第77話 返しきれない恵み豆と、借りを残せない渡し守
グレオ・バルンは四十八歳になる人間の男性であり、レーヴェンから南東へ半日ほど下った街道沿いで、《白枝渡し》と呼ばれる小さな渡し場を守っていた。日に焼けた肌は赤銅色に近く、灰色の混じり始めた黒髪を耳の上で短く刈り込んでいる。背丈はそれほど高くないものの、二十五年以上にわたって櫂と綱を扱ってきた肩と前腕は厚く、右の掌には濡れた綱で何度も皮を剥いた古い傷が重なっていた。
白枝渡しは、大河を横断する大きな船着き場ではない。丘陵地帯から流れてきた白枝川が街道を横切る場所へ、幅広の平底舟二艘と短い木造桟橋を置いただけの小さな渡し場である。平水時なら徒歩の旅人は川下の浅瀬を大きく回ることでも渡れるが、荷車や重い荷物を持つ商人にとってはかなりの遠回りになり、春の雪解けや雨の翌日には流れも速くなるため、この街道を使う者の多くが白枝渡しを利用していた。
渡し賃は桟橋の横に掲げられていた。徒歩の大人一人、子ども、荷車一台、家畜一頭というように基準が決められ、旅人の身なりを見て勝手に値段を上げるようなことをグレオは嫌った。裕福な商人でも、泥だらけの農民でも、同じ条件なら同じ料金を取る。
毎朝、日の出より先に川へ出て水位を確認し、夜の間に上流から流れてきた枝や草が桟橋へ絡んでいれば取り除く。舟底へ水が溜まっていないかを確かめ、岸へ固定した綱の摩耗を見る。冬なら薄氷を割り、夏の雨季には川面だけでなく上流側の空まで確認してから、その日にどの程度の荷まで受けられるかを決める。
ただ舟を漕いで人を向こう岸へ運ぶだけなら簡単に見えるが、川は毎日同じではない。昨日まで安全だった流れが、一晩の雨で変わることもある。荷車へ積まれた荷の重心が悪ければ、舟へ載せる位置も変えなければならず、馬が水音へ怯えれば落ち着くまで待つ必要もあった。
グレオは、その仕事を嫌いではなかった。
父も渡し守だった。
祖父も白枝川で舟を出していたと聞いている。
自分だけ別の仕事へ出たいと思ったこともなく、二十代前半には父からほとんどの仕事を任され、三十歳になる頃には渡し場の管理を一人で担うようになっていた。
人付き合いを避ける性格でもなかった。常連の行商人なら名前も覚えており、初めて一人で川を渡る村の子どもが怖がれば、舟の中央へ座らせて他愛のない話をする。夜中に急病人を運ぶため戸を叩かれれば、危険な水位でない限り舟を出すし、雨に濡れた旅人には渡し小屋で火へ当たるよう勧める。
困っている者を放っておけない男だった。
ただし、人から自分へ向けられた親切については、ひどく扱いが下手だった。
何かをしてもらったなら、なるべく早く返す。
できれば同じ程度の価値を返す。
そうして双方に借りも貸しも残らない状態へ戻さなければ、グレオは落ち着かなかった。
夏野菜を一袋もらえば、その家族の渡し賃を一度無料にする。遠方の茶を土産にもらえば、次にその商人の荷を運ぶ時には料金を下げる。近所の大工がついでだからと桟橋の板を一枚直してくれれば、後日その家へ行き、薪割りや荷運びを手伝う。
頼んだ仕事へ対価を払うことや、借りたものを返すことは当然である。
しかしグレオの場合、相手が「これはただの土産だ」「礼なんだから返さなくていい」と言っても同じだった。
受け取れば、借りになる。
借りたなら、返さなければならない。
本人はそれを律儀さだと考えていたし、周囲からも長い間そう評価されてきた。
ところが近頃、村人の間では別の言われ方をすることも増えていた。
「グレオへ物をやると、すぐ倍で返そうとするから面倒だ」
冗談めかした言葉だったが、半分以上は本気だった。
グレオだけが、その意味をまだ十分には理解していなかった。
◇
グレオが人との間へ借りを残すことを嫌うようになった理由には、父のハドルが大きく関わっていた。
ハドルはグレオよりさらに口数の少ない男で、金銭の貸し借りについては特に厳しかった。
「払うものは払え。もらうものはもらえ。借りたなら、約束した日に返せ。曖昧にしておくと、最後に困るのは両方だ」
幼い頃から何度も聞かされた。
白枝渡しは村の共同施設ではなく、代々バルン家が管理している。舟の修理、桟橋の板、固定綱、冬に使う油、岸を補強する石や木材まで、すべて維持費がかかる。近所だから、知り合いだからと無料で人を渡していれば、やがて舟を直す金がなくなり、結局は誰も使えなくなる。
だから仕事には料金を取る。
借りた道具は返す。
頼んだ仕事には金を払う。
その教え自体は、渡し場を守るうえで必要なものだった。
父が借金を特に嫌うようになったのは、グレオが十歳の頃に起きた大きな増水がきっかけだった。
数日続いた上流の豪雨で白枝川が大きく膨らみ、古かった桟橋の半分が流された。さらに平底舟の一艘が岸を離れた流木へ押され、川底の岩へぶつかって船底を割った。
渡しを再開するには、すぐにでも修理が必要だった。
しかし一度に払える金がなかった。
父は近隣で商いをしていた知人から修理費を借りた。
約束では秋の収穫期までに返す。
