第79話 香りの薄れる薄香米と、自分の分だけ後へ回す洗濯職人
マティア・ローレンは四十一歳になる人間の女性であり、レーヴェン東区の共同井戸から少し離れた水路沿いで、《白泡洗い場》という小さな洗濯仕事場を営んでいた。赤みの少ない焦げ茶色の髪は肩へ届くほどの長さがあるものの、仕事中は濡れないよう後頭部で固くまとめ、その上から薄い布を巻いている。細身に見える身体は、二十五年以上にわたって水を吸った寝具や厚手の外套を持ち上げ、固く絞ってきたため腕と背中が強く、指の節には冷水と灰汁へさらされ続けた者らしい荒れが残っていた。
《白泡洗い場》が引き受けるのは、家庭から持ち込まれる日常着だけではない。宿屋から届く大量の寝具、食堂の油染みがついた前掛け、商家で使う帳場布、職人の泥と煤にまみれた作業着、旅人が何日も着続けた外套、兵士の下着、時には祝い事へ使う上等な衣服まで預かる。どの布も同じように水へ入れればよいわけではなく、泥なら乾かして先に落とした方がよい場合があり、油染みには灰汁が必要になる一方で、染めの弱い布へ強い洗剤を使えば色まで抜けてしまう。
マティアは、その見極めに長けていた。
布を広げれば、汚れの種類だけでなく、どこまで力をかけても生地が耐えられるかを先に見る。擦って落とすべきなのか、時間をかけて浸すべきなのかを判断し、乾燥も日向と陰干しを使い分ける。刺繍や特殊な染めを扱う専門職ほど高級衣類には詳しくなかったが、日常着や宿屋の布類については東区でも信頼が厚く、九年前に自分の洗い場を開いてから、仕事が途切れた季節はほとんどなかった。
朝は日の出前から始まる。前夜に浸しておいた布の状態を確かめ、厚手で乾燥に時間がかかるものを先に洗い、午後からは細かな衣類や簡単な繕いへ移る。夕方には乾いた品を依頼先ごとに分け、受け取り札と照らし合わせ、翌朝早く必要なものが混じっていれば多少遅くなっても仕上げる。
汚れを落として返した衣服は、翌日から再び使われ、また汚れる。新品へ戻す仕事ではなく、今あるものをもう一度気持ちよく使えるところまで戻す仕事であり、マティアはその地味な繰り返しを気に入っていた。
ただし、そんな彼女には昔から一つ妙な癖があった。
人へ渡すものについては良い方を選ぶのに、自分が使うものになると、必ず最後に残った方を取るのである。
三枚の焼きパンのうち一枚だけ端が焦げていれば、それを自分へ回す。宿屋から礼にもらった果物の中に熟れたものと傷のあるものが混ざっていれば、状態のよい実を一緒に働く者へ渡し、自分は傷のある方を食べる。新しい前掛けを人数分買っても、誰かの古いものが少し傷んでいると新品をそちらへ回し、自分は「まだ着られるから」と継ぎ当てを増やした古い前掛けを使い続けた。
誰かから要求されたわけではない。
良いものは、より必要な人へ渡せばよい。
自分は残ったものでも困らない。
食べられるなら十分であり、着られるならまだ使える。
自分一人のために新しいものを下ろしたり、良い食べ物を先に取ったりする必要はない。
マティアにとっては、それが特別な自己犠牲ではなく、ごく普通の順番だった。
しかし長く一緒に働く者ほど、次第に別の疑問を持つようになっていた。
マティアは他人を大切にしているというより、自分自身だけを最初から人数へ入れていないのではないか。
本人だけが、その違いへまだ気づいていなかった。
◇
マティアはレーヴェン東区の職人家庭で、三人きょうだいの長女として育った。父は染物工房で水場の管理をし、母は近隣の家から衣服を預かって洗う仕事をしていた。暮らしが立ちゆかないほど貧しかったわけではないものの、染め仕事も洗濯仕事も季節や天候の影響を受けるため、余裕のある時ばかりではなかった。
衣服は小さくなれば下の子へ回した。
穴が開けば布を当てた。
焼いたパンの端も捨てず、固くなれば汁へ浸して食べた。
それ自体は、同じような職人家庭では珍しいことではない。
ただ、長女だったマティアは自然に「先に譲る側」へ入ることが多かった。
「大きい肉は弟へやって」
母に言われれば渡す。
「この上着、マティアにはもう小さいけど、妹ならまだ二年着られそうね」
と言われれば脱いで渡す。
菓子を三つもらえば、弟と妹へ先に選ばせ、自分は最後に残ったものを取る。
幼い頃は何の疑問もなかった。
自分の方が年上なのだから、そういうものだと思っていた。
十二歳の頃、母が高熱を出して数日寝込んだことがある。父は仕事を休めず、家事の多くをマティアが引き受けた。朝食を作り、水を汲み、弟妹を送り出し、洗濯をし、母へ薬草湯を運ぶ。
