第73話 色の抜けた紫灯実と、初めてを隠したい仕立屋
エヴァ・リュネは四十五歳になる人間の女性であり、レーヴェン北東区の職人通りで《銀梭仕立房》という店を営んでいた。灰褐色の髪は耳の下で揃え、仕事中には細い革紐で首の後ろへ束ねているため、採寸や裁断へ集中している時には、黒に近い青色の目と、年齢のわりにほとんど曲がっていない背筋がよく目立つ。三十年近く針を扱ってきた右手には小さな傷と硬い針だこがいくつも残っているが、指先の動きはいまも滑らかで、布へ針を通す速さだけなら二十代の職人にもほとんど負けなかった。
《銀梭仕立房》が扱うのは、貴族の夜会服ほど豪華ではないものの、何年か大切に着ることを前提とした少し上等な服が中心だった。商会の支配人が客先へ出る日に着る上着、裕福な職人が祝いの日のために用意する一着、宿の女将が年に数度だけ着る外出着、成人を迎える子どもへ親が贈る服など、目立つ装飾よりも身体への馴染みや丈夫さを求める客が多く、エヴァ自身もそうした仕事を好んでいた。
肩幅だけ合わせればよいわけではなく、腕を前へ出した時に背中が引かれないか、座った時に腰回りが窮屈にならないか、荷物を持つ仕事なら袖下へどの程度の余裕を残すかまで確認し、客の生活へ合わせて細かく型を変える。完成した服を一目見ただけでは派手な違いがなくても、着て一日働けば楽さが分かるような仕立てを目指しており、それが《銀梭仕立房》の評判にもなっていた。
十五歳で仕立屋へ入り、二十三歳には一人で一着を任されるようになり、三十四歳で独立してから十一年が経っている。職人組合の小さな集まりでは若手の服を見て意見を求められることもあり、取引先の布商から新しい生地について相談されれば、縫いやすさや着心地を答えられる程度には名前も知られていた。
もちろん、最初から器用だったわけではない。
十代の頃には袖を左右逆へつけたこともあれば、裁断線を読み違えて高価な布を一枚駄目にしたこともある。糸を強く引きすぎて柔らかな布を波打たせ、師匠から全部ほどくよう命じられた夜には、悔しさで泣きながら縫い直したことさえあった。
それでも一つずつ覚えた。
失敗した理由を聞き、分からなければ先輩へ尋ね、翌日に同じことを繰り返さないよう練習する。そうして現在の腕を身につけたのだから、本来ならエヴァは、誰だって初めは何も知らないということをよく理解しているはずだった。
ところが四十五歳になった今の彼女は、仕立て以外の新しい技術について自分が初心者になることを、若い頃よりもずっと恥ずかしいと感じるようになっていた。
長く一人前として働いた時間が、そのまま壁になっていたのである。
◇
そのことが表面へ出たきっかけは、《銀梭仕立房》が二十年以上頼り続けてきた《ヘルム染房》の閉店だった。
エヴァは布を仕立てる職人であり、生地を織ったり、一反分の布を自分で染めたりすることまでは行っていない。客が布を持ち込むこともあるが、多くの場合は用途と予算に合わせてエヴァが生地を選び、必要なら染房へ色を注文してから服を作る。
《銀梭仕立房》でよく使うのは、深い灰青色や落ち着いた葡萄色、少しくすんだ緑といった、派手すぎず仕事着にも外出着にも使いやすい色だった。その細かな色を二十年以上安定して作ってくれたのが、職人街の外れにある《ヘルム染房》である。
主人のヘルムは六十八歳になる男性で、若い頃から口数が少なく、必要なことだけを短く言う人物だったが、染色の腕は確かだった。同じ青でも羊毛と麻では染料の量を変え、季節によって井戸水の状態が違えば媒染の時間まで調整するため、数年前に仕立てた服へ新しい布を足す時でさえ、かなり近い色へ合わせてくれる。
「この灰青、前より少し赤い気がする」
エヴァが言えば、ヘルムは布を一度見る。
「糸が去年と違う」
「なら仕方ない?」
「次は合わせる」
その程度の会話で通じる関係が長く続いていた。
エヴァがまだ別の店で働いていた二十代の頃から知っている相手であり、《銀梭仕立房》を開いた後には年間を通して何度も布を頼むようになったため、ヘルムが作る色は店の服の一部といってもよかった。
そのヘルムが、春の終わりに何でもないことのように言った。
「年内で染房閉める」
エヴァは手元の布から顔を上げた。
「何を?」
「店を」
「どうして」
「歳だからだ」
「弟子は?」
「いない」
「息子さんは?」
「染めはやらん」
「じゃあ、うちの灰青とか葡萄色はどうするの」
「別の染房探せ」
あまりにも簡単に言われ、エヴァは腹が立った。
「二十年以上使ってる色なんだよ」
「だから半年前に言ってる」
「半年前に言えば何でもいいって話じゃないでしょう」
「じゃあ自分で染めればいい」
ヘルムは平然と答えた。
「私は仕立屋なんだけど」
「知ってる」
「染めなんて一度もやったことないよ」
「最初は誰でもそうだ」
「簡単に言わないで」
その日は機嫌を悪くしたまま帰ったが、ヘルムの言う通り、別の染房を探さないわけにはいかなかった。
レーヴェンには染物を扱う店がいくつもある。ヘルムと完全に同じ配合は無理でも、似た色なら作れるはずだった。
まず一軒目へ灰青の見本を持ち込んだ。
「似せることはできます。ただ、うちの青染料だと少し鮮やかに出ると思います」
試し染めを頼んだ。
悪い色ではなかった。
むしろ一般的な青として見れば美しい。
しかしヘルムの布と並べれば青みが強く、《銀梭仕立房》で長く使ってきた灰青とは印象が違う。
二軒目は灰を多く使って合わせてくれたが、今度は少し暗すぎた。
客の大半は気づかないかもしれない。
それでもエヴァ自身には違いが見える。
結局またヘルムへ見本を持っていき、不満を言った。
「これ、青すぎる。こっちは暗すぎる」
「なら細かく頼め」
