第4話 捨てられる肉と、猟師の矜持
リネット・ハーシュは二十七歳になる人間の猟師であり、レーヴェン北西部の森林や丘陵地帯を主な狩場として暮らしていた。濃い栗色の髪を邪魔にならないよう肩の上で切り揃え、日に焼けた顔には細かな擦り傷がいくつも残っている。背は人並みより少し高く、弓を引き続けてきたため肩から背中にかけてしなやかな筋肉がついており、腰には獲物の解体に使う細身の狩猟刀を常に下げていた。
性格は実直で、自分が知っていることを曖昧に誤魔化すのを嫌う一方、一度「こうするべきだ」と考えたことに対して頑固になるところがある。森の中で誰かの判断が遅れれば事故につながることもあるため、狩りの最中には迷いの少ない性格が長所として働くが、その考え方をそのまま他人へ教えようとすると、説明が足りなくなることもあった。
彼女が猟師になったのは、家が代々狩りを生業としていたからではない。
リネットはレーヴェンからさらに北へ離れた小さな山村で、木工を生業とする父と、村の共同畑を手伝う母の間に生まれた。
幼い頃から山へ入る機会は多かったものの、本格的に弓を握ったのは十五歳になってからである。
きっかけは、その頃に何年か続いた厳しい冬だった。
◇
当時、北方では天候不順が重なり、秋に蓄えるはずだった穀物や根菜の収穫量が落ちていた。
翌春までの食料が足りず、リネットの村でも一日に食べる量を減らす家庭が出た。
狩りのできる者は普段より頻繁に森へ入り、鹿や猪、小型魔獣を仕留めて村へ持ち帰った。
リネットも最初は、解体や肉を運ぶ手伝いをしていただけだった。
その時に彼女が疑問を持ったのが、獲物の内臓だった。
肉は丁寧に分けられ、皮はなめすために残される。
角や骨も道具へ使える部分は回収された。
しかし、肝や心臓、腎臓、それ以外の臓器の多くは、獲物を解体した場所へそのまま残されることがあった。
「これ、食べられないの?」
十五歳のリネットが尋ねると、村の猟師は答えた。
「食えるものもあるが、扱いが面倒なんだ」
「食べ物が足りないのに?」
「傷みやすいし、臭いも出る。何でも持ち帰ればいいわけじゃない」
当時のリネットには、その言葉が言い訳のように聞こえた。
◇
村では腹を空かせている人間がいるのに、森では食べられるかもしれない部分が捨てられている。
その光景がどうしても納得できず、リネットは猟師たちの手伝いへついて回りながら、どの臓器が食べられるのかを覚え始めた。
やがて弓も教わり、自分で獲物を仕留めるようになった。
最初の頃は、内臓だけでなく使えそうなものを何でも持ち帰ろうとした。
心臓も肝臓も腎臓も腸も、捨てるくらいなら全部持って帰ればいいと思っていた。
ところが、その考え方も長くは続かなかった。
ある夏の日、村からかなり離れた谷で仕留めた猪の臓物を無理に持ち帰ったことがある。
気温が高いうえに帰路が長く、保存用の氷も足りなかった。
村へ着いた時には一部が傷み始め、結局ほとんど食べられなかった。
◇
時間をかけて運び、苦労して持ち帰った結果、腐らせて捨てることになった。
その時、年上の猟師から言われた。
「捨てたくないって気持ちだけじゃ、食える状態にはならん」
リネットはひどく悔しかった。
自分では食べ物を大切にしたつもりだった。
けれど、結果だけを見れば、山の中へ残してくれば他の獣が食べられたものを、わざわざ村まで運んで腐らせたことになる。
それ以来、彼女は内臓を持ち帰ることそのものではなく、どの状態なら食べられ、どのくらいの時間で処理すればよいのかを学ぶようになった。
そうして十二年が経ち、今では若手の中では腕のよい猟師として知られるようになっていた。
ただし、自分が苦労して覚えた「無駄にするな」という考えを、他人へ伝える時には少し強く言いすぎるところが残っていた。
◇
現在、リネットには一人の若い見習いがついている。
名はトルク。
十九歳になる人間の青年で、農家の次男として育ったが、兄が畑を継ぐことが決まり、自分は別の仕事を探すため猟師を目指していた。