その時、近所の菓子店の女性が見舞いとして焼き菓子を五枚持ってきてくれた。
「みんなで食べて」
弟と妹へ一枚ずつ。
母へ一枚。
仕事から戻った父へ一枚。
最後に、端が欠けて少し小さくなった一枚だけが残った。
マティアはそれを食べた。
夜になって母が尋ねた。
「マティアも菓子食べた?」
「食べたよ」
「ちゃんと大きいの取った?」
「弟たちの方がいるでしょう。私は残ったのでいいよ」
母は熱で疲れていたにもかかわらず、少し困ったような顔をした。
「マティアも、みんなの中に入ってるよ」
その時は意味を深く考えなかった。
母が回復すれば、いつもの生活へ戻った。
十四歳頃から母の洗濯仕事を本格的に手伝い、十六歳で近所の大きな洗い場へ働きに出た。
そこでも、マティアはよく働いた。
年下の見習いが重い桶を持てずにいれば代わる。
昼休み直前に急ぎの洗濯物が来れば、自分の食事だけ後へずらす。
寒い日の厚手の手袋が一組しかなければ、手荒れのひどい者へ渡す。
親方からは、
「周りをよく見ている。気が利く子だ」
と何度も褒められた。
マティア自身も、それは自分の長所だと思うようになった。
自分が少し後へ回れば、他の誰かが楽になる。
自分は我慢できる。
なら、その方がよい。
ところが二十代になり、三十代になっても、その順番だけは変わらなかった。
自分が一番経験の長い職人になっても、年下を先へ回す。
三十二歳で《白泡洗い場》を開き、自分が店主になってからも、同じように働いた。
従業員へは温かい昼食を食べさせ、自分は朝の残りの固いパンで済ませる。
暖房用の炭が少なければ作業場へ回し、自分が帳簿を書く小部屋では使わない。
新しい道具を人数分買っても、
「私は今のがまだ使えるから」
と最後まで古いものを使う。
最初は、周囲もありがたく受け取った。
しかし何年も続けば、受け取る側の気持ちも変わってくる。
自分たちだけ新しい手袋を使い、店主だけ穴を縫ったものを使う。
自分たちだけ昼に温かい煮込みを食べ、店主だけ昨夜の残りを口へする。
自分たちへ休憩を取れと言いながら、店主だけ水場へ残る。
それでは、良いものをもらっている側も落ち着かなかった。
◇
現在、《白泡洗い場》ではマティアのほかに二人が働いていた。
一人は三十二歳の女性セルマで、八年前から勤めている。淡い金茶色の髪を短くまとめ、宿屋や食堂から一度に届く大量の布を種類と仕上げ日ごとへ分けるのが得意だった。
もう一人は二十歳の青年ピートで、働き始めて二年目になる。身体が大きく、水を吸った寝具を持ち上げる力は十分ある一方、色落ちしやすい衣類や細い織りの布については、まだ二人から教わっている途中だった。
二人とも、マティアを店主として信頼していた。
だからこそ、彼女が自分だけを後へ回すたび、以前より遠慮なく止めるようになっていた。
初夏のある日、セルマが昼食として肉入りの包み焼きを三つ買ってきた。
同じ店。
同じ値段。
一つだけ少し焼き色が濃く、端が固そうに見える。
紙包みを開いたマティアは、何も考えずそれを自分の前へ引いた。
セルマがすぐ手を伸ばす。
「またそれですか」
「何が?」
「一番焦げてるの自分で取るやつ」
「食べられないほどじゃないでしょう」
「三つとも同じ値段ですよ」
「だから何?」
「私がこれ食べます」
セルマが焦げたものを取ろうとする。
マティアは押さえた。
「セルマは朝から宿の寝具六枚やったでしょう。ちゃんとした方食べなさい」
「マティアさんは朝から何枚やりました?」
「そういう話じゃないの」
「私からすると、そういう話です」
セルマは紙包みを三つまとめて中央へ寄せた。
「だったら目つぶって取ります?」
「食事一つで大げさでしょう」
「毎回だから言ってるんです」
ピートは間へ入るべきか迷っていたが、最後には三人で適当に一つずつ選ぶことになった。
マティアの前へ来たのは、偶然にも焼き色の一番きれいな包みだった。
「交換する?」
セルマへ聞く。
「しません」
「ピートは?」
「俺も自分のでいいです」
仕方なく食べる。
肉も多い。
生地も柔らかい。
おいしいのに、なぜか落ち着かなかった。
自分だけ良いものを取ったような気がしたからである。
数日後、今度は洗濯用の厚手手袋を三組買った。
今まで使っていた三人分の手袋はかなり傷んでおり、特にマティアのものは指先へ穴が開き始めていた。
購入した翌朝、マティアは新品を二組だけセルマとピートへ渡し、自分は古い手袋の穴へ布を縫い当てた。
