第70話 絡み合った連根と、手伝ってと言えない染物師
エレナ・ヴァルツは三十六歳になる人間の女性であり、レーヴェン南東区を流れる細い運河沿いで、小さな染物工房《青鈴染房》を営んでいた。背丈は平均よりやや低いものの、濡れた布を染め桶から何度も引き上げる仕事を二十年近く続けてきたため、肩から腕にかけては細身の外見から想像する以上の筋肉がついており、淡い金褐色の髪は作業中に染料へ触れないよう、毎朝きつく後頭部でまとめている。左の頬には幼い頃に火鉢へ近づきすぎた際の火傷が薄く残り、指先と爪の周囲には、どれだけ石鹸で洗っても完全には消えない青や黄、赤の染料が染み込んでいた。
《青鈴染房》が得意としているのは、貴族の礼装へ使う高価な魔法染めではなく、宿屋の寝具、商会の制服、職人の前掛け、荷運び人の作業着、兵士の外套といった、毎日のように使われ、何度も洗われる布を丈夫に染める仕事だった。同じ青を出す場合でも、麻布と羊毛では染料の入り方が違い、布の厚み、水温、媒染剤へ浸す時間、その日の湿度によって乾燥後の色まで変化するため、ただ決められた分量を桶へ入れれば済む仕事ではない。エレナはそうした細かな違いを見分けることが得意で、一度失敗した配合は必ず帳面へ残し、新しい染料を仕入れれば端切れを使って試し染めを行い、乾いた時に予想より暗く出れば次の桶で配合を調整していた。
客から頼まれた期限もできるだけ守り、仕上がりへ不安があれば渡す前にもう一度確認するため、工房の評判は悪くなかった。現在は二人の職人を雇っており、仕事量も以前より増えているが、街にある大きな染房ほど注文を詰め込まず、一件ずつ丁寧に扱うという方針は開業以来変えていない。
ただし、その丁寧さと責任感は、ここ数年になって別の問題を生んでいた。
エレナは、誰かへ「手伝ってほしい」と言うことが極端に苦手だったのである。
仕事量が予定より増えたなら、自分が少し長く残ればよいと考える。濡れた布束が重くても、一度で持てなければ二度に分けて運び、染め桶の水を替える必要がある時も、他の職人がそれぞれの仕事をしているなら自分で行う。帳簿が溜まれば店を閉めた後に書き、肩や腰が痛んでも、仕事を休むほどでなければ何も言わず働いた。
誰かの方から「手伝いましょうか」と言われれば、どうしても必要な時には受けることもある。しかし自分から声をかけ、相手の手を止めてまで頼むことだけは、なかなかできなかった。
本人は長い間、それを欠点だとは考えていなかった。
自分の工房なのだから、足りないところは自分が埋めるべきであり、人を雇っているからといって何でも頼んでよいわけではない。二人にも二人の仕事がある以上、自分が少し多く働くことで全体が回るなら、その方が余計な負担をかけずに済むと思っていた。
ところが三十六歳になった冬、その考え方が本当に周囲を楽にしているのか、エレナ自身が疑わなければならない出来事が起きた。
◇
エレナが染物を覚え始めたのは十二歳の頃で、父は革なめし職人、母は小さな染房で働いていた。家は裕福ではなかったものの、父と母が働き、エレナと二歳下の弟トーマが家の手伝いをすれば暮らしていける程度には安定しており、職人街では珍しくない家庭だった。
母は、とにかくよく働く人だった。
朝早く家を出て染房へ行き、夕方に戻れば夕食を作り、休日には洗濯や繕い物を片づける。疲れたと言うことはあっても、何かを誰かへ頼むことは少なく、「これくらいなら私がやる」と言って先に動いてしまうため、父が帰宅した頃には家の仕事の大半が終わっていることも珍しくなかった。
幼いエレナは、そんな母を強い人だと思っていた。
母が染料で荒れた手へ油を塗りながら夕食を作っていれば、自分も何かをしなければならないと考えた。
「皿、洗うよ」
「学校の宿題は?」
「終わった」
「じゃあお願い」
頼まれると嬉しかった。
自分が家族の役に立っていると感じられたからである。
一方、自分から母へ何かを頼むことには、早い頃から抵抗があった。
学校で翌日までに必要な布袋の縫い方が分からず、本当は母へ見てもらいたかった夜も、仕事から帰ってきた母の疲れた顔を見ると「教えて」と言えなかった。自分で縫えば歪み、翌日に友人から形がおかしいと言われたが、それでも母を休ませられたのだからよかったのだと考えた。
別の日には、高い棚へしまわれた冬服を取ろうとして、椅子を二つ重ね、その上へ小さな箱を置いて登ろうとしたことがある。弟のトーマはすぐ近くにいたのに、「押さえて」と頼むことさえせず、一人で何とかしようとした。
幸い転びはしなかったが、母に見つかって叱られた。
「トーマがいたでしょう」
「でも私の服だから」
「自分の物なら怪我してもいいの?」
「そういう意味じゃない」
「手を借りれば済む時は借りなさい」
母はそう言った。
それでも、普段の母自身が何でも一人でやっているように見えていたため、その言葉はエレナの中へ深くは残らなかった。
十六歳になると、母と同じ染房で働き始めた。
最初は布を洗い、桶の水を替え、染料に使う植物や鉱石を砕くような簡単な仕事からだった。新人である以上、できないことが多く、先輩職人へ聞かなければ進めない場面も当然ある。
しかしエレナは、一度教えてもらったことを二度聞くのが嫌だった。
相手の仕事を止めるからである。
ある時、媒染液へ入れる材料の量を忘れたにもかかわらず、忙しそうにしている先輩へ声をかけられず、記憶だけを頼りに混ぜた結果、試し布の色が大きく変わった。
「分からないなら呼びなさいよ」
先輩職人から言われた。
「忙しそうだったので」
「私の手を十息止めるのと、材料を一桶作り直すのと、どっちが手間だと思う?」
何も言い返せなかった。
その経験から、必要な確認だけはするようになった。
ただし、作業を分けてもらうことや、重い物を持つ時に人を呼ぶことについては、「分からないことを聞く」のとは別だと考え、相変わらず自分でできる限り一人で処理した。
技術が上がるほど、一人でできる仕事も増えていった。
それがまた、誰かへ頼まない習慣を強くした。
◇
二十代半ばになった頃、エレナは独立を考え始めた。当時働いていた染房は規模が大きく、技術を学ぶ環境としては恵まれていたものの、注文量が多いため一人の客へ細かな調整をする時間が少なく、もっと小さな工房で、日常使いの布を丁寧に扱いたいと思うようになったのである。
二十八歳で《青鈴染房》を開いた。
最初の三年間は、本当に一人だった。
朝に戸を開け、客から布を受け取り、汚れや傷みを確認して、染料を準備する。薪を運び、水を汲み、桶を温め、染めた布を洗い、乾かし、帳簿を書き、夕方には客へ返す。店の床掃除や染料の仕入れ、水路に詰まった落ち葉の除去まで、すべて自分で行った。
忙しかったが、不満はなかった。