黒に近い茶色の髪を短く切り、背はまだリネットより少し低い。身体も細いが、森を歩き続けるだけの体力はついてきている。
性格は慎重で、教えられたことを真面目に守る一方、師匠が強い口調で言ったことを「絶対にそうしなければならない規則」と受け取りやすいところがあった。
リネットのもとで修業を始めてから一年ほどになる。
弓の腕はまだ未熟だが、獣の足跡を追うことや風向きを読むことはかなり上達してきた。
問題は、解体だった。
◇
リネットは獲物を仕留めるたび、トルクへ何度も言ってきた。
「使えるところを無駄にするな」
「捨てる前に、本当に使えないか考えろ」
「肉だけ取れば狩りが終わりだと思うな」
言われたトルクは、それを忠実に覚えた。
あまりにも忠実に覚えたため、最近では自分で判断するより先に「これは持って帰らないとリネットに怒られる」と考えるようになっていた。
そのずれに、リネット本人はまだ気づいていなかった。
◇
ある日の昼過ぎ、二人は《持ち込み食堂》の扉を開いた。
リネットの手には、氷石を入れた革袋がある。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが迎える。
「二人ですか?」
「食事は二人分でもいいけど、まず相談したいものがある」
リネットが答えた。
「食材?」
「一応は」
「一応?」
「内臓なんだ」
その言葉に、ミレイアが少しだけ身構えた。
「何の?」
「《岩背猪》」
「大丈夫なやつ?」
「食べられる部位は入ってる」
「悠斗さん呼びますね」
◇
厨房から出てきた悠斗は、革袋を開ける前にいくつか確認した。
「いつ仕留めました?」
「今朝」
「何時間くらい?」
「四時間は経ってない」
「その間ずっと冷やしてた?」
「川水と氷石を使った」
「血抜きは?」
「済ませてる」
「何が入ってます?」
「肝、心臓、腎臓、腸が少し」
「胆嚢は?」
「外してある」
「胃は?」
「中身を抜いて洗ったけど、今回は持ってきてない」
悠斗はそこでようやく袋の中を確認した。
◇
「状態は悪くなさそうですね」
「料理できる?」
「できます。でも全部同じ調理法にはしない方がよさそうです」
リネットの目が少し動いた。
「どうして?」
「肝と心臓と腎臓と腸って、食感も匂いも違いますよね」
「そうだね」
「じゃあ下処理も変えたいです」
「分かった」
トルクが少し驚いたように悠斗を見る。
「全部まとめて煮るんじゃないんですか?」
「そうしても食べられるかもしれないけど、臭みが強くなりそうです」
「内臓なんだから臭うものじゃ?」
「だから減らせるものは減らします」
◇
「トルク、ちゃんと見ときな」
リネットが言う。
「今度から自分でもできるように」
「はい」
悠斗が二人を見る。
「猟師仲間?」
「こいつは見習い」
「一年目です」
トルクが答えた。
「内臓使うの、よくやるんです?」
「私は使えるなら使うよ」
リネットが答える。
「トルクは?」
「俺も、捨てちゃ駄目だって教わってます」
その返事に、リネットが少しだけ眉を動かした。
「捨てちゃ駄目、じゃない」
「でも、いつも無駄にするなって」
「それは」
リネットはそこで口を止めた。
◇
悠斗は会話へ深入りせず、まず内臓の処理を始めた。
肝は筋や血の塊を取り除き、冷水へさらす。
心臓は開いて内部の血を洗い、大きな血管や硬い部分を外した。
腎臓は匂いの強くなりやすい中心部分を丁寧に削ぎ取り、腸は塩を使って表裏を何度か洗ったあと、一度下茹でする。
「そこ、捨てるんですか?」
トルクが腎臓の切り落とした部分を見て尋ねた。
「使わないです」
「でも食べられる?」
悠斗は少し考えた。
「食べられないとは言い切れないですけど、匂いがかなり強いし、今日の料理にはいらないと思います」
「捨てるんですよね?」
「はい」
トルクがリネットを見る。
◇
リネットは何も言わなかった。
「どうした?」
悠斗が尋ねる。
「いや」
リネットは小さく首を振った。
「続けて」
悠斗は根玉葱と根菜を切り、鍋で炒め始めた。
