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異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


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66話 色の薄い月豆と、故郷の味を教えない洗濯屋

 マイラ・セーヴァは三十八歳になる人間の女性であり、レーヴェン東区の住宅街にある小さな洗濯屋《白泡亭》を、夫のデニスと二人で切り盛りしていた。肩幅はそれほど広くないものの、毎日のように水を含んだ重い布を持ち上げてきたため腕にはしっかり筋肉がついており、黒に近い濃紺の髪は洗濯槽へ垂れないよう後頭部でまとめている。少し切れ長の焦げ茶色の目には、長年細かな染みや布地の傷みを見分けてきた職人らしい注意深さがあり、預かった衣服へ一度視線を走らせるだけでも、どこから手をつければよいかおおよその見当をつけられた。


 洗濯屋といっても、単に衣服を水へ浸して汚れを落とせばよい仕事ではなく、泥、獣脂、煤、料理油、薬草汁、血、染料など、何が付着したかによって水の温度も洗剤も変えなければならない。羊毛と麻布では扱いが違い、高価な刺繍布へ強い灰汁を使えば色が落ちる一方で、頑丈な作業着へ弱すぎる石鹸を使っても汚れは残るため、マイラは預かった品を一枚ずつ確認してから、夫や二人の手伝いへ洗い方を指示していた。


 レーヴェンで暮らして十五年になり、東区へ《白泡亭》を構えてからも十一年が過ぎている。近所の宿、仕立屋、小さな食堂、独身の兵士、家事へ時間を割けない商人など、常連も十分に増えており、夫はレーヴェン生まれ、十二歳になる娘のリルもこの街で生まれ育っていたため、周囲から見ればマイラはすでに東区の住民であり、本人もその認識に違和感はなかった。


 ただし、家の中で長い間ほとんど口にしなくなった故郷が、彼女にはあった。


 南東の海を越えた先に点在する《セーヴァ諸島》は、暖かい潮流に囲まれた小さな島々が船によって結ばれ、月豆、海藻、魚、香辛料を多く食べる土地である。マイラはそこで二十三歳まで暮らしていたが、娘のリルは母の故郷の言葉をほとんど知らず、島の歌も知らなければ、島で作られる料理も数えるほどしか食べたことがなかった。


 それは材料が手に入らなかったからでも、教える機会がなかったからでもなく、マイラ自身が意識して遠ざけてきた結果だった。


 娘にはレーヴェンの子として育ってほしい。


 自分のように、「よそから来た人間」として見られる苦労をさせたくない。


 そう考え続けて十五年近く経った頃になって、マイラはようやく、自分が娘を守るために遠ざけていたものと、娘自身から奪っていたものとが、本当に同じだったのか分からなくなり始めていた。


          ◇


 セーヴァ諸島は一つの大きな国土がある土地ではなく、大小二十を超える島が海へ散らばり、そのうち人が多く住む七つの島を中心に、漁業、果樹、香辛料、小型船による交易が営まれていた。島ごとに方言の違いはあるものの、互いに通じる《セーヴァ語》を使い、祝い事や葬儀、船出の儀式では独特の歌を歌う習慣も残っている。


 マイラが生まれたのは、その中でも北寄りにある《アルナ島》だった。


 父は小さな帆船を持つ漁師で、母は家の一階を仕事場にしながら、衣類の洗いと繕いを請け負っていた。島は一年を通して暖かく、雨の多い季節には布が乾きにくいため、母は海風の通り道や火床の熱を使い分け、色落ちしやすい染布を陰干ししながら仕事をしていた。


 マイラが洗濯を仕事として覚えたのも母の手伝いからであり、十歳になる前には干した布を取り込み、十三歳頃には簡単な衣服なら一人で洗い、十六歳になると染み抜きまで任されるようになった。島を出たいと思っていたわけではなく、将来は母の仕事を継ぐのだろうと何となく考えていた時期も長かったが、二十一歳の頃、島へレーヴェンの商船が寄港したことで人生が変わった。


 その船員たちの衣服を母の店で預かった際、その中に後に夫となるデニスがいたのである。


 当時のデニスは洗濯屋ではなく、商船の荷役補助をしていた。日に焼けた腕を持つ大柄な青年で、島の言葉をほとんど話せないにもかかわらず、身振りと覚えたばかりの単語だけで店の人間へ話しかける、妙に物怖じしない男だった。


「これ、落ちる?」


 そう言って差し出した上着には、魚油と赤い香辛料の染みが広がっていた。


 マイラがセーヴァ語で母と相談していると、デニスは意味も分からないのに何度も頷いていたため、思わず共通語で声をかけた。


「分かってないでしょう」


「分かってない。でも、何とかしてくれそうなのは分かる」


 結局、その染みは完全には消えなかったものの、かなり薄くなり、デニスは十分だと言って喜んだ。その商船が島を離れるまでの六日間に二人は何度か話し、次に船が来た四か月後、その次の半年後と顔を合わせるうちに関係が深まり、二年後にはマイラがレーヴェンへ渡ることを決めた。


 両親は反対しなかったが、娘が海の向こうへ行くことを寂しがってはいた。特に母は、出発前の数日間、普段なら同じ週には並べないような島料理を毎日食卓へ出し、魚と月豆の煮込み、焼いた海藻を混ぜた薄焼きパン、酸味の強い果実と魚肉を和えた料理、月豆を潰して香辛料と油で焼いた団子などを作った。


 最後の夜には、家族が祝いの日によく食べる《月豆の白煮》が出た。


「向こうでも作れるように、覚えておきなさい」


 母に言われたマイラは、その時は何の迷いもなく笑った。


「忘れるわけないでしょう」


 本当に、忘れるつもりなどなかった。


 料理そのものを忘れることも、自分から作らなくなることも、その頃の彼女には想像できていなかった。


          ◇


 レーヴェンへ来た最初の一年は、想像していたよりずっと大変だった。


 共通語は話せたし、読み書きも最低限でき、デニスの家族もマイラを嫌っていたわけではない。それでも島で暮らしていた時には意識しなかった小さな違いが、毎日のように積み重なった。


 まず気候が違った。


 冬の寒さはセーヴァ諸島で経験したものとは比べものにならず、水仕事をすれば指が痛み、濡れた布を外へ干せない日もある。風の匂いも魚の種類も違い、市場では当たり前に売られていると思っていた月豆や島香草がほとんど手に入らなかった。


