第78話 中身の少ない空殻実と、役に立たないものを残せない修繕屋
ラウル・フェインは四十三歳になる人間の男性であり、レーヴェン西区の職人通りから二本ほど外れた静かな路地で、《継ぎ輪修繕店》という小さな工房を営んでいた。黒に近い焦げ茶色の髪は作業中に額へ落ちないよう短く刈り、細身の顔には金具や木材を見極める時の癖で眉間へ浅い皺が刻まれている。大柄な男ではないものの、革を引き、木枠を押さえ、固い留め具を何度も締めてきた腕には無駄のない筋肉がつき、左手の親指には刃物で浅く切った古い傷が何本も重なっていた。
店へ持ち込まれる品は、家具職人や鍛冶屋が本格的に扱うほど大きくなく、それでも壊れたまま使い続ければ困るものが多い。旅人の鞄から外れた留め具、農具の緩んだ柄、宿屋の椅子の脚、木箱の蝶番、荷車へ取り付けられた小さな金具、雨戸の割れ、革袋の口紐、古い道具箱の蓋など、材質も形も毎日違っていた。
そのためラウルは、修理技術そのものと同じくらい、「自分が直すべきものか」を判断することを大切にしていた。刃物の刃そのものを鍛え直すなら鍛冶屋へ持っていくべきであり、彫刻の入った高級家具なら専門の木工職人へ頼んだ方が仕上がりはよい。魔道具の核へ手を出すこともなく、自分が責任を持てる範囲を越える依頼は、客が困っていても別の職人を紹介する。
修理する価値があるかについても、客へは率直だった。
「ここを直せば使える。ただ、修理代で新品の半分以上はかかるよ。仕事道具として使うだけなら、新しい方を買った方がいい」
そう説明したうえで、客がそれでも直してほしいと言えば引き受ける。
無理に仕事を取らないため、初めて来た客からは冷たい印象を持たれることもあったが、常連になる者ほどラウルの説明を信頼していた。
物を長く使えるようにする仕事をしているからといって、ラウル自身が「古いものは何でも残すべきだ」と考えているわけではない。むしろ反対で、使えなくなった部品や、今後役に立つ見込みの薄い端材をいつまでも抱えることを嫌っていた。
曲がりすぎた釘。
腐食して強度を失った蝶番。
指の長さにも満たない革紐。
割れの深い板切れ。
壊れた金具。
そうしたものを「いつか使うかもしれない」と棚へ積み続ければ、いざ必要な材料を探す時に邪魔になる。工房には限られた広さしかなく、作業台を物で埋めれば、それだけ仕事も遅くなる。
《継ぎ輪修繕店》の中がいつも整っているのは、その考えがあったからだった。
工具は決めた位置へ戻す。
使える革と木材は種類ごとに分ける。
古い金具を残す場合も、今後使える見込みがあるものだけにする。
床へ何年分もの端材を積み上げない。
そこまでは、何も間違っていなかった。
問題は、ラウルの中で「今すぐ修理材料として使えないもの」と「もう役に立たないもの」が、いつの間にかほとんど同じ意味になってしまったことだった。
以前は材料だけに向いていたその考えが、最近では失敗した試作品、古い型の見本、若い職人が学ぶために残しておきたい加工跡にまで広がっていた。
使えないなら捨てる。
失敗したなら、次に成功すればいい。
過去の失敗を棚へ置いておくより、腕で覚えた方が早い。
ラウルは本気でそう考えていたが、そのやり方に疑問を持つ者が、同じ工房の中に一人だけいた。
◇
ラウルが修繕の仕事へ入ったのは十五歳の時で、父は街道沿いの荷車置き場で車輪や軸を点検する仕事をし、母は市場で縄や布袋を扱う店の手伝いをしていた。家には壊れた日用品がよく持ち込まれ、父が夕食後に緩んだ車輪金具を締めたり、母が破れた袋を縫ったりする姿を見ながら育ったため、幼い頃から「壊れたものが、どこで壊れたのか」を見ることが好きだった。
ただし、好奇心は時々余計な方向へ向かった。
壊れた木箱を見つけると蝶番を外す。
動かない留め具があれば中を開く。
父がまだ直せると思っていた道具まで分解し、
「元へ戻せないなら、勝手に外すな」
と何度も叱られた。
それでも、壊れたものを直す仕事への興味は消えなかった。
十五歳になると、父の知り合いだった修繕職人ザイスの工房へ弟子入りした。
その工房は、現在の《継ぎ輪修繕店》とは正反対だった。
壁には古い金具や片方だけ残った取っ手が吊られ、棚には何の木だったかも分からない端材が何十本も並び、天井近くには壊れた籠や、いつ外したのか分からない革紐まで積まれていた。
初めて中へ入ったラウルは、職人の工房というより古物倉庫だと思った。
「これ、全部使うんですか」
初日に聞いた。
ザイスは作業台から顔も上げずに答えた。
「全部は使わん」
「じゃあ捨てればいいでしょう」
「そのうち使うかもしれん」
「いつです?」
「知らん」
若いラウルには、その考えが理解できなかった。
実際、何年も一度も動かない部品があった。
錆びた蝶番。
折れた椅子の脚。
小さすぎる木片。
片方だけの取っ手。
それでも、ごく稀に、残してあったものが役に立つ。
古い旅鞄の修理を受けた時には、現在使われている留め具と幅が合わず、新品をそのまま取り付けることができなかった。