肝、腎臓、腸はそれぞれ下処理したあと、時間をずらして鍋へ入れる。
少量の酒と香草を加え、臭みを抑えながら弱火で煮込んでいく。
心臓については全部を鍋へ入れず、一部を薄く切って残した。
「それは?」
リネットが尋ねる。
「焼いてみます」
「煮込まない?」
「心臓は火を通しすぎると硬くなりそうなので、薄く切って短く焼いた方も試したいです」
◇
「同じ猪の中でも違うんだ」
トルクが呟いた。
「そりゃ違うよ」
リネットが答える。
「でもリネット、いつも内臓は持って帰れって」
「食えるものならね」
「じゃあ腎臓の真ん中は?」
「……」
リネットはまた言葉を止めた。
「今まで持って帰ってた?」
悠斗が尋ねる。
「持っては帰ってる」
「全部食べた?」
「状態がよければ」
「悪かったら?」
「捨てることもある」
トルクが首をかしげた。
「じゃあ、最初から持って帰らなくてもいいところもあるんですか?」
◇
「あるよ」
「初めて聞きました」
「言ってなかった?」
「無駄にするなとは言われました」
「それは言った」
「だから俺、使えるものは全部持って帰らないと駄目だと思ってました」
「全部って……」
リネットはそこで少し顔をしかめた。
「そう聞こえてたのか」
「違うんですか?」
「違う」
「じゃあ、どういう意味です?」
リネットはすぐに答えられなかった。
◇
自分の中では明確だった。
食べられるのに、面倒だからという理由だけで最初から捨てるのが嫌だった。
だから、使えるかどうかをまず見ろと教えたつもりだった。
しかし、トルクにはそこまで説明していなかった。
昔の自分が、村の猟師から「扱いが面倒だから」と言われて腹を立てた経験が強く残っているせいで、「捨てる」という行為そのものに厳しい言い方をしてきた。
「私が言いたかったのは」
リネットがゆっくり話し始める。
「食えるかもしれないものを、最初から価値がないって決めるなってこと」
「同じじゃないんですか?」
「違うよ」
「どこが?」
「見て、考えて、それでも使えないなら持ち帰らないこともある」
◇
「でも、俺がこの前肝を置いていこうとしたら怒ったじゃないですか」
「あれは町まで近かったし、気温も低かった」
「じゃあ条件が違う?」
「そう」
「それ、言ってくださいよ」
トルクの声には怒りというより困惑があった。
「俺、全部同じだと思ってました」
リネットは小さく息を吐いた。
「悪かった」
「謝るんですか?」
「説明してなかったのは私だからね」
「でも、無駄にしない方がいいのは?」
「それは変わらない」
「やっぱり難しいです」
トルクは眉を寄せた。
◇
悠斗は鍋を混ぜながら言った。
「無理に全部使うのも、場合によっては無駄になりますよね」
リネットが悠斗を見る。
「例えば?」
「食べられないくらい傷んでから捨てるとか」
その言葉に、リネットは昔の失敗を思い出した。
夏の山から内臓を全部抱えて帰り、結局ほとんど腐らせた日のことだった。
「あるよ」
「経験ある?」
「昔ね」
リネットは少し恥ずかしそうに答えた。
「私も一度、何でも持って帰ろうとして駄目にした」
「リネットが?」
トルクが驚いた。
「何その顔」
「そういう失敗しない人だと思ってました」
「するよ」
◇
「いつの話です?」
「まだ見習いだった頃」
「何で持って帰ったんです?」
「村に食べ物が少なかったから」
リネットは十五歳の頃からの話を簡単に説明した。
冬が厳しく、食べ物が不足していたこと。
猟師たちが内臓を残していくのを見て、それが納得できなかったこと。
食べられるものなら全部持ち帰るべきだと思ったこと。
そして、暑い日に無理をして運んだ結果、腐らせたこと。
「それ、俺に話してくれればよかったのに」
トルクが言う。
「格好悪いから」
「リネットでもそういうの気にするんですね」
「当たり前だろ」
◇
「でも、その失敗で覚えた?」
悠斗が聞く。
「覚えたよ」
「じゃあ、それをトルクさんにも教えればいいんじゃないですか」
「私の失敗まで?」
「成功した話だけより分かりやすい時もありますよ」