 言葉も、話せるだけでは足りなかった。


 マイラの共通語には島の訛りが残っており、自分ではそれほど強いと思っていなくても、初対面の人間にはすぐ分かった。


「南の人?」


「島から来たの?」


「言葉が少し面白いね」


 多くは悪意のない質問だったが、同じことを繰り返し聞かれるうち、自分だけがどこか別の場所に立っているような感覚が残った。洗濯屋で働き始めた頃には、さらに露骨な言葉を向けられたこともあり、「島の人に、この刺繍布扱えるの?」と不安そうに尋ねられたり、「大陸の石鹸の使い方分かる?」「海の近くなら、全部塩水で洗うんじゃないの?」と笑いながら言われたりした。


 悪意があるのか冗談なのか判断に迷う程度の言葉ほど、返し方にも困った。


 マイラは笑って受け流し、いずれ仕事で黙らせればよいと思った。実際、数年もすれば技術を認められ、そういう言葉は目に見えて減っていったものの、最初の頃に感じた居心地の悪さだけは、簡単には消えなかった。


 デニスと結婚し、娘のリルが生まれた頃、マイラは一つのことを強く考えるようになった。


 この子には、自分と同じことを経験させたくない。


 リルはレーヴェンで生まれ、父親もレーヴェンの人間なのだから、普通にこの街の子として育てればよい。家の中で共通語だけを使い、学校へ入る前から文字を教え、島の訛りが移らないよう気をつければ、「違う子」として見られる理由を増やさずに済む。


 セーヴァ語を覚えさせる必要もないし、わざわざ島料理を食べさせて「変わった家だ」と思われるきっかけを作る必要もない。


 デニスは、最初それを少し不思議に思っていた。


「セーヴァ語、教えないの?」


「必要ないでしょう」


「マイラの親と話す時は?」


「私が訳す」


「島へ行った時は?」


「何度も行けるわけじゃないよ」


「でも覚えてたら便利じゃないか?」


「中途半端に覚える方が混乱するから」


 当時のデニスは、それ以上強く言わず、マイラ自身がそう望むならと受け入れた。


 娘が三歳、四歳と成長するにつれ、マイラは意識して共通語だけを使い、驚いた時や怒った時に反射的に島の言葉が出そうになれば、そのたびに言い直した。島から母の手紙が届けば自分だけで読み、母から「リルへ島の歌を歌ってやって」と書かれていても、結局ほとんど歌わなかった。


 料理も同じだった。


 月豆はレーヴェンでは手に入りにくく、島香草も高く、魚も種類が違うため、最初は「材料がないから」と作らなかった。それがやがて「娘も食べ慣れていないから」に変わり、最後には「別に作らなくても困らない」という理由へ置き換わっていった。


 それでも故郷を嫌いになったわけではなく、父と母へ手紙は送り、数年に一度は船便で島へ帰り、母から送られてくる乾燥香草や豆も捨てずに大切に使っていた。ただ、それらはいつの間にか家族へ渡すものではなく、「自分だけが持っているもの」へ変わっていた。


 家族の食卓へ出すより、一人の昼食で少し使う。


 セーヴァ語の手紙も娘がそばにいない時に読む。


 島の歌も、仕事中に誰もいなければ小さく口ずさむ程度だった。


 リルが七歳になった頃、一度だけ尋ねられたことがある。


「母さん、今の歌なに?」


「昔の歌」


「どこの?」


「島の」


「教えて」


 マイラは、なぜかすぐには教えられなかった。


「難しいよ」


「でも歌いたい」


「学校の歌を覚えればいいでしょう」


 その時、リルが少し残念そうな顔をしたことには気づいていた。


 それでも考えを変えなかったのは、自分は娘を遠ざけているのではなく、守っているのだと信じていたからだった。


          ◇


 娘が十二歳になった年、その考えには初めて大きな亀裂が入った。


 きっかけは学校の課題であり、家族の出身地や、家で続いている習慣について短い文章を書き、教室で発表するというものだった。レーヴェンには他の町や国から移り住んだ家族も多く、父親が北部出身の子、母親が山岳民の子、祖父母が獣人領から来た子など、それぞれの家に残っている違いを地理と生活の授業で扱うらしい。