「頼んでる」
「『もう少し前の色へ』だけじゃ分からんだろ」
「見本渡してるよ」
「色がどう動くか少し知ってれば、もっと具体的に言える」
「それは染め職人の仕事でしょう」
「全部染めろとは言ってない。自分が使う色くらい、青を減らしたらどうなるとか、媒染変えたらどう動くとか、その程度は知ってても損しない」
エヴァも、理屈では分かっていた。
染色そのものを仕事にする必要はない。
ただ、色が生まれる仕組みを少し理解できれば、取引先へ「もっと落ち着かせて」「少し前の色へ近づけて」という曖昧な言葉以外でも伝えられるようになる。
「初心者へ教えてるところ、あるぞ」
ヘルムが続けた。
「どこ」
「《ミーネ染房》。月に何回か基礎講習やってる」
知っている店だった。
比較的若い職人が多く、弟子育成にも力を入れている染房で、一般向けの簡単な講習をしていることも職人組合で聞いたことがある。
「初心者向けでしょう」
「お前、初心者だろ」
エヴァは何も返さず、見本布を鞄へしまった。
その言葉だけが、妙に腹立たしかった。
染めについては、一度もまともに習ったことがない。
だから初心者である。
何一つ間違っていない。
それなのに、「初心者」と呼ばれた瞬間、自分の三十年近い職人生活まで小さくされたように感じてしまった。
◇
エヴァが染色を嫌っていたわけではなかった。
むしろ、以前から興味はあった。
仕立ての仕事をしていれば、あと少し灰色へ寄せられたらこの客の髪へよく合うとか、もう少し赤味が抜ければ持っている外套とも合わせやすいとか、布の色に対して細かな希望を持つことは多い。染房へ頼めば調整してくれるものの、エヴァ自身に知識がないため、最後には見本布を並べて「この中間くらい」「もう少しくすませて」と伝えるしかなかった。
学べば役に立つ。
それは分かる。
それでも《ミーネ染房》の基礎講習へ自分が参加する姿を想像すると、申し込みへ行く足が止まった。
十代や二十代の若者と同じ机へ座るかもしれない。
染料の計り方から教わる。
布を最初にどこまで濡らすのか聞く。
染め桶へ入れる順序を間違える。
色むらを作る。
そして周囲から、《銀梭仕立房》のエヴァなのにこんなことも知らないのかと思われるかもしれない。
自分でも理屈のおかしさは理解していた。
仕立屋が染めをできないことに、不思議なところなどない。
パン職人が魚の捌き方を知らなくても、誰もパンの腕まで疑わないだろう。
しかし布という同じものに触れる仕事であるためか、染色を知らないことだけは自分の穴を見られるような気がした。
さらにエヴァは、職人通りでそれなりに顔を知られていた。
《ミーネ染房》の若手には、職人組合の集まりで自分の話を聞いた者もいるだろう。家族が《銀梭仕立房》を利用した人だっているかもしれない。
仕立てについては教える側として会った相手へ、今度は自分が「これはどうするの」と尋ねる。
それが何より恥ずかしかった。
そんなことを考えているうちに、最初に参加しようと思った月が過ぎた。
次の月も申し込まなかった。
《銀梭仕立房》には、五年前からセラという二十六歳の女性職人が働いている。栗色の長い髪を作業時には一つに束ね、難しい裁断ではまだエヴァへ確認することがあるものの、日常着や簡単な外出着なら採寸から仕上げまで任せられる程度には成長していた。
セラは、エヴァが染め講習を気にしていることを知っていた。
「来週の水曜、午後空いてますよ」
ある日、縫い物をしながら言った。
「何が」
「ミーネ染房の講習」
「今は注文の話をしてるんじゃないの」
「来週の予定表見たら空いてました」
「注文が入るかもしれないでしょう」
「入ったら私が受けます」
「難しい採寸なら?」
「後日来てもらいます」
「そこまでして行く必要ないよ」
セラは針を止め、少しだけエヴァを見た。
「行きたくないんですか?」
「仕事があるって言ってるでしょう」
「行きたくないなら、それでいいですけど」
「何」
「行きたいのに行かない理由を、仕事へしてるように見えるから」
エヴァは眉を寄せた。
「五年働いて、ずいぶん言うようになったね」
「エヴァさんが、分からないことは言えって教えたので」
確かに、そう教えてきた。
「染めと仕立ては別だよ。少し知っただけですぐ使えるものじゃない」
「一回習っただけで、仕事に使うつもりなんですか?」
「習うなら役に立てたいでしょう」
「最初から?」
エヴァは答えなかった。
セラが《銀梭仕立房》へ入った初日、最初に縫った練習布を今でも保管していることを知っている。縫い目は曲がり、糸を引きすぎて布は少し波打っていた。
捨てようとしたセラへ、
『最初はこれでいい。三か月後にもう一度見れば、どこが変わったか分かるから残しておきなさい』
と言ったのはエヴァだった。
「若い人は失敗してもいいよ」
ようやく言う。
「私はもう四十五だよ」
「四十五になると、初めてやることでも失敗しちゃいけないんですか?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ何です?」
セラの問いへ答えられないまま、エヴァは手元の布へ視線を戻した。
自分が若い職人へ許してきたことを、自分にだけ許せなくなっている。
その矛盾に気づいてはいたが、それだけで簡単に講習へ申し込めるほど、長年積み上がった抵抗は軽くなかった。
◇
初夏、市場へ《紫灯実》が並び始めた。
紫灯実は拳より少し小さい楕円形の果実で、若いうちは皮が鮮やかな濃紫色をしており、陽光や灯りへかざすと青紫に反射する。その様子から、紫の灯を実の中へ閉じ込めているようだと名づけられたらしい。
ところが食材としては、最も鮮やかな時期が食べ頃ではなかった。