当然、セルマに見つかった。
「三組買いましたよね」
「買ったよ」
「残り一組は?」
「棚」
「誰のですか」
「予備」
「マティアさんの今の手袋、もう破れてますよ」
「今縫ったから使える」
「じゃあ古い方を予備へ回して、新しいの使えばいいでしょう」
簡単な話だった。
マティアは縫った手袋を見る。
「でも、まだ使えるのに新品下ろすのはもったいないでしょう」
「私たちの古いのも、まだ穴縫えば使えましたよ」
「二人の方が水仕事多いから」
「マティアさんも同じ洗い場で働いてます」
結局、その日もマティアは古い手袋を使った。
セルマはそれ以上争わなかったが、納得していないことだけははっきり分かった。
その頃、常連の食料商ベネトから、一袋の珍しい穀物をもらった。
六十を過ぎたベネトは《白泡洗い場》が開店した頃から布袋や店の前掛けを洗いへ出している男で、その日は受け取りの際に小さな布袋を台へ置いた。
「これ、北東の湿地で作ってる《薄香米》。新物だ」
マティアが袋を開ける。
粒は白く、普段食べるものより細長い。
「これ、高いんじゃないの?」
「普通の米より少しな。注文より多く入れたから、小袋一つやる」
「洗濯代はもらってるでしょう」
「仕事の礼じゃない。長い付き合いの客へ新物を食わせたいだけだ」
「なら売ればいいのに」
「この量だけ店へ残すより、知ってる人間に食ってもらった方がいい。セルマたちと食え」
薄香米は、精米してから時間が浅いほど、炊いた時に若草と甘い木の実を合わせたような淡い香りが立つ穀物だった。長く保存したからといって急に食べられなくなるわけではないが、特徴である香りだけは日ごとに少しずつ薄れていく。
「一月くらいなら普通に食える。でも新物の香りを楽しむなら、早めに炊けよ」
ベネトはそう言い残して帰った。
翌日の昼、セルマが尋ねた。
「昨日の薄香米、炊きます?」
「今日は麦粥を作ってあるでしょう」
「でも早めにって」
「一日くらい平気よ。今度、三人でゆっくり食べられる日にしよう」
袋は棚へ置かれた。
三日後、ピートが聞く。
「薄香米、いつ食うんです?」
「そんなに気になる?」
「食べたことないので」
「じゃあ休み前の日にでも」
しかしその日には、宿屋から大量の急ぎ仕事が入った。
昼食は簡単なパンだけで済ませた。
さらに数日経った。
今度こそ炊こうと思ったが、袋を見ると三人で食べるには少し多い。
どうせならセルマの子どもが遊びに来る日にすれば四人で食べられる。
あるいは近所の知り合いへ一膳ずつ分けてもよい。
自分だけ休みの日に炊くのはもったいない。
そう考えている間に二週間が過ぎた。
セルマが棚の袋を見つける。
「まだ食べてないんですか」
「みんなで食べる時にと思って」
「私は毎日います」
「ピートもいるね」
「だったら明日炊きましょう。絶対」
「分かった」
翌日の昼、本当に三人で炊いた。
普通の米より甘味があり、香りも残っている。
おいしい。
しかしマティアは、もらった日に袋へ顔を近づけた時の方が、はっきり香ったことを覚えていた。
「これ、もっと早く食べたら香り強かったんでしょうね」
セルマが言う。
「多分ね」
「何で置いてたんです?」
「良い時に食べようと思って」
「今日が悪い日だったわけじゃないでしょう」
「そうなんだけど」
笑って流したものの、その夜、残った薄香米の袋を見ると少し胸へ引っかかった。
大切にしたつもりだった。
みんなで食べるために置いた。
自分一人で食べるより、その方が米を大事にしたことになると思った。
ところが残している間に、食材の一番良いところの一部が消えていた。
使わずに取っておくことと、大切にすることは、同じではないのかもしれなかった。
◇
その疑問が食べ物以外へも広がったのは、数日後のことだった。
宿屋から預かった厚手の寝具を水路脇で洗い、大きな布を二人がかりで絞っていた時、マティアの古い手袋の縫い目が突然ほどけた。
指の付け根が露出する。
ちょうどその部分には水仕事でできた細かなひびがある。
灰汁を含んだ洗い水が入り、鋭い痛みが走った。
「痛っ……」
反射的に手を放す。
セルマがすぐ近づいた。
「見せてください」
「大丈夫」
「その顔で大丈夫は無理があります」
手袋を外す。
赤く荒れた皮膚の一部が切れている。
セルマは何も言わず棚へ行き、新品の手袋を持ってきた。
「これ使ってください」
「でも」
「何のために買ったんですか」
「誰かの予備に」