ザイスは棚の奥を半刻ほど探し、錆びた古い留め具を一つ出した。
「似てる」
ラウルが言った。
「それを使うんですか?」
「これは使わん。錆びすぎてる」
「なら何で出したんです」
「寸法と形を見る」
古い留め具を見本にし、新しい金具を削って同じ形へ近づける。
修理はうまくいった。
その時ばかりは、ラウルも残しておく意味を認めた。
ただし一つの部品が役に立つまでに、周囲には何十個もの不要品が積まれている。ザイス自身も整理が苦手で、必要な金具を探すため半日使ったり、持っていることを忘れて同じ材料を新しく買ったりしていた。
二十歳を過ぎた頃には、ラウルの方が工房の整理を任されるようになった。
「残すなら、せめて何がどこにあるか分かるようにしましょう」
「その通りだ」
「分かってるなら自分でやってください」
「お前がやった方が早い」
結局、ラウルが棚を作り直した。
修理材料として再利用できるもの。
旧型部品の見本。
木材の端材。
処分するもの。
分類すると、工房は以前よりかなり使いやすくなった。
その経験によって、ラウルは一つのことを強く信じるようになった。
残すことそのものに価値があるのではない。
何のために残すのかを選ばなければ意味がない。
その考えは正しかったはずである。
二十八歳になる頃、ザイスは年齢を理由に仕事を減らし、ラウルへ主要な依頼を任せるようになった。その時期に、後のラウルへ影響する出来事がもう一つ起きた。
小型の木箱を十個、まとめて修理する仕事だった。
どの箱も蝶番が壊れ、蓋が少し歪んでいる。
一箱目で修理方法を決める。
古い蝶番を外す。
蓋の端を削る。
新しい金具をつける。
問題なく直った。
そのまま二箱目、三箱目と同じ方法で進める。
ところが八箱目だけ木材の乾燥具合が違い、同じ場所へ同じ太さの釘を入れたところ、板に細い割れが走った。
交換用の板を加工することになり、予定よりかなり手間が増えた。
「一箱目の古い蝶番、残ってるか」
ザイスが聞いた。
「捨てました」
「削った木片は?」
「使えないから捨てました」
「そうか」
責める声ではなかった。
しかし一箱目から外した部品や木片があれば、八箱目との材質や歪み方の違いを比較できた可能性があった。
「全部残せってことですか」
ラウルが不満そうに聞く。
ザイスは首を振った。
「違う。何のために残すか決めろってことだ。部品として使えなくても、比較に使えるものはある」
その言葉も、ラウルは覚えた。
ただし独立して自分の工房を持つ頃には、「師匠のように何でも残す店にはしたくない」という気持ちの方が強くなっていた。
最初は、明らかに不要なものだけを処分した。
次に、今後使う可能性が低いものを捨てた。
やがて、「使い道を今説明できないもの」を残さなくなった。
そこからさらに、「修理材料として使えないもの」まで必要ないと考えるようになった。
本人には、その変化があまり見えていなかった。
◇
現在、《継ぎ輪修繕店》では二十三歳になる青年トビンがラウルと一緒に働いている。薄い茶色の髪を額の上で分け、父親は革職人だったが、本人は革だけでなく木や金属まで扱える修繕の仕事を選び、十九歳の時からラウルの店へ通い始めた。
手先は器用だった。
覚えも遅くない。
客への説明も丁寧で、ラウル自身、いずれは一人で多くの仕事を任せられると思っている。
ただし、物を残すことについてだけは考えが合わなかった。
トビンは失敗した部品を残したがる。
熱を入れすぎて曲げた金具。
削りすぎて薄くなった木片。
糸を強く引きすぎた革の試し縫い。
初めて扱った材料で失敗した時の端材。
しかも無造作に作業台へ積むのではなく、小さな木箱を三つ用意し、《失敗見本》《旧型金具》《加工試験》と分けて入れていた。
ラウルから見れば、整理されていても「使えないものを保管している」という事実は同じだった。
ある朝、失敗見本の箱から曲がった金具を一つ取り出した。
「これは捨てていいだろ」
「駄目です」
「何に使う」
「昨日、熱を入れすぎたやつです。同じ厚さの金具を曲げる時に、色と変形を比べたいので」
「色なら覚えろ」
「一回しかやってません」
「次にやれば覚える」
「比較した方が分かりやすいです」
ラウルは渋い顔をした。
「一個だけにしろよ」
「一個しかありません」
確かに同じ失敗品を何枚も残しているわけではない。
仕方なく戻した。
別の日、トビンが古い鞄から外した留め具を《旧型金具》へ入れようとした。
「それは何だ」
「今の規格と幅が違うので、見本に」
「そんな古い型、次いつ来るんだ」
「分かりません」
「ならいらない」
「もし来た時に元の金具が完全に壊れてたら、形分からないですよ」
「その時は残ってる部分から測る」
「見本があった方が早いです」
「何でも残してたら、師匠の店みたいになる」
「俺、何でも残してません」
トビンの声も少し強くなった。
ラウルも分かっていた。
箱は三つとも小さい。
作業台を占領するほどではない。