自分が動いた分だけ仕事が進み、誰かへ指示を出す必要もなければ、相手の都合を考えて頼み事をする必要もない。疲れれば自分が我慢すれば済み、仕事が遅れれば自分が夜まで残ればよかった。
三年目を過ぎる頃には客が増え、一人では明らかに処理しきれない日が増えたため、最初の手伝いとしてレムという青年を雇った。
当時十九歳だったレムは、仕立屋の家に生まれながら染物へ興味を持ち、《青鈴染房》へ入った。素直で手が早く、細かな色の違いを見分ける目も悪くなかったため、最初は水洗いや前処理を任せていたエレナも、半年ほどで簡単な染色まで任せるようになった。
その二年後には、別の染房で六年間働いていたナディアという二十四歳の女性職人も加わった。ナディアは羊毛布の扱いに慣れており、特に厚手の布へ色を均一に入れる仕事では、エレナより効率よく仕上げることさえあった。
三人になれば、一人で働いていた頃より仕事を分けられる。
エレナも、そうするつもりだった。
実際、前処理、水洗い、簡単な染色、乾燥確認などは二人へ任せた。
ところが、大口注文や色合わせが難しい仕事、納期が迫っている仕事ほど、自分で抱える癖が残った。
「この宿の寝具、私が染めます」
ナディアが注文票を見ながら言う。
「量多いから、半分お願い」
「全部でも大丈夫ですよ」
「あなた、羊毛の注文があるでしょう」
「それ明日でも間に合います」
「いいよ。私もやるから」
「じゃあ半分ずつ?」
「そうしよう」
口ではそう言っても、結局ナディアが帰った後で残りの布を自分が多めに進めていることがあった。
レムから「薪運びましょうか」と声をかけられても、「前処理を続けて」と断り、自分で運ぶ。
染め桶を洗う時間と帳簿を書く時間が重なれば、二人へ頼むのではなく閉店後に残る。
周囲から見ると、仕事を任せていないわけではない。
しかし工房全体の「余った負担」を、必ず自分が引き取る状態になっていた。
エレナには、そのやり方が自然だった。
店主なのだから、自分が最後に足りない部分を埋めるのは当然だと思っていたのである。
ただ、年々仕事が増えるにつれ、その「少し余分に働く」が、朝一刻早く来て、夜一刻遅く帰る生活へ変わっていった。
それでも本人は、大丈夫だと言い続けた。
◇
母が亡くなったのは、エレナが二十九歳の時だった。
長年寝込んでいたわけではなく、その年の冬に肺を悪くし、春を迎える前には急に身体が弱った。
亡くなる少し前、母は一度だけ《青鈴染房》へ来た。
工房には、すでにレムが働いていた。
「人、雇ったんだね」
「一人じゃ足りなくなったから」
「ちゃんと任せてる?」
「任せてるよ」
「本当に?」
「何で疑うの」
「あなた昔から、自分がやればいいって先に動くから」
エレナは笑った。
「母さんに似たんでしょう」
母も笑ったものの、その後で少し困ったような顔をした。
「そこは似なくてよかったのに」
「母さんだって何でもやってたじゃない」
「だから言ってるの」
「何が」
「そのうち分かるよ」
その時のエレナは、それ以上聞かなかった。
母が亡くなった後も、言葉の続きを深く考えることはなかった。
ただ、自分は母のように働ける人間でありたいと思った。
母が最後まで家と仕事を支えていたように、自分も《青鈴染房》を自分の手で支え続ければよい。
そう考えていた。
しかし、母の言葉の続きを自分が理解することになるのは、それから七年近く後だった。
その年の初冬、《青鈴染房》には、市内の宿屋三軒から合わせて七十枚近い厚手の寝具カバーが持ち込まれた。同じ週には運送組合の作業着二十着、個人客の外套八枚、仕立屋から頼まれた試作用の布もあり、帳簿を見ただけでも普段より明らかに詰まっていた。
ナディアは、受け取りが終わったところで言った。
「この量なら、どれか納期ずらしてもらいませんか」
「宿の寝具は冬前に必要だから先にやる」
「寝具じゃなくて、外套か試し布です」
「試し布は夜に少しやれば終わるから」
「また夜ですか」
「一刻もかからないよ」
「昨日もそう言って帳簿までやってたでしょう」
「今日は早く帰る」
レムも注文帳を覗き込んだ。
「寝具、僕も前処理だけじゃなく染める方やりますよ」
「運送組合の作業着があるでしょう」
「作業着は今日で半分終わります」
「残り終わらせて」
「でも、エレナさんの方が多いですよね」
「色合わせは私がやった方が早いから」
そこでナディアが少し強く言った。
「早いからって全部やったら、ずっとエレナさんの量だけ減らないですよ」
エレナは笑って流した。
「大丈夫。終わるから」
その日の夜、二人が帰った後も工房へ残り、染め桶を洗って翌朝の媒染液を作った。翌日はいつもより早く工房へ入り、試し布の準備まで済ませてから二人を迎えた。
三日目になると、右肩が重くなった。
四日目には、濡れた厚手の布を持ち上げた時に肘の辺りまで痺れるような感覚があった。
それでも休まなかった。
身体が動かなくなったわけではない。
少し休めば痛みも引く。
自分が今日やらなければ、明日の仕事が増える。
そう考えた。
五日目の午後、厚手の寝具カバーを染め桶から引き上げようとした時、濡れた布の重みが右肩へまともにかかった。
鋭い痛みが走った。
指から力が抜ける。
布の半分が桶へ戻り、染料が大きく跳ねた。
「エレナさん!」
ナディアがすぐ駆け寄った。
「大丈夫」
「動かないでください」
「布、上げないと色が」
「私がやります」
「一人じゃ重い」
「じゃあレム呼びます!」
別の桶を洗っていたレムが走ってくる。
二人で布の端を持つ。
「せーの」
持ち上げる。
それほど苦労もなく布が上がった。
エレナが一人で身体を痛めながらやろうとしていた作業を、二人なら十数息で終わらせていた。
「診療所行ってください」
「そこまでじゃないよ」
エレナは左手で右肩を押さえた。
「じゃあ腕上げてみてください」
「上がる」
肩の高さまで上げたところで痛みが走り、顔が歪む。
「行ってください」
「この布だけ確認したら」
「私が確認します」
「まだ濃さが」
「私も色見られます」
ナディアの声が、普段より低かった。
「エレナさんが私たちに仕事任せないからって、私たちが何もできないわけじゃないです」
その言葉へ、エレナは返事をできなかった。
◇
診療所では、右肩の筋を痛めていると言われた。骨にも関節にも大きな問題はなく、数日間重い物を持たず、痛みが出る動きを避ければ回復する程度の怪我だった。
大怪我ではない。
だからこそエレナは、翌朝には工房へ行こうとした。
染め桶へ触らなければよい。
帳簿なら左手でも書ける。
色の確認だけなら肩を使わない。
そう考えて戸を開けると、すでに来ていたナディアが振り返った。
「何しに来たんですか」
「仕事」
「昨日休めって言われたでしょう」
「重い物は持たない。帳簿だけ」
「寝具は昨日全部終わらせました」