「今、破れた人がここにいます」
反論できなかった。
新品へ手を入れる。
内側が柔らかい。
水を通しにくく、濡れた布も握りやすい。
当然だった。
仕事へ使うために選んだ手袋なのだから。
「最初から使ってれば傷も開かなかったかもしれませんよ」
セルマが言う。
「古い方も乾いた作業なら使える」
「だったら今度から、そっちを予備にしましょう」
「……そうする」
マティアが珍しく素直に答えたため、セルマもそれ以上言わなかった。
ところが昼休みになると、今度は別のことで引っかかった。
セルマとピートには朝買った新しいパンを渡し、自分は前日の残りを持っていた。
「マティアさん」
セルマが呼ぶ。
「今日は何?」
「それ、昨日のパンですよね」
「残ってたから」
「私たちの新しいパン三つ買えばよかったでしょう」
「昨日のが食べられるのに捨てる方がもったいない」
「じゃあ昨日のパンを三等分して、新しい方も三人で分けたっていいんですよ」
「そんな面倒なことしなくても、私が食べれば終わるでしょう」
「そこなんですよ」
セルマの声が少し強くなった。
「マティアさんが『私がこれでいい』って言うたび、私たちだけ良いものを取ってるみたいになるんです」
「そんなつもりじゃない」
「分かってます。でも、こっちがそう感じるんです」
ピートは黙って聞いていた。
セルマは続けた。
「良い方を譲ってくれること自体は嬉しい時もあります。でも毎回ですよ。新しい手袋も、昼ご飯も、暖かい場所も、休憩も、マティアさんだけ自分を外すでしょう。私たちが楽になるどころか、だんだん気を遣うようになるんです」
マティアは言葉を失った。
自分が少し我慢すれば、他の人が助かる。
ずっとそう考えていた。
ところがその我慢自体が、周囲へ別の負担を生んでいた。
「私は別に苦しくないよ」
「手、切れてます」
そこまで言われると反論できなかった。
その週の休み、マティアは残っていた薄香米を小袋へ入れ、石鹸に使う香草を買うため街へ出た。
家へ置いておけば、また誰かと食べる日まで棚へ戻す気がした。
市場へ向かう途中、《持ち込み食堂》の看板が目に入る。
一人で米を炊くことにまだ抵抗がある。
店で料理にしてもらうなら、少しは違う気がした。
そんな曖昧な理由で店へ入った。
ミレイアが袋を見る。
「お米?」
「《薄香米》っていうらしい」
悠斗も厨房から出てきた。
「香りが特徴のやつですね。いつ精米したものです?」
「もらってから三週間近い。もらった時には新物って言われた」
「保存は?」
「乾いた棚。虫もいない」
悠斗は粒と匂いを確認した。
「傷んではなさそうです。ただ、香りは最初よりかなり弱くなってるでしょうね」
「やっぱり」
「どうしてそんなに置いてたんです?」
「良い時に食べようと思ったの」
「良い時?」
「店の二人と一緒にゆっくり食べられる日とか、誰かが来た時とか。せっかく少し良い米なのに、一人で炊くのはもったいないでしょう」
ミレイアが首を傾げた。
「マティアさん一人が食べると、もったいない?」
「そういう意味じゃないけど」
「じゃあ何が?」
すぐには答えられなかった。
「何となく、一人で良いものを食べるより、みんなで食べた方がちゃんと使った感じがするの」
「一人で食べたら?」
「なくなるだけみたいで」
口へ出した後、自分でも妙な言い方だと思った。
食べれば腹に入る。
食事になる。
決して何も残らないわけではない。
「今日は食べたいですか?」
悠斗が聞いた。
「そのために持ってきた」
「なら炊きましょう」
話はそれだけで進んだ。
◇
悠斗は薄香米を強く擦らず、少量の水を何度か替えながら手早く洗った。
「普通の米より丁寧に研ぐんじゃないの?」
マティアが聞く。
「香りが弱くなってるので、あまり触りすぎない方がよさそうです。少し浸して、水も控えめで炊いてみます」
「おかずは?」
「最初の一膳は米だけ食べてみませんか。そのあと、香りを邪魔しないものを合わせます」
「店の料理なのに、米だけでいいの?」
「今日はこの米を持ってきたんですよね」
薄香米そのものを主役として扱われることが、マティアには少し新鮮だった。
鍋が温まり始める。
しばらくすると、湯気に混じって淡い香りが広がった。
「まだ香る」
「弱いですけど、残ってますね」
「最初はもっと強かったの」
「それなら、そこは少しもったいなかったですね」
悠斗は無理に慰めなかった。
「でも、今日の分まで消える前に食べればいいです」