必要がなくなったものを、トビン自身が処分することもある。
それでも、将来増えていく様子が頭に浮かぶと落ち着かなかった。
一つを許せば二つになる。
三つの箱が五つになる。
そのうち棚が古い部品だらけになる。
そんな未来を避けるため、今から減らしておいた方がよいと思っていた。
数日後、宿屋から折り畳み式の小さな木台が六脚持ち込まれた。
客室で鞄や水差しを置くための台で、脚を開いた時に固定する金具が長年の使用で摩耗している。
六脚のうち五脚は同じ構造だった。
一脚だけ、過去に別の職人が修理したらしく、金具の形と支点位置がわずかに異なる。
ラウルは五脚の古い金具を外し、新しいものへ交換した。
外した部品は、作業が終わるたび廃材箱へ入れる。
トビンがそのうち一つを拾った。
「これ、一個だけ残していいですか」
「何で」
「最後の一脚、構造違いますよね。比べるかもしれないです」
「五脚直したんだから寸法は取ってある」
「でも支点違います」
「その一脚を測ればいい」
ラウルは残さなかった。
最後の一脚へ取りかかる。
トビンの言った通り、支点位置は違った。
それだけではなく、以前の修理で木部も削られており、新しい金具をそのまま合わせると端が干渉する。
別の五脚とどこが違うのか、もう一度寸法を帳面から確認する。
金具を削る。
一度合わせる。
まだ当たる。
さらに削る。
修理そのものはできた。
しかし、通常なら半刻ほどで終わる作業へ、その倍近い時間を使った。
トビンは何も言わなかった。
それがかえってラウルを苛立たせた。
「言いたいことあるなら言え」
「残しておけば、比較は早かったかもしれないです」
「なくても直った」
「はい」
「ならいいだろう」
トビンは少し迷ってから答えた。
「直るかどうかだけなら、そうです」
ラウルの眉が動いた。
「修繕屋の仕事は、直すことだ」
「次に早く直すために残すものもあると思います」
「使えない部品を山ほど残してか?」
「山ほど残してません」
今度ははっきり反論された。
「ラウルさん、最近は『今ここで部品として使えない』だけで捨てすぎです。比較とか見本に使うって言っても、材料にならないなら全部同じに見てる」
店の空気が重くなった。
ラウルは、
「仕事に戻れ」
とだけ言い、その日はそれ以上話さなかった。
ただ、帰宅してからもトビンの言葉は残った。
使えないものを残している。
自分はそう見ている。
トビンは、別の使い方をしようとしている。
それでもラウルの中では、「役に立たないものを増やしたくない」という感覚の方がまだ強かった。
◇
数日後、ラウルは修理に使う革紐と小さな金具を買うため、西区の市場へ出た。
必要なものを揃え、帰り道に果物を扱う露店の前を通ったところ、見慣れない大きな実が積まれていることへ気づいた。
両手で抱えられるほどの大きさがあり、外側は灰褐色の硬い殻に覆われている。殻には細い緑色の筋が何本も走り、果物というより、大きく育ちすぎた木の実に近い。
「それ、食べ物か?」
ラウルが尋ねる。
露店の男が笑った。
「《空殻実》だ。南西から来たやつ」
「名前からして中身なさそうだな」
「完全に空じゃないよ。ただ殻の割に中身が少ない」
一個を手に取る。
見た目ほど重くない。
「どのくらい食べられる?」
「三分の一もないと思う。硬い殻の内側が空洞になって、その壁へ果肉が何房かついてる」
「残りは?」
「殻は燃料にする人もいる。南西じゃ煮出して料理の香りづけにする地域もあるらしい。種も煎れば食べるとか」
「らしい?」
「俺は果物として売ってるだけだからな」
ラウルには、かなり効率の悪い食材に見えた。
大きい。
割るのにも手間がかかる。
その割に食べられる部分が少ない。
「こんなの誰が買うんだ」
「香り好きな人は買うぞ。中身、食べてみるか?」
見本として割られていた一個から、薄い膜に包まれた淡い琥珀色の果肉を一房もらった。
口へ入れる。
思ったより甘い。
柑橘ほど鋭くはないが、花の香りと乾いた木の皮を合わせたような独特の匂いが鼻へ抜ける。
「味は悪くない」
「だろ」
「でも少なすぎる」
「そういう実なんだから仕方ない」
どうしてか一個だけ買った。
工房へ戻り、小槌を使って割る。
中には確かに大きな空洞がある。
果肉は四房。
中央へ黒褐色の大きな種が二つ。
殻の内側には白い膜が厚くついている。
果肉を皿へ取り出すと、外見の大きさから想像する量よりはるかに少なかった。
「本当に殻ばっかりだな」
ラウルは残ったものをまとめて捨てようとした。
そこで露店の男の言葉を思い出す。
殻は煮出すことがある。
種も煎れば食べられる。
白い膜まで使えるとは聞いていない。
適当に全部鍋へ入れ、食べられないものにするくらいなら、扱いを知っている者へ聞いた方がよい。
以前、客から《持ち込み食堂》という店の話を聞いたことがある。
翌日の昼、果肉だけでなく殻と種も袋へ入れ、その店を訪れた。
ミレイアは、ラウルが作業台へ出した大きな殻を見て驚いた。