ところが、その年は夏にも雨が多く、渡しを止める日が続いた。思うように収入が戻らず、秋になっても借金の一部が残った。
金を貸した商人は、父を急かさなかった。
「今年は仕方ない。来年の春でもいい」
むしろそう言ってくれた。
しかしハドルは、その親切をありがたいと思うより先に、強い負担として受け取った。
「返してない金があるうちは、あいつの前で頭が上がらん」
家で何度も口にした。
母が、
「向こうも待つと言ってるんだから、無理に冬前へ返さなくても」
と止めても、
「借りを残したまま年を越す方が嫌だ」
と譲らなかった。
冬に備えて家へ置いていた薪の一部まで売り、食卓の肉を減らし、どうにか年内に返済を終えた。
借金そのものは返った。
しかし、その冬の生活は厳しくなった。
幼いグレオにとって、そこから残った印象は単純だった。
人へ借りると自由でいられなくなる。
返すまで、相手より下へいるような気持ちになる。
だから借りない方がいい。
借りたなら、一刻も早く返した方がいい。
父もその後、できる限り金を借りなくなった。
ただしグレオの中では、金についての教えが、少しずつ金以外へも広がっていった。
十六歳の時、父が腰を痛めて数日寝込んだ。
近所の農家が毎朝、搾ったばかりの牛乳を一瓶ずつ届けてくれた。
母は礼を言って受け取った。
父も具合が悪かったため、その時は特に何も言わなかった。
グレオは違った。
父が仕事へ戻った翌週から、その農家が渡しを使うたび料金を取らなくなった。
一回目は何も言われなかった。
二回目、農家の男が不思議そうな顔をした。
「今日は金いらないのか?」
「牛乳の分」
「牛乳?」
「親父が寝込んでた時の」
男は笑った。
「あれは見舞いだよ」
「でも毎日もらった」
「返してほしくて持ってったんじゃない」
「こっちは返したい」
三回目まで無料にしたところで、農家の男は硬貨を無理にグレオの手へ握らせた。
「もう十分だ。お前、親父より面倒くさくなりそうだな」
当時のグレオには、その言葉の意味がよく分からなかった。
もらったのだから返す。
それの何が面倒なのかと思った。
二十三歳で渡し場の仕事を本格的に引き継いでからは、自分の判断で料金を調整できるようになったため、むしろ「返す」機会は増えた。
もちろん、その性格のおかげで助けられた人も多い。世話をすれば必ず覚えており、自分にできることがあれば後で助けてくれる。そんなグレオを、義理堅い男だと信頼する者もいる。
しかし相手がただ喜ばせたくて渡した物まで、必ず同価値の何かとして返されると、贈った側は次第に何も渡せなくなる。
グレオがそのことを実感するには、もう少し時間が必要だった。
◇
その年の初夏、白枝渡しの上流に住む農家の一家が、春の増水で畑へ続く川沿いの道を一部失った。
完全に通れないわけではないが、修理が終わるまでは大きく山側へ回らなければならず、その家の娘ナティアは数日間、白枝渡しを使って畑と家を行き来することになった。
ナティアは二十四歳になる女性で、背負い籠へ野菜や道具を入れ、毎朝かなり早い時間に渡し場へ来た。
「五日くらい使うんだろ?」
グレオが尋ねる。
「父がそう言ってました」
「毎回払うの面倒だろ。帰りの分も合わせて、最後にまとめてでいい」
「助かります」
それだけだった。
料金も、決められた通り受け取った。
道の修理が終わって数日経った頃、ナティアが大きな籠を抱えて渡し場へ来た。
「今日は渡るのか?」
「違います。これ、父から」
籠の中には、大量の《恵み豆》が入っていた。
恵み豆は白枝川周辺の湿った土によく育つ作物で、太い莢の中へ大粒の豆が四つから六つほど入る。若いうちは青い莢ごと食べられ、成熟した豆は淡い黄色へ変わり、煮込みや焼き物に使える。
この豆が恵み豆と呼ばれる理由は、一度収穫しても株がすぐに終わらないことにあった。
初夏に最初の莢を取った後も新しい花がつき、その後さらに何度か実をつける。一本の株から夏の間に何回も収穫できるため、昔の農家が「一度恵みをもらっても、また次を返してくれる豆だ」と呼び始めたらしい。
「多すぎるだろ」
グレオが籠を見る。
「今年よく採れてるから」
「何で俺に」
「この前、何日も朝早くから舟を出してくれたお礼です」
「渡し賃はもらった」
「それは舟代でしょう」
「なら終わってる」
「父は、料金の話じゃないって」
「料金払った客を渡すのが俺の仕事だ」
「それでも、いつもより早い時間に待っててくれた日もあったし、荷物を舟へ載せてくれたでしょう」
「それくらい普通だ」
「だからお礼です」
グレオは受け取ろうとしなかった。
ナティアも引かなかった。
「持って帰ったら、父が明日また持っていけって言いますよ」
「困る」
「じゃあ今日受け取ってください」
最後には根負けした。
「……分かった」
「よかった」
グレオは籠を受け取った。
「ありがとう」
礼も言った。
しかしナティアが帰る前から、頭の中ではすでに計算が始まっていた。
この量の恵み豆なら、市場で売ればどの程度になるか。
渡し賃何回分か。
農家の父と母、ナティアを数回無料にすれば釣り合うか。
