第3話 硬いパンと、言えなかった一言
エマ・ローネは二十四歳になる人間のパン職人であり、レーヴェン西区と中央区の境目にある小さなパン屋《麦穂亭》で、父親と二人で働いていた。赤みのある茶色の髪を首の後ろでひとつにまとめ、粉を扱う仕事のせいで前掛けや袖口にはいつも白い跡が残っている。細身ではあるが、毎朝まだ暗いうちから生地を練り、薪を運び、焼き上がったパンを棚へ並べる生活を何年も続けているため、腕や肩には見た目以上の力がついていた。
性格は真面目で、仕事を途中で投げることを嫌い、失敗したものがあれば理由を探して次へ活かそうとする。客への愛想も悪くなく、常連の好みや買う時間帯をかなり正確に覚えているため、《麦穂亭》を父親一人ではなくエマが支えていることを知る客も多かった。
それでも、店で売られているパンのほとんどには、父であるバルト・ローネの判断が入っていた。
バルトは五十二歳になるパン職人で、若い頃にいくつかの店を渡り歩いて技術を学んだあと、三十歳を過ぎた頃に《麦穂亭》を開いた。肩幅の広い身体と太い腕を持ち、四十代後半から白いものが混じり始めた髪を短く刈り込んでいる。口数は少なく、褒める時にも「悪くない」程度しか言わないため、初めて働く者からは厳しい職人に見られることが多かった。
しかし、娘を仕事から遠ざけようとしたことは一度もない。
エマが幼い頃から店の手伝いをしたがれば粉袋を運ばせ、十三歳頃には生地の丸め方を教え、十五歳になる頃には簡単なパンなら一人で成形できるほどまで育てていた。
父娘の関係が変わったのは、その十五歳の時だった。
◇
九年前のある朝、バルトが急な仕入れのため店を離れていた時、エマはいつも通り厨房で焼き上がりを待っていた。
薪を使う大きな焼き窯は、温度を安定させるまで時間がかかる代わりに、一度熱が入れば多くのパンを一度に焼ける。
その日、窯の内部で積んでいた薪の一部が崩れた。
火が弱くなると思ったエマは、父が戻るのを待たずに窯の扉を開けた。
次の瞬間、内部に溜まっていた熱気と灰が一気に吹き出した。
顔をそらしたため大きな火傷にはならなかったものの、右手の甲を軽く焼き、前髪の一部と眉の端が焦げた。
戻ってきたバルトが娘の姿を見た時の顔を、エマは今でも忘れていない。
怒鳴られた。
泣かれたことはなかった。
けれど、あの日の父の怒鳴り声の奥に、怒りとは違うものがあったことだけは分かっていた。
◇
その日から二年ほど、エマは一人で窯へ近づくことを禁じられた。
生地は触らせてもらえる。
成形もできる。
材料の配合を考えることも許された。
しかし、焼き上げる段階になると必ずバルトが横へ立ち、火の状態を確認してからでなければ窯を使わせてもらえなかった。
十七歳を過ぎる頃には制限も少しずつ緩み、現在ではエマ一人で焼くこともできる。
それでも、父が店にいる時には必ず何度か見に来る。
「火が強い」
「もう少し待て」
「その位置じゃ端が焼けすぎる」
そうした声が背後から飛んでくるたび、エマは自分が今も十五歳の少女として見られているような気がしていた。
◇
もっとも、父の言うことが全て間違っているわけでもなかった。
バルトは三十年以上パンを焼いている。
生地の発酵具合を指で触れただけで見抜き、窯の壁を見るだけで熱の偏りを判断できる。
自分より技術が上なのは、エマも認めている。
だから余計に、父へ「もう一人でできる」と強く言えなかった。
もし本当に技術が足りず、父が職人として正しく止めているのだとしたら。
その答えを聞くことが、エマは怖かった。
◇
そんな彼女が《持ち込み食堂》を訪れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
腕には布袋を抱えている。
中には四日前に焼いた麦パンが三つ入っていた。
腐ってはいない。
黴もない。
ただし、水分がほとんど抜けており、そのまま噛めば歯を傷めそうなほど硬くなっている。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが声をかけた。