「これで一個?」
「そう。食べられるところはこれだけだ」
別皿の果肉を見る。
「少ないですね」
「買ってから損した気分になった」
悠斗も厨房から出て、殻を確認した。
「空殻実ですね。果肉は前に一度だけ食べたことがあります」
「殻を煮出すって聞いた」
「そういう地域があるのは聞いてます。ただ、俺も殻から料理するのは初めてなので、少しずつ試します」
「料理人でも知らないのか」
「知らないものはあります。知ってるふりして全部入れる方が怖いので」
悠斗は殻の内側を軽く削り、白い膜と外側の硬い部分を別にした。
「白い膜、かなり苦い匂いしますね。ここは今日は使わない方がよさそうです」
「捨てる?」
「使いません」
ラウルは少し安心した。
何でも価値があるから全部使おう、と言われたら納得できなかっただろう。
「外側の硬い殻は香りがあります。よく洗って、少量だけ煮出してみます」
白い膜をできるだけ除いた殻を小さく割り、水と一緒に弱火へかける。
しばらくすると、湯気へ果肉とは少し違う穏やかな木の香りが混ざり始めた。
悠斗は味を見る。
「少し渋いですけど、短時間なら使えそうですね」
殻を鍋から取り出す。
「もう終わり?」
ラウルが聞く。
「長く入れると苦くなりそうなので」
「その殻は?」
「料理に使う役目は終わりです」
「捨てるんだな」
「はい」
使えないから捨てるのではなく、使った後だから手放す。
言葉にすれば小さな違いだった。
それでもラウルの耳には、妙に残った。
黒褐色の種についても、一個だけを弱火の鉄板でゆっくり煎った。
香ばしい匂いが出る。
殻を割ると、中には白っぽい実が入っていた。
少量食べる。
「木の実みたいだ」
ラウルが言う。
「少し苦味ありますけど、果肉と合わせるならよさそうです。ただ、空殻実だから食べられるのであって、知らない果物の種を何でも煎るのは危ないです」
「そこまではしない」
悠斗は最終的に二品を作った。
一つは、空殻実の硬い殻から短時間だけ取った香りの煮汁へ白い鳥肉と根玉葱を加え、最後に果肉を入れて仕上げた《白肉と空殻実の香り煮》。
もう一つは、果肉と煎った種を刻み、白乳酪と合わせて薄い生地へ載せて焼いた《空殻実と煎り種の平焼き》。
白い膜は使っていない。
煮出した後の殻も皿には残らない。
全部を食べ切る料理ではなかった。
それでも、ラウルが最初に「食べられる部分」として見ていた果肉だけでは作れない味になっていた。
◇
香り煮を食べると、鳥肉と根玉葱の穏やかな旨味の奥へ、乾いた木を思わせる淡い香りが混ざっていた。最後に空殻実の果肉を噛むと、その香りの延長に甘味が広がる。
「殻から取った味って感じはしないな」
ラウルが言う。
「殻そのものを食べてるわけじゃないですからね」
「果肉だけで作ったら?」
「甘さは出ますけど、香りは少し単純になると思います」
平焼きでは、果肉の甘さへ煎った種の香ばしさと軽い苦味が加わっていた。
「種まで使えるとは思わなかった」
「今回は使えました」
「でも白いところは捨てた」
「はい。何でも使えばいいわけじゃないです」
その答えが、ラウルには一番納得しやすかった。
「最初、この殻ほとんどゴミだと思ってた」
ミレイアが尋ねる。
「今は?」
「全部役に立つとは思わない。白い膜は使わなかったし、殻だって香り取ったら終わりだろ。でも、最初から捨てるより一つ多く使い道はあった」
「使った後に捨てるのと、最初から役に立たないって決めるのは違います?」
「食材ならね」
そう答えた瞬間、トビンが残そうとした金具を思い出した。
修理部品として再利用できない。
だから捨てた。
しかしトビンが欲しかったのは部品ではない。
次の加工へ使う比較材料。
失敗の状態を確認する見本。
旧型部品の寸法。
使い方が違った。
「修繕屋なんだ」
ラウルは、ぽつぽつと自分の工房について話し始めた。
ザイスの工房が物で溢れていたこと。
独立後は同じことをしたくなくて、必要なものだけ残す店にしたこと。
若い職人トビンが、失敗品や古い部品を小さな箱へ残したがっていること。
「残し始めると、きりがないんだ」
ラウルは言う。
「一個残せば二個になる。いつ使うか分からないものを置いてたら、最後には必要な材料が埋もれる」
「それは困りますね」
悠斗は簡単に否定しなかった。
「だから捨ててる」
「トビンさんは、何に使うって言ってるんです?」
「比較。失敗の見本。次に似たものが来た時のため」
「じゃあ、使い道はあるんですね」
「材料としては使えない」
「ラウルさんの『使う』は、修理へ組み込むことなんですね」
ラウルが少し黙る。
「トビンさんは、情報として使うつもりなのかもしれない」
「そういうことになる」
「なら残すか捨てるかより、何のために、どれくらい残すかを決める方が合ってそうですね」
ラウルは、その言葉を聞いた途端、二十年以上前の師匠の声を思い出した。
『何で残すか決めろ』
忘れていたわけではない。
ただ、自分はいつの間にか「残す理由」を確かめる前に、「部品として使えるか」で判断するようになっていた。