エレナは驚いた。
「全部?」
「レムとやりました」
「色は」
「端切れあります。見ますか」
乾き始めた試し布を見せられる。
色は揃っている。
わずかな差はあるが、同じ部屋で使ってもまず分からない程度であり、エレナが担当したとしても直さなかっただろう。
「問題ない」
「ですよね」
ナディアが腕を組む。
「じゃあ帰ってください」
「でも次の」
「レムとやります」
「運送組合もあるでしょう」
「予定組み直しました」
「勝手に?」
「副担当として、できる範囲を変えました」
少し腹が立ちそうになった。
しかし、元々自分が肩を痛めたせいで必要になった変更だった。
「迷惑かけたね」
そう言うと、ナディアはすぐ首を振った。
「それ、違います」
「何が」
「肩を痛めたことは困りました。でも一番困るのは、また同じことされることです」
「同じこと?」
「頼まないで、一人で無理すること」
エレナは黙った。
「何で私たちに頼まないんですか」
「頼んでるよ」
「簡単な作業は。でも、本当に忙しい時ほど自分でやるでしょう」
「二人にも仕事があるから」
「私たち、ここで働いてるんですよ」
「だからって、何でもやらせていいわけじゃない」
「何でもなんて言ってません。必要な仕事を分けてほしいって言ってるんです」
「自分の担当があるでしょう」
「その担当を決めてるの、エレナさんです」
返せなかった。
「昨日の布だって、声かけてくれれば二人で上げました。私たちの手が十数息止まるのと、エレナさんが怪我して何日も重い物を持てなくなるのと、どっちが工房に負担ですか」
昔、先輩職人から言われた言葉とよく似ていた。
エレナは視線を落とした。
「迷惑かけたくないの」
ようやく本音を言った。
「誰に?」
「二人に。私の工房だし、二人には二人の仕事があるから、私ができるなら私がやった方がいいと思ってた」
ナディアはすぐ答えなかった。
少し考えてから、静かな声で言った。
「昨日、怖かったです」
「何が」
「布を落とした時です。肩で済んだからいいですけど、前へ倒れて桶に手を入れてたら火傷してたかもしれないし、足を滑らせてたらもっと大きな怪我になってたかもしれない」
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃなくて、呼んでほしいです」
その一言が、診療所で言われた注意より長く残った。
結局、エレナは三日間、工房の染め桶へ近づかなかった。
最初の日は落ち着かず、何度も窓から外を見た。
二日目には「帳簿だけ確認する」と言い訳をして工房へ向かいかけ、途中で引き返した。
三日目は弟のトーマが訪ねてきたため、仕事とは関係のない話をしながら過ごした。
四日目、軽い仕事だけという条件で工房へ戻ると、店は普通に動いていた。
寝具は納品済み。
運送組合の作業着も予定通り。
試し布だけ、一日後へずらしてもらっている。
「客にお願いしたの?」
エレナが尋ねる。
「一日遅れても大丈夫か聞きました」
ナディアが答える。
「怒られなかった?」
「急ぎじゃないから構わないって」
「そう」
自分なら、客へ延期を頼む前に夜まで働いた。
それで「迷惑をかけずに済んだ」と思っただろう。
ところが、聞いてみれば一日の違いを気にしていない客もいる。
相手が困るかどうかまで、自分が勝手に決めていたことに気づき始めた。
◇
仕事へ戻って一週間ほど経った頃、弟のトーマが工房へ大きな根菜を持ってきた。トーマはレーヴェン郊外の農家や市場を回る小規模な仲買人として働いており、珍しい野菜や売り物にならない規格外品が手へ入ると、時々姉のところへ持ってくる。
今回の野菜は、一見すると太い木の根をそのまま掘り出したような姿をしていた。
「何これ」
「《絡根菜》」
山沿いの湿った土地で育つ根菜であり、一つの親根から何本もの細い根が伸び、近くの株と絡みながら太くなるため、収穫すると複数の根が一塊になって出てくるという。外側は淡い茶色で、切ると中は薄い黄色をしており、加熱すると甘味が出るため煮込みや焼き料理へ使われる。
ただし、細い根が何重にも絡んでいるため、その隙間へ土や小石が入り込み、下処理にはかなり手間がかかる。
「仕入れ先で傷ついたやつ。売り物にならないからもらった」
「何で私に」
「料理すれば食えるから」
「あなたが食べれば」
「俺、これ洗うの嫌い」
「私だって嫌だよ」
「姉さん細かい作業好きだろ」
「染物と根菜洗いを一緒にしないで」
文句を言いながらも受け取った。
その夜、自宅の台所で絡根菜を水へ浸した。
外側の泥はすぐ落ちる。
しかし細い根の間には土が詰まり、一本を持ち上げれば、その裏へ別の根が回り込んでいる。細い刷毛を使い、隙間を少しずつ洗うが、一か所終わると奥からまた泥が出てくる。
包丁で切り分けようとしたものの、どの根がどこへつながっているか分かりにくく、適当に切れば食べられる部分まで大きく捨てることになりそうだった。
しばらく続ける。
肩が少し重い。
診療所から、無理に力を入れないよう言われている。
それでも手を止めず、細い根を引っ張った。
抜けない。
角度を変える。
肩へ痛みが走った。
そこでようやく刷毛を置いた。
一人で一刻近く作業したのに、半分も終わっていない。
「面倒……」
声に出た。
明日へ回すこともできる。
ただ、水へ浸した後に長く放置すれば状態が落ちるかもしれない。
全部やってしまおう。
そう考えて再び刷毛を取ろうとした時、ナディアの言葉が浮かんだ。
『呼んでほしいです』
しかし、ここは工房ではない。
家には誰もいない。
弟を呼び戻すほどのことでもない。
近所の人へ「野菜を洗うのを手伝って」と頼むのもおかしい気がする。
なら自分でやるしかない。
そこまで考えたところで、《持ち込み食堂》の存在を思い出した。
客から何度か聞いたことがある。
食材を持ち込めば料理してくれる西区の店で、未知の食材でも相談に乗ってくれるらしい。
この絡根菜も持っていけば、下処理から料理してもらえるのだろうか。
ただし、泥の残った野菜をそのまま料理屋へ持っていくのは迷惑かもしれない。
少なくとも全部洗ってから。
そう思い、また刷毛を持った。
三息ほどして、自分の手が止まった。
手伝ってもらうための店へ行く前に、手伝ってもらいたい作業を全部終わらせようとしている。
あまりにも自分らしくて、少し笑ってしまった。
その夜は外側の泥だけを落とし、残りは布へ包んだ。
翌日の昼、肩へ負担をかけないよう小さな荷車へ絡根菜を載せ、《持ち込み食堂》へ向かった。
◇
店へ入ると、ミレイアは布包みを見て目を丸くした。
「大きいですね」
「野菜」
「一個?」
「たぶん何本かが全部絡んでる」
包みを開く。
「本当に絡まってる」
悠斗も厨房から出てきた。
「根菜ですか?」