炊き上がった米をしばらく蒸らし、蓋を開ける。
白い湯気の中へ、若草と甘い木の実を合わせたような柔らかな香りが立つ。
最初の一膳は、小さな椀へ米だけを盛った。
もう一品として、白い鳥肉と根玉葱を薄い塩味で煮た《白肉と根玉葱の澄まし煮》を添える。強い香草は使わず、米の香りを潰さない仕上げだった。
マティアが一口食べる。
粒は細い。
噛めば穏やかな甘さがあり、少し遅れて香りが鼻へ抜ける。
「美味しい」
「よかったです」
ミレイアが聞いた。
「これ、一人で食べるのはもったいなかったですか?」
マティアは椀を見る。
「今は店にいるから、完全に一人じゃないでしょう」
「じゃなくて、家で一人だったら」
「一人分だけ炊くのは効率悪いし」
悠斗が言う。
「二膳分炊いて、次の食事へ回してもいいですよ」
「そういう話じゃないの」
「なら、何がもったいないんです?」
また答えられない。
「誰かが食べられたはずのものを、自分一人で使ってしまう感じがするの」
ようやく言った。
「誰かって?」
「セルマとか、ピートとか、家族とか」
「マティアさんは?」
「私は……」
「その『誰か』に入ってないんですか」
ミレイアの問いで、昔の母の声が不意に戻った。
『マティアも、みんなの中に入ってるよ』
十二歳の時には意味を考えなかった言葉だった。
マティアはしばらく黙り、薄香米をもう一口食べた。
「昔から、人に良い方を渡してたんですか?」
悠斗に聞かれ、幼い頃のことから話した。
長女として弟妹へ譲るのが当たり前だったこと。
洗濯職人になってからも年下を先にし続けたこと。
今の洗い場でも、新しい手袋や良い食事を自分だけ後へ回していること。
「譲るのが嫌だったわけじゃないの」
マティアは言った。
「弟や妹が小さい時は、本当にそっちが必要だった。見習いの子が手を荒らしてたら、厚い手袋を渡した方がいい時もある」
「今も必要なら譲ればいいと思います」
悠斗が答える。
「じゃあ何が違うの」
「毎回、考える前からマティアさんだけ候補から外れてることじゃないですか」
「候補?」
「三人分のパンがあった時に、三人で選ぶんじゃなくて、二人が取った残りが自分の分になるって決めてますよね」
その通りだった。
マティアには「自分の分を選ぶ」という感覚がほとんどない。
まず他人へ渡す。
残ったものを自分が受け取る。
それを譲っていると考えていた。
「でも、それで困らなかったの」
「今日までは?」
新品の手袋へ替えた時の感触と、灰汁が傷へ染みた痛みが思い浮かぶ。
「少し困った」
「一緒に働いてる人たちは?」
「……嫌だって言われた」
「なら、自分だけが我慢すれば済む話でもなくなってますね」
痛いところだった。
「良いものを譲ることで、何をしたいんです?」
悠斗が聞く。
「喜んでもらいたい」
「今も喜んでます?」
セルマの顔が浮かぶ。
最初は喜んでいた。
最近は止められる。
ピートも、自分だけ良いものを受け取る時には遠慮するようになった。
「困らせる時もある」
「なら、やり方を変えてもいいのかもしれませんね」
「自分も同じものを使う?」
「それでもいい。三人分あるなら三人分として考える。一つしかない時だけ、本当に誰へ渡したいか考える」
マティアは薄香米を見た。
「良いものって、使うとなくなるでしょう」
「食べ物ならそうですね」
「だから使うなら、ちゃんと誰かのために使いたいの」
ミレイアが静かに言った。
「マティアさんも、その誰かの一人ですよ」
昔の母と、ほとんど同じ言葉だった。
今度は、その意味が分かった。
マティアは誰かを大切にしすぎたのではない。
自分だけを「大切にする相手」の外へ置いていたのである。
食事の後半、悠斗は薄香米へ少量の澄まし汁をかけた。鳥肉と根玉葱の旨味が加わり、最初の一膳とは違う料理になる。
「この食べ方もいい」
マティアが言う。
「香りだけなら、そのままの方が分かりやすいですけどね」
「じゃあ、一膳目が正しい?」
「どっちが正しいってほどでもないです。最初は香りを楽しんで、次は汁と食べる。それでいいと思います」
良いものを大事にするからといって、一番よい瞬間を一つだけ選び、それ以外を間違いにする必要もない。
ただ、よい瞬間をいつまでも待っているうちに、食材そのものの時間が過ぎてしまうことはある。
「三週間前なら、もっと香った」
「でしょうね」
「本当にもったいなかった」
「次は早く食べればいいです」
「一人でも?」
「食べたいなら」
あまりにも簡単に返され、マティアは少し笑った。