「持ち込みですか?」
「はい」
「何を?」
エマが布袋を開く。
「パンです」
ミレイアが一つ持ち上げようとして、少し驚いた顔をした。
「これ、かなり硬くないですか?」
「四日前のものなので」
「食べられる?」
「食べられます。ただ、そのままではかなり大変です」
◇
厨房から出てきた悠斗は、パンの状態を確認した。
「黴は?」
「ありません」
「保存は?」
「乾いた棚で、布をかけていました」
「変な匂いもないですね」
「普通の麦パンです」
「じゃあ古くて硬いだけ?」
「はい」
「これ、普段どうしてます?」
「家で食べるか、知り合いへ安く売ります」
「店には並べない?」
「《麦穂亭》は、その日に焼いたものを売るので」
「なるほど」
悠斗は硬い表面を指で軽く叩いた。
「今日は、このパンを食べられる料理にしたい?」
「それもあります」
「他にも?」
エマは少しだけ言葉を迷った。
◇
「これ、父が焼いたパンなんです」
「お父さんもパン職人?」
「はい」
「自分が焼いたものじゃない?」
「違います」
「じゃあ、何でわざわざ父親の古いパンを?」
エマは少し苦笑した。
「父のパンなら、多少変な料理にしても文句を言わないと思ったので」
「自分のパンだと?」
「まだ売っていません」
「全然?」
「店では、ほとんど」
ミレイアが聞く。
「エマさんもパン作れるんですよね?」
「作れます」
「じゃあ何で売らないの?」
エマは布袋の口を閉じた。
「父に、《まだ早い》と言われているからです」
◇
「何が早い?」
悠斗が尋ねる。
「自分のパンを商品として出すことがです」
「理由は?」
「たぶん技術です」
「たぶん?」
「ちゃんと聞いたことがなくて」
「聞いてない?」
「はい」
ミレイアが驚いた顔をする。
「それで何年くらい?」
「……長いです」
「最近言われ始めたわけじゃない?」
「違います」
エマは椅子へ座ると、少し視線を落とした。
「父は昔から、私のパンを焼く時に細かく見ています」
◇
エマは九年前の事故について話した。
十五歳の自分が窯を開け、熱気をまともに受けたこと。
大怪我にはならなかったものの、それ以降父が窯を使わせたがらなくなったこと。
今では一人で焼けるようになったが、それでも父が何度も確認しに来ること。
「それなら心配してるんじゃない?」
ミレイアが言う。
「私もそう思っていました」
「違う?」
「分からないんです」
「聞いてないから?」
「はい」
エマは苦笑した。
「ずっと、《十五歳の私をまだ見ている》と思って腹を立てていました」
「本人に言った?」
「言ってません」
「何で?」
そこでエマは少し長く黙った。
◇
「怖かったからです」
「何が?」
「もし父が、《事故とは関係なく、お前のパンはまだ商品にならない》と言ったら」
ミレイアの表情が変わる。
「それが怖い?」
「はい」
「じゃあ、事故のせいだと思ってる方が楽だった?」
「……たぶん」
エマは自分で言ってから、少し嫌そうな顔をした。
「卑怯ですよね」
「そこまでは思わないですけど」
「でも、私は父が私を子ども扱いしていると決めつけて、そのせいで自分のパンを売れないと思っていたんです」
「本当は技術の評価を聞くのが怖かった?」
「はい」
◇
悠斗は古い麦パンを見ながら考えた。
「これ、牛乳みたいなものあります?」
ミレイアが棚を確認する。
「乳があります」
「卵は?」
「あります」
「じゃあ使います」
「何作るんです?」
エマが聞く。
「パンを柔らかく戻して、重ねて焼こうかなと」
「焼き直す?」
「そのまま焼いたらもっと硬くなりそうなので、先に水分を吸わせます」
悠斗はパンを厚めに切った。
硬い表面に刃を入れる時にはかなり力が必要だったが、中まで完全に乾燥しきっているわけではない。
◇
「古いパンって、柔らかいパンより劣っていますか?」
エマが突然尋ねた。
「そのまま食べるなら?」
「はい」
「俺は新しい方が好きです」
悠斗は迷わず答えた。
エマが少し驚いた。
「そこは、古いパンにも価値があるって言わないんですね」