翌日、その父親が荷車を引いてやって来た。
「今日は金いらない」
舟へ載せながらグレオが言った。
「何で?」
「豆の分」
農家の男は、すぐ嫌そうな顔をした。
「あれ、売ったわけじゃないぞ」
「分かってる」
「分かってないだろ。礼でやったんだ」
「だから礼を返す」
「礼に礼返したら、俺はその礼の礼を返すのか?」
「そこまでは知らない」
「終わらんじゃないか」
「こっちだけもらったままよりいい」
農家の男は渡し賃を桟橋へ置いた。
「取れ」
「いらない」
「俺は払う。舟に乗ったから」
押し問答の末、グレオが受け取ることになった。
その夜、家で恵み豆を茹でて食べても、味よりも返していないことの方が気になった。
豆は甘い。
若い莢も柔らかい。
それなのに籠を見るたび、食材ではなく「未払いの何か」を見ているような感覚になる。
数日後には、別の出来事が重なった。
夕方、北へ向かう小さな商隊が白枝渡しへ来た。荷車二台、馬三頭、商人と護衛を合わせて六人ほどで、グレオも以前に何度か渡したことのある一行だった。
前夜の雨で川は少し増えていた。
渡れないほどではないが、荷車を一度に載せず、一台ずつ運ぶ必要があった。
最後の荷車を岸へ下ろすところで、片輪が柔らかい泥へ深く嵌まった。
グレオ一人でも時間をかければ出せる。
ところが商隊の護衛二人がすぐに降りた。
「押しますよ」
「いや、こっちで」
「自分たちの荷車だから」
三人で肩を入れる。
一度では動かない。
もう一度力を合わせると、泥から車輪が抜けた。
「助かった」
グレオが言った。
「こっちこそ舟出してもらってるんで」
渡り終え、商隊長が料金を払った。
グレオは荷車一台分を返した。
「何です?」
「手伝ってもらった分」
「自分たちの荷車押しただけですよ」
「俺の渡し場で嵌まった」
「じゃあ次、グレオさんが荷物持ってくれたら、荷運び代を別に払うんですか」
「それは俺が勝手にやる」
「こっちも勝手に押したんですよ」
商隊長は笑い、硬貨を受け取らなかった。
また返せないものが増えたように感じた。
数日後には、川岸の固定綱を点検していた時、掌へ深めの傷を作った。濡れた綱の中に細い木片が混じっていたらしく、右手の中央へ刺さり、櫂を握ると痛んだ。
そこへ薬草を扱う老女セミナが通りかかった。
「その手、見せな」
「大したことない」
「血出してる人間は大体そう言うんだよ」
強引に渡し小屋へ入り、傷を洗われ、潰した薬草と油を混ぜた軟膏を塗られた。
「今日は重い荷車を断りな。傷開くよ」
「渡し止めるほどじゃない」
「左を多く使え。無理なら客を待たせる」
処置が終わると、グレオはすぐ財布を出した。
「薬代」
「いらないよ」
「薬草使った」
「この前、うちの孫が遅くなった日に舟出してくれただろ」
「渡し賃もらった」
「時間過ぎてたのに待ってくれた」
「それは俺がやったことだ」
「ならこれも私がやったことだよ」
セミナは金を受け取らなかった。
グレオはその日のうちには何もできなかったため、翌朝、薪束を一つ担いでセミナの家へ行った。
「何だい、それ」
「薬の分」
「いらないって言ったでしょう」
「でも薬草は減った」
「だから?」
「手間もかかった」
「じゃあ私がその薪もらったら、今度は何返せばいいの?」
「返さなくていい」
「どうして私だけ返さなくていいんだい」
グレオは言葉に詰まった。
「……俺が返したいから」
「それだよ」
セミナは薪束を指した。
「グレオが安心したいから持ってきたんだろ。こっちが欲しいからじゃない」
「薬もらったままが嫌なんだ」
「だったら一本だけもらう」
セミナは薪を一本抜いた。
「残りは持って帰りな」
「一本じゃ足りない」
「何に対して足りないんだい。薬草の値段? 私が傷を洗った時間? 昔お前が孫を渡してくれた分?」
グレオは黙った。
「何でもその場でぴったり勘定合わせようとしたら、気軽に助けられなくなるよ。風邪薬一つ渡したら薪一束、怪我を洗ったら屋根修理までされそうじゃないか」
「そこまではしない」
「今のあんたなら分からないね」
冗談だった。
しかしグレオは笑えなかった。
薪束を担いで渡し場へ戻りながら、自分が長く守ってきた「借りを返す」という考えが、相手にとっては必ずしも親切ではないのかもしれないと、初めて少しだけ考え始めた。
◇
恵み豆は、まだ家にかなり残っていた。
若い莢は焼いた。
熟した豆は塩と一緒に煮た。
潰してパンへ塗ってみたこともある。
それでも一人暮らしのグレオには多く、毎日同じ味で食べ続けるのにも飽き始めていた。
豆をくれた農家へ戻そうとしても受け取らない。
別の家へ配ろうかとも考えたが、今度は「自分がもらった物を勝手に他人へ渡してよいのか」と迷い始める。
結局、籠の前で考える時間だけが増えた。
「本当に面倒な豆だな」
ある夜、思わず呟いた。
豆には何の責任もなかった。
数日後、舟を固定する新しい綱を買うためレーヴェンへ行く用事ができた。市場で買い物を済ませ、昼をどこかで食べようと西区へ向かっていたところ、《持ち込み食堂》の看板が目に入った。