「《絡根菜》。食用なのは間違いない。弟からもらった」
「調理したことは?」
「ない。火を通すと甘くなるって聞いてるだけ」
「じゃあ、まず状態見ますね」
悠斗は根の匂いと傷んだ部分を確認し、泥の入り込んでいる場所を見た。
「かなり土残ってますね」
「昨日途中まで洗ったけど、取れなくて」
「一人で?」
「そう」
ミレイアが塊の端を持ち上げようとして、すぐ顔をしかめた。
「重い」
「水吸ってるから」
「肩、大丈夫?」
エレナは驚いた。
「何で肩のこと知ってるの」
「知らないけど、さっき荷車から下ろす時、右腕あんまり使ってなかったから」
「少し痛めただけ」
「これを一人で洗ったんだ」
「途中まで」
悠斗は大きな桶を出した。
「料理する前に、まず洗いましょうか」
「そこから頼んでいいの?」
「料理するために必要なので」
「かなり手間かかるよ」
「料理って、大体何かしら手間かかりますよ」
あまりにも普通の返事だった。
「全部やってもらうのは悪い気がする」
「じゃあ一緒にやります?」
「一緒に?」
「エレナさんは座って、肩を使わない範囲で細いところを見てもらえれば。俺は大きい隙間を流します」
「他の客が来たら」
「一旦止めます」
「でも、その間」
「これも今の仕事なので大丈夫です」
エレナにとって、「お願いします」と言うだけなのに妙に時間がかかった。
「……じゃあ、お願い」
「はい」
厨房の端へ大きな桶を置き、絡根菜を沈める。
悠斗が太い根の間へ水を流し、エレナは椅子へ座って細い刷毛を使った。客がいない時間にはミレイアも加わり、反対側から根を持ち上げて見えにくい隙間を探す。
「ここ、小石挟まってます」
「引っ張っても取れない」
「根を切った方が早そうですね」
悠斗がつながり方を見る。
一本だけを無理に外すのではなく、細い根の付け根へ包丁を入れると、大きな塊が三つへ分かれた。
「そこ切っていいんだ」
「食べられる太い部分はなるべく残してます。こっちの細根はかなり硬そうなので、そこから分けました」
「昨日、一人でずっと外そうとしてた」
「これ、一人だと裏側見えにくいですよね」
その一言が、妙に心へ残った。
一人では見えないところがある。
染物でも同じだった。
大きな布を一人で広げれば、向こう側の色差を同時に確認することはできない。二人で両端を持てば、一方からは分からなかった濃淡が見える。
自分はそんなことを、仕事ではずっと知っていたはずだった。
それでも、人へ頼む場面になると忘れていた。
「エレナさん、何の仕事してるんです?」
ミレイアが尋ねる。
「染物」
「一人で?」
「職人が二人いる」
「三人なんだ」
「そう」
「仕事でも、こういう一人だと大変なやつある?」
「大きい布なら」
「手伝ってもらう?」
エレナは少し間を置いた。
「必要なら」
ミレイアが笑う。
「今の間、怪しい」
「頼むの、ちょっと苦手かも」
「何で?」
「相手にも仕事あるから。自分でできるなら、その方が邪魔しないでしょう」
ミレイアは根菜を持ち上げた。
「でも今、三人でやった方が早いよ」
「そうだね」
昨夜一人で一刻近くかけた作業が、それより短い時間でほとんど終わっていた。
◇
綺麗になった絡根菜を切ると、中は淡い黄色をしており、香りは芋と根玉葱の中間に近かった。悠斗はまず小さな一片を茹でて状態を確認し、エレナと一緒に味を見る。
「少し甘いですね。芋より繊維がしっかりしてる」
「思ったより普通に食べられる」
「太いところと細いところで食感違いそうです。何にします?」
エレナは反射的に言いかけた。
「任せ――」
そこで止めた。
「何ができる?」
「煮るのと焼くのは合いそうです。細い部分は火が入りやすいから、潰して焼いてもいいかもしれません」
「じゃあ、二種類作っていい?」
「もちろん」
「太いところは煮たい。細い方は焼いてみたい」
「分かりました」
自分で希望を言うことと、人へ頼むことは矛盾しないのだと少し感じた。
太い部分は白い鳥肉と根玉葱を合わせ、表面だけ軽く焼いてから薄い出汁へ入れた。ゆっくり煮ると外側は柔らかくなるものの、中心にはわずかに歯応えが残り、根菜そのものの甘味が汁へ溶けていく。
細い部分は下茹でしてから粗く潰し、刻んだ香草、少量の乳酪、塩を混ぜ、小さな平たい形へ整えた。
「これ、焼くの手伝います?」
悠斗が尋ねる。
「いいの?」
「肩を使わない範囲なら」
エレナは木べらを持った。
一枚目を鉄板へ置く。
表面が固まる前に返そうとして、少し崩れた。
「あ」
「もう少し待った方がよさそうですね」
「作り直す?」
「食べられるので、これはそのままで。次を長めに」
二枚目は焦らず待つ。
焼き色がつき、木べらを入れても形が崩れなくなったところで返す。
今度は綺麗だった。
三枚目も同じように焼く。
全部が同じ形にはならなかったが、皿へ並べれば、一枚だけ少し崩れている程度だった。
完成した《絡根菜と白肉の淡煮》は、柔らかな鳥肉の旨味を吸った太い根へ穏やかな甘さがあり、《絡根菜の香草平焼き》は外側に香ばしさが出て、中には粗く潰した根の食感が残った。
「どっちが好きです?」
ミレイアが尋ねる。
「今日は平焼きかな」
「崩れたのも?」
「それは私が食べる」
「何で?」
「私が失敗したから」
「失敗した人が食べる決まり?」
「食べられるのに捨てないでしょう」
「他の人が失敗した仕事も?」
「直せるなら一緒に直すよ」
答えてから、エレナは少し黙った。
「だったら、何で私は頼まないんだろうね」
そこから、肩を痛めた時のことを話した。
大量の寝具を抱えていたこと。
ナディアとレムがすぐ近くにいたのに声をかけず、一人で濡れた布を持ち上げようとしたこと。
「迷惑をかけたくなかったの」
エレナが言う。
「工房の二人に?」
「二人には二人の仕事があるから」
悠斗が尋ねる。
「でも、全部《青鈴染房》の仕事なんですよね」
「そう」
「エレナさんの仕事と二人の仕事が、完全に別に分かれてるわけではない?」
「そこまでは分かれてない」
「じゃあ、忙しいところを分けるのも仕事の中じゃないですか」
「頭ではそう思う。でも自分から頼むと、相手の時間を取る感じがする」
ミレイアが尋ねた。
「今、私たちに根菜洗ってもらったのは?」
「料理代払うから」
「お金を払えば頼める?」
「仕事として頼むなら」
「工房の二人も、そこで仕事してるんでしょう?」
エレナは返事に困った。
「雇ってるからって、何でもやらせていいとは思わない」
「それはそうだと思います」
悠斗が頷く。
「でも、何でもと、必要なことを頼むのは違いますよね。さっきだって全部俺たちへ渡して、エレナさんは座って見てるだけでもよかった。でも一緒に洗ったでしょう」
「できるところは自分でやりたかったから」
「じゃあ手伝ってもらうことって、全部相手へ押しつけることじゃないですよね」