「古いのと焼きたてが同じなら、焼きたて売る意味なくないですか?」
「それはそうですけど」
「ただ、古くなったら食べ方を変えればいい」
「価値がなくなるわけじゃない?」
「使い方が変わる、くらいですかね」
◇
悠斗は乳と卵を合わせ、少量の塩を加えた液へパンを浸した。
硬いパンは最初こそ液を弾くようだったが、時間が経つにつれてゆっくり水分を吸い始める。
その間に根玉葱を薄く切って炒め、塩漬け肉も細かく刻んだ。
乳酪も用意する。
「甘い料理じゃないんですね」
「食事にしたいので」
「パンに肉と玉葱?」
「合うと思います」
「父はやらない組み合わせです」
「嫌いそう?」
「嫌うというより、普通のパンは普通に食べろと言いそうです」
「それも間違いじゃないですね」
悠斗は答えた。
◇
「普通のパンとして美味しいなら、そのままが一番早いです」
「じゃあ、このパンは?」
「硬いから別の使い方する」
悠斗は水分を吸ったパンを耐熱皿へ並べ、その上へ炒めた根玉葱、塩漬け肉、乳酪を重ねた。
さらにパンを置き、残った卵液を少し回しかける。
「これを焼きます」
「窯?」
「小さい方です」
エマが悠斗の手元をじっと見る。
「温度は?」
「高すぎないようにします」
「どのくらい?」
「うちの窯、数字出ないので、感覚ですね」
「そうですよね」
エマは少し笑った。
◇
その時、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、門衛の制服を着た男だった。
グレン・ハルト、三十一歳。
レーヴェン西門で働く門番であり、街へ出入りする人間や荷車を確認する仕事を十年以上続けている。
茶色の髪を短く整え、身体は大柄ではないものの、立ち仕事と訓練によって引き締まっていた。性格は融通が利かないと思われることもあるが、本人は規則そのものを好んでいるというより、曖昧な判断によって門で事故が起きることを嫌っている。
父親も門番で、子どもの頃から門を通る商人や旅人を見て育った。
家業をそのまま継いだわけではないが、十六歳で衛兵隊へ入り、訓練を経て西門勤務になった。
「昼、まだ食えるか?」
グレンが尋ねる。
「大丈夫です」
「何か早いものを頼む」
◇
店内の席を見ると、空いているのはエマが座っている四人掛けの卓だった。
「相席でもいいですか?」
ミレイアが双方へ確認する。
「私は大丈夫です」
エマが答える。
グレンも頷いた。
「構わん」
席へ着くと、グレンはエマの前に置かれた硬い麦パンへ目を向けた。
「《麦穂亭》のパンか?」
エマが驚く。
「分かるんですか?」
「形で分かる」
「よく買われるんです?」
「西門勤務の日にな」
「ありがとうございます」
「硬いやつをよく買う」
エマが目を瞬いた。
「硬いパンを?」
◇
「焼きたてじゃなくて?」
「朝買ってそのまま持っていく」
「なら焼きたてですよね」
「そうじゃない。店の端に置いてある少し古いやつだ」
エマは思い出した。
《麦穂亭》では、前日分や少し乾き始めたパンを、常連や近所の者へ安く譲ることがある。
「門番には便利だ」
「どうして?」
「柔らかいパンは袋の中で潰れる」
「硬い方がいい?」
「仕事中に持ち歩くならな。昼が遅れても形が崩れにくい」
エマは少し意外そうな顔をした。
◇
「でも、柔らかいパンの方が美味しくないですか?」
「休憩室で食うなら柔らかい方が好きだ」
「じゃあ、どっちがいいんです?」
「使う時によるだろ」
グレンは当然のように言った。
「巡回へ持っていくなら硬い方が都合がいいし、店で昼飯にするなら柔らかい方が食いやすい」
「同じ店に両方あったら?」
「買い分ける」
「常連が嫌がるかもしれないとは?」
「何を?」
「今までと違うパンが並ぶことを」
グレンは少し考えた。
◇
「今までのパンがなくなるなら困る」
「なくならないなら?」
「別に困らん」
「本当に?」
「何で俺が困るんだ」
エマは黙った。
「お前、《麦穂亭》の娘だろ」
「分かります?」
「何度も店で見てる」
「私が別のパンを出したら?」