以前、白枝渡しを使った旅人から聞いたことがある。
客が食材を持参し、その場で相談しながら料理してもらえる店。
家へ戻ってまた同じ豆を煮るより、少し違う食べ方をしてみるのも悪くない。
グレオは買い物袋の横に入れていた恵み豆の一袋を持ち直し、店へ入った。
ミレイアが袋を開く。
「恵み豆ですね。若い莢も入ってる」
「もらいものだ」
「たくさん?」
「家に、この三倍くらいある」
「一人で?」
「一人で」
ミレイアが少し笑った。
「それは多いですね」
悠斗も厨房から出てきて豆を見る。
「若いものと、かなり熟したものが混ざってますね。別々に使えそうです」
「家ではずっと煮てる。違うものなら何でもいい」
「苦手な味は?」
「特にない」
「じゃあ任せてもらいます」
悠斗が豆を分け始める。
その横でミレイアが何気なく聞いた。
「そんなにたくさん、どうしてもらったんです?」
「農家が渡し場を使った礼だって」
「舟を出してあげた?」
「仕事だから料金はもらった」
「じゃあ、その仕事とは別のお礼?」
「そうらしい」
「いいですね」
「よくない」
ミレイアが首を傾げた。
「どうして?」
「返せてない」
「豆を返すの?」
「豆じゃなくて礼を返す」
「ありがとうって言った?」
「言った」
「それじゃ足りない?」
グレオは、なぜそんなことを聞かれるのか分からないという顔をした。
「品物もらったんだから、それだけじゃ終わらないだろ」
ミレイアと悠斗が、一瞬だけ顔を見合わせた。
悠斗は何も言わず、まず料理を続けた。
熟した豆は軽く茹で、その半分を粗く潰す。焼いた根玉葱と少量の塩漬け肉を加え、乳を少しだけ入れて、豆の甘さが消えない程度の煮込みへ仕上げる。
残りの豆は形を残す。
若い莢は筋を取り、斜めに切って油で焼き、塩と穏やかな香草だけで味をつけた。
完成したのは、《恵み豆と塩肉のやわらか煮》と《恵み豆の若莢香草焼き》だった。
「同じ豆なのに、二つになるんだな」
グレオが言う。
「育ち方が違うので。若い方を無理に煮込むより、食感残した方がおいしそうでした」
煮込みを食べる。
潰れた豆が煮汁へ溶け、とろみを作っている。その中に形を残した豆が混ざり、噛めば軽い甘さが出る。塩漬け肉の旨味があるため、豆だけの煮込みより食べ飽きない。
「これは家でも作れそうだ」
「難しくないですよ」
「作り方まで教えてもらったら、料理代とは別に払うのか?」
悠斗が少し笑った。
「料金に含まれてます」
「ならいい」
ミレイアも笑う。
「やっぱり、何でも勘定するんですね」
「曖昧なのが嫌なんだ」
「農家さんの豆も?」
「もらった分を返せば、終わる」
「返したら、その農家さんはどうするんです?」
「何が」
「豆のお礼に無料で舟へ乗せてもらったら、『無料にしてくれたお礼』でまた何か持ってくるかもしれないでしょう?」
グレオは少し考えた。
「そんなことしたら終わらないな」
「今、農家さんもそれ思ってるかも」
箸が止まった。
「俺は豆売ってもらったわけじゃない」
「ですよね」
「向こうが勝手に礼でくれた」
「ならグレオさんも、受け取るところまでで終わっていいんじゃない?」
「それだと、俺だけ得してる」
ミレイアは少し考えた。
「お礼を渡した農家さんは何も得てないんですか?」
「豆が減っただろ」
「そうじゃなくて。グレオさんに渡したかったから渡したなら、受け取ってもらえたこと自体で嬉しいかもしれない」
グレオは眉を寄せた。
「物を減らして喜ぶのか」
「プレゼントって、そういうところないですか?」
その言葉は、グレオにとって少し理解しにくかった。
何かを渡せば、手元から減る。
受け取った側が増える。
だから釣り合わせる必要がある。
長くそう考えてきた。
◇
「借りが残るのが嫌なんだ」
グレオは、少しずつ自分のことを話し始めた。
父が借金を返せず苦しんだ冬。
牛乳を持ってきてくれた農家へ、渡し賃を無料にしたこと。
商隊が荷車を押しただけで料金を返そうとしたこと。
セミナの薬へ薪を持っていき、嫌がられたこと。
「金を借りて返さないのは、確かに困りますね」
悠斗が言う。
「だから借りは残さない方がいい」
「でも、農家さんの豆は借りたんですか?」
「もらった」
「返す約束は?」
「してない」
「セミナさんの薬は?」
「向こうがいらないって言った」
「なら、同じ『借り』でもないように聞こえます」
「俺には同じなんだ」
グレオは少し苛立った。
「自分だけ受け取ってる。相手の方が一つ多く出してる。それをそのままにしたら、対等じゃない」
悠斗はすぐ否定しなかった。
「返したら対等になる?」
「なる」
「相手が返してほしくなくても?」
「俺が返せばなる」
そこまで言ったところで、悠斗が静かに聞いた。
「それって、相手のために返してるんですか。それともグレオさんが安心するためですか?」
グレオは口を閉じた。
すぐに「相手のためだ」と答えたかった。
しかし農家は無料にしてほしいと言っていない。
商隊長も金を返せとは言っていない。