言われてみれば当然だった。
自分は「頼る」という言葉を、最初から「自分の仕事を誰かへ渡すこと」と同じにしていたのかもしれない。
「でも、相手が忙しかったら?」
エレナが尋ねる。
「聞けばいいんじゃない?」
ミレイアが答える。
「今手空いてるって。無理なら無理って言ってもらえばいい」
「断られたら気まずくない?」
「私は普通に断りますよ」
「店の仕事でも?」
「今これやってるから後で、くらい言います」
悠斗も頷く。
「俺も無理な時に無理って言われた方が助かります。できると思って頼んで、黙って無理される方が困ります」
エレナは、肩を痛める前の自分を思い出した。
頼まれていないのに無理をしていたのは、自分の方だった。
「私、相手に迷惑かけたくないって言いながら、相手が迷惑だと思うかどうかまで自分で決めてたのかも」
「それはあるかもしれないですね」
悠斗が言う。
「頼んで、相手ができるか答える。そのやり取りまで含めて頼むってことなのかもしれません」
エレナは最後の平焼きを食べた。
少し崩れた一枚だった。
味は、他のものとほとんど変わらなかった。
◇
翌朝、エレナは残っていた絡根菜を工房へ持っていった。
「何です、これ」
レムが大きな塊を見る。
「絡根菜。昨日食べたら美味しかった」
「料理するんですか」
「昼にね」
そこで一度止まり、ナディアとレムの顔を見る。
「二人とも、昼休みに手が空いてたら、洗うの手伝ってほしい」
ナディアが目を丸くした。
「今、頼みました?」
「頼んだ」
「珍しい」
「嫌ならいいよ」
「そうやってすぐ逃げ道作るんですね」
「何が」
「やりますよ」
レムも笑った。
「僕もやります」
返事は、思っていたより簡単だった。
昼休み、三人で絡根菜を洗った。
レムが太い根の間へ水を流し、ナディアが刷毛で細い隙間を洗い、エレナが切り分ける場所を探す。
「これ、一人でやったんですか」
レムが尋ねる。
「途中まで」
「途中で嫌になりますよね」
「なった」
「じゃあ何で一人で続けたんです?」
「分からない」
以前なら「大丈夫だったから」と答えただろう。
今日は、本当に分からないと言えた。
洗い終えた根菜は、塩漬け肉と根玉葱を合わせて簡単な煮物にした。
「もう少し塩あってもよくないですか」
ナディアが味を見る。
「私はこのくらい」
「じゃあ食べる時に足します?」
「そうしよう」
レムが笑う。
「今日、エレナさん人の意見聞きますね」
「いつも聞いてるよ」
「聞くけど、最後に自分で全部やるじゃないですか」
「そんなに?」
二人が同時に頷いた。
少し腹が立った。
しかし、否定はできなかった。
その日の午後、エレナはもう一つ試した。
厚手の羊毛布が八枚ある。
本来なら自分が全部染める予定だった。
「ナディア」
「はい」
「羊毛布、四枚お願いできる?」
「四枚だけでいいんです?」
「全部やりたい?」
「できますけど、エレナさんもやるなら四枚ずつで」
「最後の色確認、一緒にして」
「分かりました」
作業は普段より早く進んだ。
夕方、二人分を並べて見る。
一枚だけ少し濃い。
「これ、私の」
エレナが言った。
「乾いたら落ち着くかもしれません」
「染め直した方がいいかな」
「今の段階で触ると、逆に濃くなるかも。明日見ませんか」
以前なら、夜に自分一人で直していたかもしれない。
「……明日まで待とう」
翌朝、乾いた布を確認すると、差はほとんど分からなくなっていた。
「昨日直さなくてよかったですね」
「私一人なら直してた」
「だから、たまには人に見せてください」
ナディアが笑った。
それからエレナは、意識して一日に一度、自分から誰かへ頼み事をするようにした。
「レム、薪の残量見てもらえる?」
「ナディア、この注文帳の納期、一緒に確認してほしい」
「次の大布、引き上げる時だけ二人ともお願い」
頼む内容は小さかった。
それでも、自分から言うことに慣れる必要があった。
初めてナディアから「今は無理です」と言われた時には、胸の奥が少し縮んだ。
「今はこの羊毛終わるまで手を離せません」
「……分かった」
「半刻後ならできます」
「半刻後でいい」
「急ぎならレムに聞いてください」
「急ぎじゃないから待つ」
それだけで終わった。
断られることは、頼んだこと自体が迷惑だったという意味ではない。
ただ、今はできないという返事だった。
逆に頼み方を間違えることもあった。
慣れ始めた頃、忙しい朝に三つの仕事をまとめてナディアへ渡した。
「この羊毛布見て、その後染料の在庫数えて、宿屋の見本も午前中に確認してもらえる?」
「全部午前中ですか?」
「できれば」
ナディアは少し困った顔をした。
「羊毛布はできます。在庫は午後なら。見本まで午前は無理です」
「あ、ごめん」
「頼むのはいいんですけど、優先順位を決めてください」
「羊毛布が先。見本は私が見る。在庫は午後で大丈夫」
「それならできます」
頼めるようになったからといって、相手の仕事量を見ずに渡せばよいわけではない。
頼ることと、丸投げすることは違う。
それもまた、自分が覚えなければならないことだった。
◇
肩がほぼ治った頃、城壁警備隊から春用の薄手外套を九十着分染めてほしいという大口注文が入った。納期は十二日で、灰青色へ染める長い布が何本も運び込まれた。
以前のエレナなら、色合わせと最終染色の大半を自分で抱え、遅れそうになれば夜まで残っただろう。
今回は最初に三人で予定表を囲んだ。
「十二日なら間に合うと思います」
レムが言う。
「でも六日目から雨予報です」
ナディアが天気表を指した。
「二日続いたら乾燥遅れるね」
エレナは注文量を計算する。
「じゃあ最初の三日で半分以上染めたい。ナディア、二桶担当できる?」
「できます」
「レムは前処理と水洗いお願い。色合わせは最初だけ三人で見て、その後は私とナディアで交互に確認しよう」
「分かりました」
誰が何を担当するか。
どこは一人で進められるか。
どこは二人以上必要か。
最初から紙へ書いた。
エレナが「手が足りなくなってから誰かへ頼む」のではなく、最初から複数人で進める仕事として組んだのは初めてだった。
一日目は順調だった。
二日目、レムが前処理した布の一部で洗いが足りず、染料の入り方へ少し差が出た。
以前なら、残りの前処理をすべて自分で引き取ったかもしれない。
今回はレムを呼んだ。
「ここ見て」
「薄いですね」
「洗い時間、途中で変えた?」
「後半、少し短くしました。予定より遅れてたので」
「そこは自分で縮めないで。遅れてる時は先に言って」
「すみません」
「残り、一緒にやろう。どこまで洗えばいいか、もう一回見て」
仕事を取り上げず、一緒に確認する。
次の布ではレム自身に判断させる。
三日目には、今度はエレナが媒染液の濃度を少し誤った。
