第67話 硬くなった蜜杏と、最後の一袋を開けられない製本職人
エルド・カーネルは四十四歳になる人間の男性であり、レーヴェン北区の職人工房が集まる通りで、小さな製本工房《青糸舎》を営んでいた。背丈は平均より少し高い程度だが、長年前屈みになって紙束へ穴を開け、革表紙を押さえ、糸を強く引き締める仕事を続けてきたため、肩と前腕には見た目以上の力があり、右手の親指と人差し指には細かな切り傷の痕がいくつも残っている。淡い灰褐色の髪は耳へかからない長さに切り揃え、濃い青色の目は人と話している時よりも、紙の綴じ目や革の歪みを確かめている時の方がよく動く、口数の少ない職人だった。
《青糸舎》で扱うのは、新しい帳簿や日記帳を作る仕事だけではなく、崩れかけた古い本を解体し、破れた紙を補強し、弱った綴じ糸を交換して再び読める形へ戻す修復仕事も多かった。商家の古い取引帳、教会の記録本、貴族家に残る家系記録、何十年も使い込まれてきた料理帳など、持ち込まれる本にはそれぞれ使ってきた人間の時間が染みついているため、エルドは新品のように綺麗にしすぎる修復を好まなかった。
「傷まで消したら、別の本になる」
若い弟子へそう教えることがある。
水染みが残っていても文字を読めるなら無理に削らず、角が擦れて丸くなった革も強度に問題がなければ残し、前の持ち主が書いた小さな印や子どもの手による落書きも、依頼主から消してほしいと言われない限り勝手には触らない。エルドにとって修復とは、古いものを新品へ戻す仕事ではなく、それまでに残った痕跡を失わないよう注意しながら、これから先も使い続けられる状態へ整える仕事だった。
その考え方は仕事についてなら少しも揺らがなかったのに、自宅の食器棚の一番上へ置いてある小さな布袋についてだけは、四年近く何も決められないまま時間が止まっていた。
袋の中に入っているのは、乾燥させた《蜜杏》だった。特別に高価な果実でも、珍しい魔物由来の食材でもないが、エルドにとっては街のどんな高級食材よりも使うことが難しく、布袋を開いて中身を確かめるたびに、食べることも捨てることもできないまま元の場所へ戻していた。
四年前に亡くなった妻、アニエが最後に作った一袋だったからである。
◇
エルドがアニエと出会ったのは二十五歳の頃で、当時の彼はまだ《青糸舎》の主人ではなく、師匠の工房で働く一人の製本職人にすぎなかった。アニエは二十三歳で、北区の市場から少し離れた場所にある菓子屋《蜜枝屋》で働いており、明るい栗色の髪を肩まで伸ばし、よく笑い、人と話すことを苦にしない女性だった。客の顔と好みを覚えることが早く、「甘すぎる菓子は苦手だ」と一度言った客が次に来れば、本人が忘れていても甘さの弱い焼き菓子を先に勧めるような店員だったという。
二人が知り合ったきっかけは、アニエが店の注文帳を修理へ持ってきたことだった。何年も厨房近くで使われてきたせいで、帳面には砂糖や果汁の染みがつき、背表紙も半分剥がれていた。
「綺麗になります?」
アニエが尋ねた。
「読めるようにはできます」
「綺麗には?」
「全部綺麗にすると、かなり紙を替えることになります」
「じゃあ読めればいいです。店主が、染みまでなくなったら何をこぼしたか分からなくなるって」
変わった理由だと思ったものの、エルドにはその言い方が少し気に入った。
修理した注文帳を受け取りに来たアニエは、代金と一緒に小さな紙包みを置いていった。
「余った焼き菓子です」
「いらない」
「甘いもの嫌い?」
「仕事代はもらってる」
「代金じゃないです。私が食べきれないだけ」
「店で売ればいい」
「今日までなんです」
「なら捨てれば」
「食べられるもの捨てるの嫌なんです」
そこまで言われ、エルドは受け取った。
中に入っていたのは、蜜杏を刻み込んだ小さな焼き菓子で、確かに甘かったものの、果実の酸味があるため重くはなく、気づけばその日のうちに全部食べていた。
翌月、アニエが別の帳面を持ってきた時、エルドは言った。
「前の菓子、悪くなかった」
「それ、褒めてます?」
「食べた」
「それだけ?」
「全部」
アニエは声を上げて笑い、それから二人は帳面の受け渡し以外でも少しずつ話すようになり、二年後に結婚した。
二人の暮らしは派手ではなく、エルドは朝から工房へ行き、アニエは菓子屋へ勤め、夕方にはどちらか早く帰った方が夕食を作った。料理はアニエの方が得意だったが、エルドも簡単な煮込みや焼き肉なら作れたため、忙しい時には互いに適当な食事で済ませることも多かった。
その家で、蜜杏はよく使う食材だった。
蜜杏は、レーヴェン南西の乾いた丘陵地で育つ小ぶりの杏に似た果実であり、熟すと橙色の果肉へ蜂蜜を思わせる甘い香りが出る。生でも食べられるが、収穫期が短いため、半分に割って種を抜き、薄い蜜へ一度くぐらせてから天日で乾燥させる保存法が広く使われており、乾燥した蜜杏は焼き菓子へ刻んで入れても、肉の煮込みへ少量加えてもよく、湯で戻せば柔らかな果肉へ戻る。