 リルは夕食の時、楽しそうに母へ尋ねた。


「母さん、セーヴァ諸島のこと教えて」


 マイラの手が止まった。


「何を?」


「何でもいいんだけど、家で食べるものとか、お祭りとか、言葉とか」


「本で調べれば?」


「母さんの故郷でしょう」


「昔のことだから、今は変わってるかもしれないよ」


「でも母さんがいた時のことでいいって」


 リルはさらに続けた。


「月豆っていうの食べるんだよね?」


「誰から聞いたの」


「父さん」


 マイラはデニスを見ると、夫は少し気まずそうに目を逸らした。


「前に聞いたことあったから」


「父さん、食べたことあるの?」


「昔、マイラの母さんに食わせてもらった」


「私ないよね?」


 その言葉に、マイラはすぐ答えられなかった。


「小さい時に食べたことあるよ」


「覚えてない」


「三歳くらいだったから」


「じゃあ今度作って」


 リルは何でもないことのように言った。


 マイラは反射的に逃げ道を探した。


「材料ないから」


「買えないの?」


「レーヴェンじゃほとんど売ってないよ」


「じゃあ別の料理教えて」


「学校の課題なら、父さんの家のこと書けばいいでしょう」


 それまで普通に流れていた食卓の会話が止まった。


 リルの表情が少し変わる。


「父さんの家のことは、いつも知ってる」


「だから書きやすいでしょう」


「母さんのこと知りたいんだけど」


 責める響きのない言葉だったからこそ、マイラは返事に困った。


「別に、知らなくても困らないよ」


 結局そう言った。


 リルはしばらく黙って夕食を続け、その後は学校の課題について何も話さなかった。


 夜、娘が寝た後でデニスが口を開いた。


「言いすぎじゃないか」


「何が」


「知らなくても困らないって」


「実際困らないでしょう」


「でも知りたいって言ってた」


「子どもだから珍しいだけだよ」


「それでもいいだろ」


「あなたには分からない」


 思っていたより強い声が出た。


 デニスはすぐに反論せず、マイラの言葉を待った。


「あなたは、この街で生まれたから分からない。言葉が違うって笑われるのも、食べ物の匂いで変な顔されるのも、出身地だけで何も知らないって決められるのも経験してない」


「マイラが嫌な思いしたのは知ってる」


「聞いたのと、自分でされたのは違うよ」


「それはそうだ」


「リルに同じことさせたくない」


 デニスはしばらく考えてから、静かに返した。


「でも、リルはマイラじゃない」


 マイラは夫を見る。


「何が言いたいの」


「同じことになるって決まってないだろ」


「子どもは残酷だよ」


「それも知ってる。でも、だから何も教えないのか?」


「必要ないものまで背負わせなくていい」


「背負わせるって、料理一つ教えることが?」


 その言葉に腹が立った。


「簡単に言わないで」


「簡単だと思ってない。でも、リルが知りたいって言ってることまで止めるのは違うんじゃないか」


 その夜は、それ以上話せなかった。


          ◇


 数日後、島から荷物が届いた。


 年に一、二度、母が送ってくる小さな木箱であり、中には乾燥海藻、島香草、甘い果実の砂糖漬け、手紙のほか、布袋に入った《月豆》があった。


 月豆は爪ほどの大きさをした丸い豆で、普通は淡い青白色の表面へ、月光のような銀色の斑点が入る。乾燥させるとかなり硬くなるが、水へ一晩浸してから煮れば皮まで柔らかくなり、穏やかな甘味と少し粉質のある食感が出るため、島では魚と煮たり、潰して焼いたり、香草と和えたりと、日常的によく使われる食材だった。


 祝いの日には、乳に似た椰子の汁で白く煮る。


 マイラにとっては、子どもの頃から馴染んだ味だった。


 ところが今回送られてきた月豆は、普段のものより色が薄く、銀色の斑点も弱い。袋の中には少し小さい豆も多かったため、手紙を確認すると理由が書かれていた。


『今年は雨が多すぎて、月豆の出来があまりよくありません。色も薄く、いつものようには売れないものが多く出ました。家で食べる分から少し送ります。味は悪くありません。リルにも食べさせてやってください。』


 最後の一文を見たところで、マイラの手が止まった。


 ちょうどその時、リルが学校から戻ってきた。


「何届いたの?」


「島から」


「お婆ちゃん?」


「そう」


 リルが箱を覗き込む。


「あ、これが月豆?」


 マイラは驚いた。


「何で分かるの」


「父さんに絵描いてもらった」


 仕事場の奥からデニスが顔を出した。


「名前だけだぞ」


「これ食べられる?」


 リルは袋を見ている。


「食べられるよ」


「作って」


 また同じ言葉だった。


 今回は材料がないとは言えない。


「今日は仕事あるから」


「明日は?」


「豆は水に浸けないといけない」


「じゃあ今日浸ければいいじゃん」


 子どもの正論は逃げ道をきれいに塞いだ。


 マイラは少し黙った後、それでも「今度ね」と答えた。


 リルの顔から期待が消える。


「また今度?」


 それだけ言って、娘は自分の部屋へ向かった。


          ◇


 その日の仕事は、いつもより手につかなかった。


 白いシャツについた油染みを落としながらも、頭の中には月豆の袋が残り続けている。


 なぜ、自分はここまで嫌なのだろう。


 料理を一つ作り、娘に食べさせ、島の話を少しするだけである。それなのに、胸の奥では何かを開けてはいけないような抵抗が続いていた。


 理由そのものは分かっている。


 娘に「違う側」へ行ってほしくないのだ。


 レーヴェンで育ち、レーヴェンの言葉を話し、周囲と同じように暮らしてほしい。


 けれど、リルはすでにこの街の子であり、学校へ通い、友達もいて、共通語以外の訛りもない。島料理を一つ食べたからといって、明日から急に別の人間になるわけではないことくらい、頭では理解していた。