若い実には強い渋味と酸味があり、火を通しても舌へ少しざらつきが残る。熟すにつれて渋味は抜け、淡い灰紫色だった果肉へ甘味が増し、蜜と炒った木の実を合わせたような深い香りが出てくる。
代わりに、熟すほど皮の紫色が失われる。
食べ頃になった実は赤茶色へ近づき、紫の部分がまだらに残る程度で、見た目だけなら若い実より古く傷んでいるようにも見えた。
そして紫灯実は、食べるだけでなく染色にも使われている。
若い実の皮からは鮮やかな紫系の色が取れるが、熟すにつれて色素が弱くなるため、染め材料としては早い時期の方が価値が高い。
市場を歩いていたエヴァが足を止めたのも、その性質を以前ヘルムから聞いたことがあったからだった。
果実商の前には、鮮やかな紫色の若い実と、かなり色の抜けた熟した実が別々の籠へ入れられている。
「こっち、もう染めには使えない?」
エヴァが熟した方を指す。
「薄い色なら出るかもしれんけど、染めたいなら若い方だな」
「じゃあ、これは何にするの」
果実商が笑った。
「食うんだよ。むしろ甘いのはそっち」
「色は若い方が綺麗なのに」
「若いの食ってみるか? 渋いぞ」
「いらない」
「染めるなら綺麗な方、食うなら色抜けた方。使い道が違うだけだ」
エヴァは、なぜか熟した紫灯実を四個買った。
店へ戻ると、セラが袋から覗く実へ気づいた。
「紫灯実?」
「そう」
「染めるんですか」
「これは熟れすぎ。染めには向かないって」
「じゃあ食べる?」
「そのつもり」
「何作るんです?」
「まだ決めてないよ」
その夜、一つを切って生で食べた。
確かに甘い。
ただし果肉には少し粉っぽい食感があり、香りも強いため、そのまま一個を食べるより火を入れた方が美味しそうだった。
焼けばどう変わるのか。
煮るなら肉にも合うかもしれない。
そこまで考えたところで、《持ち込み食堂》を思い出した。
以前から客に何度か聞いていた店であり、持参した食材を相談しながら料理してくれるらしい。
自分で試すこともできたが、料理について詳しいわけではない。
翌日の昼過ぎ、残った紫灯実を三つ袋へ入れ、《持ち込み食堂》へ向かった。
店へ入ると、ミレイアが実を見てすぐに言った。
「かなり熟してますね」
「分かる?」
「紫がほとんど抜けてるから」
悠斗も厨房から出てきて一つを手に取った。
「生では食べました?」
「一つだけ。甘いけど、少し粉っぽかった」
「じゃあ最初に少し焼いてみますか。火を入れた時の変化も見たいので」
「知らないの?」
「紫灯実は知ってますけど、このくらい熟したものを何度も料理したわけではないです」
悠斗は何でもないことのように答えた。
エヴァは少しだけ、その言葉に引っかかった。
料理人なのに、知らないことをそのまま言った。
悠斗は紫灯実を薄く切り、鉄板へ並べて表面だけ焼いた。
火が入るにつれ果肉が柔らかくなり、生の時より甘い香りが強くなる。焦がさないところで取り出し、塩をほんの少しだけ振った。
「まずこれで食べてみてください」
エヴァが一切れ口へ入れる。
粉っぽさはほとんど消え、甘味が濃くなっていた。
「美味しい」
「かなり熟してるから、火を入れすぎると崩れそうですね」
「色は抜けてるのにね」
「若い方が美味しいんですか?」
「若いのは渋いらしい。染めなら若い方がいい」
「じゃあ、食べ物としては今の方が合ってるんですね」
「そうみたい」
あまりにも当然のことを言われただけなのに、妙に耳へ残った。
悠斗は残りの紫灯実を二つの状態へ分けた。
一つは粗く刻み、根玉葱と一緒に軽く炒めてから白い鳥肉の煮込みへ加える。熟した実は形を残そうとせず、煮汁へ溶け込ませる。
もう一つは少し厚めに切り、表面だけ焼いて形を残した。
鳥肉には塩と穏やかな香草を使い、紫灯実の甘味が重くならない程度の軽い煮汁でまとめる。
完成した《白肉と紫灯実の香り煮》は、名前から想像するほど紫色ではなかった。煮溶けた果肉は赤茶色へ近くなり、見た目だけなら地味な料理である。
それでも食べれば、鳥肉の塩気へ熟した果実の甘味が重なり、最後には木の実を煎った時に似た香ばしい匂いが残る。
「若い実で同じもの作ったら?」
エヴァが尋ねる。
「かなり酸っぱくて渋いと思います。別の調整をすれば料理にはできるでしょうけど、同じ仕上がりにはならないですね」
「でも色は綺麗」
「料理なら、俺は食べる方を優先します」
「そりゃそうだよね」
エヴァは少し笑った。
◇
食事をしているうちに、ミレイアがエヴァの鞄から覗いていた布見本へ気づいた。
「仕立屋さん?」
「《銀梭仕立房》って店をやってる」
「あ、聞いたことあります。身体に合わせてくれる店だって」
エヴァは少し驚いた。
「どこで聞いたの」
「ここに来たお客さん。仕事用の上着を作ってもらったって言ってました」
「そう」
嬉しかった。
ところが、そのすぐ後に染めのことを聞かれたらどうしようという考えが浮かぶ。
褒められた仕立屋としての自分と、何も知らない染めの初心者である自分を、同じ人へ見せることが嫌だった。
ミレイアはそんなことを知らず、紫灯実を指した。
「それ、染めにも使えるから買ったんですか?」
「違うよ。染めるならもっと若い実」
「詳しいんですね」
「それくらいは知ってる」
「エヴァさんも染めるの?」
一瞬だけ間ができた。
「……染めない。習ったことないから」
「これから習うんですか?」
「考えてはいる」
「じゃあ行けばいいのに」
あまりにも簡単に言われ、エヴァは少し顔をしかめた。
「今さら初心者向けのところへ行くの、結構恥ずかしいんだよ」
「今さら?」
「私、もう四十五だからね。仕立てでは人へ教えることもあるのに、十代や二十代の横で染料の量から聞くんだよ」
ミレイアは少し考えてから尋ねた。