セミナに至っては、薪を持ってくるなとまで言った。
それでも返したい。
返さなければ、自分が落ち着かないからである。
「……俺が落ち着くためでもある」
ようやく認めた。
「それが悪いとは思わないです」
悠斗が言った。
「でも自分が安心したいからやってるなら、相手にとっても嬉しいかどうかは別に考えた方がいいのかなと」
セミナの言葉がそのまま重なる。
『そんなに大ごとになるなら、気軽に手を出せない』
「返さない方が親切ってことか?」
「必ずじゃないと思います」
「じゃあ何が正しいんだ」
グレオが尋ねる。
悠斗は少し考えた。
「借りたものなら返す。頼んだ仕事なら払う。返す約束をしたものなら約束通りにする。そこは今まで通りでいいんじゃないですか」
「贈り物は?」
「まず、ありがとうで受け取る」
「それだけ?」
「何かしたくなったら、別の日にしてもいいと思います。でも『同じ人に、同じ価値を、すぐ返さないと対等じゃない』って決めなくてもいいのかなって」
ミレイアが若い恵み豆の莢を一つ食べながら言った。
「この豆、一回収穫してもまた実るんですよね?」
「そうらしい」
「農家さんが一籠くれたら、その人の畑から全部なくなる?」
「なくならない。たくさん採れたから持ってきたんだろう」
「なら、その人は『これくらいなら分けたい』って思ったのかもしれない」
「価値がない豆じゃない」
「もちろん。でも、価値のあるものをあげた時に、絶対同じ価値が戻ってくるなら、それって贈り物というより交換みたいじゃない?」
グレオは黙った。
誕生日の土産。
旅先で見つけた珍しい茶。
病気の見舞い。
どれも、返礼を期待することはあるかもしれない。
しかし即座に同価値を返されることを前提とした取引とは違う。
「じゃあ人からもらい続けて、自分は何もしないでもいいのか」
グレオが聞く。
「そこまで言ってないですよ」
ミレイアが答える。
「助けたいと思ったら助けたらいいし、何か渡したい時には渡せばいい。でも、一件ごとに帳尻をゼロへ戻さなくてもいいんじゃないかって話」
悠斗も続けた。
「同じ人へ返せないこともあります。旅先で親切にしてもらって、もう会わないことだってある。その親切を覚えていて、別の誰かが困ってる時に自分が助けることもある。誰が誰へ何を何枚返したかまで揃えなくても、人のやり取りって続くと思います」
「それじゃ勘定合わないだろ」
「そもそも勘定じゃないのかもしれません」
グレオには、それが一番難しかった。
長年、どこかで勘定として見ていた。
だから数量を合わせられた。
誰がどれだけ出したかが分かれば安心した。
勘定ではないと言われると、目盛りそのものを失うような気がした。
◇
食事を終え、グレオは決められた料理代を払った。
それで席を立つはずだった。
ところが財布を閉じる直前、小銭を数枚余分に出した。
「これは?」
ミレイアが聞く。
「話を聞いてもらった分」
「いりません」
「料理の相談より長く喋った」
「料理代に入ってます」
「入ってないだろ」
「うちでは入ってます」
グレオが硬貨を握ったまま止まる。
ミレイアが少し笑った。
「返さず帰る練習にちょうどいいですね」
「何の練習だ」
「もらったものを、その場で全部返さない練習」
「俺は話をもらったのか?」
「そう思うなら」
グレオは渋い顔をしながら、結局小銭を財布へ戻した。
店を出た後も落ち着かなかった。
金を払っていないわけではない。
料理代は払った。
追加分だけ返していない。
誰からも請求されていない。
それなのに、何か小さな未払いが残っているような感覚がある。
その感覚を消すために店へ戻ることはせず、そのまま白枝渡しへ帰った。
翌朝、恵み豆をくれた農家の父親が、一人で農具を背負って現れた。
「向こうの畑まで頼む」
グレオは舟へ乗せた。
以前なら、ここで豆の分を返す絶好の機会だと思ったはずだった。
向こう岸へ着く。
男が渡し賃を差し出す。
グレオは一瞬だけ手を止めた。
その後、普通に受け取った。
「……豆、うまかった」
代わりにそう言った。
農家の男が少し驚く。
「そうか?」
「レーヴェンで変わった煮込みにしてもらった。若い莢は焼いた」
「へえ。ナティアにも言っとくよ」
「ただ、あの量は多い」
「今年よく採れるんだ。来週また出るぞ」
「次はいらん」
二人で笑った。
男は料金を返せとも言わず、そのまま畑へ向かって歩いていった。
グレオは硬貨を受け取った掌を見る。
豆一籠分は、数字の上では何も返していない。
それでも相手は不満そうではなかった。
むしろ「美味かった」と言った時の方が、無料にすると言った前回より嬉しそうだった。
午後にはセミナがやって来た。
「手、見せな」
「もう治ってる」
「治ったか見るんだよ」
掌を見せる。
傷は細い線になっていた。
「もう大丈夫」
「この前の薪」
「まだ言うのかい」
グレオは少し黙った。
「一本だけ持っていったな」
「もらったよ」
「それで……足りたことにする」
セミナが眉を上げる。
「何だい、その言い方」
「俺には進歩だ」
「確かに」
セミナは笑った。