 それでも、身体のどこかが拒んでいた。


 夕方、洗濯物を受け取りに来た常連の仕立屋が、作業台の端へ置いてあった月豆の袋を見つけた。


「珍しい豆ね」


「故郷から送られてきたの」


「セーヴァ諸島だっけ?」


「そう」


「食べたことないわ。どうやって食べるの?」


 マイラは説明しかけた。


 母がよく作った白煮。


 魚との煮込み。


 潰して焼く団子。


 いくつもすぐに思い浮かんだのに、口から出たのは簡単な答えだけだった。


「色々あるよ」


「いいなあ。故郷の料理があるって。うちは三代レーヴェンだから、そういうのないのよ」


 仕立屋は何気なく言っただけだったが、マイラは少し驚いた。


 自分が隠そうとしているものを、羨ましいと言う人間もいる。


 もちろん誰もがそうではないとしても、故郷の料理を知っていること自体が、必ずしも重荷になるわけではないのかもしれなかった。


 翌朝、マイラは月豆を少量だけ水へ浸した。


 家族のためではなく、自分で状態を見るためなのだと、わざわざ自分へ言い訳しながら。


 昼になると豆は少し膨らんだものの、昔島で使っていたものより皮が硬そうで、色の薄さも気になった。煮れば食べられるだろうし、母も味は悪くないと書いている。


 それでも、せっかく娘へ初めてまともに食べさせるなら、昔と同じ味にしたいという気持ちが出てきた。


 十五年近く作っていない料理である。


 島の椰子乳はない。


 香草も送られてきた分しかなく、魚も違う。


 失敗したくないと思えば思うほど、また作れなくなった。


 その様子を見ていたデニスが言った。


「持ち込み食堂へ持っていけば?」


「何で」


「前に商船仲間から聞いた。食材持ってくと料理してくれる店」


「人に島料理作らせるの?」


「島料理じゃなくてもいいだろ。月豆がどうなるか見たいんじゃないのか」


 マイラはしばらく考えた。


 自分で作るより、誰かに一度扱ってもらう方が気が楽かもしれない。


 その日の午後、仕事が一段落したところで、水へ浸した月豆と乾燥したままの豆を少量ずつ持ち、《持ち込み食堂》へ向かった。


          ◇


 西区の店へ入り、ミレイアへ布袋を見せると、彼女は中を覗き込みながら尋ねた。


「いらっしゃいませ。今日はお豆ですか?」


「《月豆》っていうの。本当は表面に銀色の模様が出るんだけど、今年のは色が薄い」


 悠斗も厨房から出てきた。


「乾燥豆ですね」


「こっちは今朝から水に浸してる」


「状態見てもいいですか?」


「お願いします」


 悠斗は浸した豆を指で押し、匂いも確認した。


「悪くなってはいないですね。普通の豆より皮が少ししっかりしてる感じがあります」


「今年は雨が多かったらしい」


「普段はどう食べます?」


 マイラは答えかけて、また言葉を止めた。


「色々」


 先ほど仕立屋へ答えた時と同じだった。


 ミレイアが少し首を傾げる。


「好きな食べ方あります?」


「昔は白煮が好きだった」


「どんな料理?」


「月豆を柔らかく煮て、椰子の実から取る白い汁と、島香草を少し入れるの。祝いの日にも作る」


「今日はそれにします?」


「材料が違うから、同じにはならない」


「同じじゃないと駄目?」


 その問いに、マイラはすぐには答えられなかった。


 しばらく迷ってから、自分でも予定していなかったことを話し始めた。


「娘に食べさせたいの」


 ミレイアが笑う。


「じゃあ娘さんが好きそうなのにする?」


「それが分からない」


「何歳?」


「十二」


「普段は何食べる?」


「普通のもの。パン、肉煮込み、豆のスープ、焼き魚」


「豆は嫌いじゃない?」


「普通に食べる」


「なら大丈夫そうですね」


 そこから、マイラは少しずつ事情を話した。


 自分が島から来たこと、娘へセーヴァ語を教えていないこと、島料理もほとんど食べさせていないこと、学校の課題で故郷について聞かれたのに、教えなかったこと。


「何で教えないんです?」


 ミレイアが尋ねる。


「困らないから」


「何に?」


「知らなくても、この街で生活できる」


「知ったら困る?」


 その質問にすぐ答えられないことが、自分でも苦しかった。


「私は、こっちへ来た時に嫌なこともあった」


 マイラは、訛りを面白がられたことや、島の人間だから大陸の布を扱えないのではないかと言われたこと、食べ物や暮らしを勝手に想像されて笑われたことを話した。


「だから娘には、普通にレーヴェンの子でいてほしかった」


「今、普通じゃないんですか?」


「そういう意味じゃなくて」


「レーヴェンの子じゃない?」


「レーヴェンの子だよ」


「じゃあ月豆食べたら変わる?」


 ミレイアの問い方は責めるものではなく、本当に分からないから聞いているようだった。


「変わらないと思う」


「セーヴァ語を一つ覚えたら?」


「それも変わらない」


「じゃあ、何が怖いんです?」


 少し黙ってから、マイラはようやく言えた。


「私みたいに見られること」


          ◇


 悠斗は月豆を鍋へ入れながら話を聞いていた。


「娘さん、島のこと知りたがってるんですよね」


「学校の課題があるから」


「それだけ?」


「前にも歌を教えてって言われたことある」


「じゃあ前から興味あったんですね」


 マイラは返事をしなかった。


「マイラさんは、自分の親のこと知りたくなかった?」


「どういう意味?」


「お母さんやお父さんが、どんな子どもだったとか、何食べて育ったとか」


 思いがけない質問だった。


 マイラは少し考えた。


 自分は知っている。


 母が若い頃、祖母と同じ洗濯仕事を嫌がって港の食堂で働いたことも、父が十四歳の時に初めて一人で小船を出し、嵐に遭って泣きながら戻ったことも、祖父が作る魚の燻製が塩辛すぎたことも、家族から何度も聞いてきた。


 そういう話を知ったからといって、自分が母や父と同じ人生になったわけではない。


「知りたかった」


 マイラは答えた。


「じゃあ娘さんも、そんな感じかもしれないですね」


 悠斗はそれ以上言わず、鍋へ目を戻した。


 月豆は思っていたより時間がかかり、普通なら柔らかくなっている頃でも、まだ中心に少し硬さが残っていた。


「今年の出来のせいかな」


 マイラが言う。


「もう少し煮ます」


「強火にしない方がいい。皮が破れて中だけ崩れるから」


「じゃあ弱めで」


 自然に口を出していた。


 悠斗は、島の椰子乳の代わりに牛乳へ似た乳を使うことを提案した。


「味は違う」


「かなり?」


「椰子乳の方が甘いし、香りがある」


「なら、同じ料理を再現するんじゃなくて、この豆に合うものにした方がいいですかね」


 マイラは少し迷った。


「娘に最初に食べさせるなら、本物の味の方がいい気がする」


「本物って、島と同じ材料で作ったもの?」


「そう」


「今ここでは難しいですね」


「分かってる」


「じゃあ、食べさせない?」


 その問いが、妙に胸へ刺さった。


 完璧な島料理が作れないから、何も食べさせない。


 正しいセーヴァ語を全部教えられないから、一言も教えない。


 島で暮らした経験をそのまま渡せないから、話さない。


 自分はずっと、同じことを繰り返していたのかもしれない。


「中途半端なのが嫌なんだと思う」


 マイラはゆっくり言った。


「何が?」


「娘に教えるなら、ちゃんとしたものを教えたい。でもこっちに住んでると、島と同じにはできない」


「じゃあ、マイラさんが今ここで食べてる島の味は、偽物なんですか?」


 ミレイアが尋ねた。


「そんなことはないよ」


「材料違っても、自分で作って食べることあるんですよね?」


「ある」


「それは島料理じゃない?」


「……島料理だと思ってる」


「じゃあ娘さんの分も、それでいいんじゃないですか?」


 簡単な言葉だった。


 それでも、自分の中で長い間分けていたものが少し動いた。


          ◇


 悠斗は月豆の一部を柔らかく煮た後、半分をそのまま残し、残りを粗く潰した。


「二つ作ります」


「二つ?」


「どっちが娘さんに合うか分からないので」


 一つは、月豆を乳、根玉葱、少量の塩で煮た《月豆の乳煮》であり、島の白煮をそのまま再現するのではなく、レーヴェンで手に入る材料に合わせた料理だった。もう一つは、粗く潰した月豆へ刻んだ根菜と少量の香草を混ぜ、小さく丸めて鉄板で焼いた《月豆の香草焼き》で、表面へ軽く焼き色をつけ、中は柔らかく仕上げていた。


「こんなの島にはない」


 焼き上がったものを見て、マイラが言う。


「似た料理は?」


「豆を潰して揚げるのはある。でも根菜は入れない」


「じゃあ完全に別ですね」


「うん」


「嫌です?」


 マイラは一つ食べた。


 月豆そのものの甘味は弱いが、焼いたことで香ばしさが出ており、根菜の甘さともよく合う。島香草を少量入れたため、鼻へ抜ける香りだけは懐かしかった。


「嫌じゃない」


「娘さんにも?」


「たぶん食べると思う」


 もう一つ食べた。


 次に乳煮を口へ運ぶと、島で母が作っていたものとは違い、椰子乳の甘い香りはないものの、牛乳に似た乳の穏やかなこくが色の薄い月豆の風味を消さずに包んでいた。


「母さんのとは違う」


「美味しくない?」


「美味しいよ」


「なら、違っても食べられますね」


「簡単に言うね」


「料理なので」


 悠斗が答える。


 マイラは少し笑った。


          ◇


「娘さんに、何を残したいんです?」


 ミレイアが尋ねた。


「残したくないと思ってた」


「今も?」


 マイラはすぐには答えなかった。


 自分は島の文化を娘へ押しつけたくないと思っていたが、実際には押しつける以前のところですべて止めていた。選べるようにするのではなく、選択肢そのものを見せていなかったのである。