「染めを習ったことないなら、知らないの普通じゃないですか?」
「理屈ではそうなんだけど」
「仕立屋さんって普通は染めまで全部できるの?」
「そんなことはないよ」
「じゃあ、何が恥ずかしいんです?」
エヴァはすぐ答えられなかった。
「長く職人やってるとね、分かる側にいる時間が長くなるんだよ。若い人に聞かれたら答えるし、客にも提案する。そういう時間が長くなると、何も知らない顔するのが嫌になる」
今度は悠斗が聞いた。
「仕立て始めた頃は、最初から上手かったんですか?」
「そんなわけないでしょう。袖を逆につけたこともあるし、裁断を間違えたこともある」
「今、若い職人さんを教えたりします?」
「店に一人いる」
「その人が初日に失敗した時、恥ずかしいから辞めた方がいいって言いました?」
「言うわけない。最初なんだから教えるよ」
「じゃあ、自分だけは最初からできないと駄目なんですか?」
エヴァは皿へ視線を落とした。
「立場が違うんだよ」
「仕立てでは一人前だから?」
「そう」
「染めでは?」
「……初心者だよ」
自分の口で言うと、少し苦かった。
「それだけじゃないですか?」
悠斗が言う。
「仕立ての腕がなくなるわけじゃないし、染めを今日初めてやるなら、染めだけ初心者なんだと思います」
「四十五歳でも?」
「年齢で染めの経験が増えるわけじゃないでしょう」
「みんな容赦ないね」
エヴァが苦笑すると、ミレイアも笑った。
悠斗はさらに、自分もこの世界で知らない食材を持ち込まれることがあると話した。名前だけ知っていても、熟し方や加熱した時の変化を知らなければ、持ち込んだ人へ聞き、少量を切って確認してから調理することもある。
「料理人なのに、客の前で知らないって言えるんだ」
「分からないのに知ってるふりする方が危ないですから。今日の紫灯実も、最初に一枚だけ焼いたでしょう」
「あれ、確認だったんだ」
「はい。熟し方が強かったので」
エヴァは皿に残った赤茶色の果実を見る。
若い紫灯実なら、見た目はもっと鮮やかだった。
ただし食べるには渋い。
今の実は紫色を失っているが、食材としては甘く美味しい。
染め材料として若い実に劣るからといって、果実そのものの価値が下がったわけではない。
「分かりやすい例えに使われてる気がする」
エヴァが言う。
ミレイアが少し笑う。
「少しだけ」
「やっぱり」
「でも、色が薄くなったから全部駄目ってわけじゃないんですよね」
「用途が違うからね」
エヴァは答えた後、自分の言葉を聞き直すように少し黙った。
仕立てについて三十年近い経験がある。
染めについては何も知らない。
その二つは同時に成立してよい。
染めで初心者になったところで、仕立ての経験まで色褪せるわけではなかった。
「もし講習へ行って、十七歳の子より下手だったら?」
それでも尋ねる。
ミレイアが答えた。
「その子が染めを何年もやってて、エヴァさんが初日なら、その子の方が上手で普通じゃないですか?」
「言い方が本当に容赦ないね」
「でも、その子が仕立てでエヴァさんより上手とは限らないでしょう?」
「それはそう」
「別の仕事なんだから」
その辺りまで来ると、何週間も悩んでいたことが少し馬鹿らしくなってきた。
帰る前、悠斗が言った。
「一回行って、合わなければやめることもできますよ」
「一回で役に立たなかったら?」
「二回目があります」
その言葉もまた、自分がセラへ何度も言ってきたものだった。
◇
《銀梭仕立房》へ戻った夕方、セラは作業台で上着の袖を縫っていた。
「紫灯実、どうでした?」
「美味しかったよ。鳥肉と煮てもらった」
「染めなかったんですね」
「熟れすぎだからね」
少し迷った後、エヴァは続けた。
「来週の水曜、午後は本当に空いてる?」
セラの手が止まった。
「今のところ」
「店、任せられる?」
「講習行くんですか?」
「一回だけ」
「やっとですね」
「その顔やめなさい」
「初心者向け?」
「そうだよ」
「いいじゃないですか」
「よくない。恥ずかしい」
「行く前から?」
「行く前が一番恥ずかしいんだよ」
それでも翌日、《ミーネ染房》へ申し込んだ。
講習の日、工房へ入るまでに二度ほど帰りたくなった。
参加者は六人だった。
十七歳の青年。
二十歳前後の女性。
三十代の布商。
自宅で小物を染めてみたいという五十代の女性。
もう一人の若い男性。
そしてエヴァ。
想像していたより年齢はばらばらで、それだけでも少し気が楽になった。
講師を務めるミーネは三十八歳の女性で、染房の主人でもある。職人組合で何度か顔を合わせているため、エヴァを見つけるとすぐ声をかけた。
「エヴァさん?」
「こんにちは」
「仕立ての相談?」
「違う」
申し込み票を見せる。
「基礎講習?」
「悪い?」
「いえ。むしろ嬉しいです」
「何で」
「仕立屋さんから色の相談を受けること多いので、エヴァさんが染め側を少し知ってくれたら話が早くなりそうです」
笑われなかった。
しかし講習が始まると、別の意味で恥ずかしいことはいくらでも起きた。
「最初に布を十分濡らしてください」
ミーネに言われ、白布を水へ入れる。
どの程度で十分なのか分からない。
隣にいた十七歳の青年は手慣れているように見えた。
「これくらいでいい?」
結局、自分から聞いた。
「もう少し全体を揉んだ方がいいですよ。中に乾いたところ残ると、色むらになるので」
「そう」
四十五歳の自分が、十七歳の青年から教えられた。
思っていた通りの状況だった。
ただし、実際に起きてみると、想像していたほど耐え難いものではなかった。
次に染料の粉を溶く。
水へそのまま入れたところ、小さな塊ができた。
「最初に少ない水で練ると溶けやすいですよ」
今度は二十歳前後の女性に教えられた。