「味次第で買う」
「父のものと違っても?」
「同じ店で同じパンしか売っちゃいけない規則でもあるのか」
「ありません」
「なら食って決める」
グレンはあっさり答えた。
◇
エマは少し困ったように笑った。
「皆さん、思っていたより単純ですね」
「何の話だ」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
グレンのその言葉に、エマは少しだけ顔をしかめた。
「皆、それを言いますね」
「言わないことまで察して通せと言われても無理だ」
グレンは水を飲んだ。
「門でも同じだ。荷車が特別な事情を抱えてるなら言ってもらわないと分からん」
「顔を見れば分かることもあるでしょう?」
「分かることもある。だが、それを前提にされると困る」
◇
「言っていないことは分からない?」
「当然だ」
「親子でも?」
グレンがエマを見る。
「親子だから何でも分かるなら、家族喧嘩なんて起きんだろ」
ミレイアが横で吹き出した。
「それは確かに」
「何か悩んでるのか」
「父と少し」
「なら話せ」
「簡単に言いますね」
「俺はお前の父親知らんからな」
グレンはそこで会話を切った。
自分の仕事のように、必要な情報が出ていないなら判断できないというだけだった。
◇
しばらくすると、悠斗が焼き上がった料理を運んできた。
「お待たせしました」
深めの皿の中には、卵液を吸って柔らかくなった麦パンが重なり、その間から根玉葱と塩漬け肉、溶けた乳酪が覗いている。
「《麦パンの重ね焼き》です」
「これがあのパン?」
エマが尋ねる。
「そうです」
「柔らかくなってる?」
「かなり」
匙を入れると、四日前には歯が立ちにくかったパンが簡単に崩れた。
◇
エマが一口食べる。
卵と乳を吸った麦パンは中心まで柔らかくなっているが、完全に粥のように崩れてはいない。
表面には焼いた部分の香ばしさが残り、根玉葱の甘さと塩漬け肉の塩気、乳酪の濃さがパンへ染み込んでいる。
「美味しい」
「よかった」
「これなら古いパンでも売れますかね」
「料理として?」
「はい」
「店で出すならありかもしれないです」
「新しいパンより?」
「比べなくていいんじゃないですか?」
悠斗が答えた。
◇
「焼きたてのパンは焼きたてで食べればいい。硬くなったらこういう料理にできる」
「役割が違う?」
「そうですね」
エマは先ほどグレンから言われたことを思い出した。
硬いパンは巡回に向いている。
柔らかなパンは休憩室で食べやすい。
それなら、自分が父とは違うパンを作ることも、父のパンを否定することにはならないのかもしれない。
「エマさんのパンって、どんなのです?」
ミレイアが尋ねた。
「父のより柔らかいです」
「何で?」
「発酵を少し長く取って、水分も少し多めにします」
「味は?」
「香りは強いと思います」
◇
「父親は何て?」
「まだ早い、と」
「それだけ?」
「はい」
「じゃあ何が駄目か聞いてない?」
「聞いてません」
「やっぱりそこですね」
エマは小さく息を吐いた。
「分かっています」
「今日帰ったら聞く?」
「……たぶん」
「怖い?」
「怖いです」
「何が?」
「本当に下手だから売らせてもらえないのかもしれない」
「それなら、どこが下手か分かった方が直せるんじゃないですか?」
悠斗が言う。
◇
「そうなんですけど」
「聞いたら終わりじゃないでしょう」
「でも父は職人です」
「エマさんも職人じゃない?」
「まだ父ほどじゃありません」
「同じじゃなくてもいいと思います」
エマは皿の中のパンを見た。
「父のパンと同じくらい上手くなってから、自分のパンを出すべきだと思っていました」
「同じパン作りたい?」
「いいえ」
返事は早かった。
「私は、もう少し柔らかくて香りの強いパンを作りたいです」
◇
「なら、それを見てもらえばいいんじゃないですか」
「父が嫌いかもしれません」
「それも聞く?」
「……はい」
「好みと技術は別ですよね」
悠斗が何気なく言う。
エマが顔を上げた。
「今、何て?」
「好みと技術は別かなと」