ナディアが試し布を見て気づいた。
「これ、赤み出てません?」
エレナも並べて見る。
「本当だ。私、量間違えた」
「水足します?」
「計算し直す。ちょっと一緒に見てくれる?」
「はい」
自分の失敗へ人の手を借りることにも、以前ほど抵抗がなくなっていた。
六日目、予報通り雨が続き、布の乾きが半日ほど遅れた。
以前なら残業で取り戻した。
今回は二人へ聞いた。
「今日、一刻だけ延ばせる?」
レムは頷いた。
「僕は大丈夫です」
ナディアは首を振る。
「今日は家の用事があるので無理です」
一瞬だけ、「じゃあ私が残れば」と考えた。
しかし口へ出す前に止めた。
「分かった。ナディアはいつも通り帰って。レム、一刻だけお願い。終わらなかったら残りは明日へ回す」
「本当に明日へ回します?」
ナディアが念を押す。
「回す」
「聞きましたからね」
結局、一刻では最後の二枚が終わらなかった。
レムが言った。
「あと二枚だけです」
続けたくなる。
あと少しなら。
しかし納期にはまだ余裕がある。
「今日は終わり。二枚は明日の最初」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃなくても、今日は終わる」
以前なら「大丈夫」と言って働き続けた。
今は、大丈夫にするために終わるという判断もできた。
十二日目、九十着分の布は予定通り納品できた。
警備隊の担当者が色を確認する。
「揃ってるな。量多かったから遅れるかと思った」
「三人で分けましたので」
以前なら「頑張りました」と答えていたかもしれない。
今は自然に三人でと言えた。
担当者が帰った後、レムが言う。
「今回、エレナさんほとんど夜残らなかったですね」
「一回だけ一刻延ばしたね」
「それだけです」
ナディアが笑った。
「やればできるじゃないですか」
「何が」
「人に仕事頼むの」
「まだ慣れないよ」
「頼まれない方が困ります」
「そんなに?」
「店主が勝手に全部抱えて、いつ怪我するか分からない工房で働く方が不安です」
エレナは、ようやく自分が「迷惑をかけないため」と考えていたやり方が、二人を安心させていたわけではないことを、はっきり理解した。
◇
春の終わり頃になると、《青鈴染房》では朝の仕事前に三人で予定を確認することが習慣になった。以前も注文帳は共有していたが、役割はエレナが頭の中で決め、必要になった時だけ指示していたため、ナディアとレムには一日の全体像が見えにくかった。
今は違う。
「今日は私が商会の布と個人客の外套。ナディアは羊毛の仕上げ。レムは前処理。午後に大布一枚あるから、引き上げる時だけ三人でやりたい。大丈夫?」
ナディアが答える。
「午前の羊毛が遅れたら、大布の時間ずらしてください」
「どれくらい?」
「半刻あれば」
「じゃあ最初から半刻余裕取る」
レムも言う。
「前処理、思ったより量あります。午後最初までかかるかもしれません」
「大布までに終わらなくていいよ。引き上げだけ来てくれれば、その後戻って」
先に互いの状況を聞けば、途中で無理な仕事を渡すことも、自分一人が黙って抱えることも減った。
もちろん、毎日予定通りには進まない。
急ぎの客が来る。
染料が足りなくなる。
雨が降る。
それでも、誰か一人が全部のずれを吸収するのではなく、その時々で調整すればよかった。
ある雨の日、レムが熱を出して休んだ。
以前なら、エレナは何も変えず二人分働こうとしただろう。
今回は朝の帳簿を見ながら、ナディアと仕事を分けた。
「今日絶対必要なのは羊毛と、午後受け取りの外套。前処理二件は一件だけ今日やって、もう一件は明日に回す」
「外套の染色まで今日ですか?」
「本当は今日予定。でも客に一日ずらせるか聞く」
ナディアが少し驚いた。
「先に客へ相談するんですね」
「無理して間に合わせて色を外す方が困るでしょう」
客へ連絡すると、一日遅れても構わないと言われた。
それだけで仕事量が大きく減った。
数日後、レムが戻ってくる。
「休んで仕事増やして、すみませんでした」
「病気なら仕方ないよ」
「でも外套遅れたって」
「一日だけ。聞いたら問題なかった」
「エレナさんが延期お願いしたんですか」
「そう」
レムが笑う。
「本当に変わりましたね」
「みんなそればっかり」
「前なら絶対夜やってましたから」
「私もそう思う」
少し悔しいが、その通りだった。
◇
初夏には、開業以来最大の注文が入った。
新しい宿泊施設のため、寝具、カーテン、従業員用の前掛けをまとめて染めてほしいという依頼であり、すべて受ければ普段の一か月分に近い仕事量になる。
以前のエレナなら、長く付き合える大口客を逃したくないという理由で、その場で受けたかもしれない。
今回は即答しなかった。
「工房へ戻って予定を確認して、明日返事します」
依頼主は少し意外そうにしたものの、了承した。
三人で量を計算する。
ナディアが言う。
「全部は厳しいです。三週間ずっと晴れならできるかもしれないですけど」
「天気任せは危ないね」
レムが前掛けの枚数を見る。
「前掛けと寝具なら余裕あります」
「カーテンまで入れると?」
「雨が一日でも続いたら厳しいです」
エレナは少し考えた。
「じゃあ寝具と前掛けだけ受けて、カーテンは別の染房へ回してもらおう。寝具は天気が悪い場合に備えて二日の余裕をもらう」
翌日、依頼主へ伝えた。
全部は受けられないこと。
寝具と前掛けなら品質を保って仕上げられること。
天候次第では二日の余裕がほしいこと。
依頼主は最初こそ残念そうだったが、「無理に全部受けて遅れるよりいい」と納得し、カーテンだけ別の工房へ回すことになった。
仕事は順調に始まり、一週目には色の調整を一度やり直し、二週目には大雨で予定を半日ずらしたものの、無理な残業はしなかった。
三週目、最後の大きな寝具布を染め桶から引き上げる。
「上げるよ。二人ともお願い」
今では声をかけることに、ほとんど躊躇しなくなっていた。
「せーの」
三人で持ち上げる。
水を含んだ布は重い。
それでも一人の肩へ集中しないため、身体への負担は小さい。
広げて確認する。
「右端、少し薄くないですか」
レムが言う。
エレナが見る。
「本当だ」
ナディアも近づく。
「短くもう一回入れた方がいいと思います」
「私もそう思う。戻そう」
三人で再び入れる。
短く染める。
もう一度引き上げる。
今度は揃った。
納品の日、依頼主から言われた。
「カーテンまで引き受けてもらえればこっちは楽だったが、結果的には分けて正解だったな。どちらの工房も予定通りだった」
「うちでは全部受けると、品質か納期のどちらかへ無理が出そうでしたので」
「前なら受けてたんじゃないか?」
昔からの客だった。
エレナは少し笑った。
「たぶん受けて、私が夜働いてました」
「今は?」