 リルは島に住む必要もなければ、セーヴァ語を流暢に話す必要もなく、島料理を好きになる必要もない。


 それでも、「知りたい」と言った時に知ることまで止める理由にはならないのではないか。


「選べるくらいには、知っててもいいのかもしれない」


 マイラはゆっくり言った。


「好きになるかどうかは娘が決めればいいし、覚えたくなければそれでもいい。でも、私が最初から何も見せないのは違ったのかも」


 口にしてみると、長い間守ってきた考えが少しだけ軽くなった。


 食事を終える頃、悠斗は乾燥した月豆の戻し方についても確認しており、今年の豆は皮が硬いため、普段より長めに水へ浸し、煮る前に一度湯を替えた方がよさそうだと説明した。


「家で作るなら、今夜から浸ければ明日の夕方には使えると思います」


「白煮?」


「それでもいいし、今日の焼き団子でも」


「両方作るかも」


「娘さんと?」


 マイラは少し迷ってから頷いた。


「一緒にやらせてみる」


「料理できる?」


「簡単なのは」


「なら豆潰すところお願いできますね」


 ミレイアが笑う。


「学校の課題にも使えそう」


「それは本人が決めるよ」


 今度は、自然にそう言えた。


          ◇


 家へ帰る途中、マイラは娘へ何を言うか何度も考えた。


 謝るべきか。


 月豆を作ろうと言えばよいのか。


 島の話を全部しようとすると、自分がまた身構えてしまう気がする。


 結局、言葉を用意しすぎないことにした。


 夕方、《白泡亭》へ戻ると、リルは学校の宿題をしていた。


「リル」


「なに?」


「月豆、明日作る?」


 娘が顔を上げる。


「本当に?」


「うん」


「母さん作るの?」


「一緒にやる?」


 リルの表情が一気に明るくなった。


「やる」


「豆、水に浸けるところからだから、今日はそれだけ」


「今やる」


 椅子から立ち上がりかける。


「宿題終わってから」


「分かった」


 その勢いに、マイラは少し笑った。


 夜、二人で豆を選り分けた。


 色の薄いもの、小さなもの、少し欠けているものを見ながら、リルが次々に尋ねる。


「本当はもっと青いの?」


「青白い感じ。銀色の模様がもっと出る」


「何で月豆っていうの?」


「満月の夜に見ると、豆の模様が光って見えるって言われてるから」


「本当に光る?」


「そこまでじゃないよ。昔の人がそう言っただけ」


「母さん、子どもの頃信じてた?」


「信じてた」


「何歳まで?」


「……十歳くらい」


「長い」


「うるさい」


 笑いながら話した。


 こんな会話を、自分は何年も避けていた。


 やがてリルが一粒を手にしながら尋ねた。


「セーヴァ語で月豆って何て言うの?」


 マイラの手が一瞬止まる。


 以前なら、「覚えなくていい」と言ったかもしれない。


「《ミア・ラウ》」


「ミア、ラウ?」


「ミア・ラウ。最初を少し短く」


「ミャラウ?」


「違う」


「難しい」


「だから言ったでしょう」


「もう一回」


 何度か繰り返す。


 完璧ではなく、島の子が聞けば笑うかもしれない発音でも、マイラはきちんと直した。


「そう、それなら通じる」


「やった。他は?」


「今日は一個」


「何で」


「私が疲れる」


「母さんが?」


「教える方が難しいの」


 デニスが横で笑っていた。


          ◇


 翌日の夕方、戻した月豆を家族で煮た。


 最初は持ち込み食堂で食べた乳煮に近いものを作るつもりだったが、送られてきた島香草を少しだけ多めに入れた。昔からマイラが好んでいた量だった。


「この匂い、変わってる」


 リルが鍋を覗く。


「嫌?」


「まだ分からない」


「嫌なら入れない方も作るよ」


「一回食べてから決める」


 その言い方に、マイラは少し驚いた。


 自分が長い間できなかったことを、娘は何でもないことのように言う。


 知らないから試す。


 嫌なら次に変える。


 本当は、それだけの話だったのかもしれない。


 月豆の乳煮が完成すると、家族三人で食卓を囲んだ。


 リルは最初の一口を慎重に噛んでいる。


「どう?」


 マイラがすぐ聞く。


「まだ食べてる」


「分かってる」


 もう一口食べた後、リルは少し考えた。


「豆は好き」


「香草は?」


「ちょっと変な匂い」


 一瞬だけ胸が縮んだ。


 やはり好まないのかと考えかけたところで、リルが続けた。


「でも嫌いじゃない。もう少し少なくてもいいかも」


「じゃあ次減らそうか」


「島ではこれくらい?」


「家によるよ。お婆ちゃんはもっと入れる」


「じゃあお婆ちゃんのは、たぶん匂い強いね」


「強いよ」


 笑いながら答えられた。


 次に、月豆を潰して香草焼きを作った。


 リルが木べらで豆を潰しながら尋ねる。


「全部潰すの?」


「少し形残す」


「何で?」


「その方が豆の食感が残るから」


「店で教わった?」


「そう」


「母さんが考えたんじゃないんだ」


「人から教わった料理も作るよ」


「島の料理じゃない?」