その単純なことを、長い間できなかったのだ。
◇
翌朝、《白泡洗い場》へ戻ったマティアは、新しい手袋をつけて仕事を始めた。
セルマがすぐ気づいた。
「ちゃんと使ってる」
「古い方は乾いた衣類を畳む時の予備へ回した」
「それでいいでしょう」
「まだ少しもったいない気はするけど」
「穴の開いた手袋使って怪我する方がもったいないです」
午前中いっぱい水仕事をしてみると、新品の良さは明らかだった。冷水が染みにくく、濡れた寝具も握りやすいため、指の負担が少ない。
使わなければ新品のまま残る。
しかし棚に残すことが、この手袋を大切にすることではない。
仕事で手を守るために買ったのだから、使って初めて役目を果たしている。
昼前、セルマが三人分のパンを買ってきた。
一つだけ少し小さい。
いつもの癖で、マティアの手がその一つへ伸びかける。
途中で止まった。
「どうします?」
セルマが見ている。
「好きなの取ればいいんだっけ」
「そうです」
「好きなのって急に言われても困るね」
ピートが笑った。
「俺はこれでいいです」
真ん中の大きさを取る。
セルマも一つ選ぶ。
残った一番大きいパンが、マティアの前へ来た。
少し迷った。
しかし交換しなかった。
「今日はこれでいい」
「それ、本当に『これでいい』ですか?」
セルマが疑う。
「今日は『これが私の分』って意味」
「ならいいです」
三人で食べる。
誰も困らなかった。
翌日には、ピートが一番小さいパンを自分から選んだ。
「小さいけどいいの?」
マティアが聞く。
「朝食食いすぎたので、今日はこれくらいがいいです」
そこで初めて、マティアははっきり理解した。
小さいものや傷のあるものを取ること自体が問題なのではない。
本人が自分で選んだなら、それでよい。
自分だけは選ばず、毎回残りものを受け取る形にしていたことが違ったのである。
一週間後、ベネトが洗濯物を受け取りに来た。
「薄香米、食ったか」
「食べたよ」
「どうだった」
「美味しかった。でも置きすぎて香り抜けてた」
「だから早く食えって言っただろ」
「分かってる」
「何で置いたんだ」
「みんなで食べる日にしようと思って」
ベネトは笑った。
「お前、昔からそうだよな」
「何が」
「良いもん取っておいて、良い時期過ぎてから食う」
マティアが眉を上げる。
「昔から?」
「店開いた頃、祝いでやった蜜菓子も一週間置いてただろ」
「覚えてない」
「客が来た時に出そうと思ったんだろうな。俺が次に来た時、固くなってた」
「そんなことあった?」
「湯に浸して食ったって言ってたぞ」
覚えてはいないが、十分ありそうな話だった。
「次に新物入ったら、小袋売ってやる」
「買う」
「自分用に?」
一瞬だけ言葉が止まった。
以前なら、「店のみんな用」と答えたはずだった。
「自分用でもいい」
「珍しいな」
「みんなとも食べるかもしれないけど」
「どっちでもいい。食いたい時に食え」
ベネトはそれ以上何も言わなかった。
変化は、食事だけではなかった。
休憩室の椅子が一脚壊れた日には、反射的に、
「二人が使って。私は立ってるから」
と言いかけた。
途中で止める。
「……違うね」
セルマが笑う。
「違いますね」
「箱持ってきて座る。椅子は今日修理へ出す」
翌日には三脚へ戻った。
冬用の前掛けも、三人分まとめて新調した。
古いものは汚れの強い作業へ使う予備に回した。
無理に捨てる必要はない。
新しいものを使うことと、古いものを粗末にすることは別だった。
ただし、長年の癖が数週間ですべて消えたわけではない。
秋口、ピートが熱を出して三日休んだ時には、再びマティアが自分の休憩だけを削り始めた。
一日目は昼食が遅くなる。
二日目は、
「この寝具を終えてから」
と言ってさらに後へ延ばす。
三日目、セルマが作業を止めた。
「ご飯にしましょう」
「あと二枚だけ」
「昨日もそれ言いました」
「二人しかいないから」
「だから二人とも食べないと駄目でしょう」
「私は大丈夫」
「マティアさんまで倒れたら、私一人になります」
その言葉で止まった。
自分が我慢すればセルマが助かると思っていた。
実際には、自分が動けなくなれば負担はさらに増える。
「……食べよう」
二人で短い休憩を取った。
「こういう忙しい時まで、譲っちゃ駄目?」
マティアが聞く。
「多少は仕方ないですよ。今日は二人とも普段より休憩短いでしょう」
「セルマまで短くなってる」
「忙しいからです。マティアさん一人の分だけ消す必要はないって言ってるんです」