「父が嫌いだから売れない可能性もある?」
「あるかもしれないし、本当に技術が足りないかもしれない」
「結局聞かないと分からない?」
「そうですね」
エマは少しだけ笑った。
◇
グレンにも同じ重ね焼きが少量出された。
「これ、巡回には向かんな」
一口食べたグレンが言う。
「いきなり悪いところから言います?」
ミレイアが笑う。
「汁気があるから持ち歩けん」
「でも?」
「ここで食うならうまい」
「やっぱり使う時で変わる?」
エマが尋ねる。
「そう言っただろ」
「じゃあ、柔らかいパンが店に増えても?」
「朝に食うなら買うかもしれん」
「硬い方は?」
「巡回用に残せ」
「両方買う?」
「必要ならな」
グレンはそれだけ言って食事を続けた。
◇
エマはその日、《持ち込み食堂》を出てから真っ直ぐ《麦穂亭》へ戻った。
午後の店内には焼き上がったパンがいくつか残り、父バルトが翌朝分の粉を確認している。
「遅かったな」
「少し寄り道してた」
「どこへ」
「西区の食堂」
「飯か」
「古いパンを料理してもらった」
バルトが一瞬手を止めた。
「うちのパンを?」
「四日前のやつ」
「食えたか」
「美味しかった」
「そうか」
父はそれだけ言って再び粉袋へ向き直った。
◇
「父さん」
「何だ」
「聞きたいことがある」
「言え」
その短い返事を聞いた時、エマの胸が少し強く鳴った。
今まで何度も聞こうと思った。
けれど、いつも途中でやめてきた。
事故のことを持ち出されるのが嫌だった。
技術が足りないと言われるのも怖かった。
それでも、今日はここまで来た。
「私のパン、何が駄目なの?」
バルトが振り返った。
◇
「何の話だ」
「いつも《まだ早い》って言うでしょう」
「ああ」
「何が早いの?」
「何がって」
「発酵?」
「……違う」
「成形?」
「それも悪くない」
「窯の温度?」
「最近は問題ない」
「じゃあ何?」
バルトが黙った。
エマは胸の奥に溜めていたものが少しずつ出てくるのを感じた。
「何が駄目なのか言ってくれないと、直せない」
「別に全部駄目とは言ってない」
◇
「じゃあ、何で売らせてくれないの?」
「まだ早いと思ったからだ」
「だから、何が?」
「……」
「父さん」
エマは父の顔を見た。
「ちゃんと今の私を見て」
バルトの表情が止まる。
「十五歳の私じゃなくて」
厨房が静かになった。
通りから聞こえる声と、窯の中で薪が崩れる小さな音だけが残る。
◇
「事故のことを言ってるのか」
「そう」
「それとパンは別だ」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ何が早いの?」
バルトは答えなかった。
「父さんが見てるの、今の私じゃないでしょう」
「違う」
「じゃあ説明して」
「……」
「私、もう二十四だよ」
「分かってる」
「九年経ってる」
「分かってる」
「なら、何で窯へ行くたび見に来るの?」
バルトの顔が強張った。
◇
「危ねえからだ」
「今でも?」
「火はいつでも危ない」
「父さんだって使うでしょう」
「俺は慣れてる」
「私だって九年やってる」
「九年じゃ」
「十五歳の時よりは慣れてる」
バルトが口を閉じた。
エマは一度息を整えた。
「私、あの日失敗した」
「ああ」
「勝手に窯を開けたのも悪かった」
「そうだ」
「でも、あれから一度も同じことしてない」
「分かってる」
「なら、今の私が危ないなら、今の理由で止めて」
◇
「昔の事故だけで止めないで」
バルトはしばらく娘を見た。
やがて、低い声で言った。
「あの時、お前は死んでもおかしくなかった」
エマは黙った。
「扉の前にもう少し近く立ってたら、顔を全部焼いてた」
「うん」
「俺が帰ってきた時、お前の前髪が焦げてた」
「覚えてる」
「手も赤くなってた」
「覚えてる」
「俺は」
バルトはそこで言葉を止めた。
◇
「俺はあの時、本当に駄目だと思った」
「何が?」
「お前が死んだと思った」
エマは父がそんな言い方をするのを初めて聞いた。
「だから窯を見ると?」
「今でも思い出す」