「料理人は簡単に言うね」
「俺も失敗するので」
「料理で?」
「初めての食材ばっかりですから」
悠斗は鍋の味を確認した。
「今も正解か分からないです」
「食べられなかったら?」
「次は変えます」
リネットは少し笑った。
◇
下茹でした腸は臭みがかなり減っていた。
肝の濃厚な味と腎臓の独特な風味が汁へ溶け、根菜の甘さと酒の香りが全体をまとめている。
悠斗は最後にほんの少しだけ果実酢を加えた。
「酢を?」
リネットが聞く。
「重い味なので、少しだけ」
「酸っぱくならない?」
「ならないくらいにします」
別の小鍋では、薄く切った心臓を少量の脂で焼いた。
表面へ焼き色をつけ、中まで火が通ったところですぐ取り出す。
「できました」
悠斗が二つの皿を並べる。
◇
「《岩背猪の内臓煮込み》と、心臓の薄焼きです」
トルクが煮込みを見る。
「結局、全部同じ皿じゃないんですね」
「心臓は別の方が食感よかったので」
リネットが先に薄焼きを口へ入れた。
歯を入れると弾力はあるが、噛み切れないほど硬くはない。
肉に近い濃い味があり、内臓特有の匂いも比較的弱い。
「これ、いいね」
「煮込むより?」
「私はこっちが好き」
トルクも食べる。
「俺も心臓はこっちの方がいいです」
「じゃあ次はこうする?」
「できるなら」
◇
次に煮込みを食べる。
肝は柔らかく崩れ、濃厚な味が汁へ混ざっている。
腎臓には少し独特の香りが残っているが、根玉葱と香草のおかげで強すぎない。
腸はしっかり洗ったことで臭みが減り、噛むほどに脂の旨味が出た。
「どうです?」
悠斗が尋ねる。
「美味しい」
リネットが答えた。
トルクは少し考えながら腸を噛んだ。
「俺、これはそこまで好きじゃないかも」
「腸?」
「はい」
トルクがリネットを見る。
◇
「食べた方がいいですか?」
「何で私に聞くの」
「無駄にするなって」
リネットは一瞬黙り、それから笑った。
「嫌いなら無理に食べなくていいよ」
「本当に?」
「今は料理になってるから、残したらもったいないとは思うけど」
「やっぱり」
「でも、嫌いなものを毎回無理に食えとは言わない」
「じゃあどうするんです?」
「次から私が食べる」
トルクが笑った。
「リネットは好きなんですか」
「私は好き」
「なら解決ですね」
◇
「ただし、一口も試さず嫌いって決めるのは別だからね」
「今日は食べました」
「ならいい」
悠斗が二人のやり取りを聞きながら言う。
「人によって使えるかどうかも変わるんですね」
「どういうこと?」
「食材として食べられるのと、その人が食べたいのは別かなと」
「それはそうだね」
「じゃあ、食べられるから全部食べろ、でもない?」
トルクが尋ねる。
リネットは少し考えてから頷いた。
「そこまで言ったら、私が一番嫌ってた考え方と逆方向で同じことをしてるかもしれない」
「どういう意味?」
「昔の猟師は、面倒だから食べられる内臓も最初から捨ててた」
「はい」
「私は逆に、食べられるなら全部使えって決めかけてた」
◇
「どっちも最初から答え決めてる?」
悠斗が言う。
「そういうことだね」
リネットは皿を見た。
「本当は、見てから決めたかったんだ」
「何を?」
「食べられるか、運べるか、処理できるか、その日のうちに使えるか」
「それ全部?」
「全部」
「多いですね」
「狩りってそういう仕事だよ」
リネットは少し笑った。
「獲物を倒したら終わりじゃない」
◇
「じゃあ、俺が判断してもいいんですか?」
トルクが尋ねる。
「何を?」
「持って帰るかどうか」
「まだ全部は任せないよ」
「何で?」
「お前、傷みの判断まだ甘いだろ」
「それはそうです」
「でも理由は聞く」
「俺が持って帰らないって言ったら?」
「なぜか説明して」
「理由がちゃんとしてたら?」
「任せる」
「間違ってたら?」
「教える」
「それなら分かります」
トルクは少し安心したように頷いた。
◇
食事を続けながら、リネットは自分の教え方を振り返っていた。
これまでトルクへは、何をするべきかを強く言うことが多かった。
血を抜け。