「でも場所には限りがある」
「それも決めたらいいんじゃないですか」
ミレイアが言う。
「箱一つまでとか」
「今も箱一つずつしかない」
「じゃあ、今もう困ってる?」
ラウルは答えられなかった。
「これから増える」
「増えたら整理する?」
「簡単に言うな」
「でも未来で増えるかもしれないから、今使ってる見本まで捨ててるんですよね?」
そう言われると、確かにその通りだった。
ザイスのようになりたくないという気持ちが強すぎて、ザイスとは反対の失敗をしているのかもしれない。
「空殻実も全部残す必要はないです」
悠斗が、煮出し終えた殻を指した。
「白い膜は使わなかった。殻も役目が終わったら捨てる。でも香りを取る前に『果肉じゃないからいらない』って捨てたら、今日の煮込みは作れなかった」
「じゃあ何でも一回可能性探してから捨てろってこと?」
「そこまでやったら、厨房も片づかなくなります」
悠斗が笑った。
「ただ、『今の使い方では使えない』と『何の役にも立たない』が同じじゃないことはありますね」
ラウルは煮込みをもう一口食べた。
何でも残す必要はない。
全部に意味を探す必要もない。
ただし、自分が最初に考えた役割だけで、価値を決め切らない。
それくらいなら、工房でもできるかもしれなかった。
◇
翌朝、《継ぎ輪修繕店》へ入ったラウルは、最初に棚の隅へ置かれた三つの小箱を見た。
《失敗見本》。
《旧型金具》。
《加工試験》。
以前なら、見るだけで片づけたくなった。
今日はトビンへ声をかけた。
「その箱、全部出せ」
トビンが警戒する。
「捨てるんですか」
「先に見る」
作業台へ中身を並べる。
失敗見本には、曲がった金具が五個、削りすぎた木片が三枚、革の試し縫いが二枚入っていた。
「一個ずつ、何のために残してるか言え」
トビンは少し驚きながらも説明した。
「これは熱を入れすぎた金具です。隣が同じ厚さでうまく曲げられた方。次に色を比べるため、二個で一組です」
「なるほど。これは?」
「樫板を削る方向間違えて、端が裂けたやつです。木目に対してどこから削ると割れやすいか見るため」
「次いつ使う」
「同じ樫を扱った時です」
「一年来なかったら?」
トビンは少し考える。
「その時は、残す必要あるか見直してもいいです」
「分かった」
次に革の試し縫いを見る。
「これは?」
「糸を引く強さの見本……だったんですけど、これはもう覚えました」
「ならいらないな」
「はい」
トビン自身が処分した。
《旧型金具》も見る。
よく似た形が三つ入っている。
「三個必要か?」
「見比べると、これ一個でいいかもしれません」
「一番状態いいのだけ残せ」
二個を外す。
ラウルは作業台へ残った量を見た。
思っていたほど多くない。
「箱から溢れたら、増やす前に中を整理する」
「箱は増やさない?」
「今は増やさない。増やしたいなら、何で必要か話せ」
「分かりました」
「残した日付も書け。一年触らなかったら、残す理由をもう一度見る」
トビンが少し笑った。
「ラウルさんらしいですね」
「何が」
「残すものにも期限つけるところ」
「無限に棚使えるわけじゃないからな」
「でも、それなら俺もいいです」
初めて二人で「残すための基準」を決めた。
全部取っておくわけではない。
失敗品だから自動的に残すわけでもない。
何に使うのか。
今後もその役割があるのか。
同じものが複数必要なのか。
その条件を確認する。
数日後、若い女性が古い裁縫箱を持ち込んだ。
木製の小箱で、蓋の角が大きく欠け、片方の蝶番も外れている。
「直せますか」
ラウルが確認する。
同じ大きさの新品なら、修理代より安い。
「使うだけなら、新しい箱を買った方が安いです」
「そうですか」
女性の表情が少し曇る。
「何に使ってる箱?」
「母が裁縫道具を入れてました。母が亡くなってからは、私が使ってます」
ラウルは、もう一度箱を見る。
蓋の裏には針を刺した小さな跡が何十個もある。
側面には染み。
内部の仕切りにも使い込んだ傷がある。
蓋を丸ごと作り直せば、修理自体は簡単になる。
しかし、それでは母親が使っていた跡もかなり消える。
「蓋を全部新しくすると、この針跡もなくなります」
女性が触れる。
「できれば残したいです」
「なら欠けた角だけ新しい木で継ぐ。跡は見えるし、新品みたいにはならない」
「それでお願いします」
機能だけを考えれば、新品へ交換した方が効率はよい。
ただし客が残したいのは、「物を入れられる箱」という役割だけではなかった。
ラウルは本来、そのことを何度も見てきたはずだった。
だからこそ修繕屋へ、買い替えより高い金を払って古い品を持ち込む客がいる。
物の役割を一つに決めすぎていたのは、材料に対してだけではなかったのかもしれない。
◇
工房の基準を変えてから三週間ほど経った頃、トビンが初めて扱う南方産の柔らかな金属板を使う修理が入った。
普通の鉄と同じ感覚で叩いた一枚目は、想像以上に曲がりすぎた。
