第71話 香りの違う鐘香梨と、褒められるほど怖くなる菓子職人
リオナ・フェルデは三十一歳になる人間の女性であり、レーヴェン中央市場から東へ二本ほど入った通りで、小さな菓子店《小鐘亭》を営んでいた。赤みを含んだ淡い茶色の髪は顎の少し下で切り揃え、仕事中には前髪まで布で押さえているため、窯の熱で頬を赤くしながら生地を確認している時には、丸い額と濃い緑色の目がよく目立つ。華奢に見える体つきではあるものの、毎朝粉袋や蜜壺を運び、固い生地を何度も捏ねてきた両腕には必要な筋肉がついており、右手の中指には、独立したばかりの頃に熱い焼き型を素手で掴みかけた時の細い火傷痕が残っていた。
《小鐘亭》は、貴族の祝い事へ出す豪華な飾り菓子や、宝石のような砂糖細工を主力にする店ではない。朝の仕事前に買える甘さ控えめの丸パン、木の実と蜜を薄い生地で焼いた菓子、煮た果実を包んだ一口菓子、乳を使った柔らかな焼き菓子など、仕事や買い物の途中で一つ二つ買って帰れるものを中心に並べており、市場で働く商人や職人、近所の親子連れが主な客になっていた。
リオナが得意としているのは、豪華な見た目を作ることより、食材そのものの香りと甘さをどこまで残すかを考えることだった。木の実を使うなら、蜜の甘さへ負けないところまで乾煎りして香りを立たせ、果実を使うなら、酸味がある時には蜜を増やし、十分に熟しているなら甘さを抑える。粉が乾いていれば水分を少し足し、雨の続いた後で湿っていれば逆に減らすなど、同じ菓子でも材料の状態を見ながら細かく配合を動かしていた。
店を開いて七年になり、客から「《小鐘亭》の菓子は甘すぎないから食べやすい」と言われることが増えたのも、そうした調整を怠らなかったからだろう。
技術は確かに上がっていた。
売上も、開業当初と比べれば安定している。
昼前に人気商品がなくなる日も珍しくなくなり、季節の果実を使った菓子が出る頃には、それを目当てに顔を出す常連までいた。
ところがリオナ自身は、店が軌道へ乗るほど気持ちが楽になったわけではなく、むしろ客から褒められる機会が増えるにつれて、一つ一つの菓子を出すことが以前より怖くなっていた。
「今日の木の実焼き、前より香ばしくて好きだよ」
そう言われれば、その日の閉店後まで「前より香ばしい」という言葉が頭へ残り、使った木の実の状態、煎った時間、蜜の量を帳面へ細かく書き出した。
「この前の果実包み、今までで一番だった」
そう言われれば、次に同じ客が来そうな日まで、あの時と同じ実が手に入るかを気にした。
「やっぱり《小鐘亭》の味だね」
そう笑われれば、本来なら店を続けてきたことが報われたと喜べるはずなのに、次に同じ菓子を焼く時には、その言葉を裏切ってはいけないという緊張へ変わってしまう。
客の褒め言葉が嫌いなわけではなかった。
褒められれば嬉しい。
自分が考えて作ったものを食べ、また買いたいと言ってもらえることは、菓子職人として何よりありがたい。
それなのにリオナは、過ぎた仕事への感想として褒め言葉を受け取ることができなくなっていた。
昨日うまくできたなら、今日は少なくとも昨日と同じでなければならない。
今日「一番」と言われたなら、次に出すものがそれより下がってはいけない。
前回より好きだと言われたなら、その前回へ戻ってはいけない。
そうやって褒め言葉を未来へ持ち越し続けた結果、かつては楽しかったはずの新しい菓子を試す時間まで、少しずつ「失敗できない仕事」へ変わっていた。
◇
リオナが菓子作りを覚え始めたのは十四歳の頃であり、父は木箱や小さな家具を作る木工職人、母は中央市場にあった茶屋で働いていた。六歳上の姉はすでに家を出る準備を始めており、家の中ではリオナが母の手伝いをすることが多くなっていた。
母の働く茶屋では、茶と一緒に出す小さな焼き菓子を毎朝作っていたが、ある冬の日、焼き手が熱を出して休み、使い切れなかった生地を母が家へ持ち帰ってきたことがある。
「捨てるのももったいないけど、明日までは置けないね」
そう言う母の横で、リオナは生地を少し触った。
「焼いていい?」
「窯使えるなら」
「やってみる」
家で使う小さな焼き窯へ入れたものの、厚みが揃っていなかったため、薄いものは端が焦げ、厚いものは中が少し柔らかかった。それでも焼きたてには甘い香りがあり、形も不格好ではあったが、食べられないほどではない。
母は一つ食べて、目を丸くした。
「これ、自分でやったの?」
「うん。ちょっと焦げた」
「でも美味しいよ」
その一言が嬉しかった。
翌日には、同じくらいの大きさへ揃えて焼いてみた。
母がまた食べる。
「昨日より上手になったね」
三日目には焼き時間を少し短くした。
「私は今日のが一番好き」
その頃のリオナは、「一番」という言葉を聞いても怖くならなかった。
昨日より上手にできた。
なら次は、さらに何か変えてみよう。
そう考えるだけだった。
十六歳になると、母の働く茶屋へ菓子を卸していた店へ弟子入りし、そこでマルタという五十代の女性職人から本格的に菓子作りを教わった。
マルタは菓子そのものは繊細に作るのに、教え方はかなり感覚的だった。
「粉はこれくらい」
「これくらいって、重さは?」
「今日はこのくらい」
「昨日と違うよ」
「昨日より湿ってるからね」
「じゃあ水は?」
「減らす」
「どれくらい?」
「生地触って決めな」
数字を書きたいリオナには、最初の頃かなり難しかった。
「毎日同じ分量じゃ駄目なの?」
「毎日同じ材料が来るならいいよ」
マルタは粉を指先で擦りながら答える。
「昨日の粉は乾いてた。今日のは雨の後で湿ってる。そこへ昨日と同じ水を入れたら柔らかくなるだろ?」
「なる」