腹を開ける前に刃を洗え。
内臓を踏むな。
使えるものを捨てるな。
森の中では短い指示が必要になる。
危険がある場面で長々と理由を説明する余裕はない。
しかし、すべての場面で短い指示だけを残していけば、その裏にある判断基準までは伝わらない。
自分がいない時、トルクは同じ言葉をそのまま守るしかなくなる。
◇
「教えるのって難しいね」
リネットが呟いた。
「今さら?」
トルクが返す。
「お前、随分言うようになったね」
「今日は言っていい日かと思って」
「そんな日決めてないよ」
「でも聞いてくれるんですよね」
「……聞くよ」
リネットは少し悔しそうに答えた。
悠斗が笑う。
「いい師弟ですね」
「どこが」
「ちゃんと話してるので」
「昨日まではこんなじゃなかったよ」
「じゃあ今日から?」
リネットは返事の代わりに煮込みを食べた。
◇
会計を済ませる頃、リネットは悠斗へ尋ねた。
「内臓の処理、簡単に書いてくれる?」
「いいですよ」
「肝、心臓、腎臓、腸で分けて」
「食材の状態で変わると思いますけど」
「分かってる。基準の一つとして使いたい」
「誰に教える?」
「トルクと、できれば他の若い猟師にも」
「だったら保存時間とかも書いた方がいい?」
「それは私が足す」
「距離や気温?」
「そう」
リネットは頷いた。
「料理法だけじゃなく、持ち帰れる条件も一緒にしたい」
◇
「例えば?」
悠斗が聞く。
「暑い時期に町まで半日以上かかるなら、内臓によっては残す」
「氷石があれば?」
「量による」
「寒い季節は?」
「時間を少し延ばせる」
「全部一つの答えじゃない?」
「ないよ」
トルクが横から言う。
「今まで教えてくれなかったのに」
「これから教える」
「全部?」
「私が分かる範囲は」
「分からない時は?」
リネットは少し考えた。
「一緒に調べる」
◇
その日の夕方、二人は狩猟道具を整えながら、簡単な記録帳を作り始めた。
最初の頁には《岩背猪》と書き、その下へ部位ごとの扱いを記した。
心臓は血をしっかり洗い、冷やせれば比較的持ち帰りやすい。
肝は傷みやすいため、気温と距離をよく見る。
腎臓は匂いの強い部分を下処理する。
腸は洗浄に多くの水と時間が必要で、処理する余裕がない場合には無理に持ち帰らない。
その最後へ、リネットは一行を書き加えた。
《食べられる部位でも、その日の条件で持ち帰れない場合がある》
トルクが横から覗き込む。
「前なら書かなかったですね」
「うるさい」
◇
「もう一個書いていいですか」
「何?」
トルクがその下へ文字を足した。
《持ち帰らない時は、理由を確認する》
リネットはその文字を見た。
「それ、誰向け?」
「俺とリネット両方」
「私も?」
「俺が置いていこうとした時、理由聞いてください」
「分かった」
「リネットが全部持って帰ろうとしたら、俺も聞きます」
「お前が?」
「駄目ですか」
リネットは少し考え、それから頷いた。
「ちゃんと理由があるなら聞く」
◇
翌朝、二人は再び北西の森へ入った。
その日は天気がよく、昨日より気温がかなり高かった。
目的は小型の獲物を一頭だけ仕留め、解体と追跡の練習をすることである。
昼前、トルクが足跡を見つけた。
「岩背猪です」
「大きさは?」
「小さめ」
「いつ通った?」
トルクが地面へ触れる。
「そんなに古くないです」
「どっちへ?」
「あっち」
トルクが北側の低木を示した。
「追う?」
「追います」
「理由は?」
「町へ戻る時間を考えても余裕があるからです」
「いいよ」
◇
しばらく追ったところで、小型の岩背猪を見つけた。
今回はリネットが弓を引くのではなく、トルクが仕留める。
最初の矢は少し外れた。
猪が走る。
トルクは焦りかけたが、リネットに教えられた通り風向きと逃げ道を見て追い直し、二本目の矢で止めた。
「よくやった」
「一発じゃなかったです」
「一発で仕留めるのが理想だけど、逃げた後に焦らなかったのはよかった」
「はい」
「じゃあ解体するよ」
二人は獲物を森の開けた場所へ運んだ。
◇
血抜きを済ませ、腹を開く。