「これ、残していいですか」
トビンが尋ねる。
以前のラウルなら、失敗したなら次で成功しろと言っただろう。
今回は先に聞いた。
「何の見本にする」
「同じ厚さの板で、どの色まで熱を入れると曲がりすぎるか。成功した方も一枚残して比較したいです」
「なら一組だけ。一月後に必要か見直せ」
「はい」
三週間後、偶然にも同じ柔金を使う修理が来た。
トビンは見本を二枚並べ、火を入れた時の表面色と曲がり方を確認してから作業へ入った。
前回より明らかに早い。
「今回は一回で決まったな」
ラウルが言う。
「見本あったので」
「分かってる」
素直に認める。
一方で、すべての見本が後から役に立ったわけではない。
半年後、箱を整理した。
何度も使った金具がある。
一度も触らなかった木片もある。
「これは、同じ木材がもう仕入れられないので残しても比較できません」
トビンが言う。
「処分」
「この旧型留め具は、半年で同型が二回来ました」
「残す」
「この革の試し縫いは、もう手順覚えました」
「なら捨てよう」
箱の数は増えなかった。
ラウルが恐れていたように工房が古物で埋まることもない。
むしろ同じ失敗を避けられるようになり、若い職人へ説明する材料が増えたため、修理によっては以前より早くなった。
その頃、引退していた師匠のザイスが久しぶりに店へ顔を出した。
七十を越え、仕事はほとんどしていないものの、足腰はまだ丈夫だった。
「相変わらず綺麗な店だな」
「師匠の工房と違って」
「俺だって何がどこにあるかは分かってた」
「半日探してたでしょう」
「探してるうちに別のもの見つかるんだ」
「それを分からないって言うんです」
昔と同じやり取りに、トビンが横で笑う。
ザイスは棚の小箱へ気づいた。
「何だ、これ」
「見本」
「お前が失敗品残してるのか?」
「何でもは残してません」
「昔は一個でもすぐ捨ててたじゃないか」
「師匠が残しすぎだったからです」
「それは認める」
あっさり言われ、ラウルは少し拍子抜けした。
「昔、俺に言ったこと覚えてます?」
「何だ」
「何で残すか決めろって」
ザイスは少し考えた。
「俺、そんなまともなこと言ったか?」
「言いました」
「じゃあ自分で守ればよかったな」
「今さらです」
ザイスは箱の中を見る。
「でも、これくらいならいい。何なのか書いてあるし」
「師匠の店みたいにはしません」
「俺の最後の頃は、確かに酷かったな」
ラウルも笑った。
師匠のやり方を全部否定する必要はなかった。
同じように、師匠と同じ失敗を避けるため何も残さない必要もない。
残す意味と、手放す時を自分で決めればよかった。
◇
空殻実を最初に食べてから一月ほど経った頃、ラウルは市場で同じ露店を見つけた。
「また買うのか?」
店主が笑う。
「今度は二個」
「気に入ったな」
「殻の方も使えるって知ったから」
「最初は文句言ってたのにな」
一個は自宅で料理することにした。
前回と同じように殻の白い膜を除き、外側だけを煮出す。
ただし少し長く煮すぎた。
香りは強くなったが、渋味も出た。
「長すぎると駄目か」
ラウルは紙へ簡単に書いた。
『生殻。長時間煮出しは渋味強い。短時間向き。』
以前なら、自宅で一度失敗した料理の記録など残さなかった。
しかし、この紙なら場所は取らない。
次に同じ食材を使う時へ役に立つ。
二個目の殻は洗って乾燥させた。
数日後、乾いた状態で煮出す。
生の殻より香りは弱い。
その代わり、乾いた木のような穏やかな匂いになる。
これも紙へ書く。
試したからといって、商品にするわけでも、何か特別な用途を探し続けるわけでもない。
知りたいことが分かったら終わり。
使い終えた殻は捨てる。
そのくらいがラウルにはちょうどよかった。
秋へ近づいた頃、《継ぎ輪修繕店》へ年配の男性が古い折り畳み椅子を持ってきた。
座面の布は大きく破れ、脚の一つは根元から折れている。
「直せますか」
ラウルは構造を確認した。
直せないことはない。
ただし、同程度の新しい椅子を買うより修理代の方が高くなる。
「新しく買った方が安いです」
「それでも、これを使いたい」
「理由、聞いてもいいですか」
男性は椅子へ触れた。
「若い頃、妻と初めて長い旅へ出た時に買ったんだ。妻はもういないけど、これはずっと家で使っててね」
ラウルは、もう一度椅子を見る。
新しい木材へ全部替えてしまえば、見た目も強度も整えやすい。
しかしそれでは、古い椅子を直す意味が薄くなる。
「折れた脚は一部新しい木へ替えないと危ないです。座面の布も、今のままでは使えないので交換します。ただ、古い布の傷んでないところを少しだけ裏側へ残すことはできます」
男性が顔を上げた。
「残せる?」
「座る機能には何の意味もないです。でも見えないところへ縫い込むくらいなら」
「お願いしたい」
修理を始めた。
古い布を全部残す必要はない。
腐食した部分まで抱える必要もない。
傷みの少ない一片だけを切り取り、新しい座面の裏側へ縫い込んだ。
椅子の強度には関係しない。