その区別も、少しずつ分かるようになった。
誰かの事情に合わせ、自分が多く動く日があってもよい。
譲ること自体をやめる必要はない。
ただし、いつでも最初に削るのが自分でなければならないわけではなかった。
◇
秋の終わり、ベネトの店へ新しい薄香米が入った。
約束通り、小さな袋を一つ取り置いてくれていた。
「今度は売り物だからな」
「いくら?」
代金を払う。
「早めに食えよ」
「分かってる」
「いつ?」
「今日」
自分で答えた。
その日の仕事を終え、家へ帰る。
セルマもピートもいない。
一人だった。
明日まで置けば三人で食べられる。
週末なら誰かを呼べる。
セルマの子どもが来る日まで待つこともできる。
いつもの考えが一度は浮かんだ。
袋を棚へ置きかける。
そこでやめた。
「全部食べる必要はないんだから」
独り言を言う。
一人分だけ洗う。
小鍋へ入れる。
残りは明日、洗い場へ持っていけばいい。
炊き始めてしばらくすると、前回とは比べものにならないほどはっきりした香りが部屋へ広がった。
若草のような青さ。
その奥に、炒った木の実のような甘さ。
「ああ、これだったんだ」
思わず声が出た。
前回は確かに、この香りの多くを待っている間に逃していた。
椀へ一膳だけ盛る。
塩をほんの少し添える。
一人で食べる。
香りがよい。
甘い。
食べると、当然米は減る。
しかし、なくなったわけではない。
自分の身体へ入り、夕食になった。
「美味しい」
誰へ伝えるでもなく口へした。
部屋には自分しかいない。
それでも、その一膳を食べる意味は十分にあった。
翌日、残りを《白泡洗い場》へ持っていった。
「これ、昨日買った新物」
セルマが袋を見る。
「もう開けたんですか?」
「昨日、一人で食べた」
ピートまで振り返る。
「マティアさんが?」
「何よ、その顔」
「いや、かなりの出来事な気がして」
「普通の夕飯だから」
セルマが笑う。
「それが言えるなら進歩ですね」
三人分を炊く。
前夜と同じ香りが立ち、ピートが驚いた。
「前の米と全然違いません?」
「同じ種類。前は私が置きすぎたの」
「本当に香り違いますね」
セルマも一口食べる。
「昨日一人で食べて、もったいなくなかったですか?」
わざと聞かれた。
マティアは考えずに答えた。
「美味しかったから、もったいなくなかった」
「いい答え」
「いちいち採点しないで」
三人で笑った。
一人で食べた一膳もある。
三人で食べる昼食もある。
どちらか片方だけを選ぶ必要はなかった。
その冬、《白泡洗い場》では厚手寝具の依頼が増えた。水は冷たく、乾燥にも時間がかかる。
以前のマティアなら、二人へ厚手の手袋と温かい昼食を優先し、自分だけ薄いものや残り物で済ませただろう。
今年は最初から三人分を用意した。
防水布の前掛けも三枚。
厚手の手袋も三組。
昼の豆煮込みも三人分。
「今年、店主だけ古いの着てないですね」
ピートが言う。
「毎回セルマに怒られるの面倒だから」
「本当は?」
セルマが尋ねる。
マティアは少し笑った。
「私も寒いから」
「やっと人間になった」
「前から人間だよ」
水仕事を終えれば三人で火へ当たる。
急ぎ仕事があれば残ることもあるが、夕食は取る。
誰かが良いものを一つだけ必要としていれば譲ることもある。
ただし、その都度理由を考える。
自分が譲りたいから譲るのか。
相手の方が本当に必要なのか。
それとも、ただ昔からの癖で自分を外しているだけなのか。
その一手間が入るだけで、選び方はかなり変わった。
◇
春先、《白泡洗い場》は開店から九年目を迎えた。
十周年でもなく、大きな祝いをするほどの節目ではない。
それでもベネトが、
「九年続けば十分祝いだ」
と言って、今年最初の薄香米を小袋で持ってきた。
「今度は祝いだから金取らんぞ」
「また?」
「早取りだ。香り強い」
「何か返した方が――」
そこまで口へ出しかけ、やめた。
ベネトが笑う。
「別の癖まで出たな」
「今のは忘れて」
「今日食えよ」
「分かってる」
「棚に置いたら来年はやらん」
「今日は炊く」
その日の仕事を少し早めに終え、奥の炊事場で三人分を炊いた。
量は少し余る。
「マティアさん、先に取ってください」
ピートが椀を渡す。
「店主だから?」
「何となく」
「そういう順番もいらないよ。三人同じくらいでいい」
それぞれの椀へ盛る。
残った分は翌朝へ。
蓋を開けたばかりの薄香米は、最初にベネトからもらった時とは比べものにならないほどよく香った。