「九年経っても?」
「そういうもんは勝手に消えん」
バルトは腕を組んだ。
「お前がちゃんとできるようになったのは分かってる」
「じゃあ」
「でも、見ないでいると落ち着かん」
「それは父さんの問題じゃない?」
エマが言うと、バルトが少し顔をしかめた。
◇
「言うようになったな」
「今日いろいろ言われたから」
「誰に」
「知らない料理人と門番」
「何だそれは」
「でも、間違ってないと思う」
エマは続けた。
「父さんが怖いのは分かった。私もあの日は怖かった。でも、九年経った」
「ああ」
「今の私が危ないなら止めて。火の扱いが悪いなら言って。生地が駄目ならそれも言って」
「……」
「でも十五歳だから駄目、はもうやめて」
バルトは長く息を吐いた。
◇
「分かった」
その返事は、エマが思っていたより早かった。
「本当に?」
「ただし危ねえ時は止める」
「今の私が危ないから?」
「そうだ」
「それならいい」
「それと、お前のパンの話は別だ」
エマの肩に力が入った。
「やっぱり駄目?」
「駄目とは言ってねえ」
「じゃあ何?」
バルトは少し嫌そうな顔をした。
「俺は、お前のパンがあまり好きじゃねえ」
エマは数秒黙った。
◇
「……え?」
「柔らかすぎる」
「それだけ?」
「香りも強すぎる」
「発酵が長いから」
「分かってる」
「技術が足りないってこと?」
「違う」
「じゃあ?」
「俺の好みじゃねえ」
エマはしばらく父を見た。
「好み?」
「俺はもう少し噛み応えがある方が好きだ」
「だから売らせなかった?」
バルトが少し目を逸らした。
「そこは俺が悪かった」
◇
「どうして?」
「俺が好きじゃないものを客へ出す気になれなかった」
「でも、客も嫌いとは限らない」
「分かってる」
「今は?」
「分かってるから困ってる」
バルトは頭を掻いた。
「お前のパン、失敗じゃねえんだよ」
「本当に?」
「発酵もできてる。形も悪くない。焼きも最近は安定してる」
「じゃあ何で、もっと早く言ってくれなかったの」
「……俺も分けて考えてなかった」
エマは思わず額へ手を当てた。
◇
「父さんもなの?」
「うるせえ」
「九年ずっと?」
「全部九年じゃねえ」
「でも長いでしょう」
「そうだな」
バルトは小さく息を吐いた。
「事故のこともあった。俺の好みもあった。それに、自分の店へ自分が好きじゃないパンを並べるのが嫌だった」
「それならそう言って」
「言いにくかった」
「父さんでも?」
「俺だって何でも言えるわけじゃねえ」
エマは少し笑った。
「初めて聞いた」
「笑うな」
◇
「じゃあ、一回売ってみたい」
エマが言う。
バルトが眉を上げた。
「いくつ」
「十二個」
「多い」
「何個なら?」
「六個」
「少なすぎない?」
「初回だろ」
「じゃあ八個」
「六」
「七」
「面倒だな、お前」
「父さんの娘だから」
バルトが少しだけ笑った。
「七でいい」
「本当に?」
「ただし配合を見せろ」
「口出す?」
「職人として変だと思えば言う」
「好みなら?」
「好みだと言う」
◇
「それなら聞く」
エマはすぐに自分の配合帳を持ってきた。
粉、水、塩、酵母の量と発酵時間が書いてある。
バルトは何度か数字を追い、指で一か所を叩いた。
「塩、少ない」
「そう?」
「少ない」
「柔らかくしたいから控えてる」
「柔らかさとは別だ」
「味が薄い?」
「ああ」
「父さんの好み?」
「そこは技術の話だと思う」
「分かった」
エマは配合帳へ印をつけた。
「試す」
「言われたから?」
「私も少し薄いと思ってたから」
◇
翌朝、エマは自分の配合で七個分のパンを仕込んだ。
塩だけは父の指摘を参考にして、ほんの少し増やす。
発酵時間は変えない。
水分も減らさない。
父のパンとは違う柔らかさと香りを残す。
成形を終え、窯へ入れる時間が近づく。
バルトがいつものように近づいてきた。
エマは父を見た。
「何?」
「窯の左側、少し火が強い」
「本当?」
「見てみろ」
エマは窯の内部を確認した。
◇
「確かに左が強い」
「どうする」
以前なら、バルトが先に置く位置を指定しただろう。