「なら減らす。それだけだよ」
木の実も同じだった。
乾いているものは短く煎る。
油分の多いものは焦げやすい。
果実も、若ければ酸っぱい。
熟せば柔らかい。
蜜も採れた時期によって香りが違う。
同じ商品を作るためには、手順を固定するより、その日の材料を見なければならない。
リオナは、その考え方を時間をかけて身につけた。
失敗も多かった。
生地が割れる。
果実の水分で底が湿る。
蜜を入れすぎて木の実の香りが消える。
焼き色だけを見て取り出し、中が生だったこともある。
その度にマルタと原因を探し、次に変える。
当時のリオナにとって、失敗は嫌ではあっても、次の試作へつながるものだった。
それが少しずつ変わり始めたのは、二十歳を過ぎ、店の菓子を一人で任される日が増えてからだった。
ある日、刻んだ木の実と蜜を使った《蜜輪焼き》を、一日分すべてリオナが担当した。
その日は木の実が少し湿っていたため、普段より長く乾煎りし、香りが十分出たところで蜜を控えめに絡めた。
昼過ぎ、毎日のように来る常連客が一つ食べた。
「今日のこれ、今までで一番うまいな」
嬉しかった。
リオナは何度も礼を言った。
翌日、昨日と同じものを作ろうとした。
しかし届いた木の実は前日より油分が多く、同じくらい煎ったところ、香りが立つ前に表面の一部が焦げた。
昨日より少し蜜を増やして苦味を隠そうとすると、今度は重い。
結局、販売できる程度には仕上げた。
昨日褒めてくれた常連客も来た。
一つ食べる。
何も言わず、いつものように茶を飲んだ。
リオナには、その沈黙が「昨日の方がよかった」という評価のように聞こえた。
実際には、客は帰り際にもう一つ買っている。
それでも、リオナの中には「一度一番と言われたのに、その次で落ちた」という感覚だけが残った。
それ以来、褒められた菓子ほど、次に作る時の緊張が強くなっていった。
◇
二十四歳で独立し、《小鐘亭》を開いた頃には、まだその癖は今ほど強くなかった。
そもそも最初の一年は客が少なく、朝に二十個焼いた菓子が夕方になっても半分残る日が珍しくなかったため、「前より悪くしてはいけない」と考えるより、まず一人でも多くの客に知ってもらいたいという気持ちの方が大きかった。
開店から一年半ほど経った頃、近隣の帳簿商会で働く女性が《小鐘亭》の果実菓子を職場へ持っていった。
そこから少しずつ評判が広がる。
「甘すぎなくて仕事の途中でも食べやすい」
「果物の香りがちゃんと残ってる」
「木の実が香ばしい」
客が増えることは嬉しかった。
しかし評価される量が増えるほど、リオナは一つ一つの言葉を細かく記録するようになった。
常連の老商人から《胡桃の薄焼き》を食べて、「昔よりずっとよくなった」と言われた夜には、帳面へこう書いた。
『胡桃、乾煎り通常より十二呼吸長め。蜜は小匙半分少なく、塩は同量。焼き上がり直前に天板の向きを変える。老商人、以前より良いと評価。次回同状態を維持。』
翌週、同じ菓子を作った。
届いた胡桃が違う。
前回より乾いている。
十二呼吸長く煎ると、少し香ばしさが強すぎる。
時間を戻す。
蜜を調整する。
老商人が来る。
一つ食べる。
「今日もいいな」
そう言ってくれた。
しかしリオナ自身には、前回より香りが弱く感じられた。
「前の方がよかったですか?」
思わず尋ねる。
老商人は少し首を傾げた。
「前?」
「先週です」
「覚えてないな。今日もうまいぞ」
普通なら、それで十分なはずだった。
ところがリオナは、「客が覚えていないから気づかれなかっただけ」と考えてしまった。
その頃には、褒められることと安心することが、少しずつ反対へ向かい始めていた。
店には二年前から、ユーナという二十歳の助手が働いている。
農家の三女として育ったユーナは、子どもの頃から祭りの日だけ母が焼いてくれる菓子が好きで、自分でも作りたいと《小鐘亭》へ来た。細かな計量はまだリオナほど正確ではないが、粉や生地の状態を指先で見る感覚がよく、失敗しても原因が分かれば次の日には切り替えられる性格だった。
ある日、ユーナが果実包みの口を十分に閉じられず、焼いている途中で中身を漏らしたことがある。
「ああ……」
天板の上には、果汁が流れ出た菓子が四つ並んでいる。
「閉じ方が浅かったね」
リオナが見る。
「全部駄目ですか」
「売り物にはしにくい。でも焦げてないから食べられる」
二人で昼食代わりに食べた。
ユーナは一つ口へ入れ、少し笑った。
「漏れてますけど、美味しいですね」
「味は悪くない」
「次はもっと閉じます」
それで終わった。
翌日には、ユーナは本当に少し強く口を閉じ、問題なく焼いた。
リオナには、そんな切り替え方が少し羨ましかった。
自分なら、昨日漏れたことを意識しすぎて、必要以上に生地を押さえ、別の失敗をするかもしれない。
「店長、今日の蜜輪焼き、もう三回味見してません?」
別の日、ユーナから言われた。
「木の実の香りが弱い」
「私は美味しいです」
「昨日より若い木の実だから、油が少ない」
「じゃあ昨日と同じにならないですよね」
「だから調整してるの」
「調整しても完全に同じにはならないでしょう?」
リオナは答えなかった。
完全に同じにはならない。
誰より分かっている。
それなのに、自分が客から褒められた味だけは、同じでなければならないように感じていた。
◇
その年の晩夏、市場の果実商が《鐘香梨》の最初の便を《小鐘亭》へ持ち込んだ。
鐘香梨は、丸く膨らんだ下部から首のように細い部分が伸びた独特の形をしており、枝に実った果実同士が風でぶつかる姿を、小さな鐘が揺れている様子へ見立てて名づけられたと言われている。皮は若いうちは淡い黄緑色で、熟すにつれて細かな金色の斑点が増え、切れば乳白色の果肉から花蜜に似た華やかな香りが広がる。
