的に身体が強張る。
それでも、一度立ち止まって確認するようになった。
◇
本当に自分が必要なのか。
それとも、自分なら少し早いだけなのか。
他の治癒師へ任せられる状態なのか。
その区別をする。
患者を見る時には昔から行っていた判断だった。
ただ、自分の休息へだけ適用していなかった。
一週間ほど経つ頃には、昼に二十分ほど席を外すことが治療院の予定へ正式に書かれるようになった。
《昼鐘後・ユリア休憩 二十分》
最初にその文字を見た時、ユリアは消したくなった。
◇
「これ、必要?」
ユリアが予定表を指す。
「必要です」
ティナが答える。
「皆が見なくても」
「見える方がいいです」
「患者が来たら?」
「急患なら呼びます」
「それ以外は?」
「私たちが先に見ます」
「二十分きっちり?」
「多少前後してもいいですけど」
「じゃあ十五分でも」
「減らさないでください」
「厳しいわね」
「ユリアさん相手には必要です」
ティナは笑わなかった。
◇
その日の午後、ユリアは久しぶりに自分の体調を意識した。
以前より頭が重くない。
治療術を使った後の魔力回復も少し早い。
夕方になっても手の震えが出にくい。
劇的な変化ではない。
ただ、食べて休めば身体が少し楽になるという、治癒師なら誰でも知っている当たり前のことが自分にも起きていた。
「何をそんなに難しい顔してるんです?」
ティナが聞く。
「自分が患者に言ってきたことが全部返ってきてる」
「いいことですね」
「恥ずかしい」
「今さらです」
「あなた本当に遠慮がなくなったわね」
◇
さらに一週間ほど経ったある昼、ユリアは再び《持ち込み食堂》を訪れた。
今度は食材を持っていない。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが迎える。
「あ、治癒師さん」
「ユリアです」
「今日は卵ないんですね」
「普通に食事をしに来ました」
「昼休み?」
「三十分だけ」
「ちゃんと取れてる?」
「二十分が基本です。今日は外へ出る時間を含めて三十分」
「進歩ですね」
ユリアは少し照れた。
「何がありますか」
「鳥肉と白豆の煮込みならすぐ出せます」
「それをお願いします」
◇
「急いで?」
悠斗が厨房から尋ねる。
ユリアは一瞬考えた。
以前なら「できるだけ早く」と答えただろう。
昼休みに時間を使うこと自体が不安だったからだ。
「普通の速さでお願いします」
「いいんですか?」
「はい」
「三十分しかないんですよね」
「食べる時間も含めて決めてきました」
「なら普通に作ります」
悠斗は厨房へ戻った。
ユリアは店内の時計代わりに置かれた砂時計を見たが、すぐに目を逸らした。
◇
「治療院、大丈夫なんです?」
ミレイアが聞く。
「ティナたちがいます」
「重症来たら?」
「呼びに来ます」
「怖くない?」
「怖いです」
「まだ?」
「たぶん、しばらくは」
「それでも来た?」
「怖くなくなるのを待っていたら、ずっと同じだと思ったので」
ユリアは水を飲んだ。
「九年前のことを忘れたわけでもありません」
「忘れたい?」
「いいえ」
「じゃあ?」
「覚えていることと、自分を空腹にしておくことは別だと、少し分かるようになりました」
◇
鳥肉と白豆の煮込みが届いた。
ユリアは急いで掻き込まず、最初の一口をゆっくり食べた。
柔らかく煮た鳥肉と豆に、根玉葱の甘さが染みている。
「美味しい」
「よかった」
「今度、ティナも連れてきます」
「持ち込み?」
「たぶん何か持ってきたがるでしょうね」
「治癒院って食材いっぱいあるんですか?」
「患者用のものが中心なので、勝手には持ち出せません」
「そりゃそうですね」
ユリアは少し笑った。
◇
食事中、一度だけ外を走る足音が聞こえた。
ユリアの手が止まる。
しかし、扉は開かない。
誰かが呼びに来たわけでもない。
彼女はそのまま匙を動かした。
九年前の患者を助けられなかった事実は変わらない。
あの日に食事へ出た自分を、今でも完全には許せていないのかもしれない。
それでも、あの患者を忘れないために、これから出会う全ての患者の前で自分を削り続ける必要はなかった。
治癒師が倒れれば、治療できる患者も減る。
その当たり前のことを、ようやく自分自身にも適用し始めていた。
◇
三十分後、ユリアは治療院へ戻った。
入口ではティナが記録を整理している。
「お帰りなさい」
「何かあった?」
「軽い腹痛が一人。薬師へ回しました」
「他は?」
「何も」
「そう」
「食べました?」
「全部」
「急いで?」
「普通に」
ティナが少し目を丸くする。
「本当に進歩してますね」
「褒められるようなことではないでしょう」
「前のユリアさんと比べたら」
「比較対象が悪いのよ」
◇
ユリアは自分の席へ戻った。
壁には今日の予定表が掛かっている。
《昼鐘後・ユリア休憩 二十分》
以前なら、その文字を見るたびに罪悪感があった。
今でも少しはある。
ただ、その横へ誰かが新しく小さく書き加えていた。
《急患時は呼び出し》
ティナの字だった。
ユリアはしばらく二つの文字を見た。
休むことと、必要な時に戻ること。
どちらか一方しか選べないわけではない。
◇
その翌日、昼鐘が鳴った時、ユリアは処置中の患者の包帯を最後まで固定した。
「今日はここまでで大丈夫です。痛みが強くなったら戻ってください」
「ありがとうございました」
患者を送り出す。
机にはまだ記録が二枚残っている。
以前なら、それを書き終えてから休憩へ行っただろう。
ユリアは記録をまとめ、ティナへ渡した。
「残り、昼の後に書く」
「はい」
「急患の基準は昨日と同じ」
「分かってます」
「出血、呼吸、意識、急変」
「全部覚えてます」
◇
「本当に必要なら呼んで」
「呼びます」
「軽傷は?」
「私が見ます」
「判断に迷ったら?」
「呼びます」
ティナが少し笑った。
「もう行ってください」
「分かった」
ユリアはそこでようやく治療室を離れた。
九年前の記憶が消えたわけではなく、これからも本当の急患が来れば食事を途中で置いて戻る日もあるだろう。
それでも、来るかもしれない患者のために毎日自分の身体を削り続けるのではなく、必要な時に働くためにも食べ、休むことを自分の仕事の一部として扱うことにした。
ユリアは昼鐘の余韻が残る廊下を歩き、治療室を振り返らずに休憩室へ入ると、自分のために用意しておいた昼食を卓へ置き、誰かから呼ばれるまでは最後まで食べるつもりで椅子へ腰を下ろした。
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