その日は聞いてきた。
「右寄りに置く」
「端は?」
「焼けにくいから少し中央へ戻す」
「それでやれ」
「父さんは?」
「見る」
「手は出さない?」
「危なくなければな」
「分かった」
エマは自分でパンを窯へ入れた。
父の顔ではなく、火の状態を見ながら。
◇
焼き上がった七個のパンは、父のものより少し丸く、表面も柔らかそうに仕上がった。
香りも強い。
「どう?」
エマが聞く。
バルトは一つを割った。
湯気が上がる。
中を確認し、少し食べる。
「塩はこれでいい」
「他は?」
「柔らかい」
「それは狙ってる」
「知ってる」
「商品としては?」
バルトはしばらく噛んだあと、答えた。
「出してみろ」
◇
七個のパンは、父の通常のパンとは少し離した棚へ置かれた。
札には《やわらか麦パン・試作》と書いた。
朝の客が何人か来る。
常連の老人はいつもの硬めのパンを買った。
その次に来た若い女性が、新しいパンを一つ選んだ。
「これ、初めて見るわね」
「試作です」
エマが答える。
「柔らかい?」
「いつものものより柔らかいです」
「じゃあ一つ」
売れた。
その後も少しずつ手が伸びた。
◇
昼前までに、七個のうち五個が売れた。
残った二個を見て、エマは少し複雑な顔をした。
「全部じゃなかった」
「初日で五なら悪くねえ」
バルトが言う。
「本当に?」
「珍しいから買った奴もいる」
「じゃあ明日は?」
「七は多い」
「また六って言う?」
「六でいい」
「減らすの?」
「初日の物珍しさがある。何日か見ろ」
エマは少し考えて頷いた。
「分かった」
◇
「残り二つはどうする?」
バルトが尋ねる。
「明日売る?」
「お前のパンは柔らかい分、明日には少し落ちる」
「じゃあ家で食べる?」
「それでもいい」
エマはそこで《持ち込み食堂》の料理を思い出した。
「別の食べ方にする」
「何をする」
「卵と乳に浸して、肉と玉葱を挟んで焼く」
バルトが怪訝な顔をした。
「パンを?」
「美味しいから」
「誰に教わった」
「西区の店」
「またそこか」
「今度食べてみる?」
「……作れたらな」
◇
その夜、エマは残った自分のパンで《麦パンの重ね焼き》を作った。
悠斗が作ったものと全く同じではない。
乳の量が少し多くなり、根玉葱も厚く切りすぎたため、最初の一皿より水分が多かった。
「少し柔らかすぎた」
エマが言う。
「パンも元から柔らかいからな」
バルトが食べながら答える。
「じゃあ次は乳減らす」
「卵も少し減らせ」
「それは父さんの好み?」
「これは食感の話だ」
「本当に?」
「疑うな」
エマは笑った。
◇
数日が過ぎても、柔らかいパンは全て売り切れるわけではなかった。
四個しか売れない日もあれば、昼前に六個全部なくなる日もある。
客の反応も分かれた。
父のパンの方が噛み応えがあって好きだという者もいる。
柔らかい方が朝に食べやすいという者もいる。
どちらが正しいという答えは出なかった。
エマはそれでよいと思うようになった。
父のパンを消して、自分のパンへ置き換えたいわけではない。
◇
ある朝、グレンが《麦穂亭》へやって来た。
「いらっしゃいませ」
エマが声をかける。
「今日は巡回?」
「ああ」
グレンはいつものパンを二つ取った。
それから柔らかいパンの棚を見る。
「それ、まだあるのか」
「毎日六個だけ」
「一つくれ」
「巡回なのに?」
「今食う」
「なるほど」
グレンは柔らかいパンを一つ買うと、その場で少しちぎった。
◇
「どう?」
エマが聞く。
「前より塩があるな」
「分かるんですか?」
「前のは食ってない」
「じゃあ何で?」
「普通に味が薄くないって意味だ」
「そういうこと」
「悪くない」
「また買う?」
「腹次第だ」
「もう少し褒めてくれてもいいのに」
「客にそこまで求めるな」
グレンはいつもの硬めのパンを袋へ入れ、柔らかい方を食べながら西門へ戻っていった。
◇
その日の昼、バルトがエマへ声をかけた。
「次の生地、塩どうする」
「今のまま」
「もう少し増やしてもいい」
「それは父さんの好み?」