ただし収穫時期によって、性質が大きく変わる果物でもある。
早採りの実は硬く、酸味が強い。
盛期には香りが強まり、甘味と酸味の釣り合いがよくなる。
さらに熟せば、甘さが増して柔らかくなる一方、加熱中に形が崩れやすくなる。
リオナは以前にも少量使った経験があった。
「今年、もう入ったの?」
「山側は早かったらしい。まだ若いけど、香りは悪くないぞ」
果実商が一つ渡す。
切って味を見る。
硬い。
酸っぱい。
ただし、鼻へ抜ける香りはよかった。
「十個だけ買う」
「少ないな」
「試してから」
その日の午後、リオナは鐘香梨を薄く切り、蜜と少量の水で短く煮た。
しかし硬さが残る。
もう少し煮る。
形は保つ。
酸味が強いため、蜜を少し追加する。
小さな生地へ包み、焼く。
最初の試作は酸っぱすぎた。
二回目は蜜が多く、果実の香りが弱くなった。
三回目で蜜を少し戻し、果実を煮る時にごく少量の塩を入れたところ、酸味の角が取れつつ香りが残った。
ユーナが食べる。
「これ好きです」
「酸っぱくない?」
「酸っぱいです。でも最後がさっぱりする」
リオナも食べる。
悪くない。
夏の終わりには合っている。
店頭へ十個だけ並べた。
その日、常連客の一人で、近くの書類商で働くメルサという女性が買った。
翌日の昼前、メルサがまた来た。
「昨日の梨のお菓子、ある?」
「今日もあるよ」
「二つほしい。あれ、すごく好きだった」
リオナの胸が明るくなる。
「本当?」
「甘いだけじゃなくて、最後に少し酸っぱいのがいい。暑い日に食べやすい」
「今日は昨日と同じくらいの実だよ」
「じゃあ楽しみ」
その日は、素直に嬉しかった。
三日後には別の客が言った。
「鐘香梨の包み、今までここの果実菓子で一番好きかもしれない」
五日後には、昼前に完売した。
「これ、季節の定番にできますね」
ユーナが笑う。
「梨がある間だけね」
「明日二十個作ります?」
「十五個」
「絶対売れますよ」
「実の状態を見てから決める」
慎重なのは悪いことではない。
実際、鐘香梨の状態は一週間もすると変わった。
二週目に届いた果実は、最初の便より一回り大きく、皮には金色の斑点が増えていた。切ると香りが強く、果肉も少し柔らかい。
一口食べる。
甘い。
酸味は明らかに減っている。
リオナは、最初の配合より蜜を少なくした。
煮る時間も短くした。
焼き上げる。
ユーナと食べる。
「香り、すごく強いですね」
「でも違う」
「最初のより甘いです」
「酸味がない」
「梨が甘いから」
「メルサさん、酸味が好きって言った」
「でもこの梨に酸味ないですよ」
リオナは考えた。
「酸果汁を入れてみる」
別の果実から取った酸味を足す。
最初の鐘香梨包みに近い輪郭は出たが、鐘香梨の花のような香りへ別の果実の匂いが混ざった。
「違う」
別の酸味を試す。
今度は尖りすぎる。
蜜をさらに減らす。
甘さは落ちる。
それでも最初とは違う。
ユーナが言う。
「店長、もう最初に作ったのでいいんじゃないですか。美味しかったです」
「前と違う」
「梨が前と違うんですから」
「でも同じ鐘香梨包みでしょう」
「同じ名前でも、今の梨の味がする方がよくないですか」
リオナは返さず、もう一度鍋へ向かった。
開店時間を過ぎても試作を続け、ユーナが一人で客を迎える時間が長くなった。
昼頃、メルサが来た。
「鐘香梨ある?」
緊張しながら渡す。
メルサはその場で一口食べた。
「あ、今回甘いね」
胸が沈む。
「やっぱり?」
「梨が熟してきた?」
「うん」
「香りはこっちの方が強い」
「前の方がよかった?」
思わず尋ねた。
メルサは少し考える。
「前の酸っぱいのも好き。今日のも好き」
「どっちが上?」
「上?」
「どっちが美味しい?」
メルサは困ったように笑った。
「暑い日なら前のが食べたいかな。今日みたいに少し涼しいなら、こっちの甘いのもいいよ」
「一番って言ってたのは」
「あの時はあの時で一番好きだったよ」
メルサは二つ買って帰った。
リオナには、その答えの意味は理解できた。
それでも、納得しきれなかった。
一度一番と言われた味が、もう作れない。
それを同じ商品名で売り続けることが、何か誤魔化しのように感じられた。
◇
その日の閉店後、リオナは残った鐘香梨包みを一つ食べた。
美味しくないわけではない。
むしろ香りだけなら、今の方が強い。
それでも最初の包みと比べる。
酸味が違う。
果肉の形も柔らかい。
蜜の入り方も違う。
「来週はもっと熟すと思います」
片づけをしていたユーナが言う。
「そうだね」
「包み、どうします?」
「やめた方がいいかな」
「何で?」
「毎回同じにならない」
「季節の果物ですよ」
「客は同じ名前で買うから」
「でも店長、苺みたいな赤実だって時期で甘さ変えてるじゃないですか」
「ここまでじゃない」
「鐘香梨はここまで変わる果物なんでしょう」
もっともだった。
その夜、家へ戻っても眠りが浅かった。
『今までで一番好き』
『すごく好きだった』
客から言われた言葉を何度も思い出す。
次に来た時、前の方がよかったと言われるかもしれない。
それ自体は、メルサもすでに「暑い日なら前」と言っている。
それなのに怖い。
一度褒められたものを維持できなかった自分が、腕を落としたように感じる。
翌朝、暗いうちに店へ入り、鐘香梨を一つずつ切り始めた。
硬い実。
柔らかい実。
酸味の残る実。
甘さの強い実。
複数を混ぜれば平均に近づくかもしれない。
十五個の菓子を作るのに、二十五個近い実を切った。
配合を試す。