座った時にも見えない。
それでも男性へ渡した時、
「ここへ古い布を残しました」
と裏側を見せると、男性は長く指で触れた。
「ありがとう」
それだけだった。
ラウルは、その作業を無駄だとは思わなかった。
同じ頃、少年が一本の古い木笛を持ち込んだこともあった。
吹き口の近くへ大きな割れが入っている。
安価な木笛であり、新品なら修理代よりはるかに安い。
「音を出したいだけなら、新しいの買った方がいい」
ラウルは先に説明した。
少年が木笛を握った。
「兄ちゃんにもらったんです。去年、王都へ働きに行って」
「帰ってくるのは?」
「来年くらい」
「直しても前と完全に同じ音にはならない。継ぎ目も残る。それでもいい?」
「はい」
「ならやる」
エイダという十七歳の新しい見習いが、その作業を横で見ていた。宿屋の家に生まれ、子どもの頃から壊れた椅子や桶を自分で直すのが好きだったという少女で、春から工房へ入り始めたばかりだった。
「新品の方が安いんですよね」
エイダが小声で尋ねる。
「安いよ」
「じゃあ何で直すんですか」
ラウルは少年の木笛を見た。
「そこは客が決めることだ。こっちは金額と直せる範囲を説明する。その上で、本人が残したい役目があるなら直す」
以前なら、自分からそう説明することはなかったかもしれない。
木笛の割れへ薄い木を継ぎ、内側を慎重に削る。
完成後、少年へ吹いてもらった。
以前より少し高い音になった。
「前と違う」
「完全には戻せないって言っただろ」
「でも吹ける」
「うん」
少年は笑った。
「これでいいです」
ラウルは代金を受け取った。
効率だけを考えれば、新しい笛を買う方がよい。
それでも修繕屋の仕事として、十分意味がある。
◇
エイダを教えるようになってから、ラウルは「失敗したものを残す意味」をさらに意識するようになった。
初日に木片を削らせると、力の入れ方が強すぎて片側だけ薄くなった。
「失敗です」
エイダが言う。
「部品には使えないな」
ラウルは木片を持ち上げる。
以前なら、そのまま廃材へ入れただろう。
「どこから薄くなったか分かる?」
「最後の方です。早く削ろうとして力入れました」
「じゃあそこへ印つけろ。一週間だけ残す」
「残すんですか?」
「次に同じ形削る時に比べる」
トビンが横から笑った。
「ラウルさんがそれ言うようになったんですよ」
「余計なこと言うな」
一週間後、同じ木片を見ながらもう一度削る。
エイダは前回薄くなった位置で手を緩め、二枚目を十分使える形へ仕上げた。
「最初のやつ、どうします?」
「もう見なくても分かる?」
「はい」
「なら役目は終わった。捨てていい」
エイダは少し考え、自分で廃材箱へ入れた。
残しておくこと自体が目的ではない。
必要な時に使い、必要がなくなったら手放す。
その判断まで含めて教えた方が、単に「失敗品を取っておけ」と言うより意味があった。
数か月後、ザイスの古い工房を完全に閉めることになり、ラウルとトビンは整理を手伝いに行った。
昔と同じように、棚には用途の分からないものが残っていた。
腐食して崩れかけた金具。
虫の入った木片。
片方だけの取っ手。
割れた籠。
何十年も使っていない革紐。
ザイスは冗談半分に、
「欲しいもの全部持ってけ」
と言った。
「必要なものだけ見ます」
ラウルは即答した。
三人で仕分ける。
多くは処分した。
その中から、一冊の薄い帳面が出てきた。
若い頃のザイスが行った修理について、簡単な図と寸法が書かれている。
成功した方法だけではなく、失敗した加工へ線を引き、
『この位置で釘を入れると割れた』
『革を湿らせすぎ』
と短い記録まで残っている。
「これ、取っておきましょう」
トビンが言う前に、ラウルが答えた。
「持って帰る」
ザイスが笑う。
「お前が先に残すって言うとはな」
「帳面一冊なら場所取らない」
「それだけか?」
「同じ修理が来たら使える」
「素直じゃない」
さらに棚の奥から、小さな古い旅鞄用の留め具が出てきた。
錆びている。
「これ、昔の」
ラウルが覚えていた。
弟子入りしたばかりの頃、「使えないなら捨てればいい」と言ったあの金具だった。
「これ見て、新しいやつ作ったな」
ザイスも思い出す。
トビンが聞いた。
「これも残します?」
ラウルは少し考えた。
部品としては使えない。
同型が来る可能性も低い。
しかも先ほど見つけた帳面には、似た留め具の寸法図が残っている。
「これは捨てよう」
「いいんですか」
「もう役目終わってる」
ザイスが頷いた。
「今のお前の方が、昔より捨て方が上手いかもしれんな」
「昔より?」
「昔は使えないから捨ててた。今は使った後で、もういらないから捨ててる」
ラウルは少し黙った。
《持ち込み食堂》で、悠斗が煮出し終えた空殻実の殻について言ったことと同じだった。
「そうかもしれません」
今度は否定しなかった。
◇
冬前、ラウルは乾燥させた空殻実の殻を一片だけ持ち、《持ち込み食堂》を再び訪れた。
ミレイアが袋を見て笑う。
「今度は殻だけ?」