「半分は」
「じゃあ今のまま」
「そうか」
バルトはそれ以上言わなかった。
エマは自分の配合帳へ今日の日付を書き、気温、発酵時間、焼き時間、売れた数を記録した。
父の配合帳を写したものではない。
自分で使うために、自分で始めた記録だった。
◇
窯へ次の六個を入れる時、バルトは少し離れた場所にいた。
何も言わない。
エマは一瞬、父の顔を見そうになった。
けれど途中でやめた。
見るべきなのは父の表情ではない。
火の強さ、生地の膨らみ、表面の色、窯の中でどこから先に焼けていくのかという、自分が仕事をするために必要なものだった。
もし危険なことをすれば、父は止めるだろう。
技術的におかしいところがあれば、言ってもらえばいい。
ただし、それを聞くかどうかも、聞いたあとどう直すかも、今のエマ自身が考えることだった。
◇
バルトもまた、以前のように娘の手元を最初から最後まで指示することはしなかった。
完全に心配しなくなったわけではない。
窯の扉が開くたび、九年前の光景が頭へ浮かぶこともある。
それでも、その恐怖を理由に現在の娘の判断まで止め続けることは、少しずつやめようとしていた。
「エマ」
「何?」
「右奥、色見ろ」
エマが窯を確認する。
「少し濃い」
「どうする」
「位置変える」
「そうしろ」
エマは自分で判断してパンの位置を入れ替えた。
◇
六個のパンが焼き上がる。
表面の色は揃い、指で押すと柔らかく戻る。
エマは一つずつ確認してから棚へ並べた。
父のパンは、その隣にある。
見た目も、硬さも、香りも少し違う。
どちらか一方を選ばなければ店として成り立たないわけではなかった。
必要なら客が選ぶ。
その日の用途に合わせて買い分ける人もいる。
父自身が好まないからといって、客にも価値がないとは限らない。
◇
だからといって、エマのパンが完成したわけでもない。
売れ残る日もあり、発酵が進みすぎて香りが強くなりすぎる日もあった。
父から指摘されれば腹が立つこともある。
それでも、今ではその度に聞くようになった。
「それは技術の話?」
「好みの話?」
バルトも最初は面倒そうな顔をしたが、少しずつ答えを分けるようになった。
「焼きが浅い。これは技術だ」
「俺はもっと硬い方が好きだ。これは好みだ」
そう言われれば、エマも直すべきことと、自分で残したいものを分けて考えられる。
◇
一週間ほど経った朝、エマは六個分の生地を仕込み、塩の量をほんの少しだけ調整した。
父に言われたからではなく、自分でも前日のパンを食べて、もう少しだけ塩味が欲しいと思ったからだった。
配合帳には変更した量と理由を書く。
《塩をわずかに増やす。父の指摘と自分の試食が一致したため》
書き終えると、エマは生地を丸めた。
バルトが後ろを通ったが、何も言わない。
「見ないの?」
エマが尋ねる。
「何を」
「今日の配合」
「焼けてから見る」
「珍しい」
「お前のパンだろ」
◇
エマは少しだけ笑った。
九年前の事故がなくなったわけではない。
父があの日を忘れたわけでも、自分が全ての技術を身につけたわけでもなかった。
それでも、十五歳の自分と二十四歳の自分を同じところへ置いたままにする必要はない。
失敗したなら今の失敗として直し、足りない技術があるなら今の自分が学べばいい。
父の意見を聞くことは負けでもなく、父と違うものを作ることは反抗でもなかった。
◇
窯の温度が上がる頃、エマは六つの生地を焼き板へ並べた。
以前なら、父がどんな顔をしているかを横目で確かめていた。
その日は、窯の中へ手を近づけて熱を読み、炎の偏りを見て置く位置を決めた。
バルトが見ていることは分かっている。
けれど、父が不安そうか、満足そうかを判断材料にはしなかった。
窯へ入れるべき状態かどうかを、自分が作った生地と火の様子から確かめる。
そして十分だと判断すると、自分の配合帳に記した六個のパンを、自分が選んだ位置へ一つずつ並べて窯の中へ入れていった。
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