舟へ乗る。
向こう岸へ着き、いつものように料金を出す。
グレオは薬のことを理由に無料へしたくなったが、普通に受け取った。
セミナは何も言わなかった。
それがかえって嬉しかった。
ただし、その日を境に何もかも簡単にできるようになったわけではない。
数日後、常連の行商人が山向こうから戻り、小袋の茶を差し出した。
「向こうで安く手に入った。土産」
グレオの頭には反射的に渡し賃何回分かという計算が浮かんだ。
「いらないなら他へやるぞ」
行商人が言う。
「いる」
「なら持ってけ」
「……ありがとう」
夜、小屋で茶を淹れる。
香りが強く、普段買うものより少し甘い。
それでも次に行商人が来た時、料金を無料にしたくなる気持ちは消えなかった。
一週間後、本当にやって来た。
グレオは迷った末、普通に渡し賃を受け取った。
「茶、飲んだぞ」
「どうだった?」
「香りが強かった」
「だろ。山の南で作ってるやつだ」
そこで話が続いた。
行商人は無料を期待している様子などなかった。
グレオはそのことを、少しずつ身体で覚え始めた。
◇
返さなくてもよいものを考えるようになったからといって、返すべきものまで曖昧にしたわけではない。
舟の修理を大工へ頼めば、約束した代金を払う。
村人から木槌を借りれば、使い終わった日に返す。
商人から急ぎで釘代を立て替えてもらえば、次に会った時にはきちんと精算する。
むしろグレオは、「借り」「仕事」「贈り物」を意識して分けるようになった。
何かを受け取った時、自分の中で一度だけ確認する。
これは返す約束をしたものか。
代金を後から払う仕事か。
それとも相手が、返礼を条件にせず差し出したものか。
最後の場合でも礼は言う。
大切に使う。
自分もいつか何かしたいと思えば、その気持ちまで捨てる必要はない。
ただし、翌日までに同じ値段へ戻す必要はない。
そう考えるだけのことが、最初のうちはかなり疲れた。
梅雨の頃には、白枝川が数日続けて増水した。
朝から水面が高く、流れも速い。
グレオは荷車の渡しを止め、桟橋へ《本日荷車不可》の札を出した。徒歩の旅人にも、急ぎでなければ翌日へ延ばすよう勧める。
昼過ぎ、上流の村から若い男が走ってきた。
「向こう岸の薬師を呼びたい。妻の熱が下がらない」
グレオは川を見る。
通常の客なら断る水位だった。
ただし平底舟一艘へ人だけを乗せ、自分一人で慎重に出すなら往復できる。
「荷物は置いていけ。お前だけ乗れ」
向こう岸へ渡し、薬師を連れて戻る。
男が通常料金より多く払おうとした。
「普通の二人分でいい」
「こんな日に出してもらったんだから」
「急ぎだから値段を上げる決まりはない」
ここは以前から変わらなかった。
翌日、男の家族から籠いっぱいの卵が届いた。
「妻の熱、下がりました。昨日のお礼です」
グレオの胸の中へ、いつものざわつきが戻った。
「料金はもらった」
「知ってます。これは家から」
「卵、こんなに」
「うちの鶏、今よく産むんです」
断りかけた。
しかし一度止まる。
相手は返してほしいから持ってきたのか。
違う。
「……ありがとう」
受け取った。
「こちらこそ」
男は笑って帰った。
その日は、それ以上何もしなかった。
翌日も返さなかった。
三日目になっても卵は半分以上残っていたため、近くの宿へ六個持っていった。
「もらいものなんだけど、使うか?」
宿の女将が籠を見る。
「いいの?」
「一人じゃ食べ切れない」
「じゃあ何か返そうか」
グレオは反射的に考えた。
しかし、自分が卵をもらった時と同じことを相手へさせることになる。
「いらない」
口にした。
自分でも少し驚いた。
女将はもっと驚いた。
「珍しい」
「何が」
「グレオが物くれて、何もいらないって言うの」
「余ってるから持ってきただけだ」
「なら遠慮なくもらう」
それで終わった。
帰り道、グレオは考えた。
卵をくれた男へ直接返してはいない。
その卵の一部を、別の誰かへ渡した。
以前なら、まったく帳尻が合わないと思っただろう。
今は少し違った。
自分がすべて抱え込んで腐らせるより、食べる人へ渡した方がよい。
卵をくれた家族が求めていたのも、同じ数の何かを返してもらうことではなかったはずだった。
◇
夏の半ばには、恵み豆をくれた農家の畑へ、また新しい莢が大量についていた。
グレオが用事のついでに通ると、ナティアが籠へ豆を入れている。
「また採れてるな」
「恵み豆ですから。一回目より少ないですけど、まだ二回くらい採れますよ」
「前のやつ、乾かして少し残ってる」
「まだ食べ切れてない?」
「一人だからな」
「じゃあ次に父が渡せって言っても、少なくしときます」
「またくれる気か」
「嫌なら断ればいいじゃないですか」
「嫌じゃない」
「じゃあ何で困るんです」
グレオは少し考えた。
「もらうと、まだ返したくなる」
「まだやってるんですか」
「前よりはましだ」
「変な進歩ですね」
「うるさい」
二人で笑った。
数日後、父親が大きな荷車で白枝渡しを利用した。
グレオは通常通り料金を取った。
男も何も言わず払う。