「知ってた?」
「母が染め職人なので、家で手伝ってました」
「なるほど」
エヴァは素直にやり直した。
最初の課題は、小さな白布を淡い青へ染めるだけだった。
ところが染め上がった布は中央だけ色が濃く、端が薄い。
立派な色むらである。
隣の十七歳の青年の方が、はるかに均一だった。
「これは駄目だね」
エヴァが布を持ち上げる。
ミーネが確認する。
「最初に桶へ入れた時、布が少し重なってました。次は入れてすぐ広げ続けてみてください」
「見てた?」
「講師ですから」
「恥ずかしいな、これ」
ミーネは笑った。
「私、昔エヴァさんの店で上着の袖を直してもらったことありますよ」
「覚えてない」
「その時の私は、袖がどうついてるかなんて何も知りませんでした。今日はエヴァさんが染めを知らない。それだけでしょう」
同じようなことを、何度聞けば自分は納得するのだろうと思った。
それでも、二回目の講習へは自分から申し込んだ。
今度は同じ染料に違う媒染剤を使い、色がどのように変わるかを試す。
一枚は灰へ寄る。
一枚は青が強く残る。
もう一枚は、ごくわずかに緑を含んだ。
「同じ染料なのに、こんなに違うんだ」
エヴァは三枚を何度も並べた。
「布でも変わります」
ミーネが答える。
「羊毛だと?」
「もっと色が入りやすいですね」
「麻は?」
「均一に入れるのが少し難しいです」
「温度高くすると?」
「染料によりますけど――」
質問が増えた。
気づけば、知らないことを見られる恥ずかしさより、知らないことの答えを聞ける面白さの方が少し強くなっていた。
ところが三回目、慣れてきたところで大きく色を外した。
自分で配合を考える課題で、《銀梭仕立房》が使ってきた灰青へ近づけようとしたのである。
青を抑え、灰を強くする。
媒染も前回の結果を見ながら選ぶ。
頭の中では、かなり近い色になるつもりだった。
染め上がった布は、濁った緑灰色になった。
「何これ」
思わず声が出る。
隣の青年が覗く。
「ちょっと泥みたいですね」
「正直だね」
「あ、すみません」
「本当だからいいよ」
笑ったものの、内心ではかなり落ち込んだ。
灰青を作ろうとして泥色になった。
店へ戻ると、失敗布を鞄の奥へ押し込んだ。
「今日は何色でした?」
セラが聞く。
「失敗」
「見せてください」
「嫌」
「何で」
「狙った色じゃないから」
「講習なんでしょう?」
「講習でも嫌なものは嫌」
自分でも子どものようだと思った。
翌朝になっても、鞄の中の布が気になった。
なぜ緑へ寄ったのか。
青と灰を使ったつもりなのに。
媒染剤なのか。
布そのものなのか。
次の講習まで待てば質問できる。
しかし一週間ある。
聞きに行けば今日分かるかもしれない。
それでも、初心者が講習日でもないのに質問だけしに行くことへ、また妙な遠慮が出た。
「エヴァさん、それ朝から何回鞄見てるんですか」
セラに指摘された。
「見てない」
「失敗布でしょう」
「……そうだよ」
「見せてください」
諦めて広げる。
セラは少し離れて見る。
「私は好きですよ、この色」
「灰青を作ろうとしたんだよ」
「それなら失敗ですね」
「容赦ないね」
「でも、何でこうなったのか聞けばいいでしょう」
「次の講習で聞く」
「今日じゃ駄目なんですか」
「毎日初心者が質問に来たら迷惑でしょう」
「それも聞いてみればいいのに」
エヴァが睨む。
「あなた最近、本当に簡単に言うね」
「私が新人の時、『分からないまま一週間縫い続ける方が困る』って言ったの、エヴァさんですから」
また自分の言葉が返ってきた。
結局その日の夕方、ミーネ染房へ失敗布を持っていった。
「講習、明後日ですよ」
ミーネが少し驚く。
「分かってる。これだけ聞きたい」
布を広げる。
「灰青にするつもりだったのに、緑になった」
ミーネは配合を聞き、布の端を確認した。
「この布、元々完全な白じゃないですね」
「生成りだけど、かなり薄いよ」
「薄い色を染める時は、その黄味が出ます。今回の媒染だと特に拾いやすい」
「こんな少しでも?」
「出ますね。白布で同じ配合なら、かなり違うと思います」
「じゃあ灰を先に?」
「それも一つです。あと青をもう少し減らして――」
細かく教えてくれる。
「こういうこと、講習日以外に聞いていいの?」
「忙しい時は後でって言いますけど、質問くらいなら。分からないまま自分で何度も失敗するより早いでしょう」
「初心者が毎日来たら面倒じゃない?」
「質問しない初心者の方が怖いですよ」
昔の師匠とよく似た言葉だった。
エヴァはとうとう笑った。
◇
四回目の講習で、同じ灰青へ再挑戦した。
今度は白布を使い、媒染を変え、青を少し抑える。
染め上がりはヘルムの灰青とはまだ違ったものの、前回の泥色とは比べものにならないほど近づいた。
「前よりずっといい」
エヴァが布を広げる。
「まだ少し青が強いですね」
ミーネが言う。
「次はもう少し灰を出したい」
「じゃあ配合変えてみましょう」
以前なら、「まだ違う」という事実だけを失敗として受け取っただろう。
今は、前より近づいたところも見える。
店へ戻ると、今度は自分からセラへ布を見せた。
「どう?」
「綺麗です」
「ヘルムさんのと比べて」
二枚を並べる。
「こっちの方が青が強いですね」
「やっぱり」
「でも、別の色として私はこっち好きです」
「好みじゃなく差を見て」
「差はあります。でも違う色だから駄目ってわけじゃないでしょう」
その言葉も、以前より素直に聞けた。
数日後、ヘルム染房へ布を持っていった。
ヘルムは一目で、自分で染めたものだと見抜いた。
「やったのか」
「まだ四回だけ」
「十分だろ」
「あなたの灰青と全然同じじゃない」
「誰が同じにしろと言った」
エヴァが眉を寄せる。