肉は問題ない。
心臓も状態がよい。
肝も見た目に異常はない。
「全部持って帰ります?」
トルクが尋ねる。
「先に条件を見よう」
「今日は暑いです」
「そうだね」
「町まで?」
「ここからなら四時間以上」
「氷石は?」
「少ない」
トルクは自分の荷物を確認した。
「心臓なら大丈夫そうです」
「肝は?」
「見た目は食べられます」
「うん」
「でも、この気温で四時間?」
「どう思う?」
◇
トルクはしばらく考えた。
「置いていきたいです」
「理由は?」
「食べられるけど、町まで安全に冷やせる自信がないから」
「昨日なら?」
「昨日くらい涼しかったら持って帰ったと思います」
「私も同じ」
リネットは頷いた。
「じゃあ肝は置く」
トルクが少し戸惑う。
「本当にいいんですね」
「いい」
「食べられるのに?」
「今日は持ち帰れない」
リネットははっきり答えた。
◇
「価値がないから捨てるんじゃない」
「はい」
「今日の条件だと、食べられる状態で町へ持って帰るのが難しいから置いていく」
「分かりました」
「心臓は持って帰る」
「はい」
「腸は?」
トルクは少し考えた。
「今日は水場が遠いし、洗う時間もかかるので置きます」
「いい判断だと思う」
「本当に?」
「私でもそうする」
トルクは少し嬉しそうにした。
「じゃあ記録しておきます」
◇
解体を終えると、二人は心臓と肉だけを冷やして持ち帰った。
残した部位は適切な場所へまとめ、森の獣が食べられるようにする。
帰り道、トルクが言った。
「今日、ちょっと変な感じでした」
「何が?」
「食べられる肝を置いてきたのに、悪いことした感じがしなかった」
「前なら?」
「リネットに怒られると思ってました」
「そんなに怖かった?」
「怒ると怖いです」
「そこじゃない」
「でも本当に」
リネットはため息をついた。
◇
「私も前は、置いてくること自体が嫌だった」
「今も嫌ですか」
「好きではないよ」
「でも今日は置いた」
「無理に持って帰って腐らせる方が嫌だからね」
「どっちも無駄?」
「そう」
「じゃあ、絶対に無駄にしない方法ってないんですか」
リネットは少し考えた。
「たぶんない」
「ない?」
「狩りをしてる時点で、全部を完璧に使うのは難しいよ」
「じゃあ、どうするんです?」
「使えるものを知って、使える時にはちゃんと使う」
◇
「使えない時は?」
「なぜ使えないかを分かった上で置いていく」
「それでいい?」
「私は今はそう思ってる」
トルクは頷いた。
「最初から決めつけない?」
「うん」
「でも全部持って帰るとも決めない?」
「そう」
「難しいですね」
「だから覚えるんだよ」
「何を?」
「判断するための知識を」
リネットは森の道を歩きながら答えた。
◇
町へ戻ると、二人は持ち帰った心臓を簡単に焼いた。
前日に悠斗がやっていたように開いて血を洗い、薄く切って短時間で火を通す。
トルクは少し焼きすぎた。
「硬い」
一口食べて顔をしかめる。
「火が長かったね」
「失敗です」
「次は短くすればいい」
「食べられます?」
「食べられる」
「じゃあ食べます」
二人は少し硬くなった心臓を、その日の夕食として最後まで食べた。
◇
「昨日までだったら」
トルクが噛みながら言う。
「何?」
「リネットなら《無駄にするな》って言って終わってたと思います」
「今日は?」
「何で硬くなったか言ってくれた」
「そっちの方がいい?」
「はい」
「じゃあ次もそうする」
「俺が失敗したら?」
「理由を一緒に見る」
「同じ失敗したら?」
「その時は怒る」
「やっぱり怒るんですね」
「当たり前だよ」
トルクが笑った。
◇
リネットも笑いながら、硬くなった心臓を噛んだ。
知識を教えることは、答えだけを渡すことではない。
この部位は持ち帰るべきだ、この部位は捨てるべきだと決めてしまえば簡単だが、狩場の距離も、季節も、気温も、保存道具の量も毎回違う。
だから本当に伝えるべきなのは、「何を持って帰るか」だけではなく、「何を見てそう決めるのか」なのだろう。