「島の豆を使った、レーヴェンで教わった料理」


「じゃあどっちの料理?」


 マイラは少し考えた。


「どっちでもいいんじゃない?」


 以前の自分なら、きちんと分類できる答えを探そうとしたかもしれないが、今はそれほど重要には感じなかった。


          ◇


 焼き上がった月豆の香草焼きは、リルには乳煮より好評だった。


「こっち好き」


「香草入ってるよ」


「焼くと匂い違う」


「そうだね」


「学校に持っていける?」


「冷めたら硬くなるかも」


「じゃあ明日試す」


「課題に使うの?」


「分かんない。でも友達に食べてもらいたい」


 その言葉に、マイラの手が止まった。


「友達に?」


「うん」


「島の豆だって言うの?」


「そうだけど」


 胸の奥から、昔の不安がすぐ戻ってくる。


 変だと言われたら。


 匂いを嫌がられたら。


 島のことを面白がられたら。


「別に持っていかなくても――」


 言いかけたところで、リルが母を見る。


 マイラはそこで止めた。


「……持っていくなら、朝焼き直そう」


「いいの?」


「ただし、食べたくない子に無理に勧めないこと」


「分かってる」


「香草も少し減らそうか」


「今のままでいい」


「本当に?」


「私これ好きだよ」


 その一言で、マイラは何も言えなくなった。


 娘が好きだと言っているものを、自分が怖いからという理由だけで隠させるのは違う。


「分かった」


 今度は、止めなかった。


          ◇


 翌日、リルは月豆の香草焼きを三つだけ学校へ持っていった。


 マイラは朝から落ち着かず、洗濯槽へ布を入れながらも、娘が帰ってくる時間が気になっていた。


 夕方、戸が開く。


「ただいま」


「おかえり」


 いつも通りの声だった。


「どうだった?」


「何が?」


「豆」


「ああ」


 リルは鞄を置きながら答えた。


「ミナは好きって。ロエルは匂い苦手だって。先生は食べてない」


「それだけ?」


「それだけ」


「何か言われなかった?」


「島の食べ物初めてって言われた」


「変だとか」


「ロエルが『豆に香草入れるの変』って言った」


 マイラの胸が固くなる。


「それで?」


「ロエルの家、豆に蜂蜜入れるから、それも変だって言った」


「言い返したの?」


「変なのはお互いだからいいじゃんって」


 リルは普通の顔で答えた。


 マイラは、その場で何も言えなかった。


 自分が何年も恐れていたことが、ほんの少しだけ起きている。


 変だと言われた。


 匂いが苦手だとも言われた。


 それでもリルは傷ついて帰ってきたわけではなかった。


「嫌じゃなかった?」


「何が?」


「変って言われたの」


「だってロエルの家も変だし」


「そういう意味じゃなくて」


 リルは少し考えた。


「別に。食べ物なんて家で違うでしょう」


 あまりにも簡単な答えだった。


 もちろん、この先もっと嫌なことを言われる可能性はあり、子ども同士の言葉がいつも軽く終わるとは限らない。それでも、その可能性があるから何も教えないという自分のやり方が、唯一の守り方ではなかったのだと、少しずつ認めざるを得なかった。


          ◇


 学校の課題には、リルは月豆のことを書いた。


 それだけではなく、セーヴァ諸島では島ごとに少し言葉が違うこと、祖母が洗濯の仕事をしていること、月豆には銀色の模様があること、そして母が昔、満月の夜に豆が光ると信じていたことまで書いた。


 最後の一文についてだけは、マイラが「書かなくていい」と言った。


「何で」


「恥ずかしいから」


「家の習慣じゃなくて母さんの話だから?」


「そう」


「でも面白い」


「消して」


「やだ」


 結局、そのまま提出された。


 発表の日、リルは帰宅すると楽しそうに話した。


「先生、月豆見てみたいって」


「本物?」


「うん」


「乾燥したのでいいなら、少し持っていけば」


「いいの?」


「食べさせるなら、先生に確認してからね」


「分かった」


 自分からそう言えたことに、マイラ自身が一番驚いていた。


 その後も、急に家の中がセーヴァ諸島一色になったわけではない。


 マイラは相変わらず共通語を使い、リルも学校ではレーヴェンの子として過ごし、夕食のほとんどはこれまで通り街で一般的な料理だった。ただ、週に一度か二度、島の食材が食卓へ出るようになった。


 送られてきた乾燥海藻をスープへ入れる。


 島香草を魚へ使う。


 砂糖漬けの果実を薄く切り、パンへ添える。


 全部がリルの好みに合うわけではなかった。


「これは苦い」


「私も子どもの頃嫌いだった」


「じゃあ何で出したの」


「今は好きだから」


「私はいらない」


「分かった」


 嫌いと言われても、以前ほど傷つかなくなった。


 知ったうえで嫌うことと、知らないまま遠ざけることは違う。


          ◇


 セーヴァ語についても、一度に教えることはせず、食事の名前や挨拶、「美味しい」「熱い」「もう一つ」といった、日常で使いやすい言葉をリルが聞いた時だけ教えるようにした。