アニエは菓子屋で扱っていたこともあり、毎年初夏になると自宅でも少量を作っていた。市販品を買えば済むのに、それでも自分で作るのが好きだった。
「乾かし具合で味変わるから」
アニエはそう言い、天候を見ながら干す時間を変えた。
「去年の方が柔らかかった」
「今年は日差し強いからね」
「なら早く取り込めば」
「仕事行ってるの」
「俺がやる?」
「あなた絶対忘れる」
「忘れない」
「本の乾燥と一緒にしそう」
「紙より分かりやすい」
「余計怖い」
結局、エルドも休みの日には種を抜いた果実を蜜へくぐらせ、布を敷いた干し台へ並べ、夕方になれば屋内へ入れる作業を手伝うようになった。出来上がった蜜杏は布袋へ入れ、食器棚の乾燥した場所で保存したが、一袋を冬まで残すことはほとんどなく、菓子や朝食で少しずつ食べているうちになくなった。
翌年になれば、また二人で作ればよかったからである。
◇
二人の間に子どもはいなかった。望まなかったわけではないものの、結婚して何年経っても授からず、三十代半ばを過ぎた頃には互いにその話をあまりしなくなった。それでも夫婦仲が悪くなったわけではなく、エルドは工房を師匠から譲り受け、アニエも《蜜枝屋》の製造補助を任されるようになり、それぞれの仕事を続けながら穏やかに暮らしていた。
変化が起きたのは、アニエが三十八歳になった冬だった。
最初は長く続く咳で、寒さのせいだと思っていた。熱もそれほど高くなく、仕事を休めばよくなる日もあったため、二人とも深刻には考えていなかったが、春になっても完全には治らず、夏を前にして急に体力が落ちた。
薬師へ診てもらい、治療も受けた。
それでも回復しなかった。
アニエは少しずつ仕事を減らし、家にいる時間が増えた。
その年の初夏、エルドは蜜杏を作らなくてよいと言った。
「今年は買えばいい」
「作る」
「外出るなって薬師に言われてるだろ」
「干すのは庭」
「暑い」
「日陰にいる」
「俺がやる」
「それだと干しすぎる」
「まだ言うか」
「信用の問題」
アニエは病気になってからも、そういうところだけは以前と変わらず笑った。
結局、エルドが果実を洗い、アニエが椅子へ座ったまま種を抜き、二人で蜜へくぐらせた後、干す作業だけはエルドが担当することになった。
「夕方になったら入れて」
「分かってる」
「三日目からは昼過ぎに一回見て」
「分かってる」
「端が縮みすぎてたら」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「本より注文多いな」
アニエはまた笑った。
その年の蜜杏は、少し硬めに仕上がった。
「ほら、干しすぎ」
出来上がった一つを食べ、アニエが言った。
「食べられる」
「失敗じゃないけど」
「ならいい」
「来年は私がやる」
その言葉へ、エルドは何も返せなかった。
そしてアニエは、その翌年の春を迎えることができなかった。
冬へ入る前に病状が悪化し、それから二か月ほどで亡くなった。
◇
葬儀を終えた後、エルドはしばらく何もまともに片づけられなかった。
衣服、菓子屋で使っていた前掛け、寝台横に置いてあった本、途中まで編んでいた布紐、届いたまま返事を書いていない手紙など、何を残し、何を処分すればよいか分からなかった。近所に住むアニエの姉が手伝いに来て、「急がなくていいよ」と言ってくれたため、本当に急がず、一年ほどかけて少しずつ整理した。
衣服の一部は姉へ渡し、仕事道具は《蜜枝屋》へ戻し、古い靴は処分し、アニエが好きだった本はエルド自身が修理して工房の奥へ置いた。
その作業を進める中で、食器棚の一番上から蜜杏の布袋が出てきた。
二人で作った最後の蜜杏だった。
まだ半分近く残っており、乾燥状態も悪くなく、変な匂いもなければ、少し硬くなっているだけで十分食べられる。
エルドは一つ食べようとした。
袋へ手を入れ、指先が蜜杏へ触れたところで、動けなくなった。
食べれば、なくなる。
袋に十二個あれば、一個食べれば十一個になり、最後まで食べれば、二人で作った蜜杏はもう存在しなくなる。翌年に新しい蜜杏を作ることはできても、同じ産地の果実を買い、同じように蜜へくぐらせ、同じように干したとしても、アニエが種を抜いた蜜杏にはならず、椅子へ座った彼女が「干しすぎだ」と笑ったあの年のものでもない。
そのことを考えた瞬間、エルドは蜜杏から手を離し、袋を閉じた。
翌日も食べなかった。
一週間後も、一か月後も同じだった。
代わりに時々袋を開き、湿気ていないか、虫が入っていないか、匂いが変わっていないかを確かめ、年に数度は布袋まで替えた。
保存することだけは、異様なほど丁寧だった。
◇
最初の一年は、それでも不自然だとは思わなかった。
葬儀からそれほど時間も経っていないのだから、無理に食べる必要はない。
二年目に入っても同じで、周囲から再婚を勧められることはあったものの、エルドにはその気がなく、仕事を続け、一人分の食事を作ることにも慣れ、《蜜枝屋》の前を普通に通れるくらいには生活が戻った。
アニエの名前を聞いただけで何もできなくなることも減った。
それでも蜜杏だけは、開けられないままだった。