「これ、本当に同じ米ですか」
ピートが驚く。
「同じだよ。最初のは私が良い日待ちすぎた」
セルマが聞く。
「今日は良い日なんですか?」
マティアは少し考えた。
誰かの誕生日ではない。
大口の仕事が終わったわけでもない。
特別な祝い客がいるわけでもない。
ただ九年間続けてきた洗い場で、三人が普通に仕事を終えた春の日だった。
「食べようと思った日だから、今日はこれでいい」
三人で笑った。
それからも、マティアは誰かへ何かを譲った。
ピートが病み上がりなら、温かい汁物を少し多くよそうことがある。セルマの子どもが遊びに来れば、菓子を一枚多く渡す。自分より若い二人が重い寝具を何枚も続けて運んでいれば、次の一枚を自分が引き受ける。
その気持ちまで変える必要はなかった。
変わったのは、譲るたびに自分の分を消さなくなったことである。
三人なら三人分を考える。
一つしかないなら、その時に誰へ渡すか決める。
自分が本当に譲りたいなら譲る。
自分も欲しいなら、自分を候補へ入れる。
良いものを使うことについても同じだった。
新しい手袋は水仕事へ使う。
古い手袋は乾いた作業の予備へ回す。
香りのよい米は香りがあるうちに炊く。
祝いの菓子は固くなるまで棚へ残さない。
使えば古くなる。
食べればなくなる。
だからといって、それは価値を失わせたことにはならない。
使うためにあるものなら、ちょうどよい時に使ったことで役目を果たしている。
初夏のある朝、セルマが隣の宿からもらったという赤い果物を三つ持ってきた。
「三人分だそうです」
大きさは少しずつ違う。
以前のマティアなら、迷いなく一番小さいものへ手を伸ばしただろう。
今日は三つを眺めた。
「どれが甘いと思う?」
「私に聞きます?」
セルマが笑う。
ピートが真ん中の一つを取る。
「俺これにします」
セルマは一番小さな実を持った。
「私はこれ」
残ったのは、一番大きな果物だった。
マティアは一度だけ見た。
交換しようとはしなかった。
「じゃあ、これが私の分ね」
皮を剥いて一口食べる。
よく熟している。
「甘い」
「当たりですね」
誰かから奪ったわけではない。
セルマもピートも、自分で選んだ。
その結果、大きなものが自分へ残っただけだった。
以前なら、それでも「良いものが自分へ来た」という理由だけで落ち着かなかった。
今は普通に食べられた。
昼前には仕事が忙しくなり、三人とも果物のことなど忘れていた。
それくらいでよかった。
夕方、洗い終えた衣服を畳みながら、マティアは自分の新しい前掛けへ水滴がいくつも跳ねていることに気づいた。買ったばかりの頃より色は少し薄れ、何度も洗った生地も柔らかくなっている。
以前なら、良い前掛けを汚すのはもったいないと考えたかもしれない。
しかし前掛けは、綺麗なまま棚へ保管するために買ったものではない。
水や汚れから服を守るために着る。
使えば汚れる。
洗えば古くなる。
それでも着ずに残していた時より、今の方がずっと役に立っている。
「マティアさん、こっち終わりました」
セルマが声をかけた。
「私はあと五枚」
「三枚やりますよ」
以前なら、
「いい、私がやる」
と反射的に断った。
今は乾いた布を三枚渡す。
「じゃあお願い。私は残り二枚やる」
二人で畳めば早い。
仕事を終えれば、三人で帰る。
誰か一人だけが最後まで残る必要はない。
翌日の予定を帳面へ書く。
宿屋の寝具。
家庭用の衣服。
食堂の前掛け。
午前中は少し忙しい。
それでも昼には三人で食事を取る。
必要なら休む。
良いものが一つしかなく、誰かへ渡したいと思えば、その時に考える。
ただし最初から、自分の名前だけ人数から消すことはしない。
戸口へ出たところで、セルマが翌日の昼食について尋ねた。
「近くのパン屋、明日から新しい乳酪パン出すそうですよ」
「三つ買う?」
「三つですね」
「一つだけ焦げてたら?」
セルマが笑う。
「誰が食べたいか、その時決めましょう」
「それでいいね」
マティアも笑い、三人で東区の通りへ歩き出した。
良い米も、新しい手袋も、焼きたてのパンも、使えば減り、食べればなくなり、いつかは古くなる。それでも誰かのために取っておくことだけが大切にする方法ではなく、自分自身もその「誰か」の中へきちんと入れたうえで、必要な時に使い、食べたい時に食べることもまた、大切にすることなのだと、今のマティアには分かっていた。
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