向こう岸へ着いたところで、父親が思い出したように尋ねた。
「そういや、豆の煮込みってどこで教わったんだ?」
「レーヴェンの《持ち込み食堂》」
「そんな店あるのか」
「変な食材持ってっても料理してくれる」
「今度ナティアと行ってみるかな」
話はそれで終わった。
豆一籠分を数えていた時より、関係がずっと自然に続いていることへ、グレオ自身も気づき始めていた。
秋口、綱と舟板を買うため再びレーヴェンへ行った際、グレオは乾燥させた恵み豆を小袋へ入れて《持ち込み食堂》を訪れた。
「また恵み豆?」
ミレイアが笑う。
「前にもらったやつの残り。乾かした」
「まだ農家さんへ返してない?」
「返してない」
少し誇らしそうに言う。
「そこ、自慢することですか?」
「俺にはかなりの進歩だ」
乾燥豆はかなり硬かったため、悠斗は時間をかけて戻してから、燻製肉と根玉葱を合わせた煮込みへした。
《乾燥恵み豆と燻製肉の煮込み》。
以前のやわらか煮より豆そのものの味が濃く、噛んだ時の香りも強い。
「乾かすと、かなり違うな」
「水分が抜けてる分、豆の味がはっきりしますね」
ミレイアが尋ねる。
「最近は何かもらいました?」
「卵、茶、夏野菜、川魚」
「返した?」
「卵は別の宿へ分けた。茶は礼だけ。魚は川掃除を手伝った日に昼飯代わりでもらったから、あれは少し違うな」
「ちゃんと分けて考えてる」
「簡単じゃないぞ」
「今でも返したい?」
「なる。でも、まず相手が返してほしいものか考える。借りた道具なら返す。仕事なら払う。贈り物なら、先に礼だけ言う」
「その後は?」
「何かしたくなったら、機会があった時にする。ただし『あの時の分』と毎回言わないようにしてる」
「何もする機会がなかったら?」
グレオは少し考えた。
「そのままかもしれん」
「落ち着かない?」
「少しな」
正直に答えた。
「でも前よりは楽だ」
悠斗が尋ねる。
「何が一番変わりました?」
「前は何かもらうと、その人より下へなった気がしてた」
「今は?」
「ただ、もらっただけだと思える時がある」
「それはかなり違いますね」
「俺にはな」
グレオは少し笑った。
「それと、毎回ゼロに戻さなくても、関係って続くんだな」
農家とはまた会う。
セミナにも何かで世話になるかもしれない。
行商人は何度も川を渡る。
今日自分がもらい、明日は相手が助けられ、さらに別の日には二人とも関係のない誰かを助けるかもしれない。
そのたび帳簿へつけるように精算しなくても、人は付き合い続けられる。
食事を終えると、グレオはきちんと料理代だけを払った。
財布を閉じる。
ミレイアがわざと尋ねた。
「今日は話の分ないんですか?」
「ない」
「いっぱい喋ったのに?」
「料理代払った」
「かなり進歩しましたね」
「その代わり」
グレオは荷物から小さな茶葉の包みを出した。
「前に行商人からもらった茶。俺一人じゃ飲み切れない。店で飲むなら少しやる」
ミレイアが笑う。
「それ、もらったら何か返した方がいい?」
グレオは一度顔をしかめた後、
「礼だけでいい」
と答えた。
悠斗が包みを受け取る。
「ありがとうございます」
胸の奥が少しざわつく。
それでも取り返さなかった。
◇
冬の初め、白枝渡しへ初雪が降った。
川岸の草には白い霜がつき、平底舟へ溜まった雨水の表面にも薄氷が張っている。グレオは日の出前から氷を割り、綱へ油を塗り、いつものように渡しを開いた。
昼前、ナティアが小さな籠を抱えてやって来た。
「これ、母から」
籠の中には、小さく平たい焼き菓子が何枚も並んでいた。
「何だ?」
「恵み豆を粉にして焼いたんです。新しく作ってみたから、味見してほしいって」
グレオは反射的に、
「この前の豆の――」
と言いかけた。
そこで止まる。
「何?」
ナティアが聞く。
「いや」
籠を受け取った。
「ありがとう」
「今度は素直ですね」
「うるさい」
舟を出す。
向こう岸へ着く。
ナティアが普通に渡し賃を出す。
グレオも普通に受け取った。
豆菓子の値段を考え、そこから差し引こうとはしない。
「食べたら感想ください」
「分かった」
夜、渡し小屋で一枚食べた。
少し硬い。
甘さは控えめだが、煎った豆の香ばしさは強い。
以前なら、食べ終える前から返礼を考えただろう。
明日、何か渡すものはないか。
渡し賃を無料にするか。
農具の修理でも手伝うか。
今も、その考えが一瞬は浮かぶ。
しかしグレオは何もしなかった。
翌朝ナティアが再び来た時、
「豆菓子、うまかった。ただ少し硬いな。茶には合う」
とだけ伝えた。
「母も硬いって言ってました。次は薄くするそうです」
「その方がいい」
会話はそれで終わった。
冬が深くなった頃には、セミナが余った薪を一束持ってきた。
「うち、今年切りすぎたから使いな」
「俺、今度は何もしてないぞ」
「余ったって言ってるだろ」
「本当にいらないのか?」
「何を?」
「返し」
セミナが笑う。
「やっと先に聞けるようになったね。いらないよ」
「じゃあもらう」
「そうしな」
「ありがとう」
「それだけ?」
「それだけ」
「上出来」
グレオも笑った。