「工房のみんなに怒られるのでやめました」
「それだけか」
「それだけじゃないですけど」
詳しくは説明しなかった。
◇
その日の夕方、エレナは久しぶりに《持ち込み食堂》へ行った。
持ってきたのは、弟からまた手に入れた絡根菜の細い部分だった。
「また絡根菜?」
ミレイアが笑う。
「今回は少ないし、洗ってある」
「一人で?」
「三人で」
「よくできました」
「何でみんな子ども扱いするの」
悠斗も出てくる。
「今日は何にします?」
「前の平焼きにしたい。でも工房へ持って帰って三人で食べたいから、冷めても固くなりにくくできる?」
「できます。少し薄くして、乳を少量入れてみます」
「お願い」
今回は手伝おうとはしなかった。
料理代を払い、料理人へ任せる。
悠斗が作った平焼きは、エレナが前回成形したものより薄く、その分表面が香ばしかった。
一枚だけ味を見る。
「こっちも美味しい」
「厚い方も食感ありましたよ」
「じゃあ次は両方作ればいいね」
違うやり方がある。
その全部を、自分だけでやる必要はない。
工房へ持ち帰ると、ナディアとレムが片づけをしていた。
「平焼き買ってきた」
「また絡根菜ですか?」
「そう。一人二枚」
ナディアが袋を見る。
「エレナさんが全部作ったんですか」
「今日は作ってない」
二人が揃って驚いた顔をした。
「何」
「何も手伝わず、作ってもらったんですか」
「お金払ってるからね」
「前なら厨房へ入って手伝いそう」
「入らないよ」
少し考える。
「前なら、洗うところまではやったかも」
「十分進歩ですね」
三人で平焼きを食べながら、翌日の予定を確認する。
「明日、朝から大布二枚ある。引き上げる時、二人とも手伝ってもらえる?」
レムがすぐ頷く。
「はい」
ナディアは少し考えた。
「一枚目は大丈夫です。二枚目の時間、羊毛の確認と重なるかもしれません」
「じゃあ二枚目は半刻遅らせよう」
「それなら大丈夫です」
「午後の帳簿も誰か一緒に見てほしい」
「それは私できます」
「じゃあお願い」
会話は、それだけだった。
頼んだからといって、相手が困るとは限らない。
無理なら無理と言う。
できるなら引き受ける。
返事を聞いてから調整すればよかった。
翌朝、一枚目の大布を三人で持ち上げた。
朝の光の下へ広げる。
端から端まで深い青が揃っている。
「綺麗ですね」
レムが言う。
「うん」
エレナは少し離れて布全体を見た。
一人なら、向こう側の端まで同時には見えない。
別の人が立っているから、全体を見られる。
それは頼るということについても同じなのかもしれなかった。
◇
夏の終わり、《青鈴染房》へ祭りの舞台に掛ける巨大な幕が持ち込まれた。工房で普段扱う大布よりさらに幅があり、乾いた状態でも三人で運ぶのがやっとだったため、水を含めば相当な重さになることは明らかだった。
「これは三人でも上げる時きついね」
エレナが幕を見ながら言った。
ナディアが笑う。
「最初から言いましたね」
「見れば分かる」
「昔も見えてたと思いますけど」
「うるさい」
レムが尋ねた。
「誰か呼びます?」
エレナはすぐ、向かいの仕立屋《白鋏屋》の主人バスコを思い浮かべた。普段から荷物の受け取り時には互いに道を空けたり、急な修繕があれば紹介し合ったりしている相手である。
「昼過ぎだけ、バスコさんに手を借りられるか聞いてくる」
「借り作りますね」
ナディアが冗談めかして言う。
「借りたら返せばいいでしょう」
自分で答えた後、エレナ自身が少し驚いた。
以前なら、借りを作ることそのものを避けた。
仕立屋へ行く。
「バスコさん、昼過ぎ少し手空く?」
「何だ」
「祭りの大幕染めるんだけど、上げる時だけ一人手伝ってほしい」
「どれくらいかかる」
「四半刻もかからないと思う」
「今日は大丈夫だ」
「ありがとう」
「その代わり来週、布棚動かすから一人貸してくれ」
「分かった。都合いい時間先に言って」
やり取りは、それだけで終わった。
何年も自分が避けていた「人へ頼む」という行為が、実際にはこうした短い相談で済むことも多かった。
昼過ぎ、四人で大幕を染め桶から引き上げる。
水を含んだ布は予想通り重かったが、四か所へ人がいれば安定した。
誰も無理をしない。
布も落ちない。
「助かった」
エレナが言う。
「これ、三人でやる気だったのか?」
バスコが尋ねる。
「昔なら」
「馬鹿だな」
「最近よく言われる」
「なら直せ」
「直してる途中」
バスコは笑って戻っていった。
乾き始めた大幕を三人で眺める。
深い青が均一に広がっていた。
「いい色です」
ナディアが言う。
「うん」
この一枚を作ったのは、エレナ一人ではない。
ナディアが染料を計り、レムが布を洗い、エレナが配合を調整し、バスコが引き上げを手伝った。
だからといって、《青鈴染房》の仕事ではなくなるわけではない。
必要なところへ必要な手を借りたからこそ、怪我をせず、布を落とさず、綺麗に仕上げることができた。
以前のエレナなら、自分の工房なのだから自分が最後までやることこそ責任だと思っただろう。
今は、工房を続ける責任があるからこそ、一人で抱えない方がよい仕事もあるのだと考えられるようになっていた。
祭りの日、舞台の後ろへ大幕が掛けられた。
仕事を終えたエレナ、ナディア、レムの三人も見に行く。
夕方の光を受け、青い布がゆっくり風に揺れている。
「やっぱり綺麗ですね」
レムが言う。
「少し明るめにしたの正解でした」
ナディアも頷く。
エレナは二人を見る。
「ありがとう」
ナディアが妙な顔をした。
「急にどうしたんですか」
「普通に言っただけ」
「エレナさんが素直に言うと心配になる」
「失礼だね」
レムが笑いながら言った。
「じゃあ、どういたしまして」
ナディアも続ける。
「どういたしまして」
それだけでよかった。
◇
秋になる頃には、工房の働き方は以前とかなり変わっていた。
誰かが体調を崩せば受注量を調整する。
大きな布は最初から二人以上で持つ。
エレナが午後だけ休む日も、ときどき作る。
初めて「用事がないのに午後休む」と言った時には、ナディアとレムの方が驚いた。
「何かあるんですか」
「何もない」
「じゃあ何で休むんです?」
「私がいなくても普通に回ることに、私が慣れるため」
ナディアが笑った。
「それは必要かもしれません」
午後、エレナは市場へ行った。
何も仕入れない。
運河沿いを歩く。
途中で工房の布が気になり、戻ろうとした。
やめた。
一人で茶店へ入り、ゆっくり茶を飲んだ。
翌朝、帳簿を見ると新しい注文が一件入っており、ナディアの判断で雨の予報を考慮し、普段より納期を一日長めに取っていた。
「一日長くしたの?」
「雨予報なので」
「うん。いいと思う」
「確認しなくてよかったですか」
「昨日いなかったんだから、普通の範囲は決めて」
「じゃあこれからも決めますよ」