最初へ少し近づく。
しかし完全には同じにならない。
それから数日、リオナは毎朝必要以上の鐘香梨を切るようになった。
酸味がある実だけを選び、柔らかいものは別の果実煮へ回す。
捨ててはいない。
だが鐘香梨包み一つへかける時間が増え、他の商品はユーナが一人で仕込む時間が長くなった。
「店長」
「何?」
「これ、いつまでやります?」
「鐘香梨の季節が終わるまで」
「二か月近くありますよ」
「状態変わればまた考える」
「今も変わってるから大変なんでしょう」
リオナは黙る。
「最初に作った日、店長楽しそうでしたよ」
「仕事なんだから、毎日楽しいわけじゃない」
「そうじゃなくて、新しい味見つけたって顔してたんです。今は前と同じかどうかしか見てない」
その言葉だけは、すぐ否定できなかった。
◇
数日後、市場の果実商から、傷の入った鐘香梨を安く分けてもらった。
「熟れすぎたのも入ってる。売り物にはしにくいぞ」
「家で試すからいい」
「包むなら形残らないと思うぞ。潰した方が早い」
「分かってる」
箱を店の奥へ置いた。
閉店後、新しい使い方を試すつもりだった。
ところが片づけを終え、熟れた鐘香梨を前にした瞬間、何も考えたくなくなった。
また甘さを見る。
また香りを見る。
また最初の鐘香梨と比べる。
自分が菓子職人でありながら、好きだった果実を触ることさえ面倒に感じている。
そのことの方がショックだった。
しばらくして、《持ち込み食堂》の話を思い出した。
常連客の一人から、食材を持ち込めば料理してくれ、扱いに困るものでも相談できると聞いたことがある。
菓子職人が果物の調理を料理人へ頼むことに少し抵抗はあった。
自分で考えられないわけではない。
しかし今日は、自分で考えたくなかった。
翌日の午後、店をユーナへ短時間任せ、傷のある鐘香梨を三個だけ袋へ入れて《持ち込み食堂》へ向かった。
店へ入ると、ミレイアが袋から出した実へ顔を近づけた。
「すごくいい匂い」
「熟れすぎてるからね」
悠斗も厨房から出てきた。
「鐘香梨ですね」
「知ってる?」
「何度か食べました。収穫時期でかなり変わりますよね」
リオナは、すぐ顔を上げた。
「やっぱり変わるよね」
「若い時は酸味が強いし、熟すと甘くて柔らかくなりますね」
「同じ料理にしたら困らない?」
「同じ仕上がりにしたいなら調整しますけど、完全に同じは難しいと思います」
分かっていた答えだった。
それでも、聞いた瞬間には胸が少し沈んだ。
「じゃあ、同じ商品なのに味が変わったら失敗?」
悠斗が少し考える。
「どのくらい変わるかにもよると思いますけど、季節の果物なら変わること自体は普通じゃないですか」
「客は同じ名前で買う」
「リオナさん、何を作ってるんです?」
「鐘香梨を蜜で煮て、生地に包んだ菓子。最初に酸っぱい実で作ったのを褒められた。でも今は甘くなって、同じ味にならない」
「最初へ戻したい?」
「戻したい」
「今の梨でも?」
その問いで、少し詰まった。
「今までの包み菓子じゃないもの、作ってみます?」
悠斗が聞く。
「何ができる?」
「かなり熟してるから、形を残すより潰す方が使いやすそうです。甘いものじゃなくてもいいなら、肉に合わせることもできます」
「肉?」
「果物の甘さと酸味を使う料理はありますよ」
普段なら、自分の知らない使い方を面白いと思ったはずだった。
「……それにして」
少し迷ってから続ける。
「今までの包みとは全然違うものが食べたい」
「分かりました」
◇
悠斗は三個の鐘香梨を切り、それぞれを別に味見した。
一つはかなり柔らかく、甘味が強い。
一つは花のような香りが最も強い。
最後の一つだけ、少し硬さと酸味が残っている。
「同じ箱でも違いますね」
「そうなの。それが嫌で、最近何個も切って選んでる」
「全部同じに揃えるため?」
「最初の味に近づけるため」
「じゃあ今日は、逆に分けて使いましょう」
柔らかい鐘香梨は粗く潰し、少量の塩と香草を加えて鍋へ入れる。煮詰めすぎず、果実らしい水分を残したところで火を止める。
少し硬い実は薄く切り、油をわずかに引いた鉄板で表面だけ焼いた。
白い鳥肉には先に塩をして焼き、表面へ香ばしい色がついたところで切り分け、鐘香梨のソースを添える。
皿の端には、焼いた実も置かれた。
「完全に菓子じゃない」
「そうですね」
リオナが食べる。
最初に鳥肉の塩気と焼けた香りがあり、その後から熟した鐘香梨の甘味が広がる。ソースにした実は形を失っているものの、香りは強く、横へ置かれた薄切りにはわずかな酸味が残っていた。
「美味しい」
「よかったです」
「最初の鐘香梨包みとは全然違うのに、ちゃんと梨が美味しい」
言いながら、自分の中で少し引っかかった。
今の鐘香梨を、最初の鐘香梨へ戻していない。
今の甘さをそのまま使っている。
それでも料理になっている。
ミレイアが聞いた。
「リオナさん、菓子職人なんだよね?」
「そう」
「鐘香梨のお菓子、人気なの?」
「最初のは評判よかった」
「今のは?」
「今も売れてる」
「じゃあ何が問題なの?」
リオナは少し苦笑した。
「私が困ってるだけかも」
そこから事情を話した。
最初の酸味が強い鐘香梨包み。
客から「一番好き」と言われたこと。
実が熟すにつれて、甘さと香りが変わったこと。
最初の味へ近づけるため、必要以上に果実を切って選んでいること。
「今のを嫌ってる客はいる?」
ミレイアが尋ねた。
「前の方が好きって言う人はいるかもしれない」
「もう言われた?」
「メルサさんは、暑い日は前の方って」
「それで今のは嫌って?」
「今のも好きって言った」
「じゃあ両方好きなんじゃない?」
「そうなんだけど」