「あなたの色がなくなるから習ったんでしょう」
「俺の色そのまま作れとは言ってない。お前が色の違いを分かって、染房へまともに注文できればそれでいい」
「でも、自分で染めるなら」
「お前が染め職人になる気ないなら、全部一人でできなくていいだろ」
ヘルムは二枚を並べる。
「こっちは青が強い。ただ、この布には悪くない」
「あなたの灰青じゃない」
「俺の灰青は俺が作った色だ。似せたければ似せればいいが、お前が別の色作ったなら、それを使ってもいい」
エヴァは少し黙った。
いつの間にか、「染めを習うならヘルムの仕事を再現できるところまで行かなければ意味がない」と勝手に目的を大きくしていた。
本来必要なのは、自分の仕立て仕事へ色の知識を持ち帰ることだった。
五回目の講習では、《銀梭仕立房》で普段使う羊毛布を持ち込んだ。
「この布を、前回より少し暗い灰青にしたい」
最初からミーネへ相談する。
「下地が生成りなので、黄味は少し出ます」
「抑えるなら?」
「青を強くする方法もありますけど、それだと鮮やかになります。ごく少量の紫を入れて黄味を相殺する手もありますよ」
「紫?」
思いもしなかった方法だった。
ほんの少量を加える。
染め上がりには、これまでのヘルムの灰青とは違う、ごくわずかに紫を含んだ青灰色が現れた。
「これ、好きかもしれない」
エヴァが言う。
「新しい見本にします?」
「まだ小布だけどね」
「だから見本なんでしょう」
知らないことが、まだいくらでもある。
以前なら、その事実は自分の未熟さを見せつけられるようで嫌だった。
今は、次に何を試せるのかという興味へ少しずつ変わっていた。
◇
講習へ通い始めてしばらくした頃、《銀梭仕立房》へ三十代の女性商人が仕事用の上着を注文しに来た。
「紺は嫌いじゃないんだけど、商会の人みんな似たような色なんですよね」
エヴァは見本帳を広げた。
ヘルムの古い灰青。
別の染房で作った濃い青。
そして、自分が講習で試した紫を含む青灰。
女性の手が、新しい見本で止まった。
「これは?」
「まだ試し染め。定番にはしてない色です」
「誰が考えたんです?」
以前なら、自分が染めを習っていることまで言うのをためらったかもしれない。
「私。最近、染めの基礎を習ってて」
「エヴァさんが染めたの?」
「この小さい布は私。でも一着分を均一に染める腕はまだないから、本番は染房へ頼むことになる」
女性は光へかざした。
「これ、少し紫に見える角度がありますね」
「そう。生成り布の黄味を抑えるために少し入れてる」
「好きです。これでお願いできます?」
「染房と相談して、大きめの試しを一度作る。それを見てからでもいい?」
「お願いします」
自分の学びが、初めて実際の注文へつながった。
それでもエヴァが一人で染めるわけではない。
ミーネ染房へ配合と小布を持っていく。
「この方向で一着分、安定して出せる?」
「できます。ただ、小布と布量が違うから少し調整します。先に大きめの見本作りましょう」
「お願い」
以前なら、「自分が習ったなら自分で全部やらなければ」と考えたかもしれない。
今は違った。
自分が色の方向を考える。
染め職人と具体的に相談する。
大量の布を均一に仕上げる部分は、経験のある染房へ任せる。
その知識を使い、完成した布を服へ仕立てる。
全部一人でできなくても、習ったことは十分に仕事へ役立っていた。
本番の布は、小さな見本より少し暗く仕上がった。
「違うね」
エヴァは最初に言った。
それでもすぐやり直すのではなく、注文した女性にも見てもらった。
「私は本番の方が好きです。仕事で着るなら落ち着いてる」
「なら、このまま使う?」
「お願いします」
完成した上着は、ヘルムの灰青とも、ミーネ染房の定番色とも違う。室内では落ち着いた青灰に見え、陽光の下へ出ると、ごくわずかに紫が浮かんだ。
女性が鏡の前で腕を動かす。
「肩も楽。色もいいですね」
「試し布より暗くなったけど」
「私はこっちの方が好き」
「ならよかった」
自分が一人で染めた布ではない。
それでも、自分が初心者として染色を学び始めなければ生まれなかった一着だった。
その事実は、エヴァが思っていたより嬉しかった。
夏の終わりには、セラまで言い始めた。
「私も染め講習、行ってみようかな」
「どうして」
「エヴァさんが楽しそうなので」
「楽しそうになんてしてない」
「見本棚、前の倍になってますよ」
棚には、小さな布が何十枚も並んでいた。
最初に色むらを作った淡い青。
狙いを外した泥色の緑灰。
二回目の灰青。
紫を少し混ぜた青灰。
羊毛で濃く出たもの。
麻で薄くなったもの。
成功だけではなく、失敗した布もほとんど残してある。
「これ、最初の講習の?」
セラがむらのある青布を取る。
「そう」
「捨てなかったんですね」
「今のと比べられるから」
「私の最初の縫い布と同じですね」
言われて、エヴァは少し笑った。
「そうみたいだね」
自分が弟子へさせていたことを、ようやく自分自身にも許せるようになっていた。
◇
秋、市場には再び紫灯実が大量に並んだ。
今度は若い鮮やかな実と、熟して赤茶色へ変わった実が、はっきり二つの籠へ分けられている。
昨年から顔を覚えていた果実商が笑った。
「染めるならこっちだぞ」
鮮やかな紫を指す。
「食べるなら?」
「そっち」
色の抜けた熟した方である。
「両方ちょうだい」
「何するんだ」
「若い方は染めの練習。熟れた方は食べる」
「欲張りだな」
「使い道が違うだけ」
若い紫灯実の皮は講習へ持ち込み、小さな白布を染めてみた。
確かに鮮やかな紫が出る。
ただし色落ちを防ぐ処理は難しく、衣服へ使うにはまだ勉強が必要だった。
熟した方は《銀梭仕立房》へ持ち帰り、セラと薄く焼いて食べる。