「乾かしたらどうなるか試した」
悠斗が受け取り、匂いを見る。
「生より穏やかですね」
「長く煮ると渋い。短い方がいい」
「自分で試したんですね」
「一回、煮すぎたけどな」
今回は乾燥殻を短時間だけ湯へ入れ、香りが出たところで取り出す。そこへ豆と白い鳥肉、根玉葱を加えた簡単な煮込みにした。
生の空殻実ほど華やかな香りはない。
その代わり、少し落ち着いた乾いた香りが煮汁へ残る。
「保存すると、違うものになりますね」
悠斗が言う。
「生と同じじゃない。でも、別の使い方はできる」
ラウルが答えた。
ミレイアが笑う。
「最初、ほとんどゴミだって言ってませんでした?」
「言った」
「今は?」
「使える殻もある。使えない殻もある」
「結局そこは厳しい」
「何でも価値あるって話にはしたくないからな」
ラウルははっきり言った。
「腐った木は捨てる。錆びて崩れる金具も捨てる。もう覚えた失敗見本もいらない。全部取っておけばいいなんて思ってない」
「じゃあ何が変わったんです?」
悠斗が聞く。
ラウルは少し考えた。
「前は、最初に決めた使い方へ使えないなら、それで終わりだと思ってた」
「今は?」
「別の役目があるか、一回だけ見る。それでなければ捨てるし、あれば必要な間だけ残す」
「そのくらい?」
「そのくらいがいい」
大きく考え方を変えたわけではない。
工房を古物倉庫にする気もない。
作業台には、今でも余計なものを置きたくない。
ただ、判断の前に一つだけ見るものが増えた。
◇
翌春、《継ぎ輪修繕店》ではトビンとエイダが並んで仕事をしていた。
三つの見本箱は、相変わらず棚の端へ収まっている。
一年前より中身は変わった。
残っているものもあれば、処分したものもある。
ザイスの古い帳面は、必要な頁へ紙を挟んで使われていた。
ある朝、エイダが革の試し縫いを一枚持ってくる。
「これ、残していいですか」
ラウルはすぐ答えずに聞いた。
「何に使う」
「糸を引きすぎたところと、ちょうどいいところが同じ革にあるので、次の練習で比べたいです」
「いつまで」
「次に同じ縫い方をやるまで」
「なら残せ」
別の日には、トビンが古い金具を一つ持ってくる。
「これ、旧型箱へ入れたいです」
「何で」
「同じ型の修理が最近二件来たので」
「なら残そう」
逆に理由が曖昧なら、
「なんとなく古いから」
「なんとなくならいらない」
と処分する。
二人も、その基準を理解していた。
店が散らかることはない。
以前と同じように、作業台には十分な広さがある。
その日の夕方、ラウルは市場で空殻実を二個買って帰った。
露店の男が笑う。
「今年も殻を買うのか」
「果肉も食べる」
「もう殻が主役みたいな顔してるぞ」
「殻は三回分あれば十分だ」
工房へ戻る。
一個を割り、果肉は夕食へ。
種は煎る。
殻は白い膜を取って一部だけ乾かす。
残った殻はその日のうちに捨てた。
全部保存しておく必要はない。
使う予定の分だけでいい。
エイダが果肉を一切れ食べ、驚いた。
「こんな大きいのに、中これだけなんですか」
「少ない」
「損した感じしません?」
「最初はした」
「今は?」
ラウルは空になった殻を見る。
「果肉食べたい時に買う。殻使いたい時にも買う。値段が高いと思ったら買わない。それだけだ」
「普通ですね」
「普通でいいんだよ」
果肉が少ないから価値がないわけではない。
殻が使えるから必ず得な食材というわけでもない。
自分が何に使うかを見て、その値段で必要なら買う。
必要がないなら買わない。
何でも無理に価値あるものへ言い換える必要はなかった。
閉店前、ラウルは作業台を片づけた。
細かな木屑を集める。
これは見本にならない。
燃料へ使うほどの量もない。
迷わず廃棄する。
次に、見本箱の横へ置きっぱなしになっていた木片を見る。
エイダが午前中に削ったものだ。
印がついている。
「これ、まだいるか?」
尋ねると、エイダが作業を止めた。
「今日の二回目で違い分かったので、もう大丈夫です」
「なら自分で捨てろ」
「はい」
エイダが廃材箱へ入れる。
ラウルはその様子を見ながら、以前より工房が散らかるようになったとは感じなかった。
むしろ、何を残し、何を捨てたのかについて、以前より理由が明確になっている。
修理材料になるもの。
比較へ使うもの。
誰かへ教えるために残すもの。
古い規格の形を伝えるもの。
客が記憶として残したいもの。
そして、その役割を終えたもの。
同じ「役に立つ」という言葉の中にも、以前思っていたより多くの形があった。
ラウルは店の灯りを落とす前に、材料棚と見本箱の間へ十分な余白が残っていることを確かめた。必要なものを見失わないための空間は、今まで通りきちんと守られている。その余白を失わない範囲で、すぐ材料にはならなくても次の仕事へ意味を渡せるものを少しだけ残すことも、今では工房を整える仕事の一部になっていた。
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