「一番って言われたのが気になる?」
リオナは頷いた。
「一番って言われたら、次もそれを出さないと落ちたみたいに感じる」
「一番って、次の注文なの?」
ミレイアが尋ねる。
「注文?」
「次回も必ず同じ以上にしてください、って意味で言われたの?」
誰にも、そんなことは言われていない。
「言われてない」
「じゃあ、その時美味しかったから言っただけかもしれないよ」
悠斗も尋ねた。
「リオナさんが今日この料理をすごく好きだって言ってくれたとして、次に俺が作った時、梨が違って今日より好みじゃなかったら、今日美味しかったことまでなくなります?」
「なくならない」
「じゃあ今日の評価は、今日の料理のものですよね」
「菓子屋の商品は続くから、同じではないと思う」
「もちろん続く商品なら、ある程度同じ方向は必要だと思います。でも、季節で変わる食材まで完全に固定する必要があるのかなって」
「客に前の方が好きって言われたら?」
結局、そこへ戻る。
ミレイアがあっさり答えた。
「前の方が好きだったんだなって思う」
「それだけ?」
「今の方が好きな人もいるかもしれないでしょう」
「作ってる方は悔しいよ」
「悔しいのはいいんじゃない? でも前の方が好きって言った人が、今の菓子を失敗作って言ったわけじゃないなら、別の話じゃない?」
リオナは黙った。
その区別が、自分の中ではほとんどなくなっていた。
◇
悠斗は、まだ使っていなかった鐘香梨を薄く一枚切った。
「そのまま食べてみます?」
リオナと半分ずつ食べる。
柔らかい。
強い甘味がある。
最初の便よりずっと華やかな香りが鼻へ抜ける。
「最初の鐘香梨と比べて、これ自体はどうです?」
「生で食べるなら今の方が好き」
「最初のは?」
「包み菓子にした時の酸味がよかった」
「じゃあ、同じ梨でも、今と最初では美味しいと思うところが違う?」
「そうだね」
「それなら、今の梨へ最初の良さだけを求め続けなくてもいいのかもしれません」
リオナはすぐには頷かなかった。
料理と菓子では違う。
商品として出すなら一定の味も必要だ。
それでも、今の果実へ「若い時の酸味」を無理に足し続けることが、本当に鐘香梨を一番美味しくしているのかという疑問は残った。
「同じ商品名で味が変わるのが嫌なら」
悠斗が続ける。
「季節で変わるって最初から伝える方法もありそうですよね」
「伝える?」
「今は酸味が強いとか、今週は甘いとか」
「それ、技術不足みたいに見えない?」
「俺なら、果物の旬が進んでるんだなって思いますけど」
客がどう受け取るかは分からない。
しかし、隠して最初の味へ寄せ続ける以外の方法があることだけは分かった。
店を出る頃には、問題が解決したとは思っていなかった。
ただ、自分が何を怖がっているのかは、来た時より少しはっきりしていた。
鐘香梨の味が変わることそのものではない。
以前褒められた自分より、今の自分が下だと思われることが怖かったのだ。
◇
翌朝、《小鐘亭》へ入ったリオナは、鐘香梨の箱を前にしてしばらく立っていた。
いつもの癖で、必要数より多く切ろうとする。
包丁を止める。
「今日、何個切ります?」
ユーナが尋ねた。
「十八個分作る。予備合わせて二十二個だけ」
「選別しないんですか」
「傷みは見る。でも、最初の味に近い実だけ選ぶのはやめる」
「配合どうします?」
鐘香梨を一つ食べる。
「甘い。蜜はかなり減らす。煮る時間も短くする」
「酸味足します?」
少し迷った。
「足さない」
ユーナが顔を上げる。
「いいんですか」
「今日は今日の梨で作る」
口に出した瞬間、怖くなった。
客に前の方がよかったと言われるかもしれない。
それでも手を動かす。
柔らかい実は無理に形を保たせず、一部を軽く煮崩して生地へ馴染ませた。比較的硬い実だけ形を残す。
蜜は初期の半分近くまで減らした。
焼き上がりをユーナと食べる。
「香り強いです」
「甘いね」
「私は今回好きです」
「前より?」
「どっちも好きです」
リオナは苦笑した。
「その答え、一番困る」
「順位つけなくてもよくないですか」
「最近みんな同じこと言う」
店頭へ並べる前、リオナは小さな札を書いた。
『鐘香梨包み。実りの時期により酸味と甘さが少しずつ変わります。今週は香りが強く、甘味多めです。』
書き終える。
見直す。
味を揃えられない言い訳のようにも見える。
外そうか迷った。
「そのままでいいと思います」
ユーナが後ろから言う。
「聞いてない」
「顔に出てます」
「技術不足って思われないかな」
「果物が変わることを知らない人には、説明になるんじゃないですか」
札を残した。
最初の客は、市場で働く年配の男性だった。
「鐘香梨、今週甘いのか」
「かなり熟してきました」
「じゃあ一個」
食べる。
「俺は先週よりこっちが好きだな。酸っぱいの苦手だから」
リオナの胸が少し跳ねた。
嬉しい。
しかし、その言葉を帳面の未来へ持ち越したくなる自分にも気づく。
『今週の甘い配合を維持』
頭の中へ浮かぶ。
まだ書かない。
その日の午後、別の客が鐘香梨包みを食べた。
「私は最初の頃の方が好きだったな」
恐れていた言葉が、ついにそのまま来た。
リオナの指先が少し固くなる。
「酸味が強かった時期ですか?」
「そうそう。今のも美味しいんだけどね。あの酸っぱいのが好きだった」
今のも美味しい。
客はそう言っている。
それでも一瞬、「戻さなければ」という考えが浮かんだ。
「来年も早い時期に作る?」
客が尋ねる。
「果実が入れば」
「じゃあその頃また買うよ」
今の鐘香梨包みも一つ買って帰った。
扉が閉じる。
リオナは、しばらく動かなかった。
「店長」