「色が綺麗なのは若い方なのに、食べるならこっちなんですね」
セラが言う。
「用途が違うんだからね。染めるなら若い方、食べるなら熟れた方」
「どっちが上ってわけじゃない?」
エヴァは少し考えた。
「少なくとも、紫が濃いかどうかだけでは決められないね」
その年の晩秋、《ヘルム染房》は予定通り店を閉じた。
最後の日、エヴァは小さな焼き菓子を持って訪ねた。
「何だこれ」
「熟した紫灯実の焼き菓子」
「今度は菓子職人か」
「ならないよ」
「染め職人にもならんと言ってたな」
「ならない。でも講習は続けてる」
ヘルムは少し笑った。
「そうか」
工房の中にはもう布がほとんどなく、長く使われた染め桶もいくつかは別の店へ譲るため片づけられていた。エヴァが二十年以上見てきた場所が、本当に終わろうとしている。
「あなたの灰青、もうそのままは作れないね」
エヴァが言う。
「俺が辞めるんだからな」
「配合、教えてくれないの?」
「帳面はミーネへ渡す」
「私じゃないんだ」
「お前に渡しても一反均一に染められんだろ」
「それはそうだけど」
「それに帳面があっても、俺と同じにはならん。水も染料も布も変わる」
「今なら分かるよ」
「少しは勉強したらしいな」
ヘルムは古い小さな見本帳を一冊取り出した。
「これは?」
「お前の店が昔頼んだ色。十五年以上前から残してある」
頁を開けば、灰青、葡萄色、くすんだ緑、茶を含んだ赤など、《銀梭仕立房》で使ってきた色が並んでいた。
「もらっていいの?」
「仕立屋なら使うだろ。ただし、同じ色を守るためだけに使うな」
「どういう意味?」
「昔の色は参考だ。今の布に合わなきゃ変えろ」
「分かってるよ」
「本当か?」
「染めの初心者なりにね」
自分からそう言った。
以前のような恥ずかしさは、ほとんどなかった。
◇
冬になると、《銀梭仕立房》には新しい色見本帳ができた。
一方には、ヘルムから譲られた過去の色。
もう一方には、エヴァが講習で試した色や、ミーネ染房と相談しながら作った新しい色を並べた。
古い色を捨てたわけではない。
すべてを新しくするつもりもない。
以前の灰青を好む客がいれば、それへ近づける。
新しい青灰を気に入る人には、そちらを使う。
その日の布と用途を見て考える。
ある若い男性は昔からの灰青を選び、別の女性は新しい紫を含んだ青灰を選んだ。
どちらかを正解にする必要はなかった。
年末が近づいた頃、エヴァは熟した紫灯実を二個持ち、久しぶりに《持ち込み食堂》へ行った。
「また紫灯実?」
ミレイアが笑う。
「今年最後のやつ」
「若いのは染めた?」
「小布なら。実際の服に使うにはまだ難しい」
以前なら、「まだできない」と言う時には、少し言い訳を足したかもしれない。
今はそのまま言える。
悠斗が果実を確認する。
「今日はどうします?」
「前と違うもの」
「甘い料理でも?」
「いいよ」
熟した紫灯実を粗く潰し、少量の蜜と乳を合わせ、卵を使った柔らかな生地へ混ぜる。薄い焼き型へ流してゆっくり火を入れると、焼き上がった菓子は名前ほど紫ではなく、赤茶色に近い色になった。
「全然紫じゃないね」
エヴァが笑う。
「熟してますから」
一口食べる。
しっとりした生地へ、紫灯実の深い甘味が広がった。
「美味しい」
ミレイアが尋ねる。
「前の肉料理とどっちが好き?」
「今日はこっち」
「またその答え?」
「料理が違うんだから、比べなくていいでしょう」
今度はエヴァが笑った。
「染め、続けてるんですね」
悠斗が聞く。
「月に二回くらい。仕事が忙しい時は休むけどね」
「仕事に役立ってます?」
「思ったより。自分で全部染めるためじゃなくて、染房へ頼む時に使う言葉が増えた」
「どんなふうに?」
「前なら『もう少しくすんだ青』って言ってたところを、今なら『青を減らすより、媒染を変えて灰を出したい』って相談できる。向こうも前より分かりやすいって」
「十分役立ってますね」
「一人で一反染められないけどね」
「それは必要になったら覚えればいいんじゃないですか」
「今のところ必要ない」
そう答えられるようにもなった。
学び始めたからといって、すべてを極めなければならないわけではない。
自分が必要なところまで学ぶこともできる。
◇
翌春、《銀梭仕立房》にはリクスという十八歳の青年が新しく入った。
初日、練習布へ縫い目を作らせると、糸を引きすぎて見事に布を波打たせた。
「すみません」
「ほどこう。最初はよくあるから」
「セラさんは最初からできました?」
セラが笑った。
「できるわけないでしょう」
リクスがエヴァを見る。
「エヴァさんも?」
「袖を左右逆につけたことがあるよ」
「本当に?」
「本当。師匠に見せる前に気づいたけどね」
「信じられない」
「私も今は信じたくない」
エヴァは棚から一枚の小布を出した。
最初の染め講習で作った、中央だけ濃くなった淡い青布である。
「これは?」
「私が初めて染めた布」
「エヴァさん、染めもするんですか?」
「習ってる途中」
リクスは遠慮なく布を見る。
「むら、すごいですね」
「でしょう」
「今もこんな感じ?」
「最近はもう少しまし」
現在の見本も並べる。
リクスが二枚を見比べて驚いた。
「全然違う」
「最初と今だからね」
失敗布を人へ見せても、仕立屋としての自分が小さくなることはなかった。
数週間後、リクスは客の上着で袖付けを少しずらした。
仮縫いの段階で気づいたため、実害はない。
「やり直します」
「そうしよう」
「いつになったら失敗しなくなりますか?」
エヴァは少し考えた。
「失敗しなくなる日は、たぶん来ないよ」
リクスの顔が曇る。
「そんなに?」
「同じ失敗は減る。分かることも増える。でも、難しい仕事をするようになれば、また知らないことが出てくる。私だって今も初めて扱う布はあるからね」