三年目の夏には、アニエの姉から言われた。
「それ、まだあるの?」
彼女は蜜杏の存在を知っていた。
「ああ」
「食べないの?」
「まだ食える」
「そうじゃなくて」
「腐ってない」
「だから、食べる気あるのって聞いてるの」
エルドは答えなかった。
「アニエなら怒るよ」
「何で」
「食べ物残すの嫌いだったでしょう」
「これは別だ」
「何が別なの」
「最後なんだ」
姉はそれ以上責めなかったものの、帰り際に「腐らせる方が嫌がると思うけどね」とだけ言った。
その言葉は、その後も長く残った。
四年目の初夏、蜜杏を確認したエルドは、以前より明らかに硬くなっていることへ気づいた。乾燥がさらに進み、一つ手に取って指で曲げようとしてもほとんど動かない。
匂いはまだ残っている。
表面に黴もない。
虫もついていない。
しかし、このまま置けば、いつか食べ物として使えなくなる。
頭では分かっていた。
保存とは時間を止めることではない。
本だって同じであり、どれだけ丁寧に修復しても紙はゆっくり劣化し、革は乾き、糸も弱るため、時々開いて空気を通し、必要なら補修しなければならない。使われる本は、使われながら少しずつ傷み、それでも読めるよう手を入れていく。
蜜杏だけを、永遠に変わらない状態で残すことなどできない。
製本職人としてなら誰より理解していることなのに、自分の手は袋を開いたところで止まったままだった。
◇
その頃、《青糸舎》には十七歳になる弟子のネリオがいた。
職人の家の出身ではなく、文字を読むことが好きで、古い本を修理する仕事へ興味を持って工房へ入った青年である。
ある日の昼、エルドが工房奥の棚から保存用の布を探していると、ネリオが古い料理帳を持ってきた。
「親方、これどうします?」
「どれだ」
「依頼主が、祖母の書き込みは残してほしいけど、油染みはできるだけ薄くしてほしいって」
エルドは帳面を開いた。
余白には何人かの字があり、古いものは薄く、最近のものは濃い。
「染みの下に字あるか?」
「一か所あります」
「そこは触るな。読めなくなる」
「汚れ残りますけど」
「汚れより字だ」
「綺麗にした方が喜ばないですか?」
「何を残したいかは依頼主が決める。こっちで勝手に全部新しくするな」
ネリオは頷いた後、少し考えてから言った。
「残すのって難しいですね」
「何が」
「そのまま置けばいいわけじゃないんですね」
エルドの手が少し止まった。
「当たり前だ」
「残したいなら、触らない方がいいのかと思ってました」
「触らないと壊れるものもある」
自分で言った言葉だった。
それなのに、その一文だけが妙に胸へ残った。
◇
その日の夜、エルドは食器棚から蜜杏を出した。
布袋を開くと、甘い香りは以前より弱くなっている。
一つを手に取り、このままでは来年さらに悪くなると考えながら、包丁を出した。
細かく切って湯で戻せば食べやすい。
昔、アニエもそうしていた。
包丁の刃を蜜杏へ当てる。
それでも力を入れられなかった。
蜜杏を切れば、元の形へは戻せない。
結局、その晩も袋へ戻した。
「何やってるんだ」
誰もいない台所で呟いたが、当然ながら答える人はいなかった。
数日後、工房へ来た常連の書店主が、《持ち込み食堂》の話をした。
きっかけは製本とはまったく関係のない雑談だった。
「西区のあの食堂、行ったことあるか?」
「ない」
「食材持ってくと料理してくれるところ」
「聞いたことはある」
「この前、硬くなった干し肉を煮てもらったらしいぞ。うちの店員が行った」
「そうか」
「古くなった乾燥物でも、食べられる状態なら相談してくれるって」
その時は何も言わなかったものの、書店主が帰った後も、夕方になるまで食堂の話は頭から離れなかった。
自分で切れないなら、誰かに料理してもらう。
そう考えるだけでも抵抗が出る。
知らない料理人が最後の蜜杏を使い、もし焦がしたら、味を壊したらどうするのか。
アニエならそんなことを気にしないかもしれない。
それも分かっている。
それでも、すぐには決められなかった。
◇
さらに一週間が過ぎた朝、エルドは蜜杏の袋から一つだけ取り出した。
全部は無理でも、一つなら持ち出せるかもしれないと考え、小さな紙へ包んで仕事用の鞄へ入れた。
工房へ着いた後も昼まで仕事を続け、午後になっても出かけなかった。
ネリオが尋ねる。
「親方、今日どっか行くんじゃなかったんですか?」
「何で」
「朝から鞄三回見てるから」
「仕事しろ」
「はい」
結局、その日は持ち帰った。
翌日も同じことをし、三日目になって、ようやく西区へ向かった。
◇
《持ち込み食堂》へ入った時、店内には昼の混雑が終わった後の静けさが残っていた。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが声をかける。
「持ち込み」
「はい。何でしょう?」
エルドは紙包みを出して開いた。
中には、黒ずみ始めた濃い橙色の蜜杏が一つだけ入っている。
「干した果物ですか?」
「蜜杏」
悠斗も厨房から出てきた。