それを教えれば、いつかトルクが一人で森へ入った時にも、自分が横で命じなくても判断できる。
◇
数日後、二人は作った記録帳を他の若い猟師にも見せた。
心臓の焼き方を試す者もいれば、腸まで持ち帰るのは面倒だと言う者もいた。
以前のリネットなら、その言葉に反射的に「食べられるのに捨てるな」と言っていたかもしれない。
その日は先に尋ねた。
「どこで狩る?」
「北の奥」
「町まで何時間?」
「六時間くらい」
「水場は?」
「帰路に一つだけ」
「氷石は?」
「そんなに持てない」
そこまで聞いてから、リネットは頷いた。
◇
「だったら腸まで持ち帰らない方がいいかもしれないね」
「リネットがそれ言うのか」
仲間の猟師が驚く。
「何さ」
「前なら全部持って帰れって言ってた」
「言い方を変えたの」
「何があった」
「見習いに怒られた」
「俺、怒ってませんよ」
トルクが横から口を挟む。
「似たようなものだよ」
「全然違います」
周囲の猟師たちが笑った。
◇
それでも、リネットが食材を粗末にするのを嫌う気持ちは変わっていなかった。
肉だけ取って食べられる心臓をその場へ投げ捨てる者がいれば、今でも理由を聞く。
ただ面倒だからというだけなら、処理方法を教える。
持ち帰れる距離なのに何も考えず捨てるなら、以前と同じように注意もする。
しかし、条件を見たうえで使えないと判断した者へ、自分の価値観だけで「必ず持ち帰れ」と押しつけることは減った。
狩りの腕とは、仕留める技術だけではない。
獲物をどう扱うかまで含めて、猟師の仕事なのだと改めて考えるようになった。
◇
ある朝、トルクは一人で解体記録を整理していた。
リネットが横から見ると、新しい項目が増えている。
《持ち帰った理由》
《置いてきた理由》
どちらも書けるようにしてあった。
「いいね、それ」
「リネットの帳面ですよ」
「お前が足したんでしょう」
「駄目でした?」
「いや、そのままでいい」
「じゃあ次から書きます」
トルクは頁をめくった。
「今度、心臓をもう一回焼いてもいいですか」
「火を短くする?」
「はい」
「やってみな」
◇
「リネットは手を出さない?」
「危なくなければ」
「焦がしたら?」
「食べられるなら食べる」
「また硬くしたら?」
「理由を考える」
「上手くできたら?」
「私にも半分よこして」
「結局食べたいんですね」
「好きだからね」
二人はそんな話をしながら翌日の狩りに必要な道具を整えた。
弓の弦、解体用の刃、清潔な布、塩、保存袋、そして使える量の氷石を一つずつ確認する。
以前ならリネットが全て確認し、トルクへ持たせるものまで決めていた。
その日は違った。
◇
「明日、どのくらい氷石持つ?」
リネットが尋ねる。
「二つ」
「理由は?」
「行く場所が町から近いし、天気も今日より涼しいからです」
「もし予定より奥へ入るなら?」
「一度戻るか、持ち帰る部位を減らします」
「いいと思う」
「リネットなら?」
「私も二つかな」
「じゃあ正解?」
「今回はね」
「毎回答え違う?」
「条件が違えば」
「本当に面倒な仕事ですね」
「今さら気づいた?」
リネットは笑った。
◇
翌朝、二人はまだ薄暗いうちにレーヴェンを出た。
森へ続く街道を歩きながら、トルクは前日の記録帳を何度か確認する。
リネットはそのたびに答えを教えず、まず本人が何を見ているのかを聞くようにした。
自分の知っていることを全て一度に教えられるわけではない。
自分自身にも、まだ知らないことはある。
それでも、使えるものを大切にしたいという考えだけを強い命令として渡すのではなく、そのために何を見て何を考えるのかまで伝えることならできる。
リネットは腰の狩猟刀を確かめると、少し先を歩くトルクへ獲物の足跡を見つけた時にはまず自分で判断するよう声をかけ、自分が持っている答えを先に渡すのではなく、次に一人で森へ入った時にも選べるよう、その判断を言葉にさせながら朝の森へ入っていった。
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