「お願い」
自然に言えた。
冬前には、ナディアが家族の祝い事で一週間故郷へ帰ることになった。
「一週間休んでいいですか」
「もちろん」
以前なら、彼女がいない一週間も通常通り注文を受け、自分とレムで埋めたかもしれない。
今回は最初から注文帳を調整した。
「その週は大口入れないようにする。二人でできる量だけ受ける」
「いいんですか」
「三人分を二人でやったら、結局また同じでしょう」
「急ぎが来たら?」
「納期相談する」
ナディアが少し笑った。
「休み取りやすくなりました」
エレナは顔を上げた。
「前は取りにくかった?」
「取れないわけじゃなかったです。でも私が休んだら、エレナさん絶対全部自分でやるから」
「そうだった」
「帰ってきたら疲れ切ってるし、休んだ私が悪いみたいな気分になるんです」
エレナは黙った。
迷惑をかけないために、自分が引き受けていた。
そのつもりが、相手へ休みにくさまで感じさせていた。
「逆だったね」
「少し」
「今度から普通に休んで」
「エレナさんも」
「分かった」
ナディアが故郷へ帰っている一週間、《青鈴染房》は本当に受注量を減らした。
売上は少し下がる。
それでも工房が困るほどではない。
レムと二人で無理なく進め、急ぎの大口を一件だけ翌週へ回した。
客へ「来週ならできます」と言えば、それで済んだ。
夜遅くまで残った日は一度もなかった。
ナディアが戻ってくる。
「何か大変でした?」
「大口一件、今週に回した」
「それだけ?」
「それだけ」
「肩は?」
「痛くない」
「よかった」
エレナも、本当にそう思った。
◇
冬、《青鈴染房》では古い染め桶を一つ交換することになった。
新しい桶は以前のものより一回り大きく、運送人が工房の入り口まで届けてくれたものの、奥へ運ぶにはかなり重そうだった。
「三人でいけますかね」
レムが端を押してみる。
ほとんど動かない。
ナディアも力をかける。
「これ、三人でも無理すると腰やりそう」
エレナも一瞬、自分たちだけで何とかできないか考えた。
以前なら、とりあえず試しただろう。
「バスコさん呼んでくる」
すぐ言った。
ナディアが笑う。
「早い」
「腰やったら困るから」
「ちゃんと学んでる」
「また採点する」
バスコと《白鋏屋》の若い職人が来てくれ、五人で運ぶと、大きな桶は難なく工房の奥へ入った。
「ありがとう」
「来月こっちの棚替えあるから頼むぞ」
「先に日を言って。人出せるようにする」
「分かった」
人へ頼る。
自分も頼られる。
借りることもあれば、返すこともある。
それは、迷惑を一方的に押しつける関係とは違っていた。
新しい染め桶へ最初の水を張る朝、エレナはいつも通り少し早く工房へ来た。
ナディアとレムは、まだ来ていない。
空の桶を見る。
水を張るには何度も水場と往復する必要がある。
一桶目を運ぶ。
二桶目も入れる。
三桶目を持ち上げようとしたところで、手が止まった。
昔の自分なら、このまま全部入れただろう。
あと十往復以上必要でも、二人が来る前に終わらせれば、二人は自分の仕事へすぐ入れると考えたはずだった。
しかし急ぐ理由はない。
エレナは空の水桶をその場へ置き、先に注文帳を開いた。
しばらくすると戸が開く。
「おはようございます」
レムが入ってくる。
続いてナディアも来た。
「おはよう」
エレナは新しい染め桶を指した。
「水張り、二人とも手伝ってもらえる?」
「はい」
「もちろん」
返事はすぐだった。
三人で水を運ぶ。
一人なら十数往復しなければならない仕事が、数回ずつで終わる。
最後の水を入れた頃には、朝の光が窓から差し込み、新しい桶の水面へ揺れていた。
エレナは、その水を眺めながら、自分が特別なことをしたとは思わなかった。
以前なら一人でやっていただけの作業を、今日は三人で分けただけである。
けれど、その「だけ」を自然にできるようになるまでには、肩を痛め、一人で絡根菜の泥と格闘し、頼んでは断られ、頼みすぎて優先順位を聞かれ、仕事を減らすために客へ納期の相談までしなければならなかった。
自分でできることを自分でする姿勢そのものは、これからも変えるつもりはない。
ただし、一人でできるという理由だけで、すべてを自分だけの仕事へする必要はなかった。
危険があるなら呼ぶ。
量が多いなら分ける。
自分より得意な者がいるなら任せる。
相手の手が空いているか分からなければ、勝手に想像して諦めるのではなく聞いてみる。
無理だと言われれば、待つか、別の人へ頼むか、仕事そのものをずらせばよい。
そして自分が手を貸せる日には、今度は相手の仕事を手伝えばよかった。
誰にも頼らず、自分の身体と時間だけを使い切ることだけが、責任を持って働く方法ではない。
むしろ工房を長く続けたいのなら、自分一人が壊れない働き方を作ることも、店主として引き受けなければならない責任の一つなのだと、ようやくエレナは理解していた。
新しい染め桶へ最初の布を沈める。
三人で端を持つ。
ゆっくり水へ入れる。
布が水を吸い、次第に重くなっていく。
「上げる時も、二人ともお願いね」
エレナが言った。
ナディアはすぐ答えた。
「最初からそのつもりです」
レムも頷く。
「一人でやったら怒りますからね」
「最近二人とも厳しくない?」
「エレナさんが頼まなかったからです」
「今日はちゃんと頼んだでしょう」
「じゃあ大丈夫です」
三人で笑いながら、布を桶の中へ沈めていく。
かつてのエレナは、誰にも負担をかけず、自分だけで最後まで仕上げた仕事ほど、責任を果たした仕事だと思っていた。しかし今では、必要なところで「手伝って」と言い、相手の返事を聞き、できる仕事を分け合いながら最後まで仕上げることも、自分が工房を守るために行う仕事だと考えられるようになっている。
一人で抱えていた時より、自分の仕事が軽くなっただけではない。
ナディアもレムも、自分の判断で動く場面が増えた。
休みたい時には休みたいと言いやすくなった。
エレナ自身も、無理なものを無理だと口にできるようになった。
それぞれができることを持ち寄り、できないところでは別の手を借りることで、《青鈴染房》は以前より少しだけ、三人の工房になっていた。
朝の光を映した新しい染め桶の中で、最初の布がゆっくり色を吸い始めるのを見ながら、エレナはもう、その仕事を自分一人で終わらせた時だけ、自分が役に立っているのだとは思わなかった。
必要な時に声をかけられることも、頼まれた時に手を差し出せることも、誰かと同じ仕事を続けていくためには同じくらい大切なのだと知った彼女は、布を引き上げる時間が来るまで、自分だけで先に何かを片づけようとはせず、二人と一緒にその日の次の仕事を確認し始めた。
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