ユーナが声をかける。
「言われたね」
「はい」
「前の方が好きって」
「でも今のも美味しいって」
「分かってる」
「どうです?」
怖かった。
少し悔しい。
それでも、思っていたほどではない。
「……店、壊れなかったね」
「何ですかそれ」
ユーナが笑った。
リオナも少し笑った。
◇
もちろん、その日だけで長年の癖が消えたわけではなかった。
翌朝、鐘香梨包みの試し焼きを食べれば、「昨日より香りが弱い」と気になった。
客から「今日の方が好き」と言われれば、次の日には今日の状態へ戻したくなった。
それでも以前と違い、すぐに帳面へ「次回必ず同じ」と書く前に、一度だけ考えるようになった。
昨日の梨と今日の梨は同じか。
違うなら、昨日と同じ味を出すことが、本当に今日の梨に合うのか。
客の「今日が一番」という言葉は、今日の菓子への感想なのか、それとも明日もそれ以上でなければならないという要求なのか。
ほとんどの場合、後者ではなかった。
帳面の書き方も少しずつ変わった。
以前なら、
『メルサ、酸味を高評価。次回も同程度必須。』
と書いただろう。
今は、
『初期の若い鐘香梨は酸味が強く、暑い日に好む客あり。メルサは初期の酸味も熟期の香りも好む。来年も早い便から作る価値あり。』
と書く。
客の好みを無視するわけではない。
むしろ覚えておく。
ただし、一人の「一番」を、以後すべての菓子が守るべき絶対の基準へはしない。
鐘香梨の季節がさらに進むと、実は包み菓子へ使うには柔らかすぎるほど熟してきた。
少し煮ただけで形が崩れる。
生地へ包めば水分が出やすい。
以前なら、煮詰めて水分を飛ばし、どうにか包み菓子の形へ戻そうとしただろう。
今回はユーナへ言った。
「鐘香梨包み、今週で終わりにする」
「梨はまだありますよ」
「柔らかすぎる。今の状態なら別の方がいい」
「何作ります?」
「潰して焼く」
熟れた鐘香梨を粗く潰し、乳と卵を使った柔らかな生地へ混ぜる。
果肉の形を残すことは諦め、強くなった香りを生地全体へ広げる。
何度か配合を変え、《鐘香梨の柔らか焼き》として店頭へ出した。
「名前、そのままですね」
ユーナが言う。
「分かりやすいでしょう」
常連の中には、包み菓子が終わったことを残念がる者もいた。
「もう包みないの?」
「今年の梨は柔らかくなったので終わりです」
「煮詰めれば作れない?」
「作れます。でも今の梨なら、私はこっちの柔らか焼きの方が美味しいと思います」
以前なら、「作れる」と言われれば無理に続けたかもしれない。
今は、自分が今の果実をどう使いたいかを答えられた。
別の客は柔らか焼きを食べ、「来年もこれやって」と言った。
リオナは帳面へ記録した。
ただし、「来年必ず同じ」とは書かなかった。
◇
秋が深まった頃、リオナは久しぶりに師匠のマルタを訪ねた。
マルタは六十代になり、店の大半を次の職人へ任せていたが、今でも週に数日は厨房へ立っている。
「珍しいね。何か失敗した?」
顔を見るなり言われた。
「失礼だね」
「用もなく来る子じゃないだろ」
「鐘香梨の菓子作った」
「今年のは後半かなり甘かったね」
「最初は酸っぱかった」
「そうだっけ」
「すごく変わった」
「果物なんてそんなもんだよ」
あまりにも簡単に言われ、少し腹が立った。
「私、それで二週間以上悩んだんだけど」
「何を?」
「最初に作った味、再現できなくなって」
「何で再現する必要がある」
「客に一番好きって言われたから」
マルタは少しだけ目を細めた。
「あんた、昔からそれあるね」
「何が」
「褒めると次の日やたら固くなる」
「知ってたの?」
「知ってたよ」
「言ってよ」
「言ったら聞いたかい?」
「言ってみないと分からないでしょう」
マルタが笑った。
「今ならそう言えるようになったんだね」
茶を出され、向かいへ座る。
「師匠は、褒められた味が次に出せなかった時、怖くなかった?」
「悔しいことはあるよ。自分でも昨日の方がよかったと思う日なんて、今でもある」
「そういう時どうするの?」
「原因が自分の技術なら直す。焼きすぎたなら焼き時間を見る。配合間違えたなら戻す。材料が違うなら、その材料でうまい方へ持っていく」
「客に前の方が好きって言われたら?」
「前の方が好きだったんだろ」
持ち込み食堂のミレイアと、まったく同じ答えだった。
「みんな簡単に言うね」
「難しくしてるの、あんただからね」
「でも、店の商品だよ」
「だから何でも違っていいって話じゃない。塩を倍入れて『今日は違う日だから』じゃ職人じゃないよ。でも果物が熟したなら、若い時と同じ酸っぱさを作ることだけが腕じゃないだろ」
マルタは昔と同じように、当たり前のこととして言う。
「褒められたって、その客が次の菓子の契約書を書いたわけじゃない。今日うまかったから今日うまいって言っただけかもしれない」
「契約書……」
「明日まずかったら、明日の話をすればいい。昨日褒められた事実までなくなるわけじゃない」
リオナはしばらく茶を見た。
「私、褒められるのが怖くなってた」
「もったいないね」
「うん。最近そう思う」
以前なら、そんなことは言えなかった。
◇
冬になると、《小鐘亭》では鐘香梨とは別の果実を使った新しい菓子の試作を始めた。
ユーナが考えたもので、香りの強い冬果実と木の実を薄い生地へ挟んで焼く。
一回目は生地が柔らかすぎた。
二回目は果実を減らしすぎて香りが弱くなった。
三回目はかなりよくなった。
ユーナが食べる。
「これ、今までで一番です」
リオナの手が一瞬止まった。
頭の中へ、以前の癖が戻る。
今日の分量。
今日の果実。
次も同じに。
しかし今回は、そのまま帳面へ固定しなかった。