「もう一つって何?」


「《ラニ・セ》」


「ラニセ?」


「間を少し開ける」


「ラニ・セ」


「そう」


 食卓で実際に使ってみる。


「ラニ・セ」


「自分で取って」


「意味通じた」


「通じたからって働かせないで」


 デニスも少しずつ覚え始めたが、発音はリルより悪かった。


「父さん、それ違う」


「同じだろ」


「全然違う」


「マイラ、どっちが正しい?」


「リル」


「何年島へ通ったと思ってる」


「通っただけで覚えてないでしょう」


 家の中へ、以前にはなかった種類の笑いが増えていった。


 数か月後、島から母の手紙が届いた時には、マイラはいつものように一人で読むのではなく、途中で手を止めて娘を呼んだ。


「リル」


「なに?」


「お婆ちゃんから手紙」


「何て?」


「読む?」


「読めない」


「私が訳す」


 二人で食卓へ座った。


 母は、雨の多かった年の月豆がようやくなくなったこと、新しい畑の苗が育っていること、近所の漁師が船を買い替えたことを書いていた。


 最後には、リルへ向けた短い言葉がセーヴァ語で記されていた。


「何て書いてあるの?」


「『いつか島へ来たら、月豆の白煮を一緒に作ろう』」


「行きたい」


 リルはすぐに言った。


 以前なら、簡単に約束できないと先に止めただろう。


「船でかなりかかるよ」


「知ってる」


「夏は暑いし」


「母さんの島でしょう」


「そうだけど」


「いつ行ける?」


 マイラは少し考えた。


「来年は無理かもしれない。でも、再来年くらいなら考えようか」


「絶対?」


「絶対は言わない。店の仕事もあるから」


「じゃあ考える?」


「考える」


 それで十分だった。


          ◇


 月豆の出来が悪かった年から一年ほど過ぎた頃、マイラは再び《持ち込み食堂》を訪れた。


 今度は一人ではなく、娘のリルも一緒だった。


 布袋には、新しく島から届いた月豆が入っている。


 前年のものとは違い、表面には淡い青白さが戻り、銀色の斑点もはっきりしていた。


「いらっしゃいませ」


 ミレイアが二人を見る。


「あ、月豆の」


「娘のリル」


「こんにちは」


 リルが頭を下げる。


「この店で最初に月豆作ったんですよね?」


「そうだよ」


「母さん、最初私に内緒で来たんですよ」


「言わなくていい」


 ミレイアが笑った。


「今日は何を作ります?」


 悠斗が尋ねると、リルが先に答えた。


「去年の焼いたやつ。それと、島の白煮も食べたい」


 マイラを見る。


「二つ?」


「駄目?」


「食べられるならいいよ」


 悠斗が尋ねた。


「白煮はマイラさんが教えてくれます?」


 以前なら、島と同じ材料ではないから無理だと言ったかもしれない。


 今は違った。


「こっちの材料で作るやり方なら」


「お願いします」


 月豆を煮ながら、マイラは娘へ説明した。


「島の白煮は、本当は椰子乳を使う」


「これとは違う?」


「違う。でも前より、こっちの乳で作るのも好きになった」


「じゃあ島で食べたら別の味?」


「かなり違うと思う」


「どっちが本物?」


 以前にも似たような質問をされた。


 マイラは少し考えてから答える。


「島で作るのが元の味。でも、こっちで私が作ってるのも、うちの月豆料理でいいと思う」


「じゃあ二つある?」


「そうだね」


 リルは、それで納得した。


          ◇


 完成した月豆の乳煮と香草焼きを、親子で食べた。


 今年の月豆は前年より柔らかく、豆そのものの甘味も強い。


「去年よりおいしい」


 リルが言う。


「豆が違うからね」


「去年のは駄目な豆だったの?」


「売り物としては色が悪かった。でも味は悪くなかったでしょう」


「うん」


「見た目が違っても、使い方はあった」


「母さん、その話好きだね」


「何が」


「失敗した食材でも料理できるって」


「洗濯屋だから、落ちない染みの使い道はないけどね」


 悠斗が笑った。


 食後、ミレイアがリルへ尋ねる。


「島のこと、もっと知りたい?」


「うん。でも全部は覚えられない」


「母さん厳しい?」


「発音は厳しい」


「間違ってたら通じないから」


 マイラが言う。


「でも私、島に住むわけじゃないよ」


「知ってる」


「大人になったらレーヴェンから出るかもしれない」


「それも好きにすればいい」


「島に住むって言ったら?」


 マイラは一瞬だけ止まったものの、以前のようにすぐ否定はしなかった。


「本当に住みたいと思った時に考えなさい」


「反対しない?」


「島の大変なところは全部教えるよ。嵐もあるし、船が止まれば物が来ないし、仕事もレーヴェンほど多くない」


「それでも住みたいって言ったら?」


「その時のあなたが決めること」


 リルは少し笑った。


「最近それよく言うね」


「便利だから」


          ◇


 マイラは、娘へ故郷を必ず受け継がせようと思ったわけではなかった。


 セーヴァ語を完璧に話せるようにしようとも、島の料理を全部覚えさせようとも、いつか必ず島へ戻ってほしいとも考えていない。それでは、以前とは反対の方向から娘の人生を決めることになる。


 ただ、自分の故郷について知りたいと言われた時には、もう隠さない。


 食べたい料理があれば作り、言葉を聞かれれば教え、島へ行きたいと言えば行ける方法を一緒に考える。


 そのうえで、何を残し、何を使わず、何を好きになるかはリルが決めればよい。


 それが、自分の過去を娘へ押しつけずに渡せる方法なのだと、ようやく考えられるようになっていた。


 その冬、《白泡亭》では一つだけ新しい習慣が増えた。


 仕事を終えた後の夕食で、月に何度か「島の料理の日」を作る。


 とはいっても厳密な決まりはなく、月豆を使う日もあれば、魚へ島香草を振るだけの日もあり、材料がなければ何もしない。リルが食べたくないと言えば普通の料理へ変え、デニスが変なセーヴァ語を使えば、母娘から揃って直される程度の気軽なものだった。


 ある晩、リルが月豆の香草焼きを食べながら言った。


「これ、島に持っていったら変って言われるかな」


「言われるかもね」


「島の料理じゃないもんね」


「でも月豆は島のものだよ」


「じゃあ何て言えばいい?」


 マイラは少し考えた。


「レーヴェンのうちで作ってる月豆料理、でいいんじゃない?」


「長い」


「じゃあ《リル焼き》」


「私作ってない」


「最初に好きって言ったから」


「母さん適当」


 二人で笑った。


          ◇


 春になる頃には、リルは学校で簡単なセーヴァ語の挨拶を友達へ教えることもあった。


 その話を聞いても、マイラは以前ほど不安にならなかった。


「ちゃんと発音教えた?」


「そこ?」


「間違った言葉広めたら、お婆ちゃんに怒られる」


「母さんの方が気にしてるじゃん」


 言われてみれば、その通りだった。


 隠していた頃より、むしろ故郷のことを話す機会は増えた。


 それでも、自分がレーヴェンで築いた生活が薄くなることはなかった。


 朝になれば洗濯屋を開け、近所の人間が来れば共通語で話し、リルは学校へ行き、デニスは配達へ出る。夕方になれば三人で食卓を囲み、そこへ月豆や島の言葉が少し加わっただけで、レーヴェンでの暮らしとセーヴァ諸島の記憶は、どちらか一方を消さなければ成立しないものではなかったのである。