「かなり乾いてますね」
「四年くらい経ってる」
ミレイアの表情が少し変わる。
「四年?」
「乾燥はしてる。黴もない。匂いも変じゃない」
「保存状態も確認させてください」
「分かってる」
悠斗はすぐに料理へ使わず、表面、匂い、割れや虫害の有無を慎重に確認した。
「長く置かれてますけど、少なくとも見た感じでは腐敗してる様子はないですね。ただ、かなり水分が抜けてるので、このまま食べるのは大変そうです」
「分かってる」
「普段はどうやって食べるものです?」
「そのままでも食べる。湯で戻して菓子にすることもある」
「今日は、柔らかくして食べたいですか?」
エルドは答えなかった。
悠斗も急かさず、ミレイアも黙って待った。
エルドは紙包みの中にある蜜杏をしばらく見つめた後、ようやく口を開いた。
「……食べるかどうか、まだ決めてない」
ミレイアが少し不思議そうにする。
「料理してもらいに来たんですよね?」
「そうだ」
「でも食べたくない?」
「食べたくないわけじゃない」
「じゃあ?」
エルドは黙った。
こういう話をするために来たわけではないと思いながらも、使えないものを持って食堂まで来ている以上、事情を聞かれることくらい分かっていたはずだった。
「妻が作った」
ようやく言った。
「四年前に死んだ」
ミレイアの表情から軽さが消えた。
「これが、最後に一緒に作ったやつだ」
「最後の一個?」
「袋にはまだある」
「じゃあ、これはその中の一個?」
「ああ」
悠斗は蜜杏へ触れずに尋ねた。
「今日は、これをどうしたいか決めに来た感じですか?」
「分からん」
「分からないままでもいいです」
その返事は、エルドには少し意外だった。
◇
「料理人なら食わせるんじゃないのか」
「食べたくないなら勝手には使えません」
「持ってきた」
「はい。でも、持ってきたから絶対料理するって決まりじゃないです」
エルドは椅子へ座った。
「四年置いてる」
「その間ずっと食べてない?」
「ああ」
「何で?」
「食べたら減る」
口に出してしまえば、理由はあまりにも単純だった。
ミレイアは笑わなかった。
「最後まで食べたらなくなるから?」
「そうだ」
「でも置いてても悪くなる?」
「分かってる」
「じゃあ困ってるんですね」
エルドは少し間を置いてから、ようやく認めた。
「……そうだな」
その言葉を口にできるまで、四年かかっていた。
そこから、少しずつアニエの話をした。
二人で毎年蜜杏を作っていたこと。
最後の年はアニエが病気だったこと。
自分が干しすぎて、少し硬くなったこと。
妻が「来年は自分でやる」と言ったこと。
その来年が来なかったこと。
「だから食べたら、そこまで終わる気がする」
エルドは言った。
「何が?」
ミレイアが尋ねる。
「二人で作ったものがなくなる」
「思い出も?」
「分からん」
「同じ?」
エルドは少し考えた。
「同じじゃないのは分かってる。でも、袋を開けばまだそこにある。手に取れば、アニエが種を抜いた果実だって分かる。食べたら形は消える」
言葉にしているうち、ようやく自分が何を恐れているのかが見えてきた。
「なくすのが怖いんだ」
初めて、はっきりそう言った。
◇
悠斗は少し考えてから尋ねた。
「奥さん、どんな人でした?」
「何で」
「その蜜杏の作り方を知りたいので」
「作り方?」
「料理するかどうかはまだ別です。どういうものだったか知りたい」
エルドは説明した。
果実を半分に割り、種を抜いて薄い蜜へ短くくぐらせ、風の通る場所へ並べる。天気が良ければ二日から三日、湿気が多ければもう少しかかる。
「最後の年は?」
「俺が干した」
「奥さんは?」
「種抜いた。あと文句言ってた」
「何て?」
「干しすぎだって」
ミレイアが少し笑う。
「じゃあ、この硬さも思い出なんですね」
エルドは蜜杏を見る。
「そうかもしれん」
「柔らかく戻したら、それも変わる?」
その問いは、想像していなかった。
四年間、エルドは「食べるか、残すか」だけを考えていた。食べれば減り、残せば形は残るが、料理するということはその間にある。柔らかくし、煮たり切ったり別の食材と合わせれば、今ある蜜杏とは違う姿になる。
それすら、失うことのように感じられた。
「変えたくない」
エルドが言うと、悠斗は無理に説得せず答えた。
「じゃあ今日は使わない方がいいかもしれないですね」
「それでいいのか」
「エルドさんが決めることなので」
「食堂なのに」
「食べ物だからって、必ず今日食べないといけないわけじゃないです」
ただし、悠斗は少しだけ続けた。
「でも、食べ物だから、ずっと同じ状態では残せないですよね。そこだけは俺にも変えられないです」
「ああ。分かってる」
◇
しばらく三人とも話さなかった。
エルドは蜜杏を紙包みへ戻そうとしたが、指が止まった。
「一つだけなら、何ができる」
悠斗を見る。
「一個だけ?」
「ああ」
「かなり小さいので、料理一皿全部には足りないですね。ただ、味を見るくらいならできます」
「どうする」
「まず半分だけ戻してみるとか」