「ずっと初心者みたいですね」
「全部のことで一人前にはなれないんだよ」
言いながら、それは自分自身にも向けた言葉になった。
仕立てには三十年近い経験がある。
染めでは、まだ初級の途中。
料理では、紫灯実の焼き方さえ悠斗へ教えてもらった。
他にも知らないことはいくらでもある。
それで何も困らなかった。
初夏、《ミーネ染房》の実践講習へ行くと、六十歳を過ぎた男性が新しく参加していた。
「染め、初めてですか?」
エヴァが尋ねる。
「初めてだ。革細工やってるんだが、使う紐の色くらい少し分かるようになりたくてな」
「私と似てる」
「あなたは染め職人?」
「仕立屋。染めはまだ習ってる途中」
「何年くらい?」
「まだ一年も経ってない」
「じゃあ先輩だな」
「その程度で先輩にしないで」
笑い合う。
その日の課題では、落ち着いた葡萄色を狙ったのに、エヴァの布だけかなり赤く仕上がった。
「また外れた」
以前のように鞄へ隠そうとは思わない。
ミーネへ配合を見せる。
「何で赤く出た?」
「今日の染料、前回より赤味強いですね。それにこの布、少し色を拾いやすいです」
「じゃあ次は?」
相談する。
試す。
また違えば考える。
それでよかった。
◇
その年の紫灯実が市場へ並ぶ頃、《銀梭仕立房》の見本棚には、一枚の不均一な紫色の小布が加わっていた。
若い紫灯実の皮を使い、エヴァが何度か試して染めたもので、中央は綺麗な紫だが端が少し薄い。客へ売る服にはまだ使えない。
その隣には、最初のむらがある青。
狙いを外した緑灰。
さらに隣には、ミーネ染房と共同で作った均一な青灰。
完成品へ使える見本と、自分の練習記録が同じ棚へ並んでいた。
「これ、売るんですか?」
リクスが紫の布を指す。
「まだ売れない」
「じゃあ何で置いてるんです?」
「今の私が、ここまでできるって分かるから」
「上手くなったら捨てます?」
「たぶん残す」
「失敗なのに?」
エヴァは少し考えて答えた。
「狙った通りじゃないって意味では失敗。でも、これがなかったら次に何を変えるか分からないでしょう」
以前の自分なら、そんな布を人の目につく棚へ置くことはなかった。
午後には、別の店で二年働いている若い仕立職人が相談へ来た。
「袖の落ち方がどうしても変になるんです。見てもらえませんか」
布を広げる。
エヴァは肩線と袖山を確認した。
「ここが前へ寄りすぎてるね。仮縫いの時、腕を前へ出してもらった?」
「普通に立った状態だけです」
「仕事で着る服なら動いてもらわないと。いったんここまでほどいて、袖山を少し後ろへ」
説明すると、若い職人は何度も頷いた。
「ありがとうございます。エヴァさんくらい何でも分かるようになるまで、どれくらいかかります?」
以前なら、「続けていればそのうち分かる」とだけ答えたかもしれない。
今は笑った。
「何でもなんて分からないよ」
「でも仕立ては」
「仕立ても知らない布や作り方はある。染めなんて最近始めたばかり」
「今からですか?」
「今から」
若い職人は少し驚いた後、笑った。
「じゃあ僕も、二年で焦らなくていいですね」
「二年で全部分かろうとする方が無理だよ」
自分が人へ教えられることと、人から教えてもらうことは、同じ時期に存在してよかった。
◇
閉店後、エヴァは一人で見本棚を整えた。
ヘルムから譲られた昔の灰青。
ミーネ染房と作った新しい青灰。
自分が最初に染めた、中央だけ濃い淡青。
狙いを外した泥色の緑灰。
紫灯実を使った不均一な紫。
客へ自信を持って勧められるものもあれば、練習記録としてしか使えないものもある。
価値は同じではない。
用途も違う。
それでも、自分にとってはすべて残す意味があった。
十五歳の頃、仕立ての初心者だった。
二十代になれば、一人で服を作れることが増えた。
三十代には自分の店を持った。
四十代になると、人へ教える場面まで増えた。
そして四十五歳で、新しいことを一つ始めれば、またその分野では初心者になる。
年齢を重ねたから知らないことが増えたわけではない。
昔から知らなかったものへ、自分から近づいたために、知らなかったことが見えるようになっただけだった。
何か新しいことを覚えるたび、それまで積み上げた経験が消えるわけではない。
仕立ての技術を持ったまま、染めでは教わる側になれる。
今日人へ袖付けを教え、明日は年下の染め職人から媒染剤について教わることもできる。
どちらか一方だけを選ばなくてよかった。
エヴァは最初の色むらがある青布を一度取り出し、少し位置を直して棚へ戻した。
以前なら、客から見えない奥へ押し込んだだろう。
今は、隠す理由がなかった。
翌日の午後には、また染めの講習がある。
今度は赤と青を混ぜ、落ち着いた葡萄色を作る練習をする予定だった。
一度で狙った色にならないかもしれない。
隣の若い職人の方が上手に染めるかもしれない。
分からなければ、自分より二十歳以上若い相手へ尋ねることだってあるだろう。
それでもエヴァは、講習用の白布だけでなく、前回赤くなりすぎた失敗見本まで鞄へ入れた。
比較するためには、うまくいかなかった方も必要だからである。
四十五歳の仕立職人が、染めについてはまだ初心者である。
その事実はもう、三十年近く積み重ねてきたものを傷つける欠点ではなかった。
できることを持ったまま、できないことを教わる。
そして次の日には、昨日より少しだけ分かることが増える。
エヴァにとって新しい技術を学ぶということは、ようやくその程度の、当たり前で面白いことへ変わり始めていた。
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