『今日の果実は水分少なめ。次回は同量へ固定せず、生地の硬さを見る。』
ユーナが覗き込む。
「一番って書かないんですか」
「書かない」
「何で?」
「今日一番だったことは覚えてるから」
「次にもっと美味しくなったら?」
「その日はその日で褒める」
「次に悪くなったら?」
「原因を見る」
「またその次は?」
「あなた、面白がってるでしょう」
ユーナが笑った。
「少し」
二人で四回目を作る。
蜜をほんの少し減らした。
リオナは四回目の方が好きだった。
ユーナは三回目の方が好きだと言った。
「じゃあどっち売ります?」
「もう一回間を試そう」
五回目。
それでも好みは一致しない。
以前なら、二人とも完全に納得する答えが出るまで試し続けたかもしれない。
ユーナが尋ねた。
「店長はどれ出したいです?」
リオナは考えた。
「四回目」
「私は三回目」
「知ってる」
「変えないんですか」
「変えない。今、店で出したいのは四回目だから。でも三回目の配合も残しておこう」
「じゃあ今度、私が三回目の方作ってもいいですか」
「いいよ」
答えが一つではなくてもよかった。
◇
翌年、再び鐘香梨の季節が来た。
果実商が若い実を持ってきた。
「今年もやるか?」
リオナは一つ切る。
去年の初便と同じように硬く、酸味が強い。
ただし去年より少し水分が少なかった。
「やる」
「去年と同じの?」
以前なら、「同じにする」と答えただろう。
「似た包み。でも今年の梨で作る」
果実商は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
店へ戻り、去年の記録を開く。
参考にはする。
しかし蜜も煮る時間も、そのままは使わない。
今年の梨を食べる。
去年より酸っぱい。
水分が少ない。
蜜を少しだけ増やし、煮る時間は短くする。
一回目。
酸味が強い。
「去年より酸っぱいですね」
ユーナが言う。
「うん」
「蜜増やします?」
「少しだけ。酸味は残す」
二回目。
よい。
店頭の札へ書いた。
『今年の鐘香梨が始まりました。今は酸味が強く、身はしっかりしています。実りが進むにつれて味も変わります。』
去年、「最初の酸っぱい時期が好き」と言った客が来た。
「あ、今年も始まった」
「今年は去年より少し酸っぱいです」
「いいね」
一つ食べる。
「去年と同じ?」
その問いに、以前なら胸が強く縮んだだろう。
今も少しだけ緊張はする。
「同じではないです。今年の方が酸味が強いので、蜜を少し増やしてます」
「へえ」
「去年の方が好みかもしれません」
「食べてから決めるよ」
客は笑った。
一つ食べ終える。
「今年のも好きだな」
「ありがとうございます」
その言葉を、未来の義務にしなかった。
今日の菓子を美味しいと思ってもらえた。
それを、その日のうちに喜んだ。
数日後には別の客から、「昨日の方が酸っぱくて好きだった」と言われた。
胸は少し縮んだ。
しかし今度は、すぐに聞けた。
「酸味が強い方がお好きなんですね」
「そうみたい」
「今朝の便から少し熟してきてるので、昨日より甘いです」
「じゃあ俺、早い時期が好きなんだな」
「来年も最初の頃がおすすめです」
「覚えてたら教えて」
客は別の木の実菓子も買って帰った。
前の方が好きだと言われても、今の菓子を否定されたわけではない。
好みを一つ知った。
それで終わることもできた。
◇
盛期に入ると、鐘香梨は少しずつ甘く、柔らかくなった。
リオナは札を書き換える。
『今週の鐘香梨は香りが強く、甘味が増えています。包みの蜜は控えめです。』
さらに十日後には、こう変えた。
『熟した実が増えました。包みは今週で終了し、来週から柔らか焼きへ変わります。』
客の中には残念そうな顔をする者もいる。
「包み、もう終わるの?」
「実がかなり柔らかくなってきたので」
「煮詰めたら続けられない?」
「できます。でも今の梨なら、私は柔らか焼きの方が香りを残せると思っています」
「じゃあそっち食べてみる」
必ず気に入ってもらえる保証はない。
それでもよかった。
季節の終わり、リオナは傷の入った最後の鐘香梨を二つだけ買い、《持ち込み食堂》へ向かった。
「今年も梨?」
ミレイアが笑う。
「最後のやつ」
「店では使わないの?」
「今日で鐘香梨は終わり。これは自分で食べたい」
悠斗が実を見る。
「かなり熟してますね」
「去年みたいに肉と合わせて」
「去年と同じ料理?」
リオナは少し考えた。
「同じじゃなくていい。今の梨に合うのでお願い」
「分かりました」
今年の実は去年よりさらに柔らかく、形を残すよりソースへした方がよさそうだった。甘味が強いため塩を少し増やし、わずかに酸味のある香草を加える。
焼いた鳥肉へ添える。
去年食べた料理とは違う。
甘さも香りも違う。
リオナが食べる。
「美味しい」
ミレイアが尋ねる。
「去年とどっちが好き?」
リオナは少し考えた。
「今日はこっち」
「去年のは?」
「去年食べた日は、去年の方が好きだった」
「便利な答え」
「いいの」
笑って、もう一口食べた。
◇
《小鐘亭》へ戻った翌朝、ユーナが一人で考えた新しい木の実菓子を見せてきた。
「味見お願いします」
薄い生地へ木の実と香草蜜を挟んだ小さな焼き菓子だった。
リオナが割る。
香りを見る。
食べる。
生地はよく焼けている。
木の実の食感もよい。
蜜だけ、少し強い。
「美味しい」
ユーナの顔が明るくなった。
「本当ですか」
「今までユーナが一人で考えた菓子の中では、一番好きかも」
ユーナがわざと固まった。
「一番って言いました?」
「言った」
「じゃあ次もこれ以上じゃないと」
リオナは少し睨んだ。