エルドは顔を上げた。
「半分?」
「全部使わない。残り半分は返します」
その発想はなかった。
食べるなら一個全部。
残すなら一個全部。
なぜかそう思い込んでいた。
「切るのか」
「はい。ただ、切った残りも保存性は落ちるので、長く置くならおすすめはしません」
現実的な説明だったため、エルドもすぐに問題へ気づいた。
「なら半分も残せないな」
「そうですね」
「結局一個使うことになる」
「はい」
また元へ戻ったように思えた。
そこでミレイアが口を開いた。
「袋には、まだ何個あるんです?」
「十五くらい」
「全部同じ年?」
「ああ」
「じゃあ一個食べても、十四個残るんですね」
「そうだ」
「一個使ったら、最後じゃないですよね」
エルドは少し苛立った。
「数の話じゃない」
「分かってます」
ミレイアは引かなかった。
「でも、ずっと『最後の一袋』って考えてるのかなって思ったんです。一つ食べたら、全部なくなったみたいに感じるのかなって」
エルドは答えられなかった。
そうなのかもしれない。
◇
袋の蜜杏を、一つ一つ別のものとして考えたことがなかった。
すべてまとめて「アニエが最後に作った蜜杏」であり、一つでも食べればそのまとまりが壊れ、十五個が十四個になった時点で、完全なままではなくなるように感じていた。
仕事でも似たことがある。
古い本の一部が欠けていると、依頼主が「もう元の本ではない」と嘆くことがある。それでもエルドは、残っている頁を綴じ直し、欠けた頁があったことを記録して、使える本として返してきた。
完全でなくなったからといって、存在まで消えるわけではない。
自分は他人へ何度もそう説明してきたのに、自分のことになると、その考え方を使えていなかった。
長く考えた末、エルドは言った。
「一個、使ってくれ」
悠斗が確認する。
「いいんですか?」
「ああ」
「どんな味にしたい?」
「分からん」
「甘い方がいいですか?」
「アニエは菓子に使ってた」
「エルドさんは?」
「肉と煮る方も好きだった」
「じゃあ、今日は甘いだけじゃない料理にします?」
エルドは少し考えて頷いた。
「任せる」
その言葉を口にした後でも、胸は落ち着かなかった。
悠斗が蜜杏を湯へ入れる。
硬かった果肉が、少しずつ水分を戻していく。
エルドは、目を逸らさなかった。
◇
湯にはわずかに橙色が移り、蜜杏の表面がゆっくり膨らんでいく。
「戻し汁も使えそうですね」
悠斗が言う。
「甘いか」
「少し。香りも出てます」
柔らかくなった蜜杏へ包丁が入り、細く切られた瞬間、エルドの胸は強く締まった。
元には戻らない。
それでも、自分で使ってくれと言った以上、最後まで見ようと思った。
悠斗は白い鳥肉を小さめに切り、根玉葱と一緒に焼き、表面へ色がついたところで少量の戻し汁を加えた。その後、蜜杏の細切りを半分ほど入れてゆっくり煮ていく。
「全部入れないのか」
「残りは最後に使います。煮込みすぎると溶けそうなので」
「そうか」
味を消さないように扱っていることが分かり、それだけで少し安心した。
煮汁には塩を控えめに入れ、香りの穏やかな香草を少量だけ加えた。鳥肉の旨味へ蜜杏の甘酸っぱさが混じるものの、菓子のように甘くはせず、最後に残していた蜜杏を入れて短く温める。
完成したのは《白肉と蜜杏の軽い煮込み》だった。
皿の中には、細くなった蜜杏がまだ形を残している。
完全に溶けてはいない。
「食べます?」
悠斗が尋ねた。
エルドは、すぐに匙を取れなかった。
料理するところまでは見られた。
次は食べる。
食べれば、本当に一個なくなる。
「持って帰る?」
ミレイアが尋ねる。
「食べないなら包めますよ」
逃げ道を残されたことで、少しだけ楽になった。
「ここで食う」
エルドは匙を取った。
◇
最初に肉だけを食べると、煮汁にはわずかな甘味と酸味があり、柔らかい鳥肉へ穏やかに絡んでいた。次に蜜杏を一切れ口へ入れると、四年間乾いたまま残っていた果肉は完全に昔の柔らかさへ戻ったわけではなく、少し筋が残っていたものの、噛むと濃くなった甘さが出た後から酸味が広がった。
懐かしい。
けれど、記憶の中の味とは違う。
最後に食べたのはアニエが生きていた頃で、その時の蜜杏はもっと柔らかかった。
「干しすぎだったな」
エルドが言った。
「これ?」
「最後の年。俺が干したから」
「奥さんに言われたんですよね」
「ああ」
少し笑った。
そのことに、自分で驚いた。
もう一口食べる。
するとアニエの顔が浮かんだ。
病気で痩せていた最後の頃の顔ではなく、椅子へ座って種を抜きながら、「来年は私がやる」と言った時の顔だった。
食べれば思い出が消えると思っていた。
ところが実際には、味をきっかけに、袋を眺めているだけでは出てこなかった細かな記憶が次々に戻ってきた。
蜜が指へつき、アニエが布巾を探していたこと。
種を抜いた果実を一つ落とし、洗えば大丈夫だと言って自分用へ避けたこと。
干し台へ並べる時、向きを揃える必要はないと笑われたこと。
どれも四年間、思い出そうとして思い出していたものではなかった。
エルドは急がず、ゆっくり食べた。
◇
皿が空になり、最後の煮汁まで食べ終えると、蜜杏一つは本当になくなった。
紙包みに戻すことはできない。
胸には確かに寂しさが残った。
それでも、想像していたような大きな空白はなかった。
「どうです?」
悠斗が尋ねた。
「うまかった」
「よかった」
「でも減った」
「はい」
否定しない返事が、エルドにはよかった。
「減って、嫌ですか?」
ミレイアが尋ねる。
「嫌だ」
正直に答えた。
少し考えてから続ける。
「でも、食べてよかったとも思う」
その二つは、どちらか一方だけを選ばなくても両立するらしかった。
「残りも全部食べます?」
「分からん」
「今日決めなくていいんじゃないですか」
「ああ」
以前なら、食べ始めた以上すべて食べなければならないような気がしたかもしれないが、今は一個食べただけで、袋にはまだ残っている。次をいつ食べるかまで、今日決める必要はない。
「一つ聞いていいか」
エルドが悠斗へ言う。
「はい」
「今の作り方、書けるか」
「料理の?」
「ああ。詳しく」
「再現したい?」
エルドは少し迷った。
「分からん。でも、残しておきたい」
今まで残したいと思っていたものと、その意味が少し変わっていた。
◇
悠斗は簡単な手順を書いた。
蜜杏を湯で戻し、戻し汁は捨てず、白肉と根玉葱を焼いた後で加え、蜜杏の一部は煮込み、一部は最後に入れる。塩と香草の量は、蜜杏そのものの甘さを見て変える。
「果実によって違うので、絶対同じ量にはならないです」
「それでいい」
「いいんです?」
「妻も毎年変えてた」
自分で言ってから、また一つ思い出した。
アニエはレシピを固定することより、その年の果実を見る人だった。甘い年は蜜を減らし、酸味が強ければ少し長く置き、乾きすぎたら湯で戻す。
同じ味を作り続けるために、毎年少しずつやり方を変えていた。
家へ戻ったエルドは、いつものように食器棚から蜜杏の袋を出し、十四個あることを数えた。
昨日までは十五個だった。
確かに一個減っている。
それでも袋はまだあり、アニエのことも覚えており、料理の味も残っている。
何もなかったことにはなっていない。
蜜杏を袋へ戻し、棚へ置いた。
◇
翌日、工房へ行くと、ネリオが以前の料理帳を修理していた。
「親方、ここどうします?」
余白の一部が裂けている。
「補紙入れろ」
「書き込みの横ですけど」
「字へかからないよう薄いやつで」
「はい」
ネリオが作業を続ける。
しばらくして、エルドが尋ねた。
「お前、料理するか」
「急に何です?」
「できるか」
「一人暮らしなんで、少しは」
「干した果物食う?」
「ものによります」
「蜜杏」
「好きです」
「そうか」
それ以上は言わなかった。
三日後、エルドは袋から蜜杏を二個出し、一個は自分用、もう一個は工房へ持っていった。
昼休み、湯を沸かして蜜杏を戻していると、ネリオが不思議そうに見る。
「何してるんです?」
「食う」
「親方が?」
「お前も」
「何で俺まで」
「いらないなら食うな」
「食べます」
二人で簡単に切り、パンへ乳酪と一緒に挟んだ。
「うまいですね」
ネリオが言う。
「ああ」
「これ、どこのです?」
エルドは一瞬迷ったが、今度は隠さなかった。
「妻が作った」
「奥さん?」
「亡くなった」
ネリオが黙る。
「悪いです」
「何が」
「知らなくて」
「言ってないからな」
それ以上、特別な空気にはしなかった。
ネリオはパンを食べながら言う。
「これ、結構硬いですね」
「干しすぎ」
「失敗?」
「妻にはそう言われた」
「でも美味しいです」
「ああ」
エルドは、自分以外の人間が最後の蜜杏を食べていることを見た。
以前なら耐えられなかったかもしれない。
今も少し惜しい。
アニエと面識のない人間へ渡してよかったのかという感情も出てくる。
それでも、ネリオが普通に美味しいと言って食べる姿を見ていると、奇妙な安心があった。
蜜杏は、記念品である前に食べ物でもあった。
アニエが作った時も、誰かが食べるために作ったものだった。
◇
その週末、エルドはアニエの姉の家へ布袋ごと持っていった。
姉は袋を見るなり驚いた。
「まだ残ってたの」
「十二個」
「数えてるの?」
「減ったからな」
「食べた?」
「ああ」
姉の顔が少し柔らかくなった。
「どうだった?」
「硬かった」
「アニエ言ってたもんね。エルドに任せたら干しすぎたって」
「知ってたのか」
「手紙に書いてた」
「何だそれ」
「食べ物の話ばっかり書く人だったから」
二人で笑った。
エルドは蜜杏を二個皿へ出した。
「食うか」
「いいの?」
「ああ」
「最後なんでしょう」
「まだある」
「前は一個もくれなかったのに」
「今も惜しい」
正直に言うと、姉は笑った。
「じゃあ半分こする?」
「一個ずつでいい」
湯で少し戻して食べる。
姉は一口噛んだ後、しばらく黙っていた。
「懐かしい」
「ああ」
「これ、アニエの味だ」
「最後の年は俺が干した」
「なら二人の味だね」
その言葉に、エルドはすぐには返事をしなかった。
以前なら「作ったのはアニエだ」と言ったかもしれない。
今は、果実を洗ったのが自分で、種を抜いたのがアニエで、蜜へくぐらせたのは二人、干したのは自分、そして文句を言ったのがアニエだったことを思い出した。
確かに、二人で作ったものだった。
◇
姉が言った。
「今年も作れば?」
エルドは眉を寄せた。
「同じにはならん」
「同じじゃなくていいじゃない」
「簡単に言うな」
「アニエだって毎年同じじゃなかったでしょう」
持ち込み食堂で思い出したことと同じだった。
「一人でやるのか」
「私手伝うよ」
「お前、干し方分かるか」
「アニエから聞いてた」
「俺より?」
「たぶん」
「腹立つな」
姉は声を上げて笑った。
その年の蜜杏の季節、エルドは本当に市場へ行った。
果実売りの前で立ち止まると、四年前まではアニエと一緒に、甘いもの、まだ少し固いもの、傷の少ないもの、乾燥用なら熟しすぎていないものを見比べていたことを思い出す。
「どれにする?」
姉が尋ねる。
「これ」
「小さくない?」
「乾かすならこっちの方が均一だ」
「詳しいじゃない」
「毎年やってた」
籠一つ分だけ買った。
昔の半分ほどの量だった。
◇
家で果実を洗い、包丁を入れ、種を抜く。
最初の一個を割った時、胸が痛んだ。
アニエがいないという事実が、作業を始めることで改めてはっきり見えたからだった。
「やめる?」
姉が尋ねる。
「いや」
エルドは続けた。
蜜へくぐらせ、干し台へ並べる。
「向き揃えなくていいよ」
姉が言う。
エルドは手を止めた。
「何でそれ知ってる」
「アニエから聞いた」
「何でも喋ってるな」
「夫の愚痴は姉に話すものでしょう」
「愚痴なのか」
「愛情のある愚痴」
「余計腹立つ」
それでも笑った。
二日目の昼、干し台を見に行くと、蜜杏は少し縮んでいた。
四年前と同じ失敗をしないよう、夕方を待たず一部を取り込み、残りはもう少しだけ乾かした。三日目には全部を屋内へ入れ、一つ食べてみる。
柔らかい。
四年前のものより、ずっと柔らかかった。
「どう?」
姉が尋ねる。
「違う」
「何と?」
「最後の袋」
「当たり前でしょう。今年のだもの」
「そうだな」
同じではなかった。
それでよかった。
◇
新しい蜜杏は新しい布袋へ入れ、古い袋とは別にした。
食器棚には二つの袋が並んだ。
一つには四年前の蜜杏が残り九個、もう一つには今年作った柔らかな蜜杏が入っている。
以前のエルドなら、新しいものを作ったら古いものの意味が薄れるように感じたかもしれない。
実際には逆だった。
二つを並べることで、違いがはっきり分かる。
四年前のものは硬い。
今年のものは柔らかい。
四年前にはアニエがいて、今年はいない。
その違いを消す必要はなかった。
新しい蜜杏を工房へ持っていくと、ネリオが一つ食べた。
「前のより柔らかいですね」
「今年は早く取り込んだ」
「成功?」
「たぶん」
「奥さんなら何て言います?」
エルドは少し考えた。
「蜜が濃いって言うかもしれん」
「じゃあ失敗?」
「次減らす」
「また作るんですか?」
「ああ」
自然に答えていた。
来年も作る。
それは、アニエの代わりを作るという意味ではなく、今年の自分が今年の蜜杏を作り、来年になればその年の果実でまた調整するというだけのことだった。
◇
古い蜜杏は、急いで食べ切ることはしなかった。
冬に二つ、春に一つ、アニエの誕生日だった日に一つ食べたが、特別な理由もなく食べたいと思った日に一つ取り出すこともあった。「最後だから大事な日にだけ」と決めてしまえば、今度は食べる日を選ぶこと自体が新しい重荷になりそうだったため、食べたい時に食べることにした。
そうすると、思い出す内容も毎回違った。
料理の話。
仕事の話。
くだらない喧嘩。
雨の日に洗濯物を取り込まなかったこと。
夜中に菓子を食べて、翌朝胃が重いと言っていたこと。
亡くなった人を思い出す時、病気と別れの場面ばかりが浮かんでいた時期を過ぎ、少しずつ普通の暮らしの記憶が戻ってきた。
最後の一個になったのは、最初に《持ち込み食堂》へ行ってから一年以上経った頃だった。
エルドは袋を開き、一個だけ残った蜜杏を見た。
これを食べれば、本当に袋は空になる。
四年前に最も恐れていた瞬間が来た。
すぐには食べなかったが、以前のように何年も残すつもりもなかった。一週間、二週間と棚へ置いた後、ある休日の朝に取り出した。
特別な記念日ではない。
アニエの誕生日でも命日でもなく、雨が降っているわけでもない、工房を開けないだけの普通の朝だった。
エルドは最後の蜜杏を湯で戻し、少し柔らかくなったところで半分に切り、一人分の朝食のパンへ乗せて乳酪と一緒に食べた。
◇
食べ終えた後、布袋は本当に空になった。
エルドは袋の底を見た。
蜜杏はない。
甘い匂いだけが少し残っている。
胸は痛んだ。
四年前に想像した通り、食べてしまえば二度と同じ蜜杏を見ることはできない。
それでも、アニエの顔が消えることはなかった。
干し台の向きを揃えすぎだと笑われたことも覚えているし、病気になる前、《蜜枝屋》から帰ってきたアニエが失敗した焼き菓子を自分へ押しつけたことも思い出せる。持ち込み食堂で食べた煮込みの味も、姉と一緒に新しい蜜杏を作った日も、新しい記憶としてすでに加わっている。
最後の一袋が空になったからといって、その前後にあった時間まで空になるわけではなかった。
エルドは空の布袋を捨てなかった。
それくらいは残してもよいと思った。
ただし、以前のように食器棚の一番上へ特別なものとして置くのではなく、洗って乾かし、工房へ持っていった。
ネリオが尋ねる。
「何です、その袋」
「蜜杏入ってた」
「最後の?」
「ああ」
「残すんですか?」
「使う」
「何に?」
エルドは修復用の細い革紐を入れた。
「袋は袋だ」
ネリオが笑う。
「親方らしい」
「どういう意味だ」
「使えるもの捨てない」
「仕事しろ」
それで話は終わった。
◇
その年の初夏、エルドは新しい蜜杏を一袋持って、久しぶりに《持ち込み食堂》へ行った。
今年のものは自分で作り、前年より蜜を少し薄くし、乾燥時間も短くした。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが気づく。
「あ、蜜杏の人」
「覚えてたか」
「覚えてます。今日は新しいの?」
「ああ」
悠斗も出てくる。
「柔らかそうですね」
「今年作った」
「自分で?」
「姉に少し手伝わせた」
「最後の袋は?」
エルドは少しだけ間を置いた。
「食べた」
「全部?」
「ああ」
ミレイアは余計なことを言わず、ただ頷いた。
「今日は何にします?」
悠斗が尋ねる。
エルドは新しい蜜杏を一つ出した。
「前の肉のやつ」
「同じ料理?」
「似たやつでいい」
「今年の蜜杏、柔らかさ違うので味も変わると思います」
「分かってる」
「じゃあ調整します」
「任せる」
悠斗が調理を始める。
今年の蜜杏は戻す必要がほとんどなく、細く切るとすぐに果汁が出た。
「甘さ強いですね」
「蜜減らしたのに?」
「果実自体が去年より甘いのかも」
「なら塩少し強くしてもいい」
「そうします」
同じ料理にはならなかった。
当然だった。
出来上がった《白肉と蜜杏の軽い煮込み》は、最初に食べた時より明るい甘味があり、果肉も柔らかかった。
「どうです?」
悠斗が尋ねる。
エルドは一口食べた。
「違うな」
「前の方がいい?」
以前なら比べたかもしれない。
今は、少し考えるだけで答えられた。
「比べるものじゃない」
四年前の蜜杏はもうなく、今年の蜜杏は今ここにあり、同じ料理名でも味は違う。
それでよかった。
◇
食べ終えた後、エルドは工房へ戻った。
午後には、古い日記帳の修復が待っていた。
依頼主は、高齢の母親が若い頃につけていた日記を、娘が読める状態へしてほしいと言っていた。頁の端は傷み、何枚かは欠け、インクも薄くなっているため、完全な状態へ戻すことはできない。
それでも残っている文字は読める。
エルドは一枚ずつ補強し、消えた部分を想像で書き足すことはせず、なくなった頁はなくなったまま記録し、残っているものだけをこれから先も読めるように整えた。
その仕事をしながら、自分が四年前から蜜杏へ求めていたことが、ようやく分かった気がした。
残すことと、止めることを、同じにしていたのである。
アニエがいた時間は終わっている。
そこだけは、どれだけ何かを保存しても変わらない。
けれど、終わった時間をなかったことにする必要もなく、蜜杏を食べても、新しい蜜杏を作っても、違う料理へ変えても、覚えているものは残り続ける。忘れてしまうことがあったとしても、何かの味や言葉をきっかけに、また思い出すこともある。
すべてを形のまま保存できなくても、その人と暮らした時間まで失われるわけではなかった。
工房の壁際には、修復用の細い革紐を入れた古い布袋が掛かっている。以前は最後の蜜杏を守っていた袋だが、今では毎日の仕事で使われ、ネリオが勝手に紐を取ることもある。
それを見るたび、エルドは時々アニエを思い出す。
毎回ではない。
それでよかった。
思い出すためだけに生活しているわけではなく、忘れないためだけに物を残しているわけでもないからである。
初夏の夕方、仕事を終えたエルドは、新しく作った蜜杏を一つ口へ入れてから《青糸舎》の戸を閉めた。今年の果実は柔らかく、四年前のものとは甘さも香りも違っていたが、その違いを失敗とは思わず、新しい季節にできた新しい味として受け入れられるようになっていた。
最後の一袋を空にした今も、アニエと作った年のことは彼の中に残っており、その記憶を守るために食べ物の時間まで止める必要はもうない。残したいものへ手を触れず閉じ込め続けるのではなく、ときには使い、食べ、形を変えながら、それでも失われなかったものを抱えて次の季節へ進むことができるのだと知ったエルドは、翌年も蜜杏を作るつもりで、帰り道の果実市場をゆっくり通り過ぎていった。
●評価●ブックマーク●アクション●感想待ってます!
読者様が応援してくれると嬉しいです!