 初夏のある日、島から届いた手紙には、来年の祭りの日付が書かれていた。


 海の安全を願う《白帆祭》は、マイラが子どもの頃、毎年楽しみにしていた祭りであり、島中の小船へ白い布を結び、浜辺で魚と月豆を煮込み、夜には古い歌を歌う。


 リルが手紙を見ながら尋ねた。


「これ、前に言ってた祭り?」


「そう」


「歌うやつ?」


「歌う」


「母さん歌える?」


「当然」


「じゃあ歌って」


 昔なら恥ずかしいと言って逃げたかもしれない。


 マイラは洗濯物を畳む手を止めた。


「今?」


「今」


「長いよ」


「最初だけ」


 マイラは、ほんの短い一節を歌った。


 セーヴァ語の古い船出の歌だった。


 リルがすぐ真似する。


「そこ、《サー》じゃなくて《サァ》」


「同じじゃん」


「違う」


「また発音」


「大事なの」


 デニスまで混ざり、さらに酷い発音で歌ったことで、洗濯屋の奥にはしばらく笑い声が響いた。


          ◇


 十五年前、レーヴェンへ来たばかりのマイラは、自分の違いをなるべく小さくしようとしていた。


 この街で暮らすために必要だった部分も確かにある。


 共通語を覚え、寒い土地での洗濯方法を学び、大陸の布地を扱えるようになったからこそ、今の店がある。


 だから、昔の自分がすべて間違っていたとは思わない。


 知らない土地で暮らすためには、その土地へ合わせなければならないこともある。


 ただ、それと故郷のすべてを家の奥へしまい込み、娘から見えないようにすることは同じではなかった。


 娘を守りたかったという気持ちも嘘ではないが、その守り方が娘の知りたい気持ちまで塞いでいるなら、そこだけは変えればよかった。


 秋が近づいた頃、《白泡亭》の昼休みに、リルが学校の友達を一人連れてきた。


 以前、月豆の香りを「変」と言ったロエルだった。


「母さん、月豆ある?」


「乾燥したのなら」


「ロエルがもう一回食べたいって」


 マイラは少し驚いた。


「香草苦手だったんじゃないの?」


 少年が気まずそうに言う。


「香草少ないやつなら」


「何で食べたいの?」


「前より慣れたかもしれない」


 マイラは笑った。


「じゃあ、香草抜きで半分作ろうか」


 リルが言う。


「それ月豆焼きじゃない」


「家の料理なんだから変えていいでしょう」


 自分の言葉を返され、マイラも笑った。


「そうだったね」


          ◇


 二人で月豆を潰し、半分には島香草を入れ、半分には入れなかった。


 ロエルは香草なしの方を気に入り、リルは香草入りを食べる。


「そっちやっぱ匂い強い」


「私はこっち好き」


「変なの」


「蜂蜜豆食べる家に言われたくない」


「美味しいんだぞ」


「今度持ってきて」


「いいよ」


 子どもたちは、そのまま別の話を始めた。


 マイラは少し離れたところから見ていた。


 違いがあれば好き嫌いも生まれ、笑うこともあるが、それだけですべてが傷になるわけではない。もちろん、この先リルが本当に嫌な思いをすることもあるだろうが、その時はその時に話を聞けばよく、傷つく可能性があるという理由だけで、最初から娘が持てるものを減らす必要はなかった。


 その年の冬、マイラは母へいつもより長い手紙を書いた。


 リルが月豆を気に入ったこと、セーヴァ語を少し覚えたこと、学校で島の話を発表したこと、再来年あたりに家族で島へ行けないか考えていることを順番に書き、最後に少し迷ってから一文を加えた。


『私は、リルに島のことをあまり教えてきませんでした。こちらで困らないようにするためでしたが、知りたいと言っていることまで隠す必要はなかったようです。今は少しずつ話しています。』


 返事が来たのは一か月半後だった。


 母は、そのことを責めなかった。


『あなたがこちらへ行った時、私も心配しました。島で覚えたことが役に立たず、苦労するのではないかと思いました。それでも、あなたは自分で暮らし方を覚えました。リルも同じでしょう。何を覚えるかは本人に任せなさい。ただ、私の月豆の白煮だけは覚えさせてください。あれは私が教えたいので。』


 最後の部分を読んだところで、マイラは声を出して笑った。


「何?」


 リルが寄ってくる。


「お婆ちゃんが、白煮だけは覚えろって」


「母さんと違って押しつけるね」


「本人に言って」


「島行ったら言う」


「その頃には忘れてるよ」


「覚えてる」


 娘も笑った。


          ◇


 その日の夕食には、今年最後の月豆を使った。


 色は前年の出来の悪い豆より濃く、銀色の模様もきれいに出ている。


 マイラは一晩戻し、ゆっくり煮た後で乳煮へ仕上げた。


 島香草は少なめにしてリルが食べやすい量へ調整し、デニスには食卓で少し胡椒を足せるようにする。島にいた頃、母が作っていた白煮とはもうかなり違うが、マイラはそれを気にしなくなっていた。


 食卓へ出す。


「《ミア・ラウ》」


 リルが得意そうにセーヴァ語で言う。


「発音いい」


「ずっと練習してるから」


「父さんは?」


 デニスも言ってみるが、母娘から同時に駄目出しされた。


「そんなに違うか?」


「違う」


「全然違う」


 笑いながら、三人で食べ始める。


 マイラは、娘へ何を残せるかを以前ほど恐れなくなっていた。


 残したものを、娘がすべて持ち続ける必要はない。


 覚えたセーヴァ語を大人になって忘れるかもしれず、島料理よりレーヴェンの料理を好きになるかもしれないし、祭りへ一度行っただけで満足して島に住みたいとは思わない可能性もある。反対に、いつか自分以上に島の文化へ興味を持つこともあり得る。


 そのどれでもよかった。


 親ができるのは、最初から答えを決めることではなく、娘が選びたいと思った時に、その場所へ選べるものを残しておくことなのだろう。


 セーヴァ諸島について知ることは、レーヴェンで育った自分を失うことにはならず、同じ食卓へ両方の料理を置けるように、二つの場所を知ったまま自分の暮らしを作っていけばよい。


 食後、リルが残った月豆を見ながら言った。


「明日これ潰して焼いていい?」


「いいよ」


「香草多め」


「ロエル食べないんじゃない?」


「明日は家で食べるから」


「じゃあ好きにして」


「母さん手伝う?」


「洗濯の仕事終わったら」


「私先に潰しとく」


「全部滑らかにしないでね」


「分かってる」


「少し粒残した方が」


「分かってるって」


 娘に遮られ、マイラは口を閉じた。


 つい手順をすべて教えたくなる癖は、これからも簡単にはなくならないのだろう。


 それでも作るのはリルであり、少しくらい自分と違う方がよい。


 翌日の夕方、娘が作った月豆の香草焼きは、マイラのものより香草が強く、根菜も大きく刻まれ、焼き色にも少しむらがあった。それでもリルは自分で味を確かめ、次は香草を少し減らすと言いながら二つ目を食べ、デニスも隣で美味しいと頷いていた。


 マイラはその様子を見ながら、昔母から教わった月豆の料理が、島と同じ形のまま残らなくてもよいのだと思った。海を渡った自分がレーヴェンの材料で作り直し、それを娘がさらに自分の好みに変えていくなら、それも十分に続いている。


 残すということは、昔の形を動かないよう固めることではなく、まず知る機会を渡し、そのうえで好きになる自由も、変える余地も、使わない選択も残しておくことなのだろう。


 色の薄かった月豆をきっかけに、長い間閉じていた故郷の話をようやく娘へ渡し始めたマイラは、翌朝もいつも通り《白泡亭》の戸を開けた。通りから入ってくるのは馴染みの客の声とレーヴェンの朝の匂いであり、家の奥には昨夜リルが焼いた月豆が少し残っている。そのどちらも自分たちの暮らしの一部になった今、もう片方を守るためにもう片方を隠す必要はないのだと分かった彼女は、娘がこれから何を残して何を変えていくのかまで決めようとはせず、聞かれた時に渡せる言葉と料理だけを、自分の手の届くところへ置いておくことにした。


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