「そういう意味じゃない」
「どういう意味ですか」
「今日食べたこれは、今までの中で一番好き。それだけ」
「次は?」
「次は次で食べる」
「悪くなったら?」
「何で変わったか考える」
「もっと美味しくなったら?」
「ちゃんと褒める」
「その次は?」
「もういいでしょう」
ユーナが笑った。
リオナも笑いながら、残った半分を食べる。
「ただ、蜜は少し減らしてみたい」
「やっぱり直すんじゃないですか」
「良くしたいと思うのは別でしょう。今の評価を守るために何も変えられなくなるのとは違う」
「難しいですね」
「私も最近まで分かってなかった」
二人で二回目を作る。
蜜を減らす。
ユーナは最初の方が好きだと言った。
リオナは二回目の方が好きだった。
少し相談し、店へ出す方を決める。
客からも、甘い方が好きと言う者と、控えめな方が好きと言う者が出た。
その度にリオナは、以前のようにすべての意見を一つの配合へ集めようとはしなかった。
「もう少し甘い方が好きだな」
ある客から言われれば、
「甘いものがお好きなら、隣の蜜焼きの方がおすすめです」
と答えられる。
その客の好みへ、店の商品すべてを変える必要はない。
◇
閉店後、リオナは厨房の壁へ掛けた古い帳面を開いた。
七年間の記録が詰まっている。
昔の頁には、
『次回必ず同じにする』
『前回より香りが弱い』
『一番と言われた配合を維持』
という言葉が多い。
最近の頁には、少し違う書き方が増えていた。
『初便。酸味が強く、暑い日に合う。』
『盛期。香り強い。蜜を減らす。初期とは別の良さ。』
『客Aは酸味のある時期を好む。客Bは熟期の甘さを好む。』
『今年は昨年より水分が少ないため、同量へ固定しない。』
昔の自分が間違っていたとまでは思わない。
再現しようと努力したから、身についた技術もある。
褒められた味を大切にしたから、店の定番になった菓子もある。
ただし、その努力がいつの間にか、「次も同じ以上でなければ、前に褒められた価値まで失う」という恐れへ変わっていた。
去年の鐘香梨包みを褒めてもらった事実は、今年の包みが違う味になったからといって消えなかった。
酸味の強い時期を一番好きだと言う客がいる。
熟した甘い時期を好む客もいる。
同じ人でも、暑い日には酸味を好み、寒い日には甘い方を食べたいこともある。
それなら、一つ一つの褒め言葉を未来へ運び、次の菓子が守らなければならない契約へ変える必要はなかった。
◇
翌朝、最初の客が木の実菓子を一つ買った。
その場で食べてから言う。
「昨日より今日の方が好きだな」
リオナは反射的に考えた。
昨日より焼き色が少し強い。
木の実の油分も少ない。
蜜は同じ。
何が違ったのかを知ろうとするのは、職人として悪いことではない。
ただ、それを明日も必ず再現しなければならない理由にはしない。
「ありがとうございます。今日は木の実が少し乾いていたので、昨日より香ばしく焼けたんです」
「やっぱり。俺はこっちが好きだ」
「では、香ばしい方がお好きなんですね」
「たぶん」
「覚えておきます」
客が帰った後、帳面へ書く。
『木の実、今日は油分少なめ。香ばしく焼けた。客一名、昨日より好み。』
そこまでだった。
『次回必ず再現』とは書かなかった。
同じ状態の木の実が来れば参考にする。
違う木の実が来れば、その状態を見る。
昼前になると、店には焼き菓子の香りが満ち、ユーナが新しい天板を窯へ入れた。
「店長、これ焼けたら味見してください」
「するよ」
「一番って言ってください」
「食べる前から決めない」
「厳しい」
「普通でしょう」
窯から出した菓子を二人で割る。
香りを確かめる。
少し冷ましてから食べる。
「どうです?」
リオナは急がず味を見る。
「昨日より、私は今日の方が好き」
ユーナが楽しそうに聞く。
「じゃあ明日は?」
リオナは笑った。
「明日の材料を見て、明日食べてから決める」
昨日と同じ形をした菓子であっても、使う粉も、木の実も、蜜も少しずつ違う。火の入り方まで完全には揃わないからこそ、職人はその日の材料を見て、必要な分だけ手を加える。
そのことをリオナは十代の頃から知っていた。
ただ、自分へ向けられた評価だけは、変わってはいけないものだと思い込んでいただけだった。
今日褒められたなら、今日の仕事を喜べばよい。
明日は明日の材料を見て、明日の菓子を作ればよい。
昨日より上手にできる日もあれば、自分でも昨日の方がよかったと思う日もあり、その違いを見つけて次へ生かすことと、過去の最高点を毎回超え続けなければ価値がないと思うことは、同じではない。
ユーナが次の生地を持ってくる。
「これ、水分どうです?」
リオナは触る。
「昨日より少し柔らかい」
「粉同じなのに?」
「朝から湿ってるからだと思う。粉少し足そう」
「昨日と同じ量じゃなくて?」
「材料が違うんだから、同じにしなくていいでしょう」
言ってから、二人で顔を見合わせた。
ユーナが笑う。
「それ、昔から店長が私に教えてることですよ」
「そうなんだよね」
リオナも笑った。
自分がずっと菓子へ向けていた考え方を、ようやく自分自身にも向けられるようになっただけなのかもしれない。
その日の菓子をその日の材料で作り、その日に受け取った言葉を、その日のものとして大切にする。
明日の評価まで今日のうちに守ろうとはしない。
窯の前へ次の天板を入れながら、リオナはもう、褒められた瞬間に次の失敗を恐えるのではなく、その言葉を一度きちんと受け取ってから、明日の仕事へ進めるようになっていた。
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