「返したくなくなったわけじゃないぞ」
「それでいいよ。返したい気持ちまで捨てる必要はない。ただし、私が返してほしい時にはちゃんと言うから、その時に返してくれればいい」
その言葉は、グレオにとって分かりやすかった。
求められた時に返す。
約束したものは返す。
そうでないものまで勝手に借金へ変えなくてよい。
◇
翌春、恵み豆をくれた農家の父親が、小さな布袋を持って渡し場へ来た。
「これ、種」
「何の」
「恵み豆。今年、渡し小屋の横にも植えてみるか?」
桟橋脇には、日当たりのよい小さな空き地があった。雑草ばかり生えているが、少し耕せば何か植えられそうである。
「世話できるかな」
「水やるくらいだ。川は目の前だろ」
「種代は?」
口から出た瞬間、自分でも気づいた。
農家の男が笑う。
「また始まったぞ」
「癖なんだ」
「去年採れた種だ。分けるだけだから、いらない」
以前なら、それでも払おうとしたかもしれない。
グレオは一度だけ考えた後、袋を受け取った。
「じゃあ、もらう」
「そうしろ」
二人で渡し小屋の脇を耕した。
農家が種をまく。
グレオが土を被せる。
「実がなったら、半分返すとか言うなよ」
「言おうと思ってた」
「やめろ」
「じゃあ俺が食う」
「一人で食い切れなかったら?」
グレオも笑った。
「欲しいやつに分ける」
「それでいい」
数週間後、小さな芽が出た。
初夏には蔓が伸び、花が咲いた。
やがて最初の青い莢が実った。
グレオは一度目の収穫の半分を自分で茹でて食べ、残りの一部をセミナへ持っていった。
「恵み豆。食うか?」
セミナが受け取る。
「何か返そうか?」
わざとらしい言い方だった。
「いらない」
「本当に?」
「また実るからな」
言ってから、自分でも少し可笑しくなった。
もちろん、人の好意と畑の豆が同じものだとは思っていない。
親切をすれば必ず別の誰かから返ってくるわけではない。
人へ与えたものが何倍にもなって自分へ戻ると決まっているわけでもない。
ただ、一つ受け取ったものを、必ず元の持ち主へ同じ重さで返さなければ世の中が崩れるわけではないことくらいは、今なら分かった。
農家から種をもらう。
自分の畑で豆ができる。
その豆をセミナへ渡す。
セミナからは、以前薬をもらった。
その薬へ薪一本を渡した。
数えていけば、どちらが得をしているのかなど途中で分からなくなる。
それでよかった。
◇
ある夏の夕方、見覚えのない若い旅人が白枝渡しへやって来た。
南の村から歩いてきたらしく、肩には小さな荷袋だけを下げている。
「向こう岸まで」
「一人なら、すぐ出せる」
舟へ乗せる。
若者は珍しそうに川を眺めながら、
「ここ、ずっと一人でやってるんですか?」
と尋ねた。
「長いことな」
「毎日?」
「川が危ない日は止める」
「大変ですね」
特に深い話はしなかった。
向こう岸へ着く。
若者は決められた料金を払い、荷袋を探った。
「これ、よかったら」
小さな焼き菓子を一つ差し出す。
「向こうの村でたくさんもらったんです。俺一人じゃ食べ切れなくて」
グレオは手を出す前に、一瞬だけ昔の癖が動くのを感じた。
この菓子はいくらくらいか。
次にこの旅人が来る可能性はあるか。
来なければ返せない。
名前も知らない。
そこで、思考を止めた。
「ありがとう」
受け取る。
「じゃあ」
若者は笑い、そのまま街道を歩き始めた。
グレオは少しだけその背中を見送った。
おそらく、もう会わないかもしれない。
会わなければ、直接返す機会もない。
以前の自分なら、それだけで焼き菓子を断った可能性がある。
今も胸の奥には、わずかな落ち着かなさが残っていた。
それでも追いかけなかった。
渡し小屋へ戻る。
湯を沸かす。
焼き菓子を半分へ割ると、中には甘く煮た木の実が詰まっていた。
窓の外には、渡し場の横へ植えた恵み豆が見える。最初の莢をいくつか採った後、また新しい花が咲き、二度目の実が膨らみ始めていた。
明日には何本か採れるだろう。
自分で食べてもいい。
セミナや近所の宿へ渡してもいい。
たまたま通った誰かが欲しそうなら、一掴み分けてもいい。
今、この場で誰へ渡すかを決める必要はなかった。
川の向こう岸から、客を呼ぶ声が聞こえた。
グレオは残りの焼き菓子を布へ包み、櫂を持って立ち上がった。
今日、自分が誰かから受け取ることもある。
別の日には、自分が誰かへ渡す。
金を借りれば返す。
仕事なら料金を取る。
約束したことは守る。
ただし、親切まで毎回同じ日のうちに精算しなくても、人との関係は壊れない。
グレオは桟橋へ下り、次の客を舟へ迎え入れた。
白枝川は上流から流れてきた水を、一滴ずつ同じ場所へ返そうとはせず、そのまま下流へ運び続けている。グレオはその流れを横目で見ながら櫂を差し込み、今度は受け取ったものをすぐ元へ返すことではなく、自分のところへ来たものを必要な時に次へ渡していくことも、返し方の一つなのだと考えながら舟